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再考・明治元年の亡命者②

 明治元年に密かにアメリカに渡ったと思われる元幕府高官3名(2名は確定、1名は推定。詳しくは「再考・明治元年の亡命者①」参照)の内、唯一、「忠臣は二君に仕えず」という武士の本分を貫き通して帰国後は野に隠れることを選択したと思われる松本寿太夫――。一体どういう人物だったのか、知りたいよね? ところが、ウィキペディアにも記事がなく、なかなかそのプロフィールさえも掴み切れない(なにしろワタシは「明治元年の亡命者」を書いた時点では松本寿太夫が万延元年の遣米使節団に参加していたことも知らなかった。東京大学史料編纂所の「維新史料綱要データベース」で「松本寿太夫」で検索すると万延元年の使節団の件はヒットしない。「松本三之丞」で検索してはじめてヒットする)。ということで、ここはやはり手間をかけるしかない。その結果、興味深い史料がいくつか見つかった。それらを通して見えてきた人物像とは……?

 まず『史談会速記録』第167輯(原書房刊『史談会速記録』号本24)に収録されている「慶應年間薩摩人士洋航談」。これ自体は幕末、薩摩藩がイギリス人商人トーマス・グラバーの手引きで総勢16名もの藩士を留学目的で密出国させた、その経緯について当事者(松村淳蔵)が語ったものなのだけど、その中にアメリカ・ニュージャージー州のラトガース大学に入学した松村淳蔵が同じ時期、幕府派遣の留学生として同校に在校していた勝海舟の子・小鹿が父から受け取った手紙というのが出て来て、その内容(幕府の人材難を嘆き、「小野友五郎の如きは金を掠めて脱走するの類殆と痛息に耐えず」云々)に関連してこんな注釈が加えられているのだ――

田邊太一氏曰く故勝氏書翰談に小野友五郎云々は或は幕吏松本壽太夫の事ならんか、同人は明治元年間に歩兵奉行塚原但馬守と同伴米國𛂌脱走せし事あり、此際前年の軍艦注文金の内十二萬金を私せしとかにて榎本武揚氏等も憤言を漏らし松本を捕へは艦檣に縛して銃殺するの徒なりと言𛂞れしことありたり、然るに同人𛂞米國にて病死し其男子幼年𛂌して伴𛂞れ行きしか漂泊し岩倉大使漫遊の際尋出せしに殆と乞食の姿なりしか全く日本語を解せす伊藤博文氏其究状を憐み連歸られたりと語られぬ

 なんともびっくりするような内容なんだけど……でも、この話、変だよね。だって、「再考・明治元年の亡命者①」にも書いたように、松本寿太夫は明治7年の時点で日本に帰ってきていたのだから。「米國にて病死」した人間がなんで日本に帰ってこれる? また「前年の軍艦注文金の内十二萬金を私せし」という件にしたって、この慶応3年のミッションについて詳しく調べたことがあるワタシのようなモノ(とりあえず「鐡張軍艦ストンワール②」をお読みいただければその一端はおわかりいただけるかと)に言わせれば、全くありえない話ですよ。だって、ワタクシしようにも、「十二萬金」もの余剰資金なんてどこにあったんだと――。ここでざっと慶応3年のミッションについて説明すると、そもそもは文久2年に幕府が当時のアメリカ公使であるロバート・プラインに対し3隻の軍艦の建造を依頼したことに始まる。ところが、南北戦争の影響などもあって建造が遅れに遅れた。結局、発注から3年が経過した慶応3年1月になってようやく最初の1隻(日本側により富士山丸と名付けられたスループ艦。鳥羽・伏見の戦い後、新選組の近藤勇らが江戸に帰還する際に搭乗した船)が納入されるという事態に。やむなく幕府は残る2隻の建造はキャンセルすることとなったのだけど、ただし日本側は既に軍艦3隻の建造費として60万ドルを払い込み済み。その清算を托されたのが小野友五郎を正使、松本寿太夫を副使とする使節団であり、併せて一行には代替の軍艦(新造艦ではなく既存艦)の買い付けというミッションも托されていた。で、ここではその詳しい経緯について説明することは省くけれど、交渉は思いのほか順調に進み、それどころか日本側が払い込んだ60万ドルは為替差益と利子で100万ドルにまで増えており、そこから富士山丸の代金などを差し引いた約50万ドルが小野らの手に入ることになった。そして小野らはその50万ドルを元手に代替の軍艦を購入することになるのだけど、彼らが白羽の矢を立てたのがワシントンの海軍工廠に係留状態にあったストーンウォール号。アメリカ側が示した売り値は40万ドル。さらに日本回航にかかる費用が約10万ドルで、ちょうど手持の資金で賄える金額。ただし、その全額を現金で支払うと手持ち資金は底をついてしまう。実は一行には幕府の各部門から各種兵器類を買い付けてくるようにとの役目も托されていた。その購入資金を捻出する必要がある。ということで、小野は一計を案じた。彼はストーンウォール号の代金40万ドルの内、即金で支払うのは¾とし、残る¼は日本到着後に支払うということでアメリカ側と話をつけたのだ。これにより小野らの手元には約12万ドルの手持金が残ったとされる。え、だったら松本寿太夫が着服した「十二萬金」ってそのカネだろうって? そんなはずはない。小野らはその12万ドルで11インチ・ダールグレン砲やスペンサー銃などを買い付けているのだから。こうした一連の経緯については藤井哲博著『小野友五郎の生涯』(中公新書)に詳しく記されており――「そこで彼は、『ストンウォール』の船価と回航費の四分の三を内金として支払うように話をつけ、約十二万五千ドルの手持金を作り、これで、各部門から依頼をうけた品々のうち緊急やむをえないものだけを、彼の判断で選択購入することにした」。

 こうした経緯がわかれば、松本寿太夫が「十二萬金」を着服したなんてのはとんでもない言いがかりだということはおわかりいただけると思うのだけど、想像するに田辺太一はストーンウォール号の代金40万ドルの内、未払いとなっていた約12万ドルが松本によって着服されたと勘違いしたんだろう。あるいは、榎本武揚が憤慨していたというのが本当なら、彼がストーンウォール号が日本到着後にアメリカ公使館の管理下に置かれ、日本側に(この場合の「日本側」とは、彼の認識に照せば徳川家のこと。これはこの問題をめぐって榎本と会談したアントン・ポートマンが会談要旨をまとめたレポートにハッキリと示されている。曰く「ストーンウォール号は私の主人のカネで購入された。そしてアメリカの水域で正式な手順を踏んで正規の代理人に引き渡された。もし私の主人が当時の大君にして認知された日本の主権者という立場を失い、今は単なる一大名または徳川家の長であるとしても、それでも私はこう申し上げたい、たとえそうであったとしてもこの船が引き渡されるべき相手は彼であり、彼以外の何人でもないと」。アントン・ポートマンのレポートについてはコチラを参照)引き渡されなかった原因を代金の一部が未払いになっていることだと考え、そうした会計処理をした小野・松本に八つ当たりしたということかもしれない。ただ、「松本を捕へは艦檣に縛して銃殺するの徒なり」――なんて、榎本武揚という人物のパブリックイメージからはあまりにもかけ離れてるんだけどねえ。

 あと、伊藤博文が松本寿太夫の遺児を連れて帰ったという話なんだけど、そもそも松本寿太夫はアメリカで病死なんてしていないんだから、遺児を保護するというのもおかしな話。ただ、田辺太一は岩倉使節団に随行しているんでね、全くの根も葉もない話とも思えない。で、伊藤博文がサンフランシスコで日本人の幼児を保護し、日本に連れ帰ったのは本当だったという前提で考えるなら、もしかしたらその幼児というのは若松コロニーにゆかりの子どもかもしれない。1869年にカリフォルニア州エルドラド郡ゴールドヒルに入植した会津若松からの移民団は1871年4月に主唱者であるヘンリー・シュネルが「金を持って帰ってくる」と言い残して姿を消し、この時点で船頭を失った船。言葉もわからない異国で、もうどうしようもない。その後、残された日本人移民たちはどうなったか? ビル・ホソカワによれば「日本人のあるものは、日本に帰ったと信じられている。ほかのものはてんでんばらばらに去って行き、今ではその行き先をたどるすべもない」(『二世:おとなしいアメリカ人』)。あるいはそうしたものの中に「乞食」同然の身の上になって伊藤博文に救われたものがいたのかも知れない。むしろその可能性は大と言うべきか? いずれにしても松本はアメリカで病死してなんていないのだから、その遺児を伊藤博文が連れ帰ったというのは眉唾物と言わざるをえない。

 ということで、↑の田辺太一の証言は何から何まで疑わしい――というのがワタシの率直な感想なんだけど、ただ1つだけ間違いのない事実があって、それは田辺太一が松本寿太夫を死ぬほど嫌っていたらしいということ。じゃなきゃ、こんな証言はしませんよね。で、問題は、なぜ田辺太一がそこまで松本寿太夫を嫌ったかなんだけど――。

 さて、次に紹介するのは、もしかしたらその答になるかもしれない、ある興味深い事実を含んだ史料。それは、江戸の外神田で古本屋(なんてものがもうあったんですねえ)を営んでいた藤岡屋由蔵なる人物が書き記した日記。実はその中で藤岡屋由蔵は松本寿太夫が生まれついての武士ではなく、そもそもは近江の国の百姓の倅だったと書いているのだ。おそらく伝聞なんだろうけど、ただし信憑性は相当に高いと考えていい。というのも、この日記、ただの日記ではないのだ。『近世庶民生活史料 藤岡屋日記』(三一書房)の「例言」によれば、「日記と自らも記すが、身辺の出来事を綴った日録ではなく、すべて公私の事件に関する文書の写し、或いは巷談街説を聞書したもの、あるいはそれに関する瓦版などの転載などから成っている」。実際、書き写された文書の中には『徳川実紀』の記載と重複するものも見られる。藤岡屋由蔵がなぜ幕府の公式文書とも呼べるものを入手しえたのかはよくわからない。あるいは幕府内に情報源でもいたのだろうか? 確かに奥右筆あたりを抱き込めばどんな機密情報だって入手することは可能だったかもしれない。その場合、情報料という名目で相当の金銭のやり取りもあったはず。藤岡屋由蔵をめぐっては情報を諸藩の記録方や留守居役に提供して閲覧料を得る「情報屋」のようなものだったという評価もあるようで(ウィキペディア参照)、なんとも芳しい限りなんだけど……ハテ、なんでこんな芳しい人物が小説になってないんだ?

 ともあれ、そんな『藤岡屋日記』の慶応4年2月4日の条にこんなことが記されているのだ――

 松本寿太夫由緒之事
御勘定奉行並      
松本寿太夫  
   高三十俵二人扶持
 生国江州斎藤摂津守知事百姓之倅ニ而、学問を好ミ江戸へ出、御先手同心株へ養子ニ入、三十俵二人扶持ハ両親へ渡し、自分は二千五百両借金致し候由、諸方へ金を遣ひて学問所教授方へ出、夫ゟ長崎奉行支配調方、夫より神奈川定番御用出役、夫より御徒目付ニ成、無人島へ二度出役、引返し亜墨利(加)へ御使ニ行、帰り而開成所頭取格、是ニ而三年相勤メ、昨卯年二月出立、亜墨利加行、六月帰りて十月末迄江戸ニ勤、十月末京都へ御用召、京都ニおゐて大坂町奉行並被仰付之、辰ノ正月二十八日帰府、二月二日御勘定奉行並被仰付、小笠原壱岐守申渡之候処、寿太夫ノ答ニ、御勘定奉行被仰付難有仕合ニ奉存候得共、私儀は三拾俵二人扶持ニ候間、先規通相勤候様との仰ニ而ハ難勤、私壱人之了簡ニ而相勤候成候、身命を抽相勤候得共、今迄之振合ニ而相勤候様との儀ならバ、残念ニハ候得共、直ニ御断申上候、壱岐守殿委細承知、拙者心得居候間、被勤よとの御言葉にて、先当月分御役金凡百両程被下候よし。
    常盤なる折を松本寿太夫が
      緑り弥増生たつのとし

 ね、冒頭でハッキリと「生国江州斎藤摂津守知事百姓之倅ニ而」。もっとも、オマエはこの一文を100%完全に理解できるのかと問われると……。まあ、斎藤摂津守は斎藤三理(かつみち)のことでまず間違いないと思われる。官名は摂津守(後に美作守)。外国奉行や勘定奉行も務めた旗本らしいんだけど、この人も松本寿太夫同様、ウィキペディアには記事がない。しかし斎藤三理のことだと仮定して、問題はそのあとの「知事百姓之倅」。これはどう読むわけ? 読み下しようがないと思うんだけど。最初は「知事」は斎藤摂津守の諱かとも考えたんだけど、これは斎藤摂津守=斎藤三理と判明した時点で却下。となると……もしかして「知事」の「知」は知行地の「知」とか? その場合、読みはともかく、意味としては「生まれは近江の斎藤摂津守の知行地の百姓の倅で」ということで通るか? あるいは「知事」という言葉は「(寺院の)物事を治め司るという意味のサンスクリット『カルマ・ダーナ』を漢訳した言葉に由来する」(ウィキペディア)らしいので、「生まれは近江の斎藤摂津守が治め司る百姓の倅で」――というふうにも理解できるんだけど、ただその場合でも読みがねえ。あるいはそのまま「ちじ」と読んで「治め司る」という意味になったんだろうか? あと、末尾に添えられた和歌(「生」は「戊」の誤りかな? つまり、「緑り弥増戊辰のとし」。あ、そうなると、「知事」云々は原文の読み違えという可能性も? おいおい……)。おそらくこれは『古今和歌集』にある「常盤なる松の緑も春くれば今ひとしほの色まさりけり」の本歌取というやつだと思うんだけど――センスないよなあ。まあ、百姓上がりの松本寿太夫が勘定奉行並にまで立身を遂げたのだから、それを踏まえて洒落てみたんだろうね。でも、時は慶応4年2月ですよ。既に西からはヒタヒタと「新しい時代」が迫りつつあった。そんなタイミングで「常盤なる」はないわ。藤岡屋由蔵も「情報屋」と言われている割にはさほど時代の流れが読めていなかったような……?

 ともあれ、松本寿太夫は近江の国の百姓の倅だった、あるいは、そういう説があるということ。これは松本寿太夫という人物について考えるに当ってきわめて重要な情報。そして、なぜ田辺太一がそこまで松本寿太夫を嫌っていたかを考えるに当っても――。はっきり言って、男の世界にも嫉妬はある。百姓上がりの分際で勘定奉行並にまで立身を遂げたとなれば、そりゃあいろいろハレーションはあったでしょう。特に中級官僚の間には怨嗟に近い感情が渦巻いていたのでは? ここは新選組の近藤勇あたりを思い浮かべればわかりやすいかもしれない。近藤勇が出自のことでどれほどの苦渋を嘗めさせられたかは「近藤勇」という物語の最も重要なモチーフと言ってもいいくらいで、最期はまさに出自ゆえに切腹さえ許されず、斬首に処せられた。たとえて言うならば、松本寿太夫は公金着服という濡れ衣を着せられて斬首に処せられたようなもの。田辺太一の松本寿太夫に対するコメントというのはそれくらいに残酷なものですよ。しかも明治40年(「慶應年間薩摩人士洋航談」が収録された『史談会速記録』第167輯は明治40年刊行)という、もう松本寿太夫のことなんか誰も知らないであろう時代に言うんだから、言われた方は信じるしかない。完全に言ったもん勝ち。そこには松本寿太夫の武士としての名誉を慮るという姿勢は微塵も認められない。ナニ、松本寿太夫の武士としての名誉? ふん、松本なんて元をただせば近江の国の百姓の倅ではないか――と、そんな感情が田辺太一に全くなかったとは言わせない……。

 さて、もう1つだけ、松本寿太夫に関して興味深い史料が見つかったので、それについても少しばかり。もっとも、ワタシが見つけたわけじゃないんだけどね。松本三之丞(松本寿太夫が文久3年頃まで名乗っていた名前。元治元年5月に箱館奉行所に組頭として着任した際には既に松本寿太夫と名乗っていることが北海道立文書館所蔵の当時の史料で確認できる)について調べていたら、なぜか「ディケンズと日本音楽」というおよそ関係がなさそうなPDFファイルがヒットして、怪訝に思いつつも読んでみると――

……やがて真夜中になり記者は翌日通訳と共に再度筆記を続け,ついに合唱の最大公約数の部分を写すのに成功し,すぐピアノに向った。 “When...their own native tunes came briskly out from under foreign fingers, their ecstasy was without limits—I conld hardly say without bounds, since they testified it by leaping about in some cases like young kangaroos.” そして一瞬すべての使節が熱心に聞き入ったのである。 “...even the Treasury censor” とあるから森田清行(勘定組頭)と考えてよかろう。この時坂本泰吉郎が声をはり上げて歌い出し,続いて皆の合唱となる。そして記者にいわせればこれが外国で公開された最初の日本の歌であることは前述した。記者の筆記した歌詞を示すと次のようになる。 “He to tsu to yah,...He to yo a ka de ba, Ne-khee ya ka dé, Ne-khee ya ka dé, Ka za du ta te ta ru, Ma-tsu ka za du...Ma-tsu ka za du.” そして松本三之丞のペンによるカタカナの筆記が続くのである。

 実はこの「ディケンズと日本音楽」(中川良和、『英学史研究』第1号)、All the Year Roundという、かのチャールズ・ディケンズが編集した文芸週刊誌の1861年5月11日号に掲載されたMusic among Japaneseという記事について紹介したもので、しかもその記事というのは音楽評論家と思しき記者(無署名)がアメリカ滞在中の遣米使節団(松本三之丞も参加した、日米修好通商条約の批准書を交換するための)に接触して、苦心惨憺(というのも、日本人は皆シャイで、彼が近づくと離れてしまうというね)、遂に日本の歌の採録に成功したという、その一部始終を記したもので、まあ、金田一京助がアイヌの子供たちからアイヌ語を採集したあの有名なエピソードに似ていなくもない? いや、それほどでもないか……。ともあれ、そんな感動的な(?)場面にわれらが松本三之丞が登場するのだ。しかも引用部分にあるように松本三之丞は記者の求めに応じて、この時、彼らが歌った歌(俗に「かぞえうた」と呼ばれているもの。♪一つとや ひと夜あければ にぎやかで というアレ。ちなみに記事ではthe first Japanese song ever publicly heard outside their own landと表現。ま、そうなるのかな?)の歌詞をメモ帳に書き記すという大サービス。All the Year Roundの誌面には、この際、松本三之丞が実際に書き記したとされるカタカナも掲載されている。興味のある方はぜひ実際の誌面でご確認下さい。セミアニュアル版(All the Year Roundは週刊の他に半年分を1冊にまとめたセミアニュアル版も刊行されていた)だと152ページになります。おそらくこれこそはthe first Japanese characters ever publicly printed outside their own landには違いない?

 ――と、こうして松本寿太夫(三之丞)に関係する史資料を3本見てきたわけだけど、これはワタシ好みの人物だわ。特に謂れなき汚名を着せられているというのが、もうね(これについては「ある不良外国人に捧げる『時の娘』①」をお読みいただければ)。でも、実際のところ、松本寿太夫ってどんな人物だったのだろう? Music among Japaneseに描かれたその姿からは至ってフランクな人柄だったようにも思えるのだけど、でもそれだけではないような。それは『藤岡屋日記』に記された、小笠原長行(壱岐守)から勘定奉行並の辞令を受けた際のやりとりから透けて見える。なにしろ松本寿太夫はせっかくの大抜擢にもかかわらず、なんと就任に条件をつけているのだ。自分は三十俵二人扶持の小身なので、これまでも「私壱人之了簡」、つまり(身なりとかを?)万事、〝オレ流〟で押し通してきたと。もし勘定奉行並に就任するに当って「今迄之振合」(「振合」は「他とのつりあい。バランス」くらいの意味か?)を守るよう求められるなら、大変恐縮ではあるが今回の話は辞退させていただきたい――と、これはなんとも舐めた(?)態度と言うしかない。これに対し小笠原長行は「委細承知」として、引き続き〝オレ流〟を貫くことにお墨付きを与えるとともに2か月分の役金として100両という大金を(前渡しで?)支給したというのだけど――まあ、このあたりが田辺太一からあんなに嫌われる理由でもあったんだろう。

 そんな多分に自分勝手なところのある男は幕府倒壊後は密かに日本を脱出して〝夢のカリフォルニア〟への入植を試みた。そして、夢破れて日本に舞い戻ることになるや、さっさと明治新政府に出仕することを選んだ他の2人の〝同志〟とは一線を画して自らは野に隠れる道を選んだ――。すべて〝オレ流〟。仮にこの男の人生を貫いた名号(モットー)があったとするならば、それは彼自身が語ったというこの6文字か? すなわち、私壱人之了簡……。