大鳥圭介を「日本のリー」と評している文献がある。ウィリアム・E・グリフィスが書いたサミュエル・R・ブラウンの評伝、A Maker of the New Orient, Samuel Robbins Brown: Pioneer Educator in China, America, and Japanがそれ。なぜアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師であるサミュエル・R・ブラウンの評伝に大鳥圭介が登場するかと言えば、大鳥がブラウンらが立ち上げた日本初の英語学校、「横浜英学所」(ちなみに、同書では校名を「修文館(Shubunkwan)」としているのだけど、これは誤り。「修文館」というのはもともとは幕府が神奈川奉行所勤務の役人の子弟のために作った文学稽古所で、維新後は神奈川県が引き継いで英仏学の授業も行っていた。ブラウンらが教えた英語学校はこれとは別で、『横浜沿革誌』では「英學所」、『横浜市史稿・教育編』では「英學校(一名英學所)」と記されるなど、文献によって呼称にはゆらぎが見られるものの、一般には「横浜英学所」と呼ばれている。『大倉山論集』第29輯〜31輯に拓殖大学外国語学部教授の茂住實男氏による「横浜英学所」と題する詳細な紹介記事あり)の生徒だったため。同じく生徒だった安藤太郎(元幕府海軍2等見習士官。宮古湾海戦について記した「宮古港戰記」がある)が同校の思い出を綴る中で――
A picture of Dr. Brown is thus given by the Hon. Ando Taro of Tokio, formerly the Japanese consul at Honolulu:
“From among the students of this school many distinguished men have come out to serve this new empire in the course of the development of modern civilizaition, such as Baron Otori, a celebrated general of the Restoration, known as the Lee of Japan and afterwards minister to China and Korea, etc.; but among them I am happy to note there are many who have been and still are serving the country for the still more important work, the propagation of the will of God, the gospel, and temperance. In fact the memory of this worthy doctor [Brown] will be long revered, not only by the students, but many others who had chances to associate with him.”
まあ、大鳥圭介を掴まえて「維新の有名な将軍」はどうかなあ、とも思うけど(まるで維新のために大活躍したみたいだ)、ただ「日本のリー」というのは全くその通りで、ロバート・E・リーがアメリカ連合国軍の大将、大鳥圭介が徳川脱走陸軍の総督。南北戦争と戊辰戦争という、日米両国がほぼ同じ時代に経験した大規模な内戦において「敗軍の将」という役割を演じることになったのがこの両者なのだから、2人を並べて論ずる視点があったとしても何の不思議もないはずなのだけど、でも現実にはなかなかこういう評言にお目にかかることはない。どうも大鳥圭介という人は軽く扱われる傾向がある。かく言うワタシも『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』でいささか道化ふうに描き過ぎたかなあ、という反省があって。もしかしたら名前がよくないのかなあ。大鳥圭介、おおとりけいすけ、鳳啓助……。
で、大鳥圭介が「日本のリー」なら、土方歳三は「日本のジャクソン」。そう、トーマス・ジョナサン・〝ストーンウォール〟・ジャクソン。ともに「敗軍の将」にナンバー2として仕え、悲劇的な最期を遂げた。そして、大将(総督)を上回る人気を誇っている。そういう意味でこの両者は本当によく似ている。いや、この両者の共通点はそればかりではない。というか、不思議な因縁があるのだ。1つは、5月11日という日付。この日が土方歳三の命日であることは、土方歳三のファンなら知らぬものがいないはず。一方、ストーンウォール・ジャクソンの命日は5月10日。しかし、ロバート・E・リーが北バージニア軍にストーンウォール・ジャクソンの死を伝えたGeneral Orders No. 61は1863年5月11日付け。つまり、ストーンウォール・ジャクソンの死が内外に公表されたのがこの日付ということになる。一方は旧暦、一方は新暦という違いはあるのだけど、この符合はなかなかに興味深い。そして、もう1つは、もっと興味深い。それは、2人がともに友軍の誤射、いわゆる〝フレンドリーファイアー〟で亡くなっていること。もっとも、土方歳三の場合はそういう説があるというだけで、確たる事実とは言えないのだけど、でも客観的事実を突き合わせるならそういう結論にならざるをえない。これについては、かつて書いたものがあるので、ソチラをご覧いただくとして――一方のストーンウォール・ジャクソンの方は紛れもない事実で、ここは南北戦争にもJ・E・B・スチュアート将軍(ストーンウォール・ジャクソンが負傷・戦線離脱した後に第2軍団の指揮を執った人物)の参謀として参戦したバージニア州生まれの作家、ジョン・エステン・クック(John Esten Cooke)が1867年に刊行したStonewall Jackson: a Military Biographyより、ストーンウォール・ジャクソンがチャンセラーズヴィルの戦いで友軍の誤射に晒されるまでの状況も含めて紹介すると――
Jackson had ridden forward, as we have said, to reconnoitre, accompanied only by Captain R. E. Wilbourn of his staff, and Captain William Randolph, with about half a dozen couriers, and two men of the signal corps. The enemy were less than two hundred yards in front of his lines, and no pickets had been established. Thus Jackson soon found himself considerably in advance of the troops, with nothing between him and the enemy. Who was to blame for this neglect we have no means of ascertaining, but it resulted in the death of Jackson.
Such was his ardor at this critical moment, and so great his anxiety to penetrate the movements of the enemy, doubly screened as they were by the dense forest and the shadows of night, that he continued his way without thought of the great danger to which he was exposing himself. So real was this peril that one of his staff officers said to him: “General, don't you think this is the wrong place for you?” To which he replied quickly, “The danger is all over—the enemy is routed!—go back and tell A. P. Hill to press right on!” No one presumed to offer further remonstrance, and Jackson continued to advance down the road toward Chancellorsville, listening for every sound, and endeaveoring to peer through the half darkness.
He had advanced in this manner more than a hundred yards beyond his lines, and had reached a point on the road opposite an unfinished weather-board house on the right, whose shell-torn roof may still be seen, when suddenly, without any conceivable cause, a heavy volley was fired by the Confederate infantry in his rear and on the right of the road, apparently directed at him and his escort. Several of the party fell from their horses; and Jackson turned to the left and galloped off in the opposite direction. He had not gone twenty steps in to the woods when a Confederate brigade, which was there drawn up within twenty yards of him, delivered a volley in their turn, kneeling on the right knee, as the flash of the guns showed, as though preparing to guard against cavalry. By this fire Jackson was wounded in three places. He received one ball in his left arm, two inches below the shoulder joint, shattering the bone and severing the chief artery; a second passed through the same arm, between the elbow and wrist, making its exit through the palm of the hand; and a third ball entered the palm of his right hand, about the middle, and passing through, broke two of the bones.
ジョン・エステン・クックによれば、ストーンウォール・ジャクソンは、前線を偵察中、突然、「考えうるいかなる理由もなく(without any conceivable cause)」銃撃を受けたとしているのだけど、他の文献ではストーンウォール・ジャクソンは偵察を終え、馬首を巡らして自陣に戻る途中だったとされている。それをノースカロライナ旅団第18歩兵連隊の指揮官(John D. Barryという人物。なんでもJohn D. Barryは自らの行為を悔い、鬱状態の中で亡くなったとか)が敵兵の接近と誤認したというのが事件の真相らしい。なお、ウィキペディア日本語版のストーンウォール・ジャクソンの記事では被弾に至った時の状況を「戦闘が終わり司令部に帰還しようとしていたジャクソン及び司令部要員らは……」としているのだけど、これは明らかな間違い。ストーンウォール・ジャクソンは勝利の勢いに乗ってさらなる攻勢をかけるべく前線の偵察に赴いていたわけで、現に部下に対して「敵は総崩れだ。戻ってA・P・ヒル(第2軍団隷下、ヒル師団の師団長)に前進するよう伝えよ」と命じている。決して「戦いすんで日が暮れて」という状況だったわけではない。ともあれ、ストーンウォール・ジャクソンは前線の偵察中、友軍の誤射により斃れた。被弾した銃弾は全部で3発。最も深刻なダメージを与えたのは左の肩関節付近に命中した1発で、これにより主動脈を切断されている。結局、ストーンウォール・ジャクソンは軍医によって左腕を切断する処置を受けることになるのだけど、この軍医の処置は適切だったと見えて、一旦は容体は快方に向ったとされる。しかし、その後、肺炎を併発。これが命取りになった。そして、事故から8日後の1863年5月10日、帰らぬ人に。享年39歳。最期の言葉は「川を渡って、木陰で休もう(Let us cross over the river, and rest under the shade of the trees.)」だったとされる。あるいは彼はラパハノック川を渡河することを夢見ていたのか……。
ちなみに、ワタシは土方歳三の死は友軍の誤射によって引き起こされたという仮説をプレゼンするに当って、そのアンチクライマックスと言うしかない現実を呑み込むための方策として往年の刑事ドラマ『太陽にほえろ!』における「ジーパン刑事」の殉職シーンを引き合いに出したわけですが(まったく、トシがバレるってもんで……)、実はあの記事を書いた当時、ワタシはストーンウォール・ジャクソンが友軍の誤射によって亡くなったことを知らなかった。もし知っていたら、なにも「ジーパン刑事」の殉職シーンを引き合いに出す必要なんてなかったんだ。「ジーパン刑事」なんかよりもストーンウォール・ジャクソンの方がよっぽどアナロジーとしてふさわしいし、土方歳三の死が友軍の誤射によって引き起こされたという(土方歳三のファンからするならば)なかなか受け入れがたい仮説をより積極的に受け入れようという気にもなるというもの。
ところで、土方歳三は確かに(あるいは、おそらく。少なくとも、そう考えれば諸々のピースが収まるべきところに収まることだけは間違いない)友軍の誤射によって亡くなった。しかし、一般的には土方歳三は新政府軍の銃弾に斃れたということになっていて、土方歳三の死の真相を知る立場にあったはずのものが記した手記の類いでも「亦一本木ヲ襲ニ敵丸腰間ヲ貫キ遂ニ戦死シタモウ」云々。しかし、それは、土方歳三が友軍の誤射で亡くなったという〝不名誉〟を糊塗するための偽りの記載――というのがワタシ解釈。そのため、その記載が「本人が直接見聞した臨場感がまるでない」ということにもなるわけだけど……しかし、やはり友軍の誤射で亡くなりながら、なぜストーンウォール・ジャクソンの方はその事実が秘匿されることがなかったのか? もしかしたら、「国民性の違い」というやつ? いや、一軍の将が友軍の誤射で亡くなることを〝不名誉〟と感ずるのは洋の東西を問わず同じだと思うんだけどなあ……。
そんなことを考えながらStonewall Jackson: a Military Biographyを読んでいたら、ある記載が目に留まった。うっかりしていると見落としてしまいそうな、何ということもないような一文なのだけれど、慎重に2度3度、読み返してみたところ、間違いない……。それは↑の引用部分にも名前が見えるR・E・ウィルボーン(R. E. Wilbourn)が負傷したストーンウォール・ジャクソンの介抱に当った様子を記した下り――
Captain Wilbourn asked him if he was much injured, and urged him to make an effort to move his fingers, as the ability to do this would show that his arm was not broken. He endeavored to do so, looking down at his hand during the attempt, but speedily gave up the effort, announcing that the arm was broken. An attempt made by his companion to straighten it caused him great anguish, and murmuring, “You had better take me down,” he leaned forward and fell into Captain Wilbourn's arms. He was so much exhausted by loss of blood, that he was unable to take his feet out of the stirrups, and this was done by Mr. Wynn. He was then carried by the two men to the side of the road, where, in case the enemy advanced, he would not be discovered, and his fall could not come to the knowledge of his own troops.
R・E・ウィルボーンはもう1人(=W・T・ウィン。最初の引用部分には名前は記されていないものの、「通信部隊(signal corps)」の隊員とされている2人の内の1人)と一緒にストーンウォール・ジャクソンを道路脇に運んだというのだけど、その理由は、1つには敵に見つからないようにするため。しかし、もう1つの理由として、ストーンウォール・ジャクソンが斃れたという事実を「自軍に知られないようにするため(could not come to the knowledge of his own troops)」――と、そんなことがさらっ記されている。でも、それって、相当に意外な行動じゃ? 普通、こういう時は、何を差し置いても助けを呼びに行くものでしょう。少なくとも、自軍に見つからないようにするために、道路脇の森の中(ストーンウォール・ジャクソンは撃たれた時、Mountain Roadと呼ばれる森の中の間道を通っていた)に運び込むなんてことはしませんよ。しかし、R・E・ウィルボーンはそうした。その理由は、はっきりとそう記されているわけではないけれども、ストーンウォール・ジャクソンが友軍の誤射に斃れたという事実を隠したかったからと見なすしかないのでは? もっとも、これだけの記載ではいかにも心許ない。もう少しこの件について詳しく記した文献はないものか? しかし、たとえばストーンウォール・ジャクソンの未亡人であるメアリー・アンナ・ジャクソンが1895年に刊行したMemoirs of Stonewall Jacksonにはそもそもこうした記載自体が見当たらない。また南北戦争の公式記録であるThe War of the Rebellion: a Compilation of the Official Records of the Union and Confederate Armies(通常はOfficial Recordsの頭文字を取ってORと呼ばれる)にもこうした事実を記載している報告書は見当たらない。しかし、こうしてジョン・エステン・クックが書いている以上、なにかしらその根拠となる証言なり文書なりがあるはず。そもそもだ、R・E・ウィルボーンはこの件について何か書き残していないのだろうか? いや、書き残していないはずはない。あのすべてを自分の腹に呑み込んで逝ってしまった安富才助だって、一応は書状に書き残している――その内容たるや実に簡潔なものではあるけれども。だから、絶対にR・E・ウィルボーンも何かしらの証言を残しているはず。
そう考えて、探したんだ。そしたら、やっぱりあったんだ。それは、R・E・ウィルボーンが軍の総務局長補佐(assistant adjutant general)に提出した報告書。原本は「バージニア歴史協会(Virginia Histrical Society)」に所蔵されており、同ウェブサイトでその書き起こしを閲覧することができる(→コチラ)。全8ページからなる実に詳細なもので、これによってストーンウォール・ジャクソンがどのような経緯で友軍の銃撃に晒されることになったのかはほぼ把握できると言っていい。そして、この時の行動についても当然のごとく書き記していて、それは見事にワタシの期待に適うものだった。すなわち――
Mr. Wynn took the right foot out of his stirrup & came around to my side to assist in extricating the left foot while I held him in my arms and we carried him a little ways out of the road to prevent our troops or any one who might come along the road from seeing him, as I considered it necessary to conceal the fact of his being wounded from our own troops, if possible.
こちらでは、Stonewall Jackson: a Military Biographyに記されているような、敵に見つからないようにするため、というようなことは記されていない。ひたすらストーンウォール・ジャクソンが斃れたという事実を自軍に知られないようにするためだったというのだ。さらに言えば、ほどなく現場にはA・P・ヒルが駆けつけるのだけど、こちらもストーンウォール・ジャクソンが負傷した事実を秘匿しようと考え、当のジャクソンに意向を確認しているのだ――
Hill seeing this immediately hurried off to take command, saying to Gen. Jackson that he would conceal the fact of his being wounded. Gen. J. said, “yes, if you please.”
やっぱりさ、これが人情というものなんだって。だからさ、土方歳三の最期に立ち合ったものたちが遺した書状が「本人が直接見聞した臨場感がまるでない」のは、その死の真相を隠そうとした結果だと考えるのが常道だって……。
しかし、このR・E・ウィルボーンの報告書の内容を踏まえて改めてORを見返してみると、ある興味深い事実が浮かび上がってくる(ちなみに、R・E・ウィルボーンの報告書はORには収録されていない。これ自体もなかなか興味をそそられる事実)。それは、ストーンウォール・ジャクソンが友軍の誤射によって負傷したことを知る立場にあったもの――それはたとえばA・P・ヒルだったり、ノースカロライナ旅団の旅団長、ジェームズ・H・レーン(James H. Lane)だったりするわけだけど――がチャンセラーズヴィルの戦いについて記した報告書にはストーンウォール・ジャクソンの負傷について何も記されていないこと。これはやはりR・E・ウィルボーンが記した通り、彼らがストーンウォール・ジャクソンの負傷の真相を秘匿しようとした結果と考えるのだ適当だろう。
しかし、そうした努力も空しく、ストーンウォール・ジャクソンが負傷した――しかも、よりによって友軍の誤射によって――という事実は世間が知るところとなってしまった。アメリカ連合国のお膝元であるリッチモンドで発行されていたリッチモンド・エンクワイアラーの1863年5月8日号はチャンセラーズヴィルにおける自軍の輝かしい戦果を報じつつ、次のようにストーンウォール・ジャクソンの負傷を報じている――
Our victory on the Rappahannock has cost us dear in the severe wounds unfortunately received by the great and good Gen. JACKSON. His left arm has been amputated above the elbow, a bullet has passed through his right hand. His condition is now, we learn, as favorable as could possibly be expected; and he will doubtless recover, and is not, we trust, lost to active service. We could better spare a brigade or a division. It would be grievous to think that his banner will never more flash out upon the Yankee rear, and throw them at its first gleam into headlong rout, with the sudden outcry, “Jackson’s coming!” that the stern eye of the hero will never more lighten with a warrior’s joy as he launches brigade after brigade upon the stubborn foe, until the hated flag stoops, and the columns reel, and break and fly, with the vengeful Confederate cheer ringing in their ears.
Our base foe will exult in the disaster to JACKSON; yet the accursed bullet that brought him down was never moulded by a Yankee. Through a cruel mistake, in the confusion the hero received two balls from some of his own men, who would all have died for him.
われわれの忌まわしい敵はジャクソンに振りかかった災難に欣喜雀躍することだろう。しかし、呪われた弾丸は決してヤンキー(この当時の用法では北軍兵士を指す)によって鋳造されたものではない――。なかなか凝った言い回しなんだけど、ま、地元紙としてはこういう語法で自軍の英雄が〝フレンドリーファイアー〟に斃れたという事実を報じたわけだね。いずれにしても、厳重な箝口令が敷かれていたにもかかわらず、ストーンウォール・ジャクソンがあろうことか友軍の誤射によって重傷を負ったという不名誉きわまりない事実はマスコミの知るところとなってしまった――、そういうことだろう。とするなら、何者かがリッチモンド・エンクワイアラーの記者に情報をリークしたに違いない。一体誰だ、そんなことをしたやつは? もちろん、そんなこと、わかりっこないわけだけど、ただちょっと興味深い事実がある。既に記したように、A・P・ヒルやジェームズ・H・レーンなど、コトの真相を知る立場にあったものたちが軍の総務局に提出した報告書にはストーンウォール・ジャクソンの負傷に関しては何も記されていないのだけど、実はORにはストーンウォール・ジャクソンが友軍の誤射によって負傷したことを記した報告書が1通だけ収録されているのだ。それはトリンブル師団所属のチーフエンジニア(工兵)、オスカー・ヒンリクス(Oscar Hinrichs)が師団長(トリンブル師団の本来の師団長はアイザック・トリンブルという人物。しかし、第2次ブルランの戦いで負傷してこの時は戦線を離脱中)であるラレー・E・コルストン(Raleigh E. Colston)に提出した5月9日付け報告書。その中にはこんな下りがある――
While here, I heard on the right (distance 800 to 900 yards) the rumbling of artillery, the commands “Guide right,” “Guide left, forwrd,” &c., and a great hum of human voices generally. I presumed them to be Anderson's and McLaws' divisions, whom I knew to be posted in that direction. The thought hardly came and went before a few scattering shots fell, and then a heavy volley of musketry. This proved the above sounds to be coming from the enemy, who soon opened with artillery, firing shot, shell, canister, grape, and shrapnel. General Pender, who occupied a part of the front, became actively engaged. General Lane got scared, fired into our own men, and achieved the unenviable reputation of wounding severely Lieutenant-General Jackson and wounding slightly Maj. Gen. A. P. Hill.
レーン将軍は恐怖に駆られて自軍に発砲し、ジャクソン中将に重傷を負わせるという不名誉な評判を獲得した――。ジェームズ・H・レーンに対する実にあけすけな批判。こうした報告書が軍の上層部に提出されていた。この事実から言えることは2つ。1つは、厳重な箝口令にもかかわらず、ストーンウォール・ジャクソンが友軍の誤射によって重傷を負ったという事実は北バージニア軍の一部に広まっていたこと。そしてもう1つは、誤射を引き起こしたのがノースカロライナ旅団であり、その指揮官であるジェームズ・H・レーンがその責任を問われるかたちで軍団内で槍玉に上げられていたこと。しかも、「恐怖に駆られて」――と、まるで自分がその場面を見ていたかのような修飾まで施して。あるいはオスカー・ヒンリクスはストーンウォール・ジャクソンがあろうことか友軍の誤射によって致命傷を負ったというあってはならない現実を受け入れることができず、その思いをこうしたかたちで上官にぶつけるだけでは飽き足らず、リッチモンド・エンクワイアラーの記者にもぶちまけた? それが、リッチモンド・エンクワイアラーの1863年5月8日号の記事のソース? と、妄想はとめどなく広がっていく……。