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銅像と赤い塗料
〜ジェームズ・D・ブロックの予言〜

 大鳥圭介が「日本のリー」なら、土方歳三は「日本のジャクソン」――、「チャンセラーズヴィル異説」ではそんなことを書いたんだけど、今、ロバート・E・リーやストーンウォール・ジャクソンについて触れようとする場合、避けては通れない問題がある。実は、今、アメリカではロバート・E・リーやストーンウォール・ジャクソンの銅像をめぐって、その撤去を求める勢力とそれを阻止しようとする勢力が鬩ぎあって、もう大変なことに……。

 ことの発端は、2016年3月、バージニア州シャーロッツヴィルの副市長、ウェス・ベラミーが市議会に対し、同市の「リー公園」にあるロバート・E・リーの銅像を撤去し、公園の名称も変更するよう呼びかけたこと。その理由は、この銅像と名称のせいで公園に足を踏み入れることを拒否している人々がいる――。もう少しわかりやすく言えば、ロバート・E・リーが〝奴隷解放に抵抗した〟南軍の将軍であり、そのような人物を顕彰することはまかりならん――ということ(ちなみに、ウェス・ベラミーは黒人)。この呼びかけを受け、シャーロッツヴィルの市議会は同市の別の場所にあるストーンウォール・ジャクソンの銅像とともにその扱いを協議する特別委員会を設置。委員会は11月になってロバート・E・リーの銅像の撤去を決定。さらに2017年9月にはストーンウォール・ジャクソンの銅像の撤去も決定した。これに対し旧アメリカ連合国軍人の子孫らで作る「南部連合軍退役軍人の息子たち(Sons of Confederate Veterans)」などが撤去を阻止するための訴訟を提起。市側の決定は南北戦争の記念物を保護するよう定めた同州の法律(多分、コレかな)に反するというのがその主張。それに対し、市側も件の銅像は同法律の対象外であるとし、意見は真っ向対立。現在もこのリーガルバトルは続いており、NBC29.COMの2019年2月1日付け記事によれば、現在は和解協議に向けた調整が行われているところだという。

 ただ、ことが法廷内の衝突に止まるならそれほどの問題とも言えないだろう。しかし、それに止まらないのが今のアメリカ。2017年5月13日、「解放公園(旧「リー公園」。その後、名称はさらに「市場通り公園(Market Street Park )」と改称)」で行われた撤去に反対する集会では、集会者が松明を掲げ人種差別的なスローガンを叫ぶなど、さながらクー・クラックス・クランの集会を思わせる様相を呈したとされる。一方、同年7月にはロバート・E・リーの銅像に赤い塗料が塗り付けられという事件も発生。もう右も左もエキサイトして、何が何やら。

 しかし、そもそもの話として、南北戦争は奴隷制度をめぐって戦われたわけではないのだから。あくまでも連邦からの離脱をめざす南部とそれを押し止めたい北部の戦いで、当初は諸外国の首脳もそのようなものとしてアメリカの内戦を捉えていた。ここではアメリカ連合国がフランスに派遣した事実上の公使であるジョン・スリーデル(John Slidell。ちなみに、妹のジェーンはマシュー・ペリーの妻)がナポレオン3世に謁見した時の模様(ジョン・スリーデルは都合3回、ナポレオン3世との謁見が許されている。これはその第1回目である1862年7月16日に行われた謁見)を本国に報告したレポート(Official Records of the Union and Confederate Navies in the War of the Rebellion, Ser. 2-Vol. 3)の冒頭部分を紹介するなら――

On Wednesday morning, 16th July, at 9 o'clock, I enclosed to General Fleury, aid-de-camp and premier ecuyer of the Emperor, a letter from Count de Persigny, and asked him to procure me the honor of an unofficial audience with Emperor. Before 12 o'clock I received from General Fleury a note stating that the Emperor would receive me at 2 o'clock.

The Emperor received me with great kindness, and after saying that he was very happy to see me and regretted that circumstances had prevented his sooner doing so, invited me to be seated. He commenced the conversation by referring to the news contained in the evening papers of the previous day of the defeat of the Federal armies before Richmond, which appeared to give him much satisfaction. He spoke of Lincoln's call for 300,000 additional troops as evidence of his conviction of the desperate character of the struggle in which he had been engaged and of the great loses which the Federal forces had sustained. That although it was unquestionably for the interest of France that the United States should be a powerful and united people to act as a “contrepoids” to the maritime power of England, yet his sympathies had always been with the South, whose people were struggling for the principle of self-government, of which he was a firm and consistent advocate; that he had from the first seen the true character of the contest and considered the reestablishment of the Union impossible and final separation a mere question of time. (...)

 彼(ナポレオン3世)のシンパシーは常に南部とともにあり、南部の人民が「自治(self-government)」という原則のために戦っていることを首尾一貫、支持してくれている――。さらには、連邦の再建は不可能であり、最終的な分裂は時間の問題であろうというナポレオン3世の私見も記されていて、これがアメリカの内戦に対する1862年夏時点でのフランスの見方だった。そして、当初は南部が軍事的にも優勢だったこともあって、アメリカ連合国を国家として承認しようとする動きはフランスにもあったし、イギリスにもあった(↑のレポートには、イギリス議会で与党議員がアメリカ連合国の国家承認を求める動議を提出しようとしていることが記されている)。これは北部からするならば由々しい事態で、軍事的に劣勢に立たされているばかりではなく、外交的にも南部に押し込まれていることは明らかだった。この局面を打開するには、アメリカ合衆国としてこの内戦を戦う「大義」を立てる必要があった。そのために北部が切った切り札こそは「奴隷解放」。ここはワシントンにあって〝外交戦〟の指揮を執ったウィリアム・スワードの日記(The Works of William H. Seward, Vol. 5)から引くなら――

October 18, 1862.—There is an opinion in foreign circles that does appear unaccountable, namely, that this government, with the loyal people that are sustaining it, are desiring, or being prepared to desire, a compromise with the insurrection. No country in the world has ever poured out, in equal period, so much of its treasure and its blood to save its integrity and its independence. These precious streams have flowed from springs as free as they are abundant. They are renewed now as freely and as plentifully as before. Temporary and partial disappointments not only produce no despair or despondency, but they stimulate and invigorate. Our cause is now, as it was in the time of our great revolution, the cause of human nature. It deserves and it yet will win the favor of all nations and of all classes and conditions of men.

 海外では合衆国政府が反乱者(insurrection)との妥協を望んでいるというわけのわからない(unaccountable)意見が存在するとした上で、「国家の統合と独立のためにこれほど多くの財貨と血を注いだ国は世界のどこにもない」。そして、一時的で部分的な失望(軍事的敗北)でわれわれが絶望することは決してないとした上で、こうした軍事的にも外交的にも追い込まれた状況を逆転する〝戦略〟が明かされている。すなわち――今やわれわれの大義は、独立戦争当時と同様、「人間性という大義(the cause of human nature)」である。それは必ずや全ての国家、全ての階級の支持を得ることになるだろう――。ウィリアム・スワードとしては、この戦いが南部が「自治」を求める戦いと諸外国に見なされる限り、北部は〝外交戦〟での劣勢を挽回することはできないと考え、それを奴隷解放のための人道的な戦いと意義付けることで諸外国の支持を獲得することに賭けたということ。そして、その狙いは見事に当った。即座の奴隷解放を条件に北軍の指揮を執ることに含みを持たせていたジュゼッペ・ガリバルディは、実際に北軍の指揮を執ることはなかったものの、アメリカ合衆国政府による奴隷解放宣言を受けてエイブラハム・リンカーンを絶賛する書簡を送っている。ジュゼッペ・ガリバルディの当時の人気を考えるなら、100万の援軍を得たにも等しかったかも知れない。いずれにしろ、奴隷解放宣言によって南北戦争の評価は一変した。言うならば北部は「奴隷解放」という〝錦の御旗〟を振りかざすことで、連邦からの離脱(独立)をめざす南部を力ずくで押さえつけようとした戦い(それが南北戦争の実態ですよ)を「奴隷解放のための戦い」と〝セルフプロデュース〟することに成功したということ。こうなると南部は奴隷解放に反対する〝抵抗勢力〟ということになり、その将軍ともなれば「奴隷制度の擁護者」であったかのようなレッテルが貼り付けられることにもなるわけだけど……実は、将来、こういうことになるのではと予期していた人物が当時、いた。しかも、それは南部に縁の人物。というか、イギリスのリバプールを拠点にアメリカ連合国のシークレット・エージェントとして活躍したジェームズ・D・ブロックがそう。この人物が1883年に刊行したThe Secret Service of the Confederate States in Europeという手記にはこんなことが記されている――

(...) No future pen, writing with truth and fairness, and guided by a sense of just impartiality, will exhibit Sydney Johnstone, Robert Lee, and ‘Stonewall’ Jackson as men who fought to rivet shackles upon the slave, and will at the same time describe Ulysses Grant, Wm. T. Sherman, Philip Sheridan, and Benjamin F. Butler as drawing their swords to sever the bonds. Such a record would be a great travesty of history than was ever imposed upon a credulous posterity.

 将来の歴史家が、中立性という原則に導かれ、真実と公平さに基づいてペンを取る限り、シドニー・ジョンストン(南北戦争の初期段階で最も南軍の輿望を集めた将軍。1862年、シャイローの戦いで戦死)、ロバート・リー、ストーンウォール・ジャクソンらを奴隷に足かせを留めるために戦った男たちと描き出すようなことは決してないだろう。そのような記録は、とかく騙されやすい後世の人間に押し付けられてきたいかなる歴史の戯画よりも馬鹿げたものとなるだろう――。ワタシにはこれは反語としか受け取れない。少なくとも、将来、そういうことになりかねない、という危惧を彼は抱いていた。だからこそ、そうなることがないよう、こう釘を刺しておいた。しかし、残念ながらその危惧は的中してしまった――、そういうことではないか? それが、今、ロバート・E・リーやストーンウォール・ジャクソンの銅像をめぐって巻き起こっている騒動。

 幸いにも、「日本のリー」である大鳥圭介や「日本のジャクソン」である土方歳三の銅像が本家の銅像が晒されているのと同じような危機に晒されるということは、これまでもなかったし、これからも……いや、わからんなあ。ことと次第によれば、大鳥圭介や土方歳三の銅像が、今、ロバート・E・リーやストーンウォール・ジャクソンの銅像が晒されているのと同じような危機に晒される可能性だって絶対にないとは言えない? というのも、戊辰戦争もまた南北戦争同様、その国に固有のセンシティヴな問題を孕んでいたことは間違いないのだから。それが、奥羽越列藩同盟による輪王寺宮の擁立――。

 戊辰戦争中、奥羽越列藩同盟は明治天皇の叔父(ただし、実の叔父というわけではない。輪王寺宮の実父は伏見宮邦家親王という人物で、生涯に32人の子を設けるという、ちょっと尋常ならざる精力生命力の持ち主。輪王寺宮はその第9子で、当時の宮家の王子の多くがそうだったように、仁孝天皇の猶子となって宮門跡の1つである輪王寺宮門跡を相続した。そのため、形の上では仁孝天皇の子である孝明天皇とは兄弟、また孝明天皇の子である明治天皇とは叔父・甥の間柄ということになる)に当る輪王寺宮公現法親王を「盟主」として奉じた。いや、それどころではない、輪王寺宮は戊辰戦争中、「東武皇帝」に即位したという説まである。その真相についてはぜひ『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』に当っていただきたいのだけど、こうした奥羽越列藩同盟のふるまいは当時、激しいハレーションを巻き起こした。当初は奥羽越列藩同盟に加盟しながら、いち早く同盟を離脱した秋田藩は奥羽越列藩同盟の中核である仙台藩から派遣された使節3人を惨殺、その首を城下の五丁目橋に晒した。そして、その傍らには惨殺した者たちの〝罪状〟を書き連ねた掲札が立てられた。その内容は『秋田沿革史大成』という本で知ることができるのだけど――

會津容保積年暴虐奉惱宸襟候而已歟慶喜伏見暴働ノ謀主ニ候處仙臺彼ニ左袒シ逆意ヲ恣ニシ剩ヘ輪王寺入道法親王ヲ郤シ奉リ除姦ヲ名トシ尊氏ノ惡例ヲ學ヒ候段實ニ天地ニ容レサルノ惡賊ナリ之ニ依テ嚴命ヲ奉シ大義ヲ唱ヒ賊使ヲ戮シ軍門ニ梟首セシムル者也

 尊王思想が最強の政治イデオロギーであったこの時代、足利尊氏は〝パブリックエネミー・ナンバー1〟。実際、文久3年には京都・等持院にあった足利尊氏の木像の首が奪われ、六条河原に晒されるという事件も起きている。言うならば、足利尊氏は、今、アメリカでロバート・E・リーやストーンウォール・ジャクソンが置かれているような立場に置かれていたと、そういう言い方もできるかもしれない。そして、奥羽越列藩同盟は、そんな足利尊氏に喩えられるという、当時としてはこれ以上ないようなバッシングに晒されることになったということ。奥羽越列藩同盟が輪王寺宮を奉じたことは、足利尊氏が後醍醐天皇に対抗して光明天皇を立てたのと同じ所業――と、そう見なされたということになる。

 大鳥圭介や土方歳三は、そんな奥羽越列藩同盟の客兵だった。いや、彼らと輪王寺宮マターとの関わりはそんな間接的な関係には止まらない。土方歳三は会津滞在中の6月15日(輪王寺宮が「東武皇帝」に即位したと考えられている日)、輪王寺宮の側近である覚王院義観に会っている。このことは覚王院義観の日記にちゃんと記されている。また『戊辰庄内戦争録』という本には会津が国境を破られ、若松城籠城を強いられることになった2日後の8月25日に米沢で土方歳三らと会った庄内藩士の証言として「種々咄ノ内ニ(略)斯天下ニ與ミスル者ナクハ外夷ヲ頼ムノ外ナシト夫ハイカニスルト問シニ白石ニ宮樣オハスレハ是ヨリ直ニ廻リテ宮樣ノ御書簡ヲ頂キ外夷ニ頼マントノ論也キ」。その後の土方歳三の足取りを裏付ける史料は存在しないものの、9月1日には仙台にいたことが『仙台戊辰史』によって裏付けられる。白石は、米沢と仙台の中間点。はたして土方歳三は白石城で輪王寺宮に謁見したのか? そして、『戊辰庄内戦争録』に記されたようなことを……? 一方、覚王院義観の日記によれば、大鳥圭介は7月12日には輪王寺宮に謁見していることがわかる。そして翌13日の条には吉野春山(竹中重固の変名)ら他の8名とともにその名前が掲げられ、「當分之内右名面之者御用伺として罷出可申事」。つまり、この時点で大鳥圭介は輪王寺宮に直接、仕える立場にあったということになる。こうした彼らと輪王寺宮マターとの関りを考えるなら、彼らもまた「天地ニ容レサルノ惡賊ナリ」として、激しい批判に晒されることになっていたとしても少しも不思議はないのではないか?

 しかし、幸か不幸か、極端な尊王思想が蔓延った戦前は輪王寺宮の存在について触れることはタブー視された。また、輪王寺宮自身、その後の時間を北白川宮能久親王という全く別のペルソナとして生きた。つまり、すべては「なかったこと」にされたのだ。すべてが「なかったこと」にされた――ということは、奥羽越列藩同盟が輪王寺宮を奉じたこともまた「なかったこと」にされたということ。明治36年に刊行された『北白河宮』では輪王寺宮の奥州潜行をめぐっては「六月の初つかた會津に着き給ひしが、此處も順逆の方向定かならねば御身を忍ばせ兼ねて、又もや仙薹指してぞ落ちられける」云々。しかし、「大日本帝国」が滅亡して歴史に対する縛りがなくなった1950年、瀧川政次郎は『日本歴史解禁』において輪王寺宮の奥州潜行中の即位の可能性に言及。さらにその2年後には歴史学者の武者小路穣によって「東武皇帝」を頂点とする「東北朝廷」の首脳名簿(とされるもの)も発見された。ところが、なぜかこの「東武皇帝」即位説(あるいは「東北朝廷」仮説)は広く世間が共有するところとはならなかった。そして、今やアカデミズムの俎上に乗せられることもめっきりなくなったというのが実情。そして、輪王寺宮はといえば、相も変わらず日本近代史からネグレクトされたまま。幕末を舞台にした大河ドラマはこれまで何本も作られているけれど、輪王寺宮が登場したことはただの1度もない。会津を舞台とした『八重の桜』では輪王寺宮の奥州潜行はそっくりストーリーから省かれていた。また徳川家の依頼を受けてなされた駿府での有栖川宮への嘆願というような、それだけならば特に差し障りがあるとは思われない事実でさえも描かれたことはついぞない(『篤姫』では篤姫付きの老女・幾島、『西郷どん』では精鋭隊歩兵頭格・山岡鉄太郎による嘆願は描かれた。しかし、いずれも徳川家から正式な依頼を受けてなされた輪王寺宮の嘆願についてはスルー)。もしかしたら、本当の意味で歴史はまだ「解禁」されていないと言うべきなのかもしれない。

 とはいえ、輪王寺宮の存在が丸ごとタブー視されていた戦前とは違って、その存在が一定の認知を受けていることもまた確か。現にネットで検索すれば輪王寺宮と「東武皇帝」をめぐるなんとも芳しい言説にお目にかかることができるだろう。ある意味、こういう状況がいちばん危ないのかも知れない。表立って論じることはタブーとされる一方、一部の歴史マニアの間で愛玩物よろしく玩ばれているような状況――。もしこういう状況でこの国の世論がさらに右向きに振れて、かつてのような極端な尊王思想が再び社会を覆うようなことになれば……、その時は、自分こそは「正しい歴史」の体現者だと思い込んだものによって大鳥圭介や土方歳三の銅像に赤い塗料が塗り付けられるという事態だって絶対にないとは言い切れないだろう。現に今、アメリカでは、ロバート・E・リーやストーンウォール・ジャクソンの銅像がそのような状況に晒されている。そうならないためにも、歴史は「解禁」されるべきなのだ。「解禁」されて、正しくその腑分けがなされるべき――と、『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』を書いたものとしては思うのだけど……。