『至道無難禪師集』を読んだら土方歳三の発句の謎に思考が至り、そっからさらに転々として今度はジャニス・ジョプリンの死の謎に至るというこの想像を絶する思考のピンボールよ……。
ということで、ジャニス・ジョプリンの死の謎をめぐっていささかの妄想を綴ることとしたい。ジャニス・ジョプリンが亡くなったのは1970年10月4日。これは、ジミ・ヘンドリックスが亡くなったわずか16日後のことだった。しかも、2人はともに27歳。これだけでもタダゴトではないのだが、加えてジャニス・ジョプリンはニューアルバムのレコーディング中だった。ジャニス・ジョプリンが亡くなったのは、その最後に残された1曲、Buried Alive in the Bluesという何とも意味深なタイトルを付けられた楽曲のレコーディングを翌日に控えた夜で、その死因というのがヘロインのオーバードーズだってんだから。これね、ミステリー小説なら、他殺に決まっている。彼女を時代のカリスマに仕立て上げるためにプロデューサー(ないしはマネージャー)が巧妙に仕組んだ〝完全犯罪〟……。
ジャニス・ジョプリンの死をめぐっては、こういうことを考えてしまいますよね(え、考えない? それは想像力の欠如というものデス)。だって、レコーディングはほぼ終了していて、最後に残された楽曲も伴奏の収録は終わっていたのだ。しかも、不思議なのは、当人もそのレコーディングに立ちあっていたこと。ここは1992年に刊行されたマイラ・フリードマン(Myra Friedman)による評伝、Buried Alive: The Biography of Janis Joplinより引くなら――
By the time they returned to the studio, it was jammed. Nick Gravenites was there. So was song writer Bobby Womack. Bennett Glotzer was around. All in all, there were perhaps twenty to twenty-five people present. Janis did not sing that night, but barely listened to the instrumental track the band had completed the day. It was Nick's song, “Buried Alive in the Blues.”Janis was exhilarated by the prospect of doing the vocal on Sunday, a light like a sunburst in her smile and eyes.
ジャニスは日曜日に行うヴォーカルへの期待でウキウキしていて、笑みと瞳にはサンバーストのような光があった――。だったら、その時、ヴォーカルも吹き込んでしまえばよかったのでは? しかし、なぜかそうはせず、歌だけは翌日に後回し。結果、その楽曲は伴奏だけが残されることとなり、しかもそれを理由にアルバムへの収録が見送られるかと思いきや、そうはならず、歌のないインストゥルメンタルとして収録。そのことでかえってその楽曲が目立つこととなり、かてて加えてそのタイトルというのが、これがもう彼女の墓碑銘にしてくれと言わんばかりのシロモノなのだ。それにしても、よく訳したもんですねえ、「生きながらブルースに葬られ」。もしかしたらCBSソニー(『パール』の日本での販売元)のディレクター(最近では洋楽といえば原題をそのままカタカナ表記したものがほとんどですが、かつては日本のレコード会社が考えたいわゆる「邦題」というやつが付けられるのが一般的で、中には原題からかけ離れた相当に〝味のある〟ものもあった。この「邦題」を付けていたのは誰かというと、それはレコード会社の洋楽ディレクターと呼ばれる人たちだったとかで、「80年代までは、レコード会社の洋楽ディレクターが勝手に考えて、好きなようにつけていたようなのですが、グローバル時代で、そういうことが許されなくなってきた」――と、今では失われてしまった「邦題文化」を懐かしがるウェブマガジンの記事を発見。「こりゃあ確かに文化だわ」と膝を打ちたくなるセットリスト付き)は至道無難の道歌を元にこの邦題をつけた――というのは、ま、考えすぎだろうなあ。いずれにしても、でき過ぎた話で、ここには間違いなく作為が潜んでいる――と、ワタシは強く感じるんですけどねえ。
ところで、そのアルバム『パール』にはインストゥルメンタルとして収録されているBuried Alive in the Bluesではあるけれど、その後、1973年にはポール・バターフィールズ・ベター・デイズ(Paul Butterfield's Better Days)が、また2005年にはソングライターであるニック・グレイヴナイツ(Nick Gravenites)がヴォーカルとギターを担当しているシカゴ・ブルース・リユニオン(Chicago Blues Reunion)によってもレコーディングされており、某動画共有サイトでもそれぞれのヴァージョンを聴くことができる。タイトルの割には意外と曲調が明るいのは、ま、悲しい状況を悲しく歌ったのでは余計落ち込むだけだからね。で、それはいいんだけど、歌詞の一節に、ン? と思わせられる部分が。ヴァージョンによって若干、歌詞が違うようなのだけど、シカゴ・ブルース・リユニオンのヴァージョンだとこうなっている――
I beg for mercy, I pray for rain
I'm used to be the one to accept all this blame
Somebody here's trying to pollute my brain
I'm buried alive in the blues
ワタシが、ン? と思ったのは、1行目。「私は慈悲を乞う(I beg for mercy)」というのは、いい。でも「雨を乞う(I pray for rain)」って、なんで? あるいはこの「雨」は何かのメタファー? なんでもクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの「雨を見たかい」で歌われている「雨」とはベトナム戦争中に空爆で使用された「ナパーム弾」のことだとする説があるらしい(「クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル『雨を見たかい?』歌詞和訳と意味」参照)。ただ、この歌詞にその解釈は当てはまらない。だって、pray for rainなんだから。ならば、ここは素直に「雨乞い」の意味に取るとして、あるいは日照りまで自分のせいにされてしまうような不条理な状況を歌っているのか? とも考えてみたんだけど……雨乞いねえ。普通、アメリカで雨乞いって言うと、アメリカ・インディアン(意外なことに「アメリカ・インディアン」の〝政治的に正しい〟呼称として日本でも広く使われている「ネイティヴ・アメリカン」という呼称を当の「アメリカ・インディアン」は必ずしも好んでいないらしい。1995年の調査では50%が「アメリカ・インディアン」、37%が「ネイティヴ・アメリカン」を好ましい呼称と答えたとか。ただ、後ほど紹介するインタヴュー記事のように人権意識が高いと思われる黒人ミュージシャンでも普通に「ネイティヴ・アメリカン」という呼称を使っていて、当事者ではない日本人としては判断に迷うところではあるんだけど、一応、この記事では、1995年の調査結果を尊重して「アメリカ・インディアン」で行くことにします)の風習だよね。アメリカ・インディアンの保留地(リザベーション)では今でも観光客相手に雨乞いの踊り(レイン・ダンス)が披露されているはず。とするならば、この歌の歌い手はアメリカ・インディアン? アメリカ・インディアンが何の希望も見出せないような〈憂鬱〉な状況に置かれた(葬られた)わが身の境遇を嘆いた歌? そう思って聴くと、たとえばこんな一節なんかは確かにアメリカ・インディアンの置かれた絶望的な状況を歌っているように聴けないこともない――
When you're buried alive - it's a bad condition
When you're buried alive - worse than jail
When you're buried alive - it's a sad situation
When you're buried alive - 'cause there ain't no bail
リザベーションという名の〝ゲットー〟に押し込められて観光客相手にレイン・ダンスを踊って見せる毎日を「刑務所よりも悪い」――と、そう歌っていると解釈しようと思えばできるはず。ただ、ブルースにおいてアメリカ・インディアンの境遇が歌われるということがあるのだろうか? そもそもブルースとは黒人の音楽なんだから。さほどこの音楽に詳しいわけでもないワタシでも、ブルースが南部の黒人奴隷が綿花畑での作業中に歌った「フィールド・ハラー」から発展してきた――というようなことは知っている。そんな黒人起源の音楽でアメリカ・インディアンの心情が歌われるというのは、どうなんだろう? と、そんな疑問もあったんだけど――いやー、調べてみるもんだねえ。ブルースの起源をめぐってちょっと意外な説が存在するらしい。これはオル・ダラ(Olu Dara)というミュージシャンがBlues & Soul Recordsという「日本で唯一のブルース/ソウル/ゴスペルの専門誌」(同誌の公式サイトでこう謳われている)のインタヴュー(第43号所収「オル・ダラ・インタヴュー2001」)で語っているもので――
――あなたのヴォーカル・スタイルはリラックスした感じがありますが、誰かの影響があるのですか?
OD:祖母の影響だと思う。彼女が赤ん坊を寝かせるときのように歌うんだ。わたしが2,3歳の時に彼女が歌ってくれた声を思い出すんだ。とてもリラックスする声だった。それがわたしが初めて聞いた“ブルース”だった。ここで言う“ブルース”とは、わたしにとって“フォーク・ミュージック”という意味だけどね。彼女はレコードなんて聞いたことはなかった。1800年代の生まれだからね。(ブルースが)レコーディングされる前の話さ。自分が音楽を意識する前から音楽に触れてきたわけだね。祖母の古いタイプの音楽に影響を受けたんだ。
奴隷時代に音楽を取り上げられ、歌うことも許されなかった黒人は、ネイティヴ・アメリカンと交流を持っていた。そしてネイティヴ・アメリカンの女性の歌声を自分たちなりに解釈して表現したものがブルースと言われているものだ。今でもそうした歌声を聴くことはできる。男性ではなく、女性の声なんだ(ここでハラー調の歌を一節歌う)。ブルースの歴史には書かれていないことだけどね。ヨーロッパ人はブルースを抑圧から生まれた音楽と決めつけているけれども、それは正しくない。“ブルース”は、ネイティヴ・アメリカン音楽のアフリカンによる解釈なんだよ。
――ブルースをひとつの音楽フォームとして考える人がいる一方で、息子さんのNasのアルバム『Illmatic』を現代のブルースだと言う人もいるわけですが。
OD:まさにそうだと思う。アフリカン・アメリカンの“ブルース”についてもうひとつ言うと、特にミシシッピにおいて、わたしたちの中にはネイティヴ・アメリカンの血が流れている。本当のアフリカンの音楽というのは、ブルースとは全然違うと思う。(アフリカン・アメリカンの音楽は)弦楽器にしても、ヴォーカルにしてもネイティヴ・アメリカンの影響が大きい。ネイティヴ・アメリカンとアフリカンの混血がブルースを生み出したんだ。
ふーん。これは意外だった。しかし、自由を奪われた黒人奴隷と土地を奪われたアメリカ・インディアンが心を通いあわせるというのはありそうな話。「デルタ・ブルースの父」と呼ばれるチャーリー・パットン(Charley Patton)や、かつてB・B・キングが「ブルースの眠れる巨人」と呼んだ(とかいう。正直、ワタシは全く知りません)ローウェル・フルスン(Lowell Fulson)にはアメリカ・インディアンの血が流れているという指摘もある(濱田廣也「【特集:伝えておきたいブルースのこと】①ブルースはどこから」参照)。またブルースの歴史をたどるなら「デルタ・ブルース」が発展して「シカゴ・ブルース」が生まれたわけだけど、そのシカゴという地名はアルゴンキン語族インディアンの言葉で「臭いタマネギ」という意味のShikaakwaとされているくらいで、アメリカ・インディアンとのゆかりはことのほか深い(イリノイ州コリンズビルにはアメリカ・インディアンの集落遺跡であるカホキア墳丘群州立史跡もある)。こんなことを考えるなら、シカゴ生まれのシカゴ育ちで、シカゴ・ブルースの重鎮と目されている人物が書いたBuried Alive in the Bluesという曲にアメリカ・インディアンの影がちらついていたとしても何の不思議もないということになる。いや、むしろ、Buried Alive in the Bluesは、シカゴ・ブルースなるものの由って来たるユエンを象徴するような楽曲、と言えるのかも知れない。
そして、そんな楽曲を1曲だけ、未収録のまま残してジャニス・ジョプリンは逝ってしまったわけだけれど……もしかしたら彼女は歌いたくなかったのでは? だって、彼女自身は生粋の白人なんだから。それが、アメリカ・インディアンの気持ちを? もし彼女の死が、どこぞのヒマ人が妄想する他殺なんかではなく、本当に誤って致死量のヘロインを服用してしまったがための事故死だったとしても、大事なレコーディングを翌日に控えてなんでそんな多量のヘロインを服用したのか? という疑問は残る。あるいは、大事な(難しい)レコーディングを翌日に控えていたからこそ? ↑に引いたマイラ・フリードマンによる評伝によればジャニス・ジョプリンは翌日のレコーディングを楽しみにしていた様子もうかがえるのだけど、いや、わからんぞ。その日、ジャニス・ジョプリンが見せていたサンバースト(雲間から差しこむ日の光)のような笑みの裏側では、アメリカ・インディアンの気持ちを歌わなければならないという重荷に27歳の繊細なハートが悲鳴を上げていたのかも――と、こんなことを考えるきっかけになったのが、江戸時代初期の禅僧・至道無難の道歌「いきなから死人となりてなりはてゝ/おもひのまゝにするわさそよき」――というんだから、人の思考というのはわからない……。