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ある郷土愛者の反主体的「史跡」考
〜安井宮墓地と北陸宮の御墳墓をめぐる点と線〜

 いささか困ったことになってきた。よもやこんなことになろうとは、最初は考えてもいなかったのだけれど……。

 富山県下新川郡朝日町の城山にある宮崎城跡に「北陸宮の御墳墓」と称するものがある。北陸宮(読みは「ほくろくのみや」。昔、「北陸」は「ほくろく」と読んだんだそうな)とはかの「以仁王の令旨」で知られる後白河法皇の第3皇子・以仁王の第1王子に当る人物で、父王の死後、その4人とも5人とも言われる王子がことごとく平家に捕えられる中、唯一、脱出して北陸に逃れ、既に木曽義仲に一味同心することを決めていた越中宮崎の豪族・宮崎太郎長康に匿われることになる。そして都を脱出する際、身を晦ます目的で薙髪していた王子を還俗させた上で元服の儀を執り行ったのが木曽義仲。宮崎城はそんな北陸宮の御所とすべく築かれたものとかで、櫓台跡にはかつては「北陸宮御所跡」と記された標柱も立っていた。そんな宮崎城の三の丸跡とされる場所にモンダイの「北陸宮の御墳墓」はあるのだけれど――


北陸宮の御墳墓①
北陸宮の御墳墓②
北陸宮の御墳墓③

 しかし、この場所に墳墓があるということは、北陸宮はこの宮崎城で亡くなった? さにあらず。木曽義仲は、この宮崎の地に北陸宮を迎えてから約1年後の寿永2年7月に晴れて入京を果たすことになるのだけど、北陸宮もそれから遅れること2か月後の9月20日に入京を果たしたことが九条兼実の日記『玉葉』で裏付けられる。しかし、後援者である木曽義仲は複雑怪奇な宮廷政治の網にからめ捕られるようにその「朝日将軍」と謳われた快活なエネルギーを次第に隠らせて行き、遂には暴発して後白河法皇が御所としていた法住寺殿を襲撃するに至る。そして吉田経房の日記『吉記』によれば、北陸宮も法住寺合戦前日(10月17日)に何処かへと「逐電」したという。その後、木曽義仲のあえない死もあって、北陸宮の消息もしばし不明となるのだけど、文治元年11月になって源頼朝の「沙汰」によって再度、入京を果たしたことがやはり『玉葉』によって裏付けられる。そんな北陸宮が亡くなったことを伝えるのは、かの有名な藤原定家の日記『明月記』。その寛喜2年7月11日の条に曰く――「去る八日、嵯峨孫王と称するの人(世還俗宮と称す)逝亡(数月赤痢。年六十六)。以仁皇子の一男と云々」(引用は今川文雄訳『訓読明月記』より)。つまり、北陸宮(あるいは『明月記』の記載に従うなら還俗宮)は寛喜2年7月8日、嵯峨野で亡くなっているのだ。また『平家物語』ではその地を「嵯峨の邊、野依」としていて、それがゆえに「野依の宮」と呼ばれていたことも記している。いずれにしても、北陸宮が亡くなったのは、ここ宮崎の地ではないということ。

 では、この宮崎城跡にある「北陸宮の御墳墓」は何かというと――さあ、それがモンダイなのだ。まずは現在、現地に設置されている案内板を見ていただくことにしよう――


北陸宮の御墳墓・案内板

 ワタシが最初にこの「墳墓」のことを知ったのは、あれはいつ頃のことだろう? 都落ちして田舎暮らしの必須スキルである車の運転を強いられることになり、その足慣らしのために国道8号線を東進するときはこの宮崎城跡まで、国道41号線を南進するときは猿倉城跡まで――というのが当時の行動パターンで、「北陸宮の御墳墓」と最初に対面したのもあの頃だったと考えるなら……うへ、もうかれこれ30年前じゃないか! そして、当時、↑の説明文を読んだ時にはなんの疑問も感じなかったんだけど、今回、久々に現地を訪れてみて……ウン? 御分骨? でも、北陸宮って皇族ですよ。皇族の御分骨を受けるなんてことがありうるの? しかも、火葬ならいざ知らず、皇族の場合は土葬が基本で、その場合、そもそも分骨なんて不可能なはず。だって、掘り返すわけ? 皇族の墓を(実は「北陸宮の御墳墓」の完工を報じる当時の新聞記事には本当にそう記されている。詳しくは「参考資料」参照)。不思議に思ったワタシは早速、Googleにお伺いを立ててみたのだけれど、すると「北陸宮の御墳墓」の由来について少しばかり異なる事実関係を記しているウェブサイトが見つかった。それは日本観光振興協会が運営する「全国観るなび」やリクルートが運営する「じゃらん」といった観光情報サイトで、そこではこの「北陸宮の御墳墓」について次のように説明しているのだ――

北陸宮は、平安末期の源平合戦の際、木曽(源)義仲が擁護し、朝日町・宮崎の豪族である宮崎太郎に守護を命じた。ここには、京都の北陸宮墳墓の土を甕(かめ)に納め、ふくさで包み、『北陸宮 以仁王第一王子 寛喜第二年七月八日薨 御歳六十六』と書かれた陶板を附したものが納められている。

 ああ、なるほど、京都にあるお墓の土を頂戴して埋葬してあるのか。しかし、だったらそう書けばいいじゃないか。なんで「御分骨」なんて誤解を招くようなことを……と、まあ、そういう不満は残るのだけれど、一応、これでワタシが「北陸宮の御墳墓」について抱いた疑念は晴れた――かと思いきや、そうはならなかった。今度は――で、その「京都の北陸宮墳墓」って、どこにあるの?

 皇族の陵墓については、それが宮内庁が正式に認定(これを「治定」と言うらしい)されたものである場合、「治定陵墓」として宮内庁の管理するところとなり、一般人が立ち入ることが許されない〝聖域〟となる。当地にも1か所、そういう「治定陵墓」というものがあって、高岡市二塚にある「恒性皇子御墓」がそれ。恒性皇子というのは、かの後醍醐天皇の何番目(何十番目?)かの皇子とかで、後醍醐天皇が隠岐に流された時にこの越中の地に流罪となり、現在、気多社(またの名を「悪皇子宮」。こ、これは……)がある場所に幽閉されていた。しかし、鎌倉幕府の滅亡も旦夕に迫っていた元弘3年5月10日、越中守護・名越時有により殺害されたという。それにしても、エライ時代だわ、南北朝時代というのは。政治権力によって皇族が島流しになったり、殺害されたりということが普通に行われていたのだから。そういうことが起こりようがない「象徴天皇制」こそは天皇制の最高形態であると言ったのは、あれは菅孝行だったか……。なお、1913年に当時の射水郡二塚村役場がまとめた『闡幽録』という小冊子によれば、この「恒性皇子御墓」が宮内省の調査により、恒性皇子の墓と治定されたのは1912年1月29日という。ともあれ、そんな宮内庁治定陵墓の中に北陸宮の墓所は含まれていないのだ。つまり、宮内庁が公式に認めた北陸宮の墓所は存在しないということ。しかし、「全国観るなび」や「じゃらん」でははっきりと「京都の北陸宮墳墓」と書いている。一体それってどこにあるの? これについてはいろいろ調べた。「全国観るなび」が問い合わせ先として明記している朝日町教育委員会にも問い合わせたし、当時の新聞記事も確認した。その結果わかったのは、この件に関して参照しうるのは朝日町が1984年に編纂した『朝日町誌 歴史編』に記されていることが全てだということ(なお、「北陸宮の御墳墓」が築かれたのと同じ1970年に朝日町が『北陸宮と宮崎氏』と題する小冊子を編纂し、宮内庁に献上していることが「富山新聞」の1970年5月5日号で報じられている。内容は『朝日町誌 歴史編』に記されているのと全く同じで、同書の「北陸宮と宮崎氏」の章がほぼ『北陸宮と宮崎氏』に一致すると考えていい)。ではその『朝日町誌 歴史編』ではどのように説明しているかというと――

 北陸宮が帰洛後に永住地とされた「野依」(のより)という地区について、山城名勝志巻九には「土人云在嵯峨北山辺」とあるが現在の広沢池のあたり「御所内町」に御殿跡があったと推定され、その一部はいまなお嵯峨野の面影を留めているが大部分は住宅団地となっている。実子を挙げられなかった北陸宮には弟の安井宮を継嗣とされたが、この宮は観勝寺に入られた。観勝寺は後の元禄八年(一六九五)に讃岐の金毘羅大権現の分霊を奉斉してから安井金毘羅宮と称せられたが、明治二年(一八六九)神仏分離令に基いて寺院の性格は嵯峨の大覚寺に移し、他方神社の性格は保有され同五年に至り安井神社と改称され、戦後安井金毘羅宮と変り今日に及んでいるが、北陸宮の祭祀は現在この神社にては行われていない。朝日町横尾在所の脇子八幡宮では文政九年(一八二六)北陸宮を合祀して今日に至っている。
 北陸宮の墓所の所在地については、神仏分離令の際に安井宮関係の墓碑をことごとく新しく設定された南禅寺の裏山の「安井宮墓地」に移転された。従って北陸宮の墓地もここと解すべきで、この地は古来、神仏佳境のところとされている。

 なんとも話が込み入っている。ただ、結論として、朝日町としては(あるいは、当時の新聞記事の記載を踏まえるなら、朝日町の文化財保護調査委員会としては)、南禅寺の裏山にあるという「安井宮墓地」を北陸宮の墓所と解釈した(「解すべき」)――と、そう読み取ることができる。ところが――だ、その「安井宮墓地」なる場所が一体どこにあるのか。「大覚寺宮墓地」や「青蓮院宮墓地」という場所なら見つかるのだけれど、「安井宮墓地」なんて墓所は一向に見つからないのだ。この時点でワタシの脳裏にはある可能性が思い浮かんだことを告白しておこう。ちょうど当時、前東洋英和女学院学院長が自説の補強をするために「カール・レーフラー」とかいう架空の神学者をでっち上げたという話が報じられており、ついワタシの思考もそういう方向に流れたのだけど――どーにか、本当にどーにか、ここかな? という場所が見つかった。その場所は、京都市左京区にある大日山の山頂付近。この結論にたどり着いた詳しい経緯は省くけれど、ここでは竹村俊則著『昭和京都名所圖會』から次のような一節を紹介――

大日山(東岩倉山) は日向大神宮の背後の山をいい、粟田山の支峰である。海抜二八八メートル。全山青松におおわれ、山頂からの眺望はよい。山頂近くには安井門跡性演僧正以下、五十基におよぶ多数の墓塔がるいるいと散在していて、この山が尋常一様でないことを物語っている。
 伝えるところによれば、むかしこの山中に僧行基が開創したという東岩倉寺があって、江戸時代の頃には石造大日如来像を安置した大日堂があったことから、山名となった。
 また平安遷都に際し、王城の鎮護として大乗経を〔ママ〕京都の四方の山に蔵められたが、これを岩倉(石蔵)と称した。ここはその東の岩倉にあたるといわれるが、経塚の址については今そのところを明らかにしない。
 東岩倉寺は中世三井寺の僧行円が建立した観勝寺が寺名を継いだが、久しからずして衰微荒廃するに至った。この寺がもっとも栄えたのは、鎌倉時代の文永五年(一二六八)、三井寺の僧大円上人が来住し、観勝寺を再興して阿弥陀三尊を本尊とし、またその傍に真性院を再興し、聖観音像を本尊として安置してからである。
 亀山上皇は近くの禅林寺殿(今の南禅寺)にあって、しばしば観勝寺に臨幸され、のちに勅願寺とされ、また弘安四年(一二八一)蒙古来襲のときには、院宣を蒙って戦勝祈願をされたこともあった。
 しかし応仁元年(一四六七)八月、赤松勢三千余騎が山中に布陣し、寄せ手の山名・大内勢らと戦ったことがあって、このとき南禅寺・花頂院・青蓮院とともに焼失し、ふたたび衰微するに至った。
 その後、元禄年間(一六八八―一七〇四)、観勝・真性両寺ともに東山安井の蓮華光院に移し、旧地は歴代住職等の墓地となった。しかし、明治維新まではなお山中に観音堂や大日堂および三十三所の観音小堂があって、桜やもみじの樹を植え、春秋花見時には民衆のよき行楽地として利用されたが、明治六年(一八七三)その山麓近くに市共同墓地が設けられたために今はまったく淋しいところとなっている。

 この大日山は地図で見るとちょうど南禅寺の裏山に当り、『朝日町誌 歴史編』で北陸宮の墓所として挙げられている「安井宮墓地」がこの歴代の安井門跡が眠っているという大日山の山頂付近の墓所(同書に掲げられた口絵では「安井門跡墓」と記されている)を指すことはまず間違いない。そして、当時の朝日町の文化財保護調査委員会がこの場所を北陸宮の墓所と解釈したということは、つまりは山頂付近にるいるいと散在しているという「五十基におよぶ多数の墓塔」の1つを北陸宮の墓塔と見なした――と、そういうことになるのかも知れない。

 で、「安井宮墓地」についてはわかった。ただ、モンダイは、その「安井宮墓地」(あるいは「安井門跡墓」)を北陸宮の墓所と解釈した、その根拠。これについては『朝日町誌 歴史編』に一応はそれらしい説明がなされており、確かにその説明の通りであれば、そのるいるいと散在しているという「五十基におよぶ多数の墓塔」の中に北陸宮の墓塔が含まれている可能性はあるだろう。ただ、そのためには大前提がある。それは、「実子を挙げられなかった北陸宮には弟の安井宮を継嗣とされた」という、この事実関係。これが前提としてあるからこそ、北陸宮の墓が「安井宮墓地」にあるという可能性が生れてくるわけだけれど――その前提を裏付ける史料がどれだけ探しても見つからないのだ。逆にそれを否定する史料なら容易に見つかる。現に北陸宮(還俗宮)の逝去を伝える『明月記』の寛喜2年7月11日の条には「土御門院皇女を養ひ申し、一所の領を譲ると云々」と記されていて、この記載からは土御門天皇の皇女が北陸宮の継嗣であったことが読み取れる。ただ、史料の読解によっては、北陸宮の養女が安井宮の妹(ということは、北陸宮の妹ということにもなる)であったと解釈できることもわかった。いささかややこしい話ではあるんだけど――まず『平家物語』では北陸宮について「木曾義仲上洛の時主にし進せんとて、具し奉て都へ上り、御元服せさせ參らせたりしかば、木曾が宮とも申けり。又還俗の宮とも申けり」としつつ、続けて「後には嵯峨の邊、野依に渡らせ給ひしかば、野依の宮とも申けり」(引用は山田孝雄校訂『平家物語』より)。一方、この最後に出てきた「野依の宮」について『源平盛衰記』では「また殷富門女院の御所にいる治部卿局と申す女房を母とする若君・姫君がおいでになったが、この若君は御出家ののちに安院宮僧正と申した。東寺の一長者(東寺の上首)である。また姫君は野依宮と申した」(引用は三野恵訳『完訳源平盛衰記』より。なお『朝日町誌 歴史編』が唯一、典拠として挙げている『山城名勝志』では「安院」に「ヤス井」とルビを振っている。同書が唯一、典拠として挙げているのがこの『山城名勝志』であることには留意すべきか?)。これらのいささか錯綜した情報を整理して、「野依の宮」とは『平家物語』が言うような北陸宮のエイリアスではなく、その養女の名であり、それは殷富門女院に仕える治部卿の局という女房の娘で、その兄が安井宮だった――と見なすならば、北陸宮は安井宮の妹を継嗣にしたということになる。ただ、これを否定する情報もある。『明月記』の記載が正にそうだし、鎌倉時代後期に書かれた『五代帝王物語』でも「又二條からす丸の北のつら、烏丸より西には、野依の姫宮の御座しけるか」として、その「野依の姫宮」に「土御門天皇の皇女、北陸宮御猶子」と傍注を付している。さらには『史籍集覧』に収められた「安井門跡次第」によれば、初代安井宮である道尊(この人が北陸宮の異母弟とされる)の母は「伊豫守盛章女」とされており、やはり『源平盛衰記』が記す人物設定を否定する。一方、この史料では第2代安井宮である無品親王道圓の母が「治部卿局ト云」とされていて、『源平盛衰記』はこれらの事実を取り違えている可能性も? また、そもそも『源平盛衰記』は14世紀になって成立したというのが定説で、北陸宮と同時代のものではない。こうなると、北陸宮が安井宮の妹を継嗣としたというのは相当に根拠の薄弱な仮説と言わざるをえない。ましてやこれは北陸宮の養女が安井宮の妹だったかどうかという話であって、『朝日町誌 歴史編』が書いているのは「実子を挙げられなかった北陸宮には弟の安井宮を継嗣とされた」――ということなのだから。そして、そうした主張を裏付ける史料は、どこをどう探しても見つからないのだ。こうなると、南禅寺の裏山の「安井宮墓地」を北陸宮の墓所と「解すべき」という同書の――あるいは、当時の朝日町の文化財保護調査委員会の――結論はどういうことになるのだろうか? そしてそんな「安井宮墓地」の土を甕に納め、ふくさで包み、『北陸宮 以仁王第一王子 寛喜第二年七月八日薨 御歳六十六』と書かれた陶板を附して埋葬したという「北陸宮の御墳墓」の「史跡」としての位置付けは……?


参考資料

富山新聞 1970年7月10日付け16面
北陸宮の御陵墓ができる
朝日町の城山 観光に一役

 朝日町は六月初めから観光事業として約四十万円で県定公園城山(標高二百四十八㍍)頂上近くの台地三の丸跡に城山ゆかりの北陸宮御陵墓をつくっていたが、このほど完成、京都の北陸宮御墓所から分骨を埋葬した。
 御陵墓は高さ一・五㍍の高麗芝をはった土盛り、三㍍四方の練り石積み、高さ五十㌢のかきの外にさらに高さ一・五㍍の木さくを五・五㍍四方に囲み、正面に高さ三㍍のヒノキづくりの鳥居が建っている。
 富山湾や黒東平野を一望するほか、北アルプスに囲まれた景勝の地だけに、県定公園にふさわしい聖域となっている。
 この城山は宮崎海岸南方にそびえる山。治承四年(七百九十年前)木曽義仲が平家追討の旗あげの際、以仁王(もちひとおう)の第一王子北陸宮を越中宮崎に迎え地元の豪族宮崎太郎とともに城を築き、根拠地にしたところ。慶長十九年(三百五十六年前)廃城となった。
 現在は本丸跡や三の丸跡などが残り、昔の面影をしのばせており、すぐれた景勝地として行楽客が多く、一昨年四月、県定公園に指定された。
 しかし築城の発端となった北陸宮や宮崎氏についての文献が町になく、文化財保護調査委員会で調査の結果、北陸宮は八十二代の皇位を後鳥羽天皇と争い、敗れたこと、京都の野依(のより)で寛喜二年七月八日、六十六歳でなくなり、墓地が南禅寺裏にあることなどがわかった。この結果、町では城山ゆかりの宮の顕彰や観光開発のため、御陵墓をつくったもの。
北日本新聞 1970年7月11日付け13面
北陸宮陵墓が完成
朝日町城山 20日ごろに記念法要

 朝日町は五月末から県定公園城山頂上付近の台地に、宮崎城ゆかりの北陸宮陵墓を建設中だったがこのほど完工し、城山の新たな史跡となった。
 北陸宮は、後白川〔ママ〕法皇の第二皇子、以仁王の第一王子で、野依宮あるいは還俗の宮、今居殿、木曽宮などいろいろの名で呼ばれていた人。永万元年(一一六五年)に生まれ、寿永元年(一一八二年)に数え年十八歳で京都から脱出、宮崎にいた豪族、宮崎太郎長康に護衛され、のち平家追討の兵をあげた木曽義仲に奉ぜられ、宮崎地区に居住していたという。義仲の敗死でその支持勢力を失い、余生を京都の嵯峨野で終え、その骨は南禅寺裏山の弟、安井宮墓地に埋められた――といわれている。
 これらのことは、朝日町文化財保護調査委員会は〔ママ〕これまで数年間かかって行なった宮崎城と宮崎一族の調査でわかったもので、同町は城山一帯が一昨年県定公園に指定されたものの、宮崎城にまつわる歴史が伝説の域を出ていなかったことからその調査に乗り出したもの。
 北陸宮の陵墓は、工費三十九万円で、宮崎城三の丸跡(標高二三八㍍付近)に建てられたもので、高さ五十㌢、三㍍四方の石垣台に高さ一㍍、直径二㍍の墳墓(土まんじゅう)をつくり、その中に六月、安井宮墓地から掘り出してきた北陸宮の分骨を納めている。陵墓のまわりは、高さ一・五㍍、白木のサクで囲まれ、正面には高さ三㍍、ヒノキの鳥居も建てられた。同町は二十日ごろ、その建立を記念して供養の法要を営み、こんご毎年七月八日の命日に法要を営むことにしている。
追記 もしくはダイイング・ノートの発見

 「北陸宮の御墳墓」築造当時の朝日町の町長だった故中川雍一氏が1993年に刊行した『海から来た泊町』の第3章「皇位継承むなし」に「北陸宮の御墳墓」の築造に至った経緯が記されていることがわかった。その一部を紹介するなら――

 もともと、宮崎城は山城であって、天守閣の聳えるような城ではなかったが、古城の地を再現しようという声が聞こえるようになってきた。それにつけても史実の確認が不十分であった。
 史跡を整備するにしても、そのための手がかりがなければならない。朝日町教育委員会は北陸宮と宮崎太郎のための資料編さん委員会を設置し、野島二郎、野村久四、森群平、大菅達二の四氏を委嘱した。宮内庁陵墓課や林屋辰三郎先生ほか京都の関係寺院の御協力を得ながら研究がすすめられた。その調査の結果をまとめて出版されたのが『北陸宮と宮崎氏』である。この資料によって北陸宮の墳墓建設が決められた。
 京都市東山の知恩院の奥にあたる人跡まれな閑静の地、安井宮墓地に北陸宮の墳墓があった。この地を管理する大覚寺の御理解により墓地の土の一塊を甕に納め、これを袱紗で包み、管長揮毫による『北陸宮 以仁王第一王子 寛喜第二年七月八日薨 御歳六十六』と書かれた陶板を附して戴いた。ここ城山に鎮まるのは、まさにこの御甕(かめ)なのである。(略)

 これを読むと、当時の朝日町教育委員会による調査は宮内庁陵墓課も入った相当しっかりとしたものだったことがわかる。その上で「京都市東山の知恩院の奥にあたる人跡まれな閑静の地、安井宮墓地に北陸宮の墳墓があった」――と断定的に記しているわけだけれど、しかしだったらなんでその「墳墓」は治定陵墓となっていないのか? という疑問は依然として残る。特に調査には宮内庁陵墓課も入っていたというのならね。また別の箇所では安井宮墓地を北陸宮の墓地と特定した根拠として「宮には実子がなく、弟安井宮があとを継ぎ、この安井宮は仏門に帰した」。その後、紆余曲折を経て安井宮関係の墓はすべて「南禅寺裏山の安井宮墓地に移された」とした上で、「したがって北陸宮の墓地はここである」――としているのだけど、こうした結論に至る大前提となる「弟安井宮があとを継ぎ」という事実関係を裏付ける典拠については何も記されていない。

 うーむ。残念ながら、この当事者による〝ダイイング・ノート〟の発見を以てしても、安井宮墓地と「北陸宮の御墳墓」をめぐる点と線は未だその理路を示さず……。