え、これで終わり? と、最初は思った。どう見たって、まだ続きがあるでしょう。これで終わりだって言われたら、客が暴れますよ(映画とかだったらね)……と、確かに最初はそう思った。そして、なるほど、だからこの小説は、これまでただの1度も文庫化もされていなければ、全集にも収録されていないのか――と、1つ謎が解けたような気にもなったのだけど……いや、これはこれでいいのかなあ、と、再読・三読して行くうちに。そして、終いには、いや、そうだよ、これでいいんだよと。既にしてここに「木曽義仲の敗北」は描き尽くされているではないか。これ以上、何を付け加えても、それは屋上屋を架すだけ。そうなるのを断固として避け、ここで筆を擱く。それでこその「文学」ではないかと……。
檀一雄の『木曾義仲』を読んだ。今、このタイミングでこの小説を読んだのには、実はたった1つの目的があったのだけれど、その前に、まずはやっぱりこの結末について触れておかないといけないでしょう。とはいえ、1編の小説の結末を微に入り細に入り紹介するというわけにもいかず、なかなか難しいところではあるんだけど――まあ、おそらく誰が読んでも、最初は、え、これで終わり? と思うに違いない、そういう終わり方になっている。で、最初、ワタシは、もしかしたらこの小説は完結していないのではないかと考え、なるほど、これがこの小説がこれまでただの1度も文庫化もされていなければ、全集にも収録されていない理由なのかと考えたのだけど(『木曾義仲』は1955年に筑摩書房から上下2巻の新書判として刊行されて以来、ただの1度も文庫化もされていなければ、これまで2種類刊行されている全集のいずれにも収録されていない。また、どういう理由かはわからないのだけど、「全国の公共図書館、公文書館、美術館や学術研究機関等が提供する資料、デジタルコンテンツを統合的に検索できる」という触れ込みの「国立国会図書館サーチ」で検索しても、所蔵館は国立国会図書館を含めても12館しかない。つまり、ちょっとした〝幻の小説〟)、ただ、再読・三読して行くうちに、いや、これはこれでいいのではないかと。既にしてここに「木曽義仲の敗北」は描き尽くされているではないか――と。まあ、ネタバレにならないかたちで記すとするなら、これがギリギリかなあ。興味を惹かれた方はぜひご自分でご確認下さい。もっとも、ブツがなかなか見つからないというモンダイがあるわけだけれど……。
さて、今、このタイミングでこの小説を読んだのには、実はたった1つの目的があった。それは、越中宮崎での北陸宮と木曽義仲の対面シーンを檀一雄節で読みたかった――ということに尽きる。この越中宮崎での北陸宮と木曽義仲の対面シーンというのは、「北陸宮」という物語においても、「木曽義仲」という物語においても、1つのハイライトと言っていい見せ場。ちなみに、朝日町商工観光課発行の『ものがたり宮崎太郎』では、この場面、こんなふうに描かれている――
宮様が宮崎太郎の館に着かれたことは、信濃の仁科に知らされ、仁科から直ちに義仲の本陣へと報告がもたらされた。九月四日に知らせを受けた義仲は、直ちに軍勢を整え姫川に沿って進軍し、八日には宮崎に到着し、宮様との対面がなされた。
「義仲殿、以仁王の忘れ形見、第一皇子の宮様です。」
「義仲でございます。ようこそ、御無事でここまで御出で頂きました。以後ご安心ください。我々がしっかりと宮様をお守りいたします。」
義仲は更に続けて、
「我々源氏勢は、父王の命令で平家打倒を目指しております。必ずや平家を倒し、源氏の新しい世の中にします。そして、近いうちに必ずや宮様を京都へお連れ致します。」
「頼むぞ、父王もそう言って旗揚げをしたのに無念であったろうと思うぞ。」
そう言って宮様は声を押し殺し、はらはらと涙を流された。
この場面が、檀一雄の手にかかればどうなるのか? ワタシが『木曾義仲』という小説に期待したものとは、正にこの一点だったと言ってもいいんだけど――これが、なんとなんと、きれいさっぱりスルーされているではないか。いや、それどころか、北陸宮が――というか、その時点では以仁王の第1王子(ちなみに『ものがたり宮崎太郎』では「皇子」とされているのだけど、「皇子」とは「天皇の子」という意味なのだから、北陸宮を「皇子」とするのは間違い)が――父王の敗死を受け、守役である前讃岐守・藤原重秀に手を引かれて(かどうかまではわからないけどね)北陸に落ち延びるという、ドラマチックこの上ない展開が丸っきりスルーされているのだ。筑摩書房版だと下巻冒頭の「万馬」が以仁王の令旨を奉じての挙兵、次の「流れる水」が横田河原の戦いを描いているので、時系列からすればその次あたりに越中宮崎での北陸宮との対面シーンが来るはずなのだけれど――来ない。「流れる水」に続く「母と子」で描かれているのは、鎌倉の頼朝に平家との内通を疑われた義仲が息子の義高を人質として差し出すというエピソード。ここで流れがわかりやすいように治承・寿永の戦いにおける北陸宮と木曽義仲に関係する出来事を時系列で紹介すると――
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治承4(1180)年 |
5月、以仁王のクーデター計画が発覚。以仁王は現在の木津市にあった光明山寺の鳥居の前で矢に当って死亡。享年30歳。第1王子である北陸宮は藤原重秀に伴われて北陸へ落ち延びる。 9月、木曽義仲が挙兵。 |
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治承5(1181)年 |
6月、横田河原の戦い。義仲軍は越後から攻め込んできた平家側の大軍を3千の寡兵で撃破。余勢を駆って越後の国府に入り、越後を勢力下に収める。以後、北陸各地の豪族が続々と義仲の下に馳せ参じる。 |
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寿永1(1182)年 |
8月、北陸宮が越中宮崎に入る。 9月、義仲が越中宮崎に入り、北陸宮と対面。以仁王の法要が営まれるとともに、義仲を元服親とする若宮の元服式が執り行われる(「ものがたり宮崎太郎」より)。 |
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寿永2(1183)年 |
3月、義仲、長男の義高を人質として鎌倉に差し出す。 5月、倶利伽羅峠の戦い。義仲軍は5千の兵力で4万とも7万とも言われる平家軍を破る。 7月、義仲が入京。ほどなく安徳天皇の後継として北陸宮の即位を朝廷に働きかけるものの、後白河法皇は卜占を盾にこれを退け、安徳天皇の異母弟・四ノ宮(後鳥羽天皇)を皇位に即ける。 9月、北陸宮が入京。 11月、義仲が後白河法皇の御所である法住寺殿を襲撃。その前夜、北陸宮は何処へか逐電。以後、文治元(1185)年まで所在不明となる。 |
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寿永3(1184)年 |
1月、木曽義仲、粟津の戦いで討ち死に。享年31歳。 |
これを見ればわかるように、横田河原の戦いを描いた「流れる水」の次に長男・義高を鎌倉に差し出すエピソードを描いた「母と子」が来るということは、治承5年6月以降の1年半ばかりがそっくり物語から抜け落ちていることになる。これはずいぶん乱暴というか、はっきり言って、不自然。この事実を覚った瞬間、ワタシが咄嗟に思い浮かべたのは子母沢寛の『花と奔流』。徳川幕府瓦解当時、外国事務総裁の要職にあった小笠原長行の生涯を描いた歴史小説で、ワタシは「東武皇帝」即位説の真相解明をめざしたペーパー・ディテクティヴの一環で目を通したのだけど、この小説で小笠原長行の奥州滞在中の出来事(小笠原長行は戊辰戦争中、仙台藩領の白石にあって奥羽越列藩同盟の「盟主」たる輪王寺宮公現法親王に「参謀」として仕えていた)はどう記されているかというと、なんと一切スルー。それどころか、戊辰東北戦争についての記載自体がわずか1行しかないのだ――
会津落城。米沢降伏。仙台もまた恭順、一人庄内は孤塁を守ったが、遂に降伏せざるを得なかった。
そして、舞台は一足飛びに箱館へ移ってしまうのだ。これには心底魂消たもんですが、子母沢寛としては、小笠原長行の――というよりも、輪王寺宮公現法親王の――奥州滞在中の出来事を記すのは差し障りがあると判断したということなんでしょう。檀一雄が『木曾義仲』で治承5年6月以降の1年半ばかりの出来事をそっくりスルーしているのを目の当たりにして、ワタシがつい子母沢寛が『花と奔流』で採用した手法を連想したのも無理からぬこととご理解いただけるのではないかと思うのだけど――ただ、ねえ、別に北陸宮に言及することに何か差し障りがあるということは、まあ、ないと思うんだよね。実際、小説では木曽義仲が北陸宮を安徳天皇の後継として推戴したという、不届きと言えばこれ以上、不届きなものはないと思われるふるまいについてはちゃんと描かれているのだから――
どうやら新帝は四ノ宮に決まったらしいという噂が、パッと都の中にひろがった。
六条堀川の義仲も聞いた。
「何? 新帝が四ノ宮と? 女房の丹波が夢の告じゃと? 大弥太、その方はどう思う?」
「アハハ。思うもヘチマもおざりませぬワイ。腐り切った院の周囲、根こそぎミソギをかけなんだら、何が何やら、ワケのわからぬ夢じゃ、卜いじゃがはびこりましょう」
「おうとも、この度の平家掃討の大事業を思い立たれたのは法皇第二の御子、以仁王の至高至忠のみ心にはじまったことじゃ。
その為に、宇治の辺りで、尊い命を失うてまでおられるワ。
ワレラがイクサも、もとはと云えば、以仁王の令旨に端を発したこと――よもや法皇もお忘れではあるまいナ。
もしお忘れでなくば、その以仁王の御子息の宮、北陸王が立王せられる道理のこと、兎や角言う迄もないワ。
ヨシ、兼平。事の次第、道理の有無、ハッキリと院に伺候して申し上げろ」
つまり、檀一雄が何らかの理由で北陸宮について言及するのを控えた、そのための力技として横田河原の戦い以降、約1年半ばかりの出来事をそっくりスルーした、ということでは、まず、ない。じゃあ、なんで? 時の最高権力者である後白河法皇の「孫王」(『明月記』によれば北陸宮は治承・寿永の乱終結後は「孫王」と名乗って京の嵯峨野に住まいしたという)が越中くんだりまで流れてきて、かの「八幡太郎義家」の4世の孫でありながら永らく信州の木曽谷に雌伏を強いられていた木曽次郎義仲が出会うというドラマチックな場面だ、作家なら食指をそそられないはずはない。しかも、書き手は檀一雄じゃないか、どれだけ読み応えのあるシーンに仕上がっているものか――と、ワタシが期待を膨らませるのも無理はありませんよね。ところが……。
その理由に関しては、これはもういろいろ考えた。まず考えたのは、このパートで重要な役割を演じることになる越中宮崎の豪族・宮崎太郎については、檀一雄が『木曾義仲』を書いた当時はまだよくわかっていなかったという、案外、盲点になりそうな事実。実際、ワタシ自身、「北陸宮の御墳墓」を掘り返すまでは知らなかった(ここで、え? と思われた方は、ぜひ「ある郷土愛者の反主体的『史跡』考〜安井宮墓地と北陸宮の御墳墓をめぐる点と線〜」をお読みあれ。決して本当に「掘り返した」わけではありませんので。ま、これはいろんな意味でね)。しかし、「北陸宮の御墳墓」の完工を報じた当時の新聞記事などでも「築城の発端となった北陸宮や宮崎氏についての文献が町になく」(富山新聞)、「宮崎城にまつわる歴史が伝説の域を出ていなかった」(北日本新聞)としていて、地元でさえそうなのだから、はたして檀一雄にどれだけの資料を揃え得たものか? そう考えるなら、越中宮崎での北陸宮と木曽義仲の対面シーンがオミットされているのも無理からぬこと? ただ、その一方で檀一雄は巴御前や葵御前(一般には巴御前ほど知られてはいないと思うけど、巴御前とともに「便女」として義仲に仕えていた女性で、倶利伽羅峠の戦いで亡くなったとされる。富山県小矢部市には葵御前の墓と伝わる「葵塚」なるものも存在する)など、その実在を史料では裏付けられない人物についても相当、自在に描いているのでねえ。史料が存在しないことがそれほどのネックになるのかという気も。少なくとも、丸っきりすべてがスルーされている理由としては弱いような……。
では、それ以外に治承5年6月以降の1年半ばかりの出来事がそっくりスルーされている理由はとなると……檀一雄が昭和26年12月から27年4月にかけて行なった南氷洋への取材旅行の影響は考えられないだろうか? これについて説明するためには、まずこの小説の初出情報を紹介することから始めなければならないのだけど――これについて手元の筑摩書房版には何も記されていない。また『木曾義仲』は筑摩書房版に先立って新潮社版『長編小説全集』第10巻にも収録されているのだけど、こちらにも初出情報は記されていない。しかし、沖積舎版『檀一雄全集』別巻「研究編」巻末の「檀一雄年譜」では、昭和26年9月から「『木曽義仲』を『山陽新聞』に連載す」とされている。一方、高木健夫編『新聞小説史年表』(国書刊行会)によれば、昭和26年7月中旬から「京都新聞」に連載されたものとされており、加えて「山陽新聞」に掲載されたのは27年6月27日からで、それは「転載」だったとされている。つまり、初出は「京都新聞」としているわけで、なぜ「檀一雄年譜」とは情報が食い違うのかは謎なのだけど、ここは『新聞小説史年表』の情報を信頼することにしましょう(ウィキペディアによれば、高木健夫氏は『新聞小説史 明治編』により1974年度芸術選奨文部大臣賞を受賞しているという)。で、『木曾義仲』が昭和26年7月中旬から「京都新聞」に連載されたものだったとするなら、それは非常にイレギュラーなかたちでの連載だったと考えられる。というのも、檀一雄はその年の12月から翌年4月まで大洋漁業の捕鯨船「天洋丸」に乗りこんで南氷洋に取材旅行に出かけているので。その旅の成果は「ペンギン記」として結実することになるのだけど――当然のことながら、檀一雄が日本を不在にしていた昭和26年12月から27年4月までは『木曾義仲』の連載は中断となったはず。そして、帰国後、再開された――と考えるならば、ストーリー展開がこのイレギュラーな連載パターンによって影響を受けた可能性は大いにありうるのでは? ズバリ言うならば、「天洋丸」の出航スケジュールに合わせるべく、相当に無理なストーリーの省略が行われたのではないか? という〝疑惑〟。実は「ペンギン記」にはそうした可能性をうかがわせる記述があるのだ――
捕鯨母船に乗りこんだなどと、威勢のいいことを言ってみても、このたびの私の出発は、どう考えても、余裕のある旅立ちには、似ていなかった。いのちからがら脱出し了せたといった方がふさわしかろう。狂気にならなかったのが、何よりも幸せというものだ。
『新聞小説史年表』によれば、檀一雄はこの時期、『木曾義仲』と平行して『真説石川五右衛門』を「新大阪新聞」に連載しており、こちらの方は昭和26年12月に完結しているのがわかる。つまり檀一雄は、平行して連載していた2本の新聞小説の内、1本はぎりぎりで片づけ、もう1本は中断して南氷洋に旅立ったということになるのだけど――それは確かに「いのちからがら脱出し了せた」というような状況だったに違いない。そして、こうした相当に無茶なスケジュール調整の〝犠牲〟になったのが北陸宮と木曽義仲に関るエピソード……。
ただ、いかにスケジュール調整が必要だったからといって、こんなにきれいさっぱりとすっ飛ばせるものかなあ、という疑問は残る。それはいささか作家としてのモラルが問われる対応では? そう考えるならば、あまりこの説を強力に押したいという気にはならないなあ。むしろ、その連載時期に着目して『木曾義仲』という小説の不思議な有り様を解き明かす仮説を導き出すなら――
GHQの検閲に引っかかったという可能性は? 東京湾の沖合(なんでも場所はかつてペリー艦隊が停泊した「小柴沖」にもごくごく近い海域とかで、わざわざそういう場所をマッカーサーが選んだという話もあるらしい)に停泊するアメリカ戦艦ミズーリの甲板上で重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長が「降伏文書」(休戦協定書)に調印した昭和20年9月2日からサンフランシスコ平和条約が発効する昭和27年4月28日までの約6年半、日本はGHQの管理下に置かれ、自由な言論を封じられていた。ことに新聞は「日本新聞遵則」によって厳しく規制されており、「連合国進駐軍に関し破壊的に批評したり、又は軍に対し不信又は憤激を招くような記事は一切掲載してはならない」と定められていた。またGHQによる規制は報道ばかりではなく娯楽にも及んでおり、たとえば「仇討」を奨励するという理由で『忠臣蔵』の上演も禁じられていた。北陸宮と木曽義仲のエピソードというのは、源氏の残党が皇胤を奉じて仇敵・平家を討つ、という話なので、その危険性は『忠臣蔵』の比ではない。という理由で、GHQの検閲対象になったということは十分に考えられるのでは? うん、われながらこれは着眼点がスルドイ……
――ということで、ワタシとしては一度はこのセオリーで手を打ちかけたのだけど……ほどなくこのセオリーは成立しないことがわかった。というのは、『木曾義仲』が昭和26年7月から「京都新聞」に連載されたという『新聞小説史年表』の情報は――誤りなのだ。確かに『木曾義仲』は「京都新聞」に連載された。しかし、それは昭和26年7月からではなく、昭和27年7月から。これは正確な連載期間を確認するために京都府立図書館に依頼した調査の結果、判明したもので、京都府立図書館の調査によれば、連載期間は昭和27年7月1日から28年7月15日まで。これには驚きましたねえ。『新聞小説史年表』というのは相当、信頼の置けるレファレンスだと思っていたので。しかし、誤りであることがわかったのは収穫。で、実を言えばここから『木曾義仲』の初出データをめぐるワタシ(と各図書館の調査係)の壮絶な戦い(笑)が始まることになるのだけど――では、沖積舎版『檀一雄全集』別巻「研究編」巻末の「檀一雄年譜」では昭和26月9月から「『木曽義仲』を『山陽新聞』に連載す」としているのは? これについて『新聞小説史年表』では連載が始まったのは昭和27年6月27日からとしていて情報が食い違っているわけだけど――これについては岡山県立図書館に調査を依頼した。その結果、これについては『新聞小説史年表』の情報が正しく、昭和27年6月27日から28年8月12日まで連載されていることがわかった。しかし、昭和26月9月から「『木曽義仲』を『山陽新聞』に連載す」という「檀一雄年譜」の情報は一体何なんだ? 世の中には書誌学って学問があって、時には些細なデータの違いをめぐって学者サンたちが論争を戦わせたりすることもあるんだからさ。頼みますよ……。ともあれ、こうなると『木曾義仲』はサンフランシスコ平和条約の発効後に書かれた小説だったということになり、完全にワタシが立てた仮説は成り立たないことになるわけだけど――でも、本当にそうなのか? これら各図書館に依頼したレファレンスの結果を踏まえるなら、『木曾義仲』の初出はタッチの差で「山陽新聞」だったということになるわけだけど、なんで「山陽新聞」? 木曽義仲とは何のゆかりもなさそうな岡山県の新聞が初出って、ちょっとねえ……と、そんなことを思っていたら、案の定。筑摩書房で檀一雄の担当編集者だった野原一夫が『人間 檀一雄』(ちくま文庫)の中で「『信濃毎日新聞』に連載されたのち筑摩書房から出させてもらった『木曽義仲』」と書いていることがわかった。木曽義仲のお膝元である信州長野の「信濃毎日新聞」ならば、確かに『木曾義仲』の初出紙としては申し分ない(?)。で、もしかしたら連載時期もワタシのセオリーに合致するかたちで前倒しされることになるかも……という期待を持って勇躍、長野県立図書館に調査を依頼したところ……確かに『木曾義仲』は「信濃毎日新聞」にも連載されていたことがわかった。そして、連載期間は――昭和27年5月27日から28年6月29日まで。
以上、わかったことをまとめるなら、『木曾義仲』の初出は(ほぼ間違いなく)「信濃毎日新聞」であること。まあ、筑摩書房で檀一雄の担当編集者だった人物がわざわざ著書で「『信濃毎日新聞』に連載されたのち筑摩書房から出させてもらった『木曽義仲』」と書いているんだから、それが正しいに決まってるって。そして、もう1つ。書かれたのはサンフランシスコ平和条約が発効した後であり、その内容がGHQの検閲に引っかかる可能性は一切なかったということ……。
えー、この時点でこのモンダイに臨むワタシのライフは既に尽きていたと言っていい。しかし、なぜ『木曾義仲』という小説において治承5年6月以降の1年半ばかりの出来事がそっくりスルーされているのかについては未だ答を見出せていない。それじゃあこの記事が終わらないので、最後にいささかヤケクソめいた意見を表明して強引に締めくくることにするなら――そこにはやはりこの小説が書かれた時代相が関係していると考えるしかないのでは? そう、ちょうど日本が主権を回復したタイミング。それは正に新しい時代の始まりであり、国家を統べる原理はそれまでの「天皇主権」から「国民主権」へと様変わりしていた。それがGHQの指導の下に行われたものであったにしても、1つの「世直し」であったのは間違いないだろう。『木曾義仲』は、そんな時代に書かれた歴史小説だった――ということを踏まえるなら、こういう仮説はどうか? つまり、檀一雄としては、必然的に「時代の変革」を描くこととなる歴史小説において、主人公が皇室の権威をかざすという「かたち」を避けたかったのではないか? それは著しく時代の思潮に反する……。え、歴史小説をそんなふうに現実に引き寄せて解釈するなんて強引過ぎやしないかって? いや、そうとも言えんぞ。試しにこんなシーンを読んで見てくれ。
「では、その令旨の趣きを、静かに拝聴させていただくか――」
義仲、呻くような声でそう言って、行家を上座の方に促した。
行家もようやく我に返ったよう――。
おもむろに袱紗の包みを懐中から取出すと、宮の令旨を恭々しくひろげたが、
しばらく持つ手がふるえて、声がつまった。
二度三度。
乾いた唾を喉の奥に流しこみ、それでもようやく、トギレトギレに読みはじめた。
兼平の男らしいむせび泣きの声がおこっている。
高倉の宮令旨の奉読は、新宮十郎行家のヒキツルような甲高い声で、終りのところが二度ばかり繰り返され、
感激的に終りを告げた。
これはしたり、根々井の大弥太。大ヅラの汗をツルリと拭った拍子に、ボロボロと涌き出したのは生れて始めて流すほかならぬ涙のようだ。
自分でも、何が何だかわからないふうで、
「ワアー、ワアー」
と奇声をあげる。
つづいて葵、やがて巴、とむせび泣きの声は並居る者に次々と伝染していった。
今井兼平が、根々井の大弥太(「義仲四天王」の1人、根井光親のこと)が、葵が、巴が、以仁王の令旨の奉読を聞いてむせび泣いている――。これなんて明らかに「玉音放送」のメタファーじゃないか。そして、当時、「玉音放送」を聞いて涙を流した日本人の姿というものは、日本人と皇室の間の強い紐帯を表すものではあっただろうけれど、同時に日本人が絶対天皇制の軛から解放されたモメントでもあったはず。そして、正にその瞬間から戦後の日本の快進撃は始まったのであり、そしてまた木曽義仲の快進撃も始まるのだ――少なくとも檀一雄はそのように描いている。そして、その快進撃の途上に、北陸宮は、いない。作中で木曽義仲はオノレの存念を次のように巴に語って聞かせるのだけど――「では、一度。ただの一度でもよいから――義仲と巴のイキザマをハッキリと日本国中の有象無象の者共の眼の中にやきつけて見ようゾ。/高いも賤しいも、礼式も作法もこれは都のヒマ人がより集うて、かりに名をつけた、勿体ぶって見せた迄の話じゃワ。/アハハ。そのようなラチもないコケオドシが是か、ただしは義仲の信ずるイノチが是か――駒ケ岳の雪のナダレを都まで押し流してはっきりと見定めて見ようではないか」。檀一雄版『木曾義仲』においては、木曽義仲は錦旗を掲げて京に駆け上るのではない。自分自身が信ずる「イノチ」を掲げて京に駆け上るのだ……。
追記 どうやらワタシが繰り広げたことはまったくの徒労だったようで……。『木曾義仲』という小説において北陸宮に関係するエピソードがほぼスルーされているのは、GHQの検閲に引っかかった結果では? そういう仮説に取り憑かれたワタシはその仮説が成立するための絶対的条件である『木曾義仲』の連載期間を確認するべく「壮絶な戦い(笑)」を繰り広げたわけですが……実はGHQによる検閲はサンフランシスコ平和条約の発効前――具体的には、昭和24年10月で事実上、終了していたらしいのだ。これは「プランゲ文庫」と言って、占領下に検閲目的で集められた出版物で構成されたメリーランド大学図書館の特別コレクションについて調べていてわかった事実で、そのデジタル資料を有する日本の国立国会図書館が同コレクションについて説明する中で――「連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)民間検閲支隊(Civil Censorship Detachment, CCD)は、占領政策の浸透と思想動向の綿密な調査を行うために検閲を実施した。検閲の対象は、我が国で出版されたあらゆる図書、雑誌、新聞のほか、映画、演劇、放送番組はもとより、学級新聞のようなミニコミ誌、郵便、電報に及び、さらには電話の盗聴も行われた。検閲制度は1949年の10月に終了し、同年11月にCCDが廃止されるに際し、検閲のためにCCDに提出されその後保管されていたこれら大量の資料の処分が問題となった(……)」。
これにはマイッタ。検閲制度は1949年(昭和24年)10月に終了していたのなら、『木曾義仲』の連載期間が『新聞小説史年表』が示す昭和26年7月からだろうが、ワタシの調査によって判明した昭和27年5月からだろうが、何の違いもないということになる。だから、あんなにがんばって『木曾義仲』の連載期間を確認する必要なんてなかったわけですよ。まったく、もう。そもそも、本文中でGHQによる検閲の実例として挙げた『忠臣蔵』だって昭和22年11月には上演解禁となっている。このこともワタシは知らなかったわけで……ま、すべてはワタシの勉強不足から発した、とんだ〝独り芝居〟だったということで……。