高岡市二塚にある「恒性皇子御墓」を見てきた。こういうものがあることはかねてから知ってはいて、また毎年、命日には法要が営まれていることも地元紙の報道で知ってはいたのだけれど、わざわざその地を訪ねてみようとはこれまではついぞ思わなかった。「北陸宮の御墳墓」がある宮崎城跡ならいざ知らず、高岡市二塚なんてわざわざ行くようなところじゃないからね。しかし、「北陸宮の御墳墓」にあれだけの関心を示したのなら、「恒性皇子御墓」にも興味を示さなければ不公平(?)でしょう。ということで、命日も近い今日、行ってきたのだけれど――いやー、ホントに何もないところで。つーか、周りは普通の住宅地。地形も至ってフラットで、とても昔、この場所に城があったなんて想像ができない。でも、近くには「太刀城跡」という石碑もちゃんとあるしね。ここはここでやはり「つわものどもが夢の跡」なんだろう。そして、そのことをまざまざと実感させてくれるのが、この「恒性皇子御墓」――

一方、噂の「悪皇子宮」(正式名称は「気多社」)は「恒性皇子御墓」から歩いて5分ばかりの距離で、大正2年に当時の二塚村役場が刊行した『闡幽録』という小冊子に曰く「土人の口碑に此處は昔し名越時有が恒性皇子を幽閉しまつりし所にて後に社を建てゝ其の靈を崇め奉りしといふ」。見るのを楽しみにしていた「悪皇子宮」と刻まれた標柱(社号標)は平成14年に奉納されたという玉垣に隠れて外からは見えないようになっているものの、なんとか写真に収めました(↓の画像をクリックすると出てきます)。ちなみに『闡幽録』では気多社のエイリアスを「悪王子宮」としているのだけど、見てもらえばわかるように表記は「悪皇子宮」。「悪王子宮」だと、各地に存在する「悪王子社」との関連も考えたくなるところなのだけど(当地にもあります。二上山にある「悪王子社」。また富山市内には「悪王寺」という地名も。そういう名前の寺があるわけではないんだけどねえ)、こちらは「悪皇子宮」。「悪王子社」とは何の関係もない(はず)。

――ということで、これでこの記事の趣旨(高岡市二塚にある「恒性皇子御墓」を見てきた)から言えば完了なんだけど、ただこれだけだと記事としてのヴォリュームが足りない。そこで、「恒性皇子御墓」を見に行く前にあーだこーだ考えたことを、この際、吐き出してしまおうかなと(ま、あえて書くほどのことでもないとは思うんだけど、何ごとによらず溜め込むのはよくない、ということを言い訳にして?)。まず、ウィキペディアの「恒性皇子」の記事では恒性皇子殺害に至る経緯を次のように記しているのだけど――
……しかし、翌年には後醍醐天皇が隠岐から脱出して倒幕の兵を挙げる。出羽・越後の倒幕勢が皇子を担いで北陸道から京都へ進軍しようとしているという噂を聞きつけた執権・北条高時は、皇子の北陸での挙兵を警戒し、越中守護・名越時有に皇子の殺害を命じる……
恒性皇子殺害は「出羽・越後の倒幕勢が皇子を担いで北陸道から京都へ進軍しようとしている」という情報(噂)を聞きつけて、その機先を制しようとしたものであり、それは時の最高権力者・北条高時の命令だったとしている。その上で記事ではその典拠として富山県公文書館刊行の『とやまの歴史』という本を挙げているのだけど――しかし『とやまの歴史』の当該ページには↑の記載を裏付けるようなことは何も記されていないんだよね。では『とやまの歴史』ではどう記しているかというと――
……このような時、後醍醐天皇を中心とする倒幕運動が起こり、足利高氏も幕府にそむき六波羅探題を攻撃しました。この情勢を知った越中守護名越時有は、元弘の乱後に射水郡二塚(高岡市)に配流されていた後醍醐天皇の第八皇子で大覚寺門跡の恒性皇子(越中宮)を殺害し越中・能登の御家人を二塚に集めました。しかし六波羅陥落や反幕府勢力蜂起の情勢を知った御家人たち一万余騎は守護に反乱し、名越時有一族を襲いました。奈呉の浦(旧、新湊市)の沖に船を漕ぎだして女・子供に入水を遂げさせた後、名越一族は放生津城を炎上させ自害しました。
ね、「出羽・越後の倒幕勢が皇子を担いで北陸道から京都へ進軍しようとしている」という情報(噂)を聞きつけただの、殺害に当って北条高時の命令があったなどということは一切記されていない。恒性皇子殺害に至ったのは、足利高氏が六波羅探題に攻撃をしかけるなど、反幕勢力との対立が激化する中での出来事で、名越時有が恒性皇子を殺害するに至った理由や命令系統についてはつっこんだ考察はなされていない。それは『とやまの歴史』が歴史の研究書などではなく、富山の歴史を一般向けに概説したものであることを考えるならば無理からぬこととは言えるはず。しかし、なぜか記事の執筆者はそういう文献を典拠に挙げた上で、そこには一切記されていないことを記しているのだけど――これはいけませんなあ。自説を補強するために「カール・レーフラー」とかいう架空の神学者をでっち上げた前東洋英和女学院学院長のケースと大差ないじゃないか。編集履歴を確認すると、件の記述に『とやまの歴史』が典拠として示されるようになったのは2015年6月10日の版からで、それ以前の版には「この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です」として、出典を追加するよう注文がつけられていたことがわかる。そのため、富山県公文書館刊行というそれなりに信用が置けそうな文献を引っ張ってきてとりあえず体裁を整えたのだろうけど――ということは、この記事の執筆者は、↑に記していることの典拠となりうる文献(ないしは史料)を持ち合わせていないということになる。つまり、それはこの記事の執筆者が生み出したストーリーということになる……。
まあ、ストーリーならストーリーでいいんですよ。でも、記す場所が間違っている。ストーリーを記すのは、自分がやっているブログとか。たとえば、PW_PLUSとかね(笑)。というわけで、以下、名越一族による恒性皇子殺害をめぐって若干のストーリーを記すことにしたい。まず、『太平記』の巻11「越中守護自害の事附怨靈の事」は、名越一族の滅亡を「色鮮やか」に描写したものとして『とやまの歴史』でも紹介されているのだけど、そこではこのように一幕の悲劇を語り起こしている――
越中の守護名越遠江守時有、舍弟修理亮有公、甥の兵庫助貞持三人は、出羽越後の宮方、北陸道を經て京都へ攻め上がるべしと聞えしかば、道にてこれを支へんとて、越中の二塚と云ふ所に、陣を取つて、近國の勢どもをぞ相催しける。……
この中の「甥の兵庫助貞持」(他の史料では「貞時」とされている場合もある)というのが恒性皇子殺害の実行犯とされる人物で、この「越中守護自害の事附怨靈の事」はそんな彼らが、女子供は奈呉の浦で入水し、男どもは放生津城(名越一族が拠点とした城で、二塚の太刀城はその支城という位置付けだったとか)に火を放った上で、「上下七十九人、同時に腹を掻切つて、兵火の底にぞ燒け死にける」様を描いたものなのだけど――ただし、本来ならばその前段にあるべき恒性皇子の殺害については何も記されていない。というか、そもそも『太平記』には恒性皇子は一切出てこないのだ。これがなんともやるせない限りで、北陸宮といい輪王寺宮といい、なんでワタシが興味を持った宮様は揃いも揃ってこうなのか……。
ただ、↑の一節には恒性皇子の存在を示唆するような文言も。そう、「出羽越後の宮方、北陸道を經て京都へ攻め上がるべしと聞えしかば」云々。多分、ウィキペディアの記事の執筆者はここに出てくる「出羽越後の宮方」を「恒性皇子支持勢力」と解釈した上で「出羽・越後の倒幕勢が皇子を担いで北陸道から京都へ進軍しようとしている」としたんだろうね。でも、その解釈には無理がある。なぜって、恒性皇子は「越中守護自害の事附怨靈の事」ばかりではなく、『太平記』というユニバースには一切登場しないのだから。それが、なんでここに出てくるのかと。また、そもそも『太平記』に出てくる「宮方」って「武家方」に対するもので、誰か特定の宮様を指すものではないとされている。まあ、後醍醐天皇の十数人いたとされる皇子(宮様)の集合代名詞だろうね。ただ、あえてこの文脈で特定の人物を挙げるとするなら、大塔宮護良親王だろう。というのも、出羽はいざ知らず(当時の出羽の国司は安達時顕という人物で、東勝寺で北条高時とともに自刃している)、当時の越後の国司は新田義貞で、その新田義貞は河内で大塔宮から令旨(あるいは綸旨。本来、綸旨とは天皇の意を受けて発給する命令文書のことだが、『太平記』によれば、新田義貞が賜ったのは綸旨であったとされている。とするならば、大塔宮は皇位を僭称していたということになる。ちなみに、戊辰戦争中に輪王寺宮が各国公使に宛てて発給した令旨には冒頭でこの『太平記』に掲げられた文書が「大塔宮護良親王ノ令旨」として引用されている。当然とは言うものの、輪王寺宮の周辺が綸旨と令旨の違いに意を配っていたことを裏付ける事実で、その上で輪王寺宮が発給する文書を「一品親王令旨」としていたことは「東武皇帝」即位説について考える上でも十分、留意されるべき――と、ワタシは思います)を賜っている。また越後勢は『太平記』の巻10「新田義貞謀叛の事附天狗催越後勢事」によれば、新田義貞が挙兵すると即座に駆けつけてもいる。だから「出羽越後の宮方」は、あえて解釈するならば、「大塔宮支持勢力」ということになるでしょう。その上で、新田義貞が挙兵したのは、『太平記』によれば5月8日。一方、恒性皇子が殺害されたのは、異説もあるものの、江戸時代前期に書かれた『南方紀傳』によれば5月10日。また、地元で行われている法要もこの日(旧暦を新暦に置き換えた6月30日)に行われている。こうした事実関係を踏まえるならば、越後勢の挙兵を聞きつけた越中守護・名越時有が越後勢が越中に攻め込んでくると早とちりして(言うならば「水鳥の飛び立つ音に怯えて」)恒性皇子を殺害した――というストーリーが浮かび上がってくる。権力が崩壊する時って、えてしてそういうものかもね。
――と、一応、これで名越一族による恒性皇子殺害に至る大まかなことの流れは説明できるかとは思うんだけど、ただこれだけだとストーリーとしてはいかにも不十分。というか、説明不足。というのも、名越時有が越後勢の挙兵を聞きつけ、越中に攻め込んでくると早合点することはありうるだろう。しかし、それでなぜ恒性皇子を殺害しなければならないのか? 恒性皇子を越後勢に奪われ、彼奴らに〝錦の御旗〟として担がれるのを未然に防ごうとした? だとしても、いきなり手にかけるというのはねえ。越後勢と一戦構え、奮戦するも戦況の不利はいかんともしがたく、もはやこれまでと城に火を放ち、返す刀で人質である恒性皇子を害し奉った、というのならわかる。しかし、そういうこともなく、いきなり人質を手にかけるというのは、ちょっとストーリーの運びとしてはねえ。やはりここは、二塚で合戦はあった、とした方が。とはいえ、実際には越後勢の侵攻はなかったわけだから、『太平記』の記載の通りならね。また『とやまの歴史』が書いている越中・能登の御家人の反乱というのも、この時点ではなかったはず。なぜなら、名越一族が全滅したのはここ二塚の地ではなく、放生津なのだから。当然、越中・能登の御家人との合戦が繰り広げられたのも放生津。『太平記』もこう書いている――「能登越中の兵ども、放生津に引退いて、却て守護の陣へ押寄せんとぞ企てける」。だから、二塚では合戦はなかったことになる。しかし、恒性皇子が二塚で殺害されたという事実が動かせない以上、やはり二塚では合戦があったというストーリーの方が望ましい……。
さらに、もう1つ、ストーリーのピースとして組み入れるべき材料がある。それは、恒性皇子が幽閉されていた場所の跡に建てられたとされる神社の別称が「悪皇子宮」であること。古来、「悪」の字には「強い」とか「荒々しい」という意味があったとされ、保元の乱の事実上の首謀者である左大臣・藤原頼長の異名として名高い「悪左府」なんかがその典型。また楠木正成が歴史的には「悪党」と呼ばれていたこともよく知られている(楠木氏の出自をめぐっては北条氏の被官だったとする説もありますが、坂東武者にあんな奇想天外な戦いはできんでしょう。何より「悪党」が「忠臣」に転化する歴史のダイナミズムに惹かれるわけで……)。いずれにしろ、強烈な個性で歴史に異彩を放つ人物に冠せられるのが「悪」という接頭辞で、恒性皇子にはその一字が冠せられているということは、どういうことなのか? それは、彼がただ歴史の幕間で儚く命を散らしたのではないということを強く示唆しているようにワタシには思える。
それでは、そもそも恒性皇子とはどのような人物だったのか? 恒性皇子について記した史料というのはそれなりにあるのだけど、いずれも至って簡略なもので、その人となりをうかがわせるものではない。そんな中、辛うじて恒性皇子の人となり(の一端)を伝えるのが『大覺寺門跡略記』(塙保己一編『續羣書類從』第4輯下所収)。そこにはこう記されている――
恒勝親王
後醍醐院第十皇子。寬尊親王度爲附弟。當時兵革熾起戰爭不熄。兵士奪立爲武將。與尊氏鬪。遂師潰爲士卒俘。
元弘二年三月八日。配越中國。
同三月十日、於越中名越兵庫助貞時爲御生害。
「恒勝親王」は後醍醐天皇の第10皇子で、寛尊法親王の附弟(この「附弟」がね、もう大変で。『日本国語大辞典』によれば「法統を受け継ぐ弟子。師より法脈を伝えるよう託される弟子」――ということなんだけど、かつてワタシはこの言葉をめぐって千葉県成田市にある成田山仏教図書館に電話をかけたことがありまして、あれはもう何年前になるかなあ……)を経て大覚寺門跡を相続していること。しかし、当時は戦乱の世で、「恒勝親王」も足利尊氏に与して闘い、敗れて俘囚となったこと。そして、元弘2年3月10日(年は元弘3年の誤り。また日付をめぐっても異説があり、『南方紀傳』では5月10日としていることは既に記した通り)、配流先の越中で名越兵庫助貞時により自害(生害)させられた――と、粗々こんな感じ。で、注目すべきは、「恒勝親王」が足利尊氏に与して闘った(「與尊氏鬪」)とされていること。ここからは、恒性皇子は大塔宮のような〝闘う宮様〟だったことがうかがえる。だからこそ、俘囚になったのであり、だからこそ越中に流されたのだろう。であるならば、そんな〝闘う宮様〟が配流先でただおとなしくしていたとはちょっと考えにくい。俘囚として自由を束縛された身ではあっても、工夫すれば外部とコンタクトを取ることは可能だったろう。そして何らかの手筈を使って一通の文書が越後の新田勢に届けられた――と考えてみる。言うまでもなくそれは新田勢に決起を促す令旨。吉野で大塔宮から下賜されたのと同じような令旨が越中で恒性皇子こと「越中宮」(この尊号については『大覺寺門跡略記』には記されていないものの、同じ『續羣書類從』第4輯下に収録されている『大覺寺門跡次第』に記されている)によって下賜されていた……。
こういうストーリーを想定するなら、当然、次に来るのは令旨を賜った勢力による恒性皇子の〝奪還〟。そして、実際に恒性皇子の奪還をめざした部隊が越後から越中に向った――。ここで再度、『太平記』をひもとくならば、5月8日に決起した新田義貞の軍勢は150騎あまりだったとされる。しかし、その日のうちに越後の2,000騎が合流。彼らは「天狗山伏」から義貞決起の情報を聞かされ、「夜を日に繼いで」馳せ参じたとされている。その後、9日には後発隊や甲斐源氏・信濃源氏の一派などが合流して、義貞軍は7,000の大軍に膨れ上がった――とされているのだけれど、こうした表のストーリーに隠されたもう1つのストーリーがあったと考えてみよう。実は越後では既に独自の挙兵計画が進行していた。それは、「越中宮の令旨」を奉じた挙兵計画。その計画では越後勢5,000が大挙して越中・二塚の太刀城を襲い、越中宮を奪還した上で一気に京まで駆け上がる手筈だった――寿永の昔、木曽義仲がそうしたように。ところが、その直前になって謎の山伏によって新田義貞挙兵の動きが伝えられた。越後の新田勢としては、選択を迫られる場面。このまま計画通り越中へ向うか、それとも計画を変更して関東の義貞軍に合流するか? 軍議を経て導き出された結論は――本隊は直ちに関東に向う。それほど事態は差し迫っているという判断。しかし、これとは別に少人数の別部隊を編成して越中に向かわせる。そして、越中宮をお救い申しあげた上で関東に向う――。そして、事実、本隊はその日のうちに関東に向い、8日には義貞軍に合流した。また後発隊も翌日には関東に向い、9日に義貞軍に合流。一方、クルト・シュタイナ――ではなく、ここはリーアム・デヴリンかな? 課せられたミッションが「拉致」ではなく「奪還」ならね――に率いられた特殊部隊(?)も9日には越中に入ったはず。そして、10日。二塚に〝鷲は舞い降りた〟。ところが――秘密裏に遂行されるはずだった救出作戦は守護側に察知され、戦闘に発展。結果、越中宮は城を焼き捨てて放生津城へと逃走を図る守護側によって殺害。特殊部隊はすんでのところで越中宮の救出に失敗したかたち。あるいは、5日に越後の新田勢が挙兵したとの一報が既に守護側に伝わっており、警戒が強化されていたことが計画に狂いを生じさせたか……。
――と、まあ、とんだ三文小説ではあるんだけど(リーアム・デヴリン云々は筆者がジャック・ヒギンズの愛読者であるがゆえのお遊び)、ただ恒性皇子はなぜ殺されたのか? という疑問①と恒性皇子はなぜ「悪皇子」と呼ばれているのか? という疑問②を『太平記』が描き出すユニバースと矛盾しないかたちで解決しようとするなら、こういうストーリーも考えられるのではないか? という提案。なお、結果的にウィキペディアの記事が記しているのとストーリーラインとしては大差がないように見えるのは、それは〝他人の空似〟というものなのでくれぐれもお間違えなきように(笑)。しかし、仮にこうしたストーリー(あるいは、これに類したストーリー。疑問①と疑問②を同時に解決するような)があったとするならば、なぜそれは歴史に残らなかったのか? あるいは、鎌倉幕府打倒から建武の中興に至る怒濤のドラマにあって「失敗に終わったミッション」はドラマツルギーに反するものと見なされたか? 結果、恒性皇子の存在そのものが『太平記』からオミットされることとなった。そして、「越中守護自害の事附怨靈の事」には「出羽越後の宮方、北陸道を經て京都へ攻め上がるべしと聞えしかば」という、いささか要領を得ない文言のみが残されることとなった……。(追記:なぜ恒性皇子は『太平記』というユニバースからオミットされることになったのか? ということに関して、新しい仮説(妄想)を思いつきました。興味ある方はこちらをお読みあれ)