富山のディープサウス、2005年4月の「平成の大合併」までは「細入村」という行政単位を構成していた地区にあって村役場が置かれた行政首都(あるいは「主邑」とでも呼ぶべきか?)の役割を担っていた集落の名を楡原という。かねてからワタシはこの楡原という地名の音の響きが好きで。にれはら。どこか夢幻的で、現実の地ではないような、桃源郷然としたイメージを抱かせるではないか。しかも、歴史を紐解けば、かつてこの地は「楡原保(にれはらのほ)」と呼ばれ、後村上天皇の綸旨にも登場するというからただごとではない。曰く「越中國楡原保地頭職爲勲功賞可令知行者天氣如悉之以狀」。日付は正平5年3月27日、宛名は「滝口中務少輔」となっており、言うならば滝口中務少輔なるものを同日付で「楡原保」の地頭職に任じる旨の〝辞令〟。後村上天皇というのは、かの後醍醐天皇の第7子で父の後を継いで南朝の第2代天皇(あるいは第97代天皇)に即いた人物。このことから「楡原保」は当時、南朝の支配下にあったことがうかがえる。そして、以後、南朝が潰えた後も永く南朝の隠れ里として世間からは隔絶した時間を過ごしたきた――というのはウソで、『角川日本地名大辞典』によれば、この綸旨から17年後の貞治6年2月5日付けで越中守護・桃井直信に対して「楡原保」を斎藤常義なるものに引き渡すよう命じる足利義詮名義の御教書案が残っているとかで、とするならばこの時点では北朝の支配下にあったことになる。そして、『角川日本地名大辞典』によれば、その後もさまざまな武将がこの「楡原保」を「押領」したり「拝領」したり。まあ、そもそも楡原というのは飛騨と越中を結ぶ水運の大動脈である神通川の辺にあり、江戸時代初めまでには神通川の東岸と西岸に沿って2本の「飛騨往来」も整備され、楡原はその西道に組み込まれていた。「南朝が潰えた後も永く南朝の隠れ里として世間からは隔絶した時間を過ごしたきた」――なんてのは、だから、土台、ありえない話なわけだ(笑)。

ともあれ、こうしてワタシはこの楡原の地にこれまでなにかと心を惹かれてきたと言っていい。しかも、その理由は、その甘美な(?)名前と、それに適う風光明媚な景観(旧細入村と旧大沢野町の境界をほぼ国道41号線に沿って流れるかたちとなっている神通川はその満々たる水量と相俟って雄大な峡谷美を作り出しており、「県定公園神通峡」として国道41号線を行くドライバーの脇見を誘う存在となっている)だけではない。もう1つ理由がある。今、この地には、その峡谷美にもかかわらず温泉旅館の1つもないのだけれど(同じ旧細入村でも笹津には1泊3万円もするような立派なリゾートホテルがあるし、岩稲にも1泊1万円程度の、まずまず庶民的な温泉旅館がある)、その代りというか、さる電子部品メーカーが工場と研究所を置いており、Google Mapの航空写真モードで見ても地区に占めるウエートは相当のものであることがうかがえる。これを見る限り、この地区は神通川沿いの他の集落とは相当異なる発展を遂げてきていると言っていいかもしれない。で、現在、置かれている工場と研究所が稼働を開始したのは昭和63年(それ以前に一度、工場を置いたものの、ほどなく休止に追い込まれ、工場建屋も撤去して場所も更地になっていたという。だから昭和63年というのはあくまでも現在、置かれている工場と研究所が稼働を開始した年)。しかし、この場所に最初に工場が進出したのはもっと前で、それは昭和10年代のこと。しかも、実際に工場が稼働するようになるまでにはいろいろあった。最初にこの地に目をつけた会社と、実際に工場を稼働させた会社が違うのだ。さらに言えば、最初にこの地で工場を稼働させた会社と、現在、工場を稼働させている会社も違うのだけど――最初にこの地に目をつけた会社は東洋アルミニウムという会社だったという(ちなみに、現在ある東洋アルミニウムとは全くの別会社。現在ある東洋アルミニウムが住友系であるのに対し、こちらは三井系)。ここは『細入村史』より引くなら――
戦時下の日本において軍需産業の隆盛をみたのは当然であるが、近代戦に不可欠な航空機産業はその代表的な部門であった。東京周辺では、府下の立川市や、群馬県太田市などが、代表的航空産業都市となっていった時代である。
航空機産業の基礎はアルミニウム産業である。このような時代の動きの中で、東京に本社をもつ東洋アルミ株式会社が、楡原において土地を買収し、新しいアルミの電解工場を建設することを決定した。
当時の楡原は、相変らずの農業集落であったが、小作農民の中に、その地位と待遇を嫌って、他所(満州・樺太・信濃)へ稼ぎに出るものが増加した。一方で、高山線の開通による勤労者化も進んだ。
このような中で、村内屈指の地主であった村長の中川長右衛門を中心として、工場誘致運動が強まっていったものと考えられる。中川が村長を長くつとめ、神岡の三井鉱山と縁ができていたことも、三井系の東洋アルミ進出の大きな力になったのであろう。
ただ、この東洋アルミニウムの進出計画はほどなく頓挫した。理由は電力の国家統制により期待していた安価な電力供給が望めなくなったためとか。東洋アルミニウムが予定していたのはアルミニウムの電解(製錬)で、それには大量の電力を必要とする。そもそも同社が楡原なんて山の中に工場を作ろうと考えたのも、楡原からもほど近い岐阜県神岡で同じ三井系の神岡水電が電源開発を行なっており、そこから安価な電力を得られるという見込みがあったから。そのアテが外れた以上、かくなる仕儀もやむを得なかったと言うべきか? もっとも、そもそもこの計画には無理があったという指摘があるそうだ。三井のアルミ事業について記した『三井のアルミ製錬と電力事業』(宮岡成次著/カロス出版)という本によれば、三井財閥の総帥・団琢磨の女婿で三井鉱山会長も務めた牧田環が「総て計画が立後れだ。ああ云う馬鹿な事は歴史に書いて置いても宜いよ」――と、計画を痛烈に批判していたという。その理由は「神岡の電気でやれるような小規模なアルミをやる時代ではないが、さりとて大規模なものに三井が資本を投入することもできない。安い電気なら朝鮮で鴨緑江水電は0.5銭か0.6銭でできるよ」――ということだそうです。あるいは、そういうこともあってか、東洋アルミニウムは昭和16年には既に着手していた工場建設を中止。そして同年12月に日曹系の西鮮アルミと合併して東洋軽金属となったのを機に事業そのものを清算してしまった。しかし、既に用地は取得済みであり、工場の建設も進んでいた(『細入村史』によれば、数棟の工場、倉庫、宿舎、鉄道引込線、流雪溝、水路などの建設が終わっていたという)。それは一体どーするわけ? これがですねえ、なんともお誂え向きというか。ちょうど工場の新設を急いでいる会社があった。その会社を高田アルミニューム製作所というのだけれど――多分、ご存知の方はいらっしゃらないでしょうねえ。石川県能美郡中海村字嵐(現・石川県小松市嵐町)出身の高田市松という人物が明治38年に大阪市内で始めたアルミニウム鋳物の製造・販売業が母体で、この時点では全くの個人事業。その後、大正4年に「高田商店」となり、この頃には少数の職人も雇用。さらに同10年には「高田アルミニューム器具製作所」と改称し、株式会社となったのは昭和10年というから、企業としては晩成と言っていいか。しかし、それからの成長は早かった。昭和12年に海軍の指定工場となるや、主力工場である堺工場を矢継ぎ早に拡張。さらに満州アルミニウム工業設立に参加するなど、海外にも展開。いわば、膨張する帝国ニッポンの尻馬に乗って急成長を遂げた。ただ、当の高田市松はそんな成長軌道に乗った会社の行く末を見届けることなく昭和16年7月に急逝。惜しいなあ。もう少し長生きして帝国ニッポンの盛衰と運命を共にすることになっていれば十分、小説になるところなんだけど。なにしろ、もともとはアルミニウム屑を溶かして箸や匙を作っていた町工場が遂には海軍から注文を受ける国策企業に成り上がったのだから……。ともあれ、高田市松が作った町工場は帝国ニッポンの膨張に合わせて規模を拡大して行き、昭和16年時点では堂々の国策企業に成り上がっていた。そんな中、昭和16年4月になって海軍航空本部からある示達が舞い込んだ。以下、高田アルミニュームの後身である昭和アルミニウムが昭和61年に刊行した『昭和アルミニウム五十年史』から引くなら――
そのような矢先、16年4月に当社は海軍航空本部より、フロート(水上飛行機の浮タンク)の製造を目的とする生産拡充示達を受けた。フロートは加工性が高いので従来の機材生産より高い付加価値が期待されたが、ただ新規に工場を建設するとなれば資材難、労働力不足等のため、軍が期待するほど早期操業はむずかしいと思われた。
このような時、富山県楡原にアルミニウム電解工場を計画し、建設途上で電力の問題で朝鮮に計画を変更した東洋アルミニウム(後の三井軽金属)との間に、同工場買収の交渉が成立した。当社はこれをフロート工場に充てることとし、比較的短期に、しかも安く完成した。買収は現物出資の形をとり、株式交付(2万株)としたので、それからしばらくの間、三井系資本が当社の大株主となった。
それにしても、都合よくことが運んだもんだねえ。東洋アルミニウムは牧田環が言うところの「ああ云う馬鹿な事」を清算できた上に高田アルミニュームは海軍航空本部の求める新工場を比較的――というか、超短期に、しかも新たな資金調達することなく手に入れることができた。偶然、そうなった――というよりも、誰かが絵を描いてそう仕向けた――と考えた方が合理的。絵を描いたの絶対、海軍航空本部……。
ともあれ、高田アルミニューム楡原工場は海軍航空本部から示達を受けてから1年も経たない昭和17年2月22日に竣工。操業式が行われた第1組立工場は1,890坪もあり、「木造建築としては当時日本一」だったという。また創業時点での従業員数については記載はないものの、最盛期には4,000人を数えたとか。しかも、その多くは女性だった。時はあたかも第2次世界大戦の真っ只中。本来、労働力となるべき成年男性は次々と兵力として徴集されていく。それによって生じる労働力不足は↑の引用文にも言及があるくらい。それを埋め合わせる方策として時の東條内閣が打ち出したのが中学生以上の〝学徒〟に勤労奉仕を強いる「学徒動員」と14歳以上の未婚女性を対象とする「女子勤労動員」。前者は「学徒隊」、後者は「女子(勤労)挺身隊」として主に軍需工場に投入されることになった。海軍の指定工場だった高田アルミニュームにも当然、この〝女子力〟が投入されることになった。『細入村史』所収の「役場日誌」によれば、高田アルミニューム楡原工場に「女子(勤労)挺身隊」が入所したのは昭和18年12月1日のことだったという。なお、高田アルミニュームはこれら「学徒隊」や「女子(勤労)挺身隊」のために、工員のための社宅とは別に寮を建設していた。その場所は現在の富山市立神通碧小学校の西隣だったことが『細入村史』所収の昭和25年当時の地図で確認できる。ちなみにこの寮をめぐってはいささかのストーリーがある。この寮は戦後、外地からの引き揚げ者のための宿泊施設(恩賜財団同胞援護会楡原寮)として利用されることになるのだけれど、昭和22年、全国巡幸の一環で富山入りされた昭和天皇は一連の日程の最後になんとこの楡原寮を訪問されているのだ。「十一月一日。天空一碧、燦々たる秋陽は、神通川の碧水に映照して、山腹峡谷の霜葉は絢爛たる錦繍を織り成して居る」――とは、この日の模様を記した『富山県行幸記録』の一節。それにしても、かつて南朝の支配下にあった土地に幾星霜を経て遂に北朝の流れを汲む天皇が足を踏み入れた――とは、この出来事に対する感慨の抱き方としては少しばかり間違っている?
――と、その甘美な名前とは裏腹な日本現代史のリアルな側面について長々と記してきたわけだけれど、なんでこんなことがワタシが楡原に心を惹かれる理由となりうるのか? ま、ワタシがいわゆる〝軍ヲタ〟と呼ばれる人種だったら何の不思議もないんだろうけどね。『昭和アルミニウム五十年史』によれば、高田アルミニューム楡原工場で製造したフロートは愛知時計電機や川西飛行機に納入されていたという。愛知時計電機とは愛知航空機のことだと思われるので、とするなら「零式水上偵察機」のものだったのかもしれない。また川西飛行機なら「九四式水上偵察機」とか? また『昭和アルミニウム五十年史』にはこんな記載も――「戦局の見通しが全く絶望的となった20年5月、三菱重工・名古屋製作所に工場の一隅を貸与することとなった。同所から80名の技術者が来て機械類も設置され、戦闘機『紫電』の製作準備が始まった」。あれ? 「紫電」は川西飛行機の開発では? しかし、いろいろ調べたところ、実は「紫電」の製造にはオールジャパンで当っていたようで、三菱重工もその一翼を担っていた――ということらしい(ウィキペディア「紫電改の開発」参照)。こうなると、いわゆる〝鉄ちゃん〟ばかりではなく(楡原の鉄ちゃん人気は高い。↑の写真を撮った日も2人ばかりの〝撮り鉄〟と遭遇した)、世の軍ヲタの目が楡原に注がれるということも大いにありうるのではないかと思うのだけど――生憎とワタシは「紫電」と聞いても何の感興も呼び起こされないボクネンジン。「紫電」と聞いて真っ先に何を思い浮かべるかというと、島田荘司の「紫電改研究保存会」で、ありゃあコナン・ドイルの「赤毛連盟」のパクリだよなあ……とかね、せいぜいそんな程度。そんなワタシがなぜ楡原という土地に心惹かれ続けてきたか言えば、それは至ってパーソナルな事情から。実は昭和18年に高田アルミニューム楡原工場に入所した「女子挺身隊」(その時点では「学徒隊」)の1人がワタシの母だったのだ。再び『細入村史』から引くなら――
昭和十八年六月の「学徒戦時動員体制確立要綱」以後、全国において多くの学校生徒が軍需工場へかり出された。高田アルミの工場は、細入村において唯一その対象になった工場である。
前述の「要綱」では、国民学校高等科以上の生徒が、軍需工場の常時要員とされた。楡原の高田アルミは、県立富山商業学校、同八尾高等女学校、私立大谷女学校の生徒たちが動員され、これに加えて、楡原・猪谷両国民学校高等科の増産報告隊の学童たちも働いていた。前記三校だけでも、最盛期には三〇〇名前後の生徒が動員され、作業を続けてたといわれている。生徒の中には、終戦後も復学せず、そのまま務めるものもいたもようである。学校が空襲で焼けたりした影響もあったろう。
この引用部分に見られる「私立大谷女学校」というのが、母が通っていた学校なのだ。その名前からもわかるように浄土真宗系の学校で、富山県教育委員会刊行の『富山県教育史』によれば、創立者は富山市五福の長光寺の住職、長守覚音。女学校はその長光寺の本堂内に報徳女学校という名称で大正14年に開校。その後、大谷女学校と改称され、昭和9年には高等女学校令による修業年限4か年の大谷実科高等女学校、昭和14年には大谷高等女学校へと組織変更された――という経緯だったらしい。ちなみに、この大谷(実科)高等女学校が富山県内では初の私立の高等女学校となる――と、こんなことを『富山県教育史』なんて本を引っぱり出してきてまで記すのも、この学校が既に存在しないから。母に聞いてもおよそ要領を得ないことを言うばかりで、一向に学校の姿かたちが見えてこないという……。
母はこの大谷高等女学校を昭和20年3月に卒業していることが卒業証書からわかるのだけれど、とするなら入学したのは昭和16年ということになる。そして、昭和18年12月、同校3年生の時に高田アルミニューム楡原工場に勤労学徒として動員され、同校を卒業した20年3月からは今度は「女子挺身隊」として引き続き同工場で働き、8月15日の終戦を迎えた――という経緯だったと思われる。
しかし、こういう経緯だったとわかった今(今回、さまざまな事実関係を整理した結果、はじめてわかった)、記憶の底から甦ってくるある映画がある。松本俊夫監督の『十六歳の戦争』。またサブタイトルが付いていて――「豊川女子挺身隊員の霊に捧ぐ」。昭和20年8月7日の「豊川空襲」でターゲットとなった豊川海軍工廠には「女子挺身隊」を含む徴用工が40,000人、動員学徒が6,000人働いていたとされ、総数で2,517人に上った犠牲者の相当数を彼女たちが占めた(なんでも動員学徒だけで452名とか)。これはその御魂を慰める鎮魂の映画(あるいは、松本俊夫の言葉を借りるならば「〝鎮魂とは何か〟を考える映画」)ということになる。主演を務めたのはまだ『赤ちょうちん』でブレイクする前の秋吉久美子で、『赤ちょうちん』が公開される1年前の1973年に制作された。ただし、公開はわけあって1976年にずれ込んだ。ウィキ先生によれば「映画『十六歳の戦争』は、豊川空襲の犠牲者の慰霊のため、豊川市が出資して1973年に撮影され、1974年に公開の予定であった映画であったが、難解という理由で、公開が1976年にずれた」。まあ、松本俊夫監督なのでねえ。もっとも、当時の『キネマ旬報』を紐解くと白井佳夫が「映像詩として描かれた鎮魂歌」と題して――「『薔薇の葬列』『修羅』の松本俊夫監督が作った、新作である。下田逸郎のフォーク・ソング『陽のあたる翼』をバックに、たいへんシンプルに、美しく描かれた映像詩的なボーイ・ミーツ・ガールのラブ・ストーリー映画になっているのが、面白い」。ウィキ先生が「難解」と言う映画をこっちは「たいへんシンプル」と。はたしてウィキ先生は映画を見たのかどうか……と、こんなことを書いておいてなんなんだけど、かく言うワタシは見ておりません。というか、見たい見たいと願いつつ、遂に見ることは叶わず仕舞い(結局、『十六歳の戦争』は、既成の配給ルートで公開されることはなく、自主配給というかたちで限定的に公開されただけ)。しかし、それにもかかわらずこの映画の記憶は鮮烈にワタシの脳裏に焼き付いている。というのも、最初に『キネマ旬報』で紹介された時のグラビアが衝撃的でねえ。全裸で川遊びする秋吉久美子の下半身だけは辛うじて水面下に没しているもののアンダーヘアの茂みがボンヤリと透けて見えるという――。なにしろ、当時、ワタシは高校生なんでねえ……。ちなみになぜ豊川空襲の犠牲者の鎮魂のための映画なのに主演女優のヌードシーンがあるかというと、それはこの映画の複雑な時制による。再び白井佳夫の映画評より引くなら――「戦後二九年の時の流れに風化され、その風化された混迷の時代の子として育った、戦争を知らない子供たちである青年。その青年が魅かれた、一六歳の少女の意識と肉体。そしてその青年と少女の間に、ゆれ動く情動。/その情動のゆらめきの中から、現代の一六歳の少女と、二九年前の豊川海軍工廠で死んだ一六歳の少女とが、結びつき、現在と過去が結ばれ、過去は現在の中に流れこんでくる」。うーん、なかなか説明に苦労している様子も読み取れるなあ。ま、このあたりがウィキ先生が「難解」と言うユエンではあるんだろうね。しかし、要するにだ、秋吉久美子は「現代の一六歳の少女」(埴科あずな)と「二九年前の豊川海軍工廠で死んだ一六歳の少女」(有永みずえ)の一人二役を演じている。で、奔放なヌードシーンを披露するのは「現代の一六歳の少女」の方。ま、1973年ならね、「緑の野を走り、湖のほとりで悲しみに沈み、みごとな肢体をみせて水と戯れる」というのも全然ありかなと。――と、そんな刺激的なスティル写真で、当時、まだ高校生だった映画少年のココロを掻き乱した『十六歳の戦争』だったわけですが、ああ、なんとなんと、当時のワタシが想像だにしなかった事実があるではないか! それは、この映画で秋吉久美子が演じた有永みずえと母が同い年だったということ。昭和20年、ともに軍需工場で「女子挺身隊」として働いていた16歳の少女……。(追記:遂に『十六歳の戦争』を見ました。2024年2月5日に母を看取り、その喪失感の中で卒然とこの映画のことが甦り、遂に……。しかし、映画『十六歳の戦争』はワタシが考えていたようなものとは全然違っていて……といういささかほろ苦くもあり甘酸っぱくもあるセンチメンタル・レビューはこちらです)
今年、母は90歳になりました。時折、ワタシが目の前にいるのにワタシを呼びに行ったりとおかしな行動をすることもありますが、まあまあ元気です。今回、この記事を書くにあたって当時のことを聞いてみたのですが、初めて聞く話も。当時、工場にKという二十代の工員がいたそうです。しかし、昭和19年、20年といった時点で健康な成年男性が兵隊にも取られず、工場で働いているということがありうるものかどうか。そう考えるなら、ただの工員ではなく、高田アルミニュームの技師か何かだったか? 高田アルミニュームというのは当時の先端を行く工場だったとかで、県内の工場から技術取得のための工員が派遣されていたという(『細入村史』)。そうした工場の製造ラインを恙なく稼働させるためには専門の技術者はどうしても必要だったでしょう。そのために徴兵を免れていたと考えることもできる。しかし、そんなK青年も遂に召集される日がやってきた(らしい)。そして、工場を離れることになった。その際、K青年は母にあるものをプレゼントした。それは、なんと、電球。「これをぼくだと思って大切に使ってくれ」――と、そうK青年は母に言ったという。この行為の意味について母は「なんでかねえ」と首を傾げるばかりなのだけれど――そんなの、決まってるじゃないか。K青年はあなたのことが好きだったんですよ。それ以外の理由はあり得ない。それがなんで電球だったのかは、母同様、ワタシも首を傾げるばかりなのだけれど、もしかしたら寮の電球が切れて困っている――みたいなことを母がK青年に言ったことがあったのかもしれない。もうまともな卒業証書も授与できないくらいなのだから、電球が切れたからといってすぐに交換することなんてできなかったに違いない。しかし、仮にK青年が高田アルミニュームの技師だったとするなら、電球くらいならなんとかできたでしょう。あるいは、もう必要がないからということで、自分の部屋の電球を母に渡したか? うん、ストーリーとしては、こちらの方が美しいな。ささやかな荷造りを終えて(大した荷物なんてないですよ、どうせね)、最後に天井から垂れ下がっている「防空カバー」(灯火管制のために明かりが外に漏れないようにするためのカバー)を被せられた電灯から電球を外す……。しかし、「これをぼくだと思って大切に使ってくれ」――か。母はその電球をどうしたのかは全く覚えていないそうなのだけれど、きっと寮の母の部屋を照すことになったはず。つまり、母は、K青年からもらった電球の明かりに包まれて、不安な昭和20年という年をすごしたのだ――きっと。なお、これは、まあ、お約束っちゃあお約束なんだけど、母はこっそりと工場を抜け出して楡原駅までK青年を見送りに行ったそうだ。そして、それきり2度と会うことはなかった――。
あの頃は、おもしろかったなあ――と、母は言った。「学徒隊」、そして「女子挺身隊」として過ごしたあの時代を「おもしろかった」と。そりゃそうだよね、どういう時代だったにせよ、それはかけがえのない母の青春時代なのだから。
楡原は、ワタシにとって、どこか夢幻的で、現実の地ではないような、桃源郷然としたイメージを抱かせる土地である。そこには、16歳だった母が生きた時間がまだ静かにたゆたっている……。

付記 もしくは少し長めのキャプション かつて高田アルミニューム楡原工場があった場所には今やソーラーパネルが敷き詰められており、この日は晩秋の山容と美しいコントラストを見せていた。向こうには富山市立神通碧小学校も見える。かつてあのあたりに勤労学徒のための寮があった。『昭和アルミニウム五十年史』はこう記す――「富山工場は、徴用工のほか富山県の中学生・女学校の生徒が学徒動員で多数動員されてきたため、その人員は最高4000人に達した。/寮・寄宿舎に分宿した彼らの指導監督には、退職校長や女子教員などを採用して万全を期したので、規律が守られ、事故は皆無であった」。母の話だと、工場までは毎朝、隊列を組んで歌を唄いながら通ったとか。「女子挺身隊制度強化方策要綱」が閣議決定された昭和19年には「女子挺身隊の歌」も作られているので、唄っていたのはそれだろうね。「靡く黒髪きりりと結び/今朝も朗らに朝露踏んで/行けば迎える友の歌/ああ愛国の陽は燃える/我等乙女の挺身隊」(詞・西条八十/曲・古関裕而)。きっとその歌声は木霊となって轟いただろう、この美しい山並に包まれた楡原の里に……。(2019年11月13日撮影)