えーとね、メーカー指定価格6,800円のDVDの購入を「「無用の人」としては、分不相応と言ってもいいようなゼイタク」と自己批判(?)していたワタシが、今回は1枚16,000円もするDVDについて取り上げることになるわけですが……これは決してワタシが「どーかなってしまった」からではありません。そもそもね、16,000円というのはある種のバーゲンなんですよ、今日時点でヤフオクあたりに出ているヤツと比較すればね。それに、この映画に対するワタシの思いをソンタクするならば、この16,000円という値段はむしろ安いくらいですよ。それほど、ワタシにはこの映画に対する強い思いがある。何を隠そう、ワタシはこの映画の中に母の面影を探そうとしているのだ……と、こんなキモイことをサラッと書いてしまうあたり、確かに「どーかなってしまった」感はあるかなあ。しかし、それがどーした。母を失ったマザコン男がどーかならない方がどーかしている。むしろワタシは順調にどーかなっている……ウン?
ということで、その16,000円をはたいて入手したDVDが→です。1973年に製作され、1976年に公開された松本俊夫監督の『十六歳の戦争』。DVD化は2004年で、当然のことながら、とっくに廃盤になっている。そのため、プレミア化して取り引き価格がメーカー指定価格(なお、メーカー指定価格はパッケージには記載がありません。しかし、ワタシが入手した通販サイトでは5,280円を定価として表示しておりました)を上回る、という事態にはなるわけだけれど、それにしてもなあ……。まあ、秋吉久美子の初主演作にして、撮影当時、まだ19歳だった彼女の瑞々しいヌードが拝める、というのがその人気の理由ではあるのだろうけれど、とはいえ秋吉久美子のヌードは『赤ちょうちん』でも拝めるわけだから。よりによって松本俊夫の監督作品がそこまでプレミア化するというのはいささか理解に苦しむところではある。でも、まあ、こんなことをいつまでも言っていてもね。で、こっからは、何を隠そう、ワタシはこの映画の中に母の面影を探そうとしているのだ……という、そのキモイ部分に話を移そうと思うんだけれど、これについては本当ならばこちらの記事を読んでもらうのがいちばんいいんだ。今からかれこれ4年半前に書いたもので、今となってはワタシがこのPW_PLUSのために書いた記事の中では最も思い入れのあるものとなってしまった。今日、この記事を書くに当たって当時の写真を見直していたら、こんな写真もあって。もうね、泪が止まらんですよ……。でね、2019年に書いた記事にも書いたように、昭和20年当時、母は当時の富山県婦負郡細入村字楡原(現・富山市楡原)にあった高田アルミニューム製作所という軍需工場で「女子挺身隊」として働いていた。当時、母は16歳。高田アルミニューム製作所で働きはじめたのはまだ大谷高等女学校の生徒だった昭和18年12月のことで、当時は「学徒隊」という身分。その後、昭和20年3月に同校を卒業すると、以後は女子挺身隊として引き続き同工場で水上飛行機のフロートに鋲(リベット)を打つ作業に従事、終戦となる8月15日まで同工場で働きつづけた。で、こうした話はワタシもかねてからそれとはなしに聞いてはいて、大変な時代もあったもんだなあ、くらいの受け止めだったんだけれど、実は父が亡くなった後に父の軍隊経験を郷土資料などを元に結構、苦労して調べたことがあって(一応、こちらがその成果物となります)、こんなことならば父が生きているうちに聞いておけばよかったなあ……と、これは、まあ、典型的な「後悔先に立たず」というやつでね。で、そんなことがあったものだから、母の戦争体験についても、一度、ちゃんと聞いておこうと。そればかりか、現地にも行って、そこがどういう場所か、この目で見ておこうと。その場所へ行けば、母も何か思い出すかも知れないし。ということで、楡原まで車を走らせたのが2019年11月13日ということになる。ま、ちょうど絶好の紅葉狩りのシーズンでもあったし。母との思い出作りという意味でも、最高のドライブにはなりました。でね、こうした一部始終を1本の記事にまとめる中で、卒然と記憶の底から甦ってきた映画があったんだ。それが『十六歳の戦争』。昭和20年8月7日の「豊川空襲」で亡くなった総数で2,517人に上った犠牲者の御魂を慰める鎮魂の映画(あるいは、松本俊夫の言葉を借りるならば「〝鎮魂とは何か〟を考える映画」)。この映画についてワタシが知ったのは『キネマ旬報』1974年8月上旬号のグラビアですが……このグラビアが衝撃的でねえ。「全裸で川遊びする秋吉久美子の下半身だけは辛うじて水面下に没しているもののアンダーヘアの茂みがボンヤリと透けて見えるという――。なにしろ、当時、ワタシは高校生なんでねえ……」と、これは2019年に書いた記事の一節の引き写し。とにかく、そういうような次第で、この映画は、当時、高校1年生(ということは、当時、ワタシは16歳! なんと、今、気がついた……)のワタシの脳裡にシッカリと焼き付けられることとなったわけだけれど、この映画で秋吉久美子が演じたのが映画製作時点における「今」である1973年の豊川に生きる16歳の少女・埴科あずなと1945年の豊川に生きる有永みずえの一人二役。そして、その有永みずえこそは「豊川空襲」で亡くなった2,517人に上った犠牲者の1人なのだ。当時、豊川海軍工廠には女子挺身隊を含む徴用工が40,000人、動員学徒が6,000人働いていたとされ、有永みずえはその女子挺身隊の一員だった――と、こう説明してくれば、もうおわかりのはず。そう、この有永みずえとワタシの母の境遇が実によく似ているのだ。どちらも、昭和20年当時、軍需工場で女子挺身隊として働いていた16歳の少女……。この事実に気がついたときのワタシのココロの慄きたるや、ちょっと言葉では言い表せない。なんというか、え、あのヌードの少女が母……(違う)。とにかく、カラダの奥の方がきゅーんとなるような……。
ただ、さは言いながらだ、ワタシはグラビアを見ただけだったんだよね。映画は見たことがなかった。それには理由があって、これは2019年に書いた記事にも書いたんだけれど、『十六歳の戦争』は、既成の配給ルートで公開されることはなく、自主配給というかたちで限定的に公開されただけ。だから、見ようにも見るスベがなかった。ところが「映画でココロの空洞を埋める実験」なんてケッタイな通しタイトルのシリーズを始めるに当たって、さて、何を見ようか、となったとき、真っ先に『十六歳の戦争』のことがアタマに浮かんで、調べて見たら、なんとDVDになっているではないか。ただし、とっくの昔に廃盤になっていて、今やその取り引き価格はどうかすると50,000円というような常識外れの水準に。これはどうしたもんかなあ……と、悩んだことは間違いない。しかし、ことここに至っては『十六歳の戦争』を見ることはワタシにとってのマスト。見ずに人生を終えるという選択肢はない――、それくらいの気持ちですよ。で、メーカー指定価格6,800円のDVDの購入を「「無用の人」としては、分不相応と言ってもいいようなゼイタク」と自己批判(?)したワタシではありますが、こちらに関しては比較的スンナリとハラを決めたと言っていい。つーか、この「映画でココロの空洞を埋める実験」を始めた時点で既にハラは決まっていた。むしろ、『十六歳の戦争』に加えてメーカー指定価格6,800円のDVD(と繰り返し書いておりますが、実際にはワタシが購入した通販サイトでは『ネオンくらげ/ネオンくらげ 新宿花電車 <HDリマスター版>』は5,984円が定価。加えて利用可能なポイントが1,214円分あったので、実際にワタシが支払ったのは4,770円。これならば、映画2本分の値段としてはぎりぎりセーフ?)を購入するのは「無用の人」としてはいかがなものか――というのが悩みどころだったわけでね。実際に購入したのも『十六歳の戦争』が先で『ネオンくらげ/ネオンくらげ 新宿花電車』が後。記事にするのは公開順ということで前後してしまったわけですが、そういう経緯だったのだと、まずは理解していただいて――
さて、その『十六歳の戦争』だ。これがねえ、いささかとまどいを禁じ得ないというか……。実はね、この映画、ワタシが考えていたようなものとは全然違うんですよ。事前にワタシがこの映画について持っていた情報というのは当時のキネ旬に掲載された紹介記事や作品評がすべてで、では当時のキネ旬がこの映画についてどう書いていたかというと、たとえば1974年9月下旬号の「キネ旬試写室」で白井佳夫は「映像詩として描かれた鎮魂歌」と題して――
吉田喜重監督の数々の作品のシナリオを書いてきた山田正弘と、松本俊夫は、しかしこの戦争の悲劇を、自然主義的なリアリズムで、ファナティックには、描こうとはしなかった。戦後二九年の時の流れに風化され、その風化された混迷の時代の子として育った、戦争を知らない子供たちである青年。その青年が魅かれた、一六歳の少女の意識と肉体。そしてその青年と少女の間に、ゆれ動く情動。
その情動のゆらめきの中から、現代の一六歳の少女と、二九年前の豊川海軍工廠で死んだ一六歳の少女とが、結びつき、現在と過去が結ばれ、過去は現在の中に流れこんでくる。そして、目的を持たずに生きる現代の青年は、夢ともうつつともつかず、ラスト・シーンで緑の野の中に消え去ってしまった少女の残像とともに、自分が生きているということが、歴史の流れの連鎖というものと、けっして、無縁ではないことを、知ることになる。
この中で、当時のワタシが――そして、50年越し(!)で遂に映画と相見えることになった現在のワタシが――最も重要視したのは「現代の一六歳の少女と、二九年前の豊川海軍工廠で死んだ一六歳の少女とが、結びつき、現在と過去が結ばれ、過去は現在の中に流れこんでくる」という下りですよ。要するにですね、この映画では(映画製作時点から遡るなら)29年前の豊川と(映画製作時点である)1973年の豊川が頻繁に入れ替わるかたちで描かれているのだろうと。で、「現代の一六歳の少女」であるところの埴科あずなと「二九年前の豊川海軍工廠で死んだ一六歳の少女」であるところの有永みずえをこの映画が主役デビュー作となる秋吉久美子が一人二役で演じる、というのがこの映画の最大のセールスポイントで、それによって白井佳夫が言うところの「歴史の流れの連鎖というもの」を見るものに印象づけようと、そういう山田正弘なり松本俊夫なりの計算があるのだろうと、まあ、そんな感じですよ。で、母の面影を探してこの映画を見ようとするからには、ワタシが最も見たかったのは「二九年前の豊川海軍工廠で死んだ一六歳の少女」であるところの有永みずえなんですよ。そう、昭和20年、同じように軍需工場で女子挺身隊として働いていた同じ16歳の少女――。ところがだ、その有永みずえはほとんど出てこないんだよ。映画は専らこの映画製作時点の「今」である1973年の豊川を舞台としており、秋吉久美子が演じるのも専ら埴科あずな。有永みずえはいえば、最後にちょっとだけ回想シーンのようなかたちで出てくるだけで、台詞もない。ワタシが、あわよくばその姿形に母を重ね合わせようと思っていた有永みずえは、もうね、熾烈をきわめた米軍の猛爆の中を身重のお腹を抱えながら逃げまどうという、この場面だけの登場で――

幸いにも母は富山空襲は免れたので(当時、母は楡原にあった高田アルミニューム製作所で働いていたので、富山市が灰燼に帰した(なんと市街地の99・5%を焼き尽くした!)富山空襲は遠くから見ていただけ。ただし、空襲後、富山市内から来ていた勤労学徒や挺身隊員たちは一時帰宅を許された。その際、母は高山線の速星駅までは汽車で行って、そこから自宅のある長江まで歩いたそうです。土地勘のある方ならわかると思いますが、速星から長江というのは相当な距離ですよ。しかも、途中、神通川にかかった富山大橋――通称、連隊橋を渡ることになる。で、神通川こそは最も多数の犠牲者が出たところで。これについては証言もある。富山市HPの「富山大空襲体験文」から引くなら――「何か食べられるものを、と神通川へ向かった先には信じられない光景が広がっていました。川面はおびただしい数の焼死体で覆われています。まるで川へ逃げた人たちが恰好の標的とされ、集中攻撃を受けたかのようです。遺体をうずたかく積んだトラックが荷台からぼろぼろと遺体を落として過ぎ去ります。まるで地獄絵を見ているようでした」。その中を母は歩いて自宅のある長江をめざしたのだ、自宅にいる祖父母や父母の身を案じながら……)、↑のシーンの有永みずえには母を重ね合わせようがないんですよ。これはねえ、どーなんだ? 白井佳夫の書き方が悪いのか、それともオレの読解力の問題か? でもさあ、タイトルが『十六歳の戦争』で、しかもサブタイトルに「豊川女子挺身隊員の霊に捧ぐ」とある以上(ただし、この文言はDVDのパッケージには記されているものの、映画のタイトルとしては表示されない。またクレジットにはこの映画の制作に豊川市が関わっていたことを示唆するような文言もない。さらに言えば、1973年12月に当時、NHK総合テレビで放送されていた音楽番組『ステージ101』のレギュラー出演グループのヤング101に在籍していた青木マスミがA面「16才の悲しみ」(山田正弘作詞/湯浅譲二作曲)、B面「ひとりぼっちの裸の子供」(谷川俊太郎作詞/湯浅譲二作曲)からなるシングルレコード(日本コロンビア P-325)をリリースしており、ジャケットには「『16才の戦争』主題歌」と記されていた。加えて制作協力として「豊川市長 山本芳雄/豊橋市長 河合陸郎」なる記載まで。しかし、1976年に公開された映画ではこれらの楽曲は使われておらず、全編、下田逸郎のサードアルバム『陽のあたる翼』(ポリドール MR-5045)に収録された楽曲が劇伴として使われている。もうね、一体、何があったんでしょうか。不謹慎ながら、妄想が止まらない(笑)。1つハッキリしているのは、豊川市が下りた、ということだろうと思いますが……松本俊夫 vs. 山本芳雄。誰かこの異種格闘技についてレポートしてくれないか?)、豊川女子挺身隊員のことを描いた映画――と受け止めるのがフツーでしょう。だから、決してオレの読解力に問題があったとは思わないんだけどなあ……。
ともあれ、『十六歳の戦争』というのはそういう映画だったわけだけれど、大事なのはこっからでね。じゃあ『十六歳の戦争』という映画において豊川女子挺身隊員のプレゼンスが希薄かというと、決してそうではないんだ。むしろ、全編にその〝気〟は立ち込めているというか。「豊川女子挺身隊員の霊に捧ぐ」というおそらくは豊川市や制作サイドが当初、掲げたのであろうコンセプトに反した映画になっているということは決してない。ただ、白井佳夫も書くように「この戦争の悲劇を、自然主義的なリアリズムで、ファナティックには、描こうとはしなかった」だけで。それが豊川市に通じなかったのだとしたら、それはザンネンだなあ。映画『十六歳の戦争』は十分に「豊川女子挺身隊員の霊に捧ぐ」に値するものです。
――と、とりあえずそう書いた上で、あえてダメ出しもしておこう。結局、これは1945年当時がほとんど描かれていないということに関ってくるのだけれど……映画の終盤に豊川空襲で亡くなった無量の霊が(とワタシは理解しました)埴科あずなに語りかけるというシーンがある。霊が語りかけるのは粗々こんなようなこと――「いいえ、何もなかった。愛されたり愛することも知らないまま、みんな死んで行ってしまった。爆弾で殺されたの。まだ16や7だっていうのに。あなたのお母さんも17がどんな年なのかも知らずに、18がどんな年なのかも知らずに、20がどんな年なのかも知らないままで、みんな死んで行ってしまったんだわ」。これはあずなが瑳峨三智子演じる母・保子に「ママは16のとき、死ぬ思いで生きられたけど、でも、わたしたちには何があるの?」と問いかけたことに対するアンサーとして語られるものなのだけれど(要するに、あずなはあずなで彼女なりの『十六歳の戦争』を戦っているということです。実は『十六歳の戦争』というのはダブルミーニングなんだよね。この辺は、率直に、よくできているなあ、と)――ただね、有永みずえはその時、妊娠していたわけですよ(↑で紹介したキャプチャー画像でも腹を抱えているのがわかりますよね?)。そして、防空壕の中で赤児を産み落とすんですよ(あるいは、ケーシー高峰演じる伯父の芳男が錯乱状態の中で発した言葉を引くなら――「附属病院第16病棟に担ぎ込まれた血まみれの女子挺身隊員から赤ん坊が産まれたんだ」)。であるならば、彼女にだって「愛されたり愛する」という青春に特有のドラマはあったわけでしょ? それを「何もなかった」と決めつけるのは現代人の驕りでは? 戦争中にだって、青春はあったはずなんだ。そして「豊川女子挺身隊員の霊に捧ぐ」というのなら、それをこそ描くべきではなかったのか? ワタシの見立てでは、それをやったのが黒木和雄監督の『TOMORROW 明日』。そして、それゆえに『TOMORROW 明日』は不朽の「戦争レクイエム」として今も高い評価を受けている(参考のために紹介しておくなら、キネマ旬報社が運営するKINENOTEの「みんなのレビュー」では『TOMORROW 明日』は78.0点。これに対し『十六歳の戦争』は65.2点。これがKINENOTEに集う映画の見巧者たちが下したジャッジです)。
戦争中は、何もなかったのか、それともあったのか? そこをどう捉えるかは、大きな分かれ目だと思う。ちなみに、ワタシは2019年に書いた記事でこう書いた――「あの頃は、おもしろかったなあ――と、母は言った。「学徒隊」、そして「女子挺身隊」として過ごしたあの時代を「おもしろかった」と。そりゃそうだよね、どういう時代だったにせよ、それはかけがえのない母の青春時代なのだから」。それが今も変らぬワタシの「思い」である……。