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この門のヒマラヤ杉来て見れば
〜愛と妄想の樹木誌②〜

 かつてわが家の裏庭に1本のヒマラヤスギが生えていた。今の家に建て替える際に伐採してしまって、今となっては思い出すこともほとんどなくなってしまったくらいなのだけれど、でも間違いなくかつてわが家の裏庭には1本のヒマラヤスギが生えていた。思い出す限りでは、他に植えられていたのは柿の木だったりイチジクの木だったり。そういえば山椒の木もあったかなあ。この辺はいずれも実が生ったり、葉っぱが食材になったりと、庭木というよりは果樹栽培に近い。両親とも実家は農家だったことを思えば、意図としてはそういうことだったのではないか? あと松の木もあったはずだけれど、あれは鯉を飼うための池を作った時に植えたものではなかったか? その当時のことなら、それなりに記憶はある。作った池に泳がした鯉はすべてワタシが川で捕まえたものだった。当時はどこの川でも鯉だろうが鮒だろうが、捕まえ放題だった……。一方、ヒマラヤスギが植えられたのはそれ以前で、ワタシが物心ついた時には既に大木として聳え立っていた。おそらくは家を建ててすぐに植えたのだろう。そして、植えたのは、他の誰でもない、父であったろうことは疑いがない。父以外の誰もそんなことをするはずはないので。でも、なんで父はヒマラヤスギなんて植えたんだろう? これが、どうにも不思議で。だって、ヘンじゃないか、わが家の裏庭にヒマラヤスギなんて。普通、ヒマラヤスギって、公園とか、大学の構内とか、広大な敷地を誇る場所に並木として植えるものなんじゃないの? それを、サラリーマンがようやく建てた「憧れのマイホーム」(父が前の家を建てたのは昭和30年代。「マイホーム」がサラリーマンの憧れとなった時代)の、それこそ猫の額のような狭い庭に植えたって、行く行く扱いに困ることになるのは目に見えている。実際、今の家に建て替える際に伐採してしまったのも、木が伸び過ぎて近所の迷惑になっていたという理由だったと母に聞いた記憶がある(伐採した当時、ワタシは上京していて家にいなかった)。だから、植えたのが間違いだったんだよ、あんな狭い裏庭に。でも、父は植えた。きっと何か思いがあったんだろうなあ。そういえば、北原白秋は『白南風』などで繰り返しこの木を歌っていて――「末ほそく下枝引き張るたけ高きヒマラヤ杉は冬によき杉」。また「馬込緑ヶ丘」と題して――「この門のヒマラヤ杉、来て見れば木高くなりぬ。夜寒にも燈はとぼりをり。人や来て住みつきたらし、わがごとやこもり息づく。星月夜、狭霧立ち立つ、この家の、鐘と撞木がいよなつかしも」。もっとも、ワタシの父に限って北原白秋を読んでいたなんて、絶対にない(笑)。でも、なにかしら思いはあったんだよ、きっとね。今となってはそれを知る術はないわけだけれど……。

 もう1本、一体どういう経緯で植えられたのかよくわからないヒマラヤスギがある。港区芝にある浄土宗の古刹・増上寺の境内――正面玄関である山門を入ってすぐ右手――に聳え立つヒマラヤスギ。同寺ではこのヒマラヤスギを「グラント松」と呼んでいる(ヒマラヤスギはマツ科ヒマラヤスギ属の常緑針葉樹なので、そういう名前で呼んでも間違いではない――と思う)。この「グラント松」について同寺ではどう説明しているかというと――「米国第18代大統領グラント将軍は明治12年7月国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣し記念としてこの樹を植えました」(現地案内板)。また樹木について調べるならこれ――ということになるのかな? 上原敬二著『樹木大図説』(有明書房)をひもとくと、ヒマラヤスギの日本への渡来をめぐって――「明治十二年アメリカからグラント大統領が来朝したときに芝増上寺の門前に植えたのが輸入第一号ともいう」(ただし、あくまでも「ともいう」。「グラント松」が植えられたのと同じ明治12年頃に「横浜在住の英人ブルーク氏」がインドのカルカッタから種子を取り寄せ、その後、育った苗30本を宮内庁に献上しているという。同書ではこちらの方を先に記しており、「グラント松」を第1号とするのはむしろ異説という扱い。それは「グラント松」の由来にいささか不分明なところがあるからに他ならないのだけれど……)。これは、へえ、ですよねえ。メタセコイアが日本に広まるに当ってGHQの天然資源局長であるヒューバート・G・スケンクが一役買っていた(かもしれない)という件については「あけぼのすぎの木はのびにけり〜愛と妄想の樹木誌①〜」に記したところではあるのだけれど、サプライズという意味ではこちらも負けていない。いや、同じサプライズでも、こちらはスターがスポットライトを浴びて舞台にせり上がってきたような華やかさがある。なにしろ、ストーリーの主役はかの南北戦争の英雄、ユリシーズ・S・グラントなんだから。思わず身を乗り出しちゃいますよ。いやー、いい(笑)。

 ただ――ちょっと妙だよねえ。だって、増上寺っていうのは、かつて徳川家の菩提寺だったところ。今でも増上寺の境内には歴代の徳川将軍(具体的には第2代秀忠、第6代家宣、第7代家継、第9代家重、第12代家慶、第14代家茂。一方、第4代家綱、第5代綱吉、第8代吉宗、第10代家治、第11代家斉、第13代家定はもう1つの菩提寺である寛永寺に眠っている。実はもともと寛永寺は徳川家の菩提寺ではなかった。あくまでも祈祷寺という位置付けで創建。しかし、第3代家光は寛永寺の開基である南光坊天海に深く帰依。自らの葬儀を寛永寺で行うよう遺言した。すると、第4代家綱、第5代綱吉もこれに倣い、これによって寛永寺も菩提寺となった。当然のことながら、増上寺は強く反発。両寺の熾烈な綱引きが繰り広げられた結果、第6代家宣は再び増上寺に葬られ、さらに第7代家継以降は増上寺と寛永寺で一代ごとに交替で菩提を弔うことになった。なんとも日本的な解決策と言わざるをえない。そもそも、増上寺は浄土宗、寛永寺は天台宗。そこは関係ないの? なお、第15代慶喜は増上寺にも寛永寺にも眠っていない。彼は自らの葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言したという。結果、増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園に葬られることになった。まあ、増上寺や寛永寺ではなかなか安眠は望めなかっただろうし……)が眠っている。そんな寺を明治12年に前アメリカ大統領の肩書きを持つ人物(グラントは大統領としては不人気だったものの、なんとか2期は務め、1877年に退任。その年の5月から東回り航路で世界周遊旅行に出て、その最後の訪問地として訪れたのが日本。従って、訪問時の肩書きは「前大統領」)が訪れる。そして、記念植樹までする……。これはなかなか大胆なふるまいですよ。明治政府としてもいささか身構えるところがあったのではないか? というのも、戊辰戦争中、アメリカ政府が徳川陣営に肩入れしていたのは周知の事実。直前に南北戦争を経験していたアメリカは戊辰戦争を日本版南北戦争と捉えており、徳川陣営が北軍、薩長陣営が南軍という見立てだった。そして、そうした見立ての下、陰に陽に徳川陣営を支援し続けたのが第3代駐日公使、ロバート・B・ヴァン・ヴァルケンバーグ。元北軍の将校(現役時代の階級は大佐。しかし、除隊後は「准将」に名誉昇進しており、アメリカ側の史料では「将軍」と呼ばれているケースも認められる)でもあったこの人物を徳川陣営の方でも頼りとしており、元幕府老中首座・板倉勝静などは「徳川氏全権」を名乗って密かにコンタクトを図っていたことも残された史料から裏付けられる。そして、そういう状況の中であの「北部大名連合」による新帝擁立という驚愕の情報が世界に向けて発信されることになるわけだけれど――ま、こっから先は『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』を読んでいただくことにしましょう。ともあれ、戊辰戦争中、アメリカ政府は公然と徳川陣営を支援した。そんなアメリカが明治も12年になったというのに、いまだに前徳川政権への親近感を隠さない……、これは明治新政府からすれば由々しき事態ですよ。明治新政府の立場からすれば、ここは増上寺ではなく、靖国神社に詣でて欲しいところだったに違いない(戊辰戦争における官軍側の戦没者を祀る「東京招魂社」は明治5年に建立され、ちょうどこの年、「靖國神社」へと改称されている)。当時の靖国神社には今のようなA級戦犯の合祀に伴う問題も存在しなかったわけで、外国からの賓客がお参りするのに特に問題があったとも思えない。しかし、この訪日中、グラント将軍が靖国神社をお参りしたという事実は伝えられていない。その一方で徳川家の菩提寺を訪れ、あろうことか記念植樹までしている……。

 いや、そればかりではない。グラント将軍は日光東照宮にも参っているのだ。グラント一行が東京に入ったのは7月3日のことで、その後、16日までは東京でさまざまな行事をこなし、それらが一段落した17日に馬車で日光に向っている。そして27日まで同地に留まり、31日に東京に戻っている。で、改めて言うまでもないことではあるけれど、日光東照宮とは東照大権現・徳川家康をお祀りする宗教施設。言うならば、徳川家に仕える(仕えた)ものたちにとっての聖地。そんな場所までわざわざ足を運ぶという……。

 これは尋常じゃないですよ。これまでこの件にギモンを感じた人はいないんだろうか? そう思っていいろいろ調べてはみたのだけれど、そういう観点での記事はネット上には見当たらず。そんなもんですかねえ……。ただ、増上寺訪問に関していささか承服しがたい説が流布していることはわかった。実はグラントは増上寺を訪れたのではない、グラントが訪れたのは「開拓使東京出張所」だというのだ。一体どういうことか? ここは順を追って説明することにしよう。まず、そもそもグラントの増上寺訪問は、彼が行なった世界周遊旅行の公式記録であるAround the World with General Grantには記されていない。また当時の駐日アメリカ公使であるジョン・A・ビンガムの本国への報告からもそういう事実があったことはうかがえない(アメリカ国務省の外交文書の集成であるPapers relating to the foreign relations of the United Statesの1879年版に収録された7月15日付け至急報告にはグラント一行が長崎に上陸して以降の日程が事細かに記されているのだけれど、増上寺訪問についての記載はない)。さらに言えば、増上寺側の史料でもこの植樹については裏付けられないという(横浜地方自治研究センター理事長の鳴海正泰氏が横浜・山手公園のヒマラヤスギについて調査する過程で「グラント松」の由来について増上寺文化財担当者に調査を依頼したところ、同寺の「日乗」にはグラント将軍の来訪を裏付ける記録はないという回答を得たという。詳しくは『横浜山手公園物語』参照)。一方、『開拓使事業報告』なる史料によればグラントは東京滞在中の7月(日付不明)、北海道開拓のために明治3年に設置された「北海道開拓使」(明治4年、「樺太開拓使」と合併して「開拓使」と改称)の東京出張所を訪れているという。で、この「開拓使東京出張所」というのがかつて増上寺の僧坊があった場所に建てられていたというのだ。『開拓使事業報告』によれば「八月樺太開拓使ヲ合倂シ小網町出張所を芝增上寺方丈跡ニ移ス」。また、同5年から8年までは後の札幌農学校である「開拓使仮学校」が同出張所内に置かれており、現在、芝公園の第4号地となっているその場所には「開拓使仮学校跡」という碑も設置されている。いずれにしても、グラントはこの「增上寺方丈跡」に建てられていた「開拓使東京出張所」を訪問しているのだ。

 ――という事実を元に「グラント松」はこの「開拓使東京出張所」訪問を記念して植えられたものである――というようなことがネット上の複数の記事で述べられている。また国際日本文化研究センター共同研究員の岡本貴久子氏も2013年に発表した「近代日本における『記念植樹』に関する文化史的研究―1879年グラント将軍訪日記念植樹式一考―」(『総研大文化科学研究』第9号。なお、論文には日本語の表題が付けられているものの、要約以外は英文。だから、むしろA Cultural History of Planting Memorial Trees in Modern Japan: With a Focus on General Grant in 1879という英題で紹介するのが適切か?)でほぼ同様の見解を示している。

 しかし、ワタシとしては、こうした説は受け入れられない。というのも、「開拓使東京出張所」があったとされる芝公園第4号地と増上寺の山門付近じゃ離れ過ぎているので。とりあえずここではGoogle Mapにリンクを張っておきますが、赤いマークで示された「芝公園 開拓使仮学校跡」から増上寺の山門(三解脱門)まではざっと300メートルくらいはあることがおわかりいただけるはず。で、ちょっと想像力を働かせてみようじゃないか。『開拓使事業報告』によれば、この日の訪問は実に賑々しいものだったようで――「七月米國大統領『グランド』父子ヲ出張所ニ招待ス玄關ニ兩國ノ旗章ヲ交叉シ球燈ヲ揭ケ警部巡査五十二名廳ノ内外ヲ警衞ス有栖川宮伏見宮東伏見宮北白川宮及三條岩倉兩大臣大木寺島山縣川村井上ノ諸參議森外務大輔吉田全權公使伊達從二位及米國公使『ビンハム』來會ス黑田長官出迎テ『グランド』ヲ客堂ニ導キ札幌麥酒及北海道產ノ物ヲ以テ午餐ヲ供ス伶人堂傍ニ於テ樂ヲ奏シ庭上ニハ歐州樂ヲ奏ス」。で、この訪問を記念して植樹式を行おう――となったとして、なんでその場所がそこから300メートルも離れた増上寺の山門付近になるんだ? しかもだ、岡本氏は上述論文でこの訪問を複数の史料の記載を根拠に7月16日の出来事としているのだけれど(特に重要なのは開拓使長官・黒田清隆の7月14日付け書簡。その中ではグラントが7月16日に午餐会のために開拓使を訪れると明記されているという)、グラントはその前日の15日に増上寺を訪れたと明記しているウェブ記事が存在する。それはアメリカ国防総省が発行するStars and Stripesのウェブ版がグラント将軍の訪日125年を記念して掲載した2004年8月8日付け記事、Remembering Ulysses S. Grant's visit to Japan。その中にはっきりとこう記されているのだ――

On July 15, 1879, the Grants visited the Tokugawa’s family temple Zojoji Temple at Shiba in Tokyo and planted a cedar tree which has grown to a giant tree today. After Ieyasu Tokugawa started to rule the Kanto region (eastern Japan), he accorded cordial protection to Zojoji as the family temple of the Tokugawa family. In parallel to the expansion of the Edo Castle, a large-scale construction project was also commenced for Zojoji and an unparalleled grand cathedral was built. The cathedral, temples and the mausoleum of the Tokugawa family were burnt down by air raids during World War II. However, its cathedral and other structures have been rebuilt. Located in its precincts are the tombs of six Tokugawa Shoguns and their wives and children.

 グラント将軍が増上寺を訪れ、その記念にヒマラヤスギを植えたことが、はっきりと日付入りで記されている。そしてその日付は7月15日であり、「開拓使東京出張所」を訪問したと考えられている7月16日ではない――。なお、念のために書き添えておくなら、これは日付変更線を跨いだ日付のトリックという可能性はまず考えられない。記事ではグラントが浜離宮で明治天皇と会見した日付を8月10日、上野公園でグラント一行の来日を歓迎する大規模な式典が開催された日付を同25日としており、これはいずれも日本側の史料と一致する。つまり、この記事の記載を信じるなら、グラントは間違いなく7月15日に増上寺を訪問しているのだ。『開拓使事業報告』の記載から、グラントが「開拓使東京出張所」を訪問したのは間違いないだろう。しかし、それとは別に、増上寺も訪問しているのだ。そして、「グラント松」を植えたのは、増上寺を訪問した時。それは、7月15日。まずこのことを確認した上で、さらにこの訪問の意味が重く感じられることになるであろうある事実を指摘するなら――それは、この7月15日という日付が新暦のお盆――「新盆」に当るという事実。明治新政府が旧来の太陰暦を太陽暦に改めたのは明治5年のことだけれど、これに伴い、日本のほとんどの地域ではそれまで旧暦の7月15日に行われていたお盆は新暦の8月15日に行われるようになった。これを「旧盆」と言う。しかし、どういうわけか東京では新暦の7月15日に行われることとなり、こちらは「旧盆」に対して「新盆」という言い方をする。今でも東京ではお盆は「新盆」として行われている(はず)。そしてグラントはこのわが国では生者が死者と見える日であるお盆の日に徳川家の菩提寺に詣でているのだ。そして、その2日後の17日、今度は東照大権現・徳川家康を祀る日光東照宮に参るために日光に向かった――ということになる。

 これは尋常じゃないですよ。なんでこの件がこれまでスルーされてきたんだろう……? もっとも、日光東照宮の訪問に関しては、よくよくその事情を吟味してみるならば、納得できないこともない。まずこの〝参詣〟にはこのグラントの〝日本ツアー〟の日本側の「接伴役」だった伊達宗城(前宇和島藩主)と吉田清成(駐米公使)が同行している。この事実はこの日光行きが日本側がセッティングした公式行事だったことを示唆しているように思える。しかし、日光東照宮が東照大権現・徳川家康を祀る施設であるというのは動かしがたい事実。徳川政権を打倒して誕生した明治政府が国賓として訪れた要人を前政権縁の施設へ案内する――、いかにもこれは妙な話ではある。しかし、それはやむをえざる仕儀だったのかもしれない。というのも、Around the World with General Grantを読むと、そもそも日本側はグラント一行を京都に案内する算段でいたことがわかる。まあ、至極当然で、今だって外国からの賓客をもてなすとなるとそういうことになるでしょう。しかし、おそらくは日本側が事前に入念に練り上げていたであろうスケジュールは万やむを得ずキャンセルとなった。理由は、コレラ。実はこの年、西日本を中心にコレラが大流行、死者は10万人を超えたとも言われている。そのため、グラント一行を乗せたアメリカ軍艦リッチモンドは神戸港に入港はしたものの(日付不明)、上陸は見合わせるという判断となった。そして早々に神戸港を出港し、7月3日には横浜港に着いている。つまり、本来、日本側は京都で前アメリカ大統領を〝おもてなし〟する算段だったのだ。しかし、それはできなくなった。かくて明治政府として行いうる接待はすべて東京近辺に限られるという事態に。さて、そうなった場合、東京近辺に外国からの賓客を招待するのにふさわしい場所・施設がどれだけあるか? 有り体に言うならば、日光東照宮くらいしかないではないか(現在でも東京近郊で世界遺産となっているのは、富岡製糸場のような近代遺産を除けば日光東照宮だけ)。つまりだ、日光東照宮は、明治政府からするならば、望ましからぬ選択肢ではあるけれど、やむを得ざる選択肢でもあった。国賓の接待という目的のためには、背に腹は代えられない、ここは前政権が作ったものではあるけれど、将軍を日光東照宮にご招待しよう……と、まあ、こういう経緯だったと考えるならば、それなりに納得できないことはないかなと。

 ただ、日光東照宮の〝参詣〟についてはこれで納得するにしても、増上寺は? 増上寺も同じような理由で日本側が案内した? しかし、当時、増上寺の本堂(大殿)は火事で失われていた。明治初年の日本で荒れ狂った「排仏毀釈」という宗教的ファナティシズムの犠牲になったのだ。増上寺は明徳4年(1393年)創建というから、焼かれた時点(明治7年)で480年に垂んとする歴史を有する堂々たる文化遺産。それを自分の勝手な解釈で焼いてしまうというかつてタリバンがバーミヤンの石仏を破壊したのとなんら変わらないような宗教的ファナティシズムを煽ったのは時の日本政府に他ならない。その生々しい傷跡が残る場所に外国の賓客を案内するだろうか? しないよね。つーか、できない。とするなら、グラント将軍は、政府側の案内に依らず、自らの意思で、言うならばお忍びで(グラント一行の増上寺訪問は、一切、記録に残っていない。である以上、いずれにしてもお忍びであったことは間違いない)、増上寺を訪れたということになる。まあ、増上寺の歴史を考えるなら、グラント将軍がこの際だから見ておきたいう気持ちになったとしても不思議はない。ただ、それで記念植樹までするか? そもそも、苗木はどうしたんだ? 増上寺側が用意したということは考えられない。これに関して岡本氏は上述論文で北京のアメリカ公使館にはヒマラヤスギが生い茂っていたというAround the World with General Grantの記載を根拠に北京から持ち込まれた可能性を指摘しているのだけれど、でも記念植樹をするに当って自分たちが持ち込んだ苗木を植えるということがありうるの? それは随分、押しつけがましいという気がするんだけれど。しかも、お忍びのはずの訪問で自らの発案で記念植樹までするというのは、いかにも不自然……。

 そう考えるなら、これまで表面に現れている事実の背後になにか隠されている事実があると考えるしかない。実はこの増上寺訪問はグラントの自主的なものではなく、そう仕向けたものたちがいた――、そんなストーリーを――。

 ここでどうしても指摘しておきたい事実がある。実はAround the World with General Grantを読むと、グラントはこの訪日中に他にも2度、日本側の求めに応じるかたちで記念植樹を行っている。1度目は長崎で。この時は、長崎県令・内海忠勝の求めに応じるかたちで、グラント将軍はインドボダイジュを、ジュリア夫人はクスノキを植樹している。2度目(つーか、時系列で言えば3度目)は上野公園で。8月25日に挙行された歓迎式典の際、やはり日本側から求められるかたちでグラント将軍はローソンヒノキを、ジュリア夫人はタイサンボクを植えている。で、Around the World with General Grantを読むと、この際、グラントに植樹を求めた日本側の人間についてはどう記しているかというと、それは「委員(a committee)」となっている。これは日本側の史料によれば「東京接待委員」ということになる。実はこの8月25日の歓迎式典というのは政府の主催ではない。東京商法会議所(現・東京商工会議所)と東京府の共催というかたちとなっており、言うならば民間主導のイベントとして開かれていた。で、その実行団体として組織されたのが「東京接待委員」であり、その総代(委員長)を務めていたのは、誰あろう、あの渋沢栄一なのだ。また福地源一郎や益田孝も委員として関っていたことが『渋沢栄一伝記資料』(渋沢栄一記念財団)によって裏付けられる。そして、ここで注目すべきは、渋沢栄一も福地源一郎も益田孝も元幕臣であること。グラントの日本ツアーには伊達宗城や吉田清成が「接伴役」として付き添っていたことは既に記した。しかし、グラント一行の訪日を歓迎する記念式典はあくまでも民間主導で行なわれており、それを取り仕切っていたのは元幕臣たちだったのだ。

 さて、ここからは多分に筆者の妄想を含んだ話となる。まず、おそらく「東京接待委員」を務めていた渋沢らはその準備のためにグラント一行とは頻繁な接触を持ったはず。Around the World with General Grantにはそれを裏付けるような記載もある。上野公園での歓迎会はコレラの影響を考慮し、「多くの議論を経て(after many debates)」、日本訪問の最終日に延期になった――というのだ。その「議論」の過程では単に式典の日程や式次第の打ち合わせだけではなく、もっと広範な事柄が話題に上ったのではないか? たとえば、当時の日本の世情――というか、政情について。日本が大きな政治変動の只中にあったことを考えるなら、そうしたことが話題にならない方がどうかしている。それに対し、渋沢らは――今の政府を取り仕切っているのはすべて薩長出身者であり、自分たち幕臣は完全に蚊帳の外である……。さらに話題は徳川家の現状にも及んだ可能性がある。実はこれに関連して興味深い事実を指摘できる。グラント一行は神戸を発った後、短時間ではあるけれど、清水港に投錨し、静岡の町を人力車で視察している。で、この際、「退位させられた大君の家」の脇を通っているのだ。そしてその境涯をめぐって「かつての君主は現在、年金暮らしの隠居である」――。グラント一行が静岡に立ち寄ったのは、日本側が富士山を見せたかったということに尽きるだろうとは思うのだけど、その際、偶然であるにしても徳川慶喜が隠居暮らしをする屋敷(現在は料亭「浮月楼」として営業)の脇を通ったというのはなかなかに示唆的。いやでもグラントとしてはこの日本の前権力者の存在に思いを致さざるを得ないではないか。しかも、戊辰戦争中、アメリカは他の誰でもない、彼を支持していたのだから。そして、まさにそういう思いを抱いていたグラントの前にかつてその男に仕えていた家臣たちがやって来たのだ。そんな彼らとの会話が式典の日程や式次第の打ち合わせだけに止まるはずがない。話は、現在、徳川慶喜が置かれている境涯や、彼に仕えた多くの家臣たちのその後の処世に及んだとしても何ら不思議はない。ちなみに、参考情報として記すなら、明治3年にやはり世界周遊旅行の一環として日本を訪れた前国務長官、ウィリアム・スワードは東京のアメリカ領事館で会見した「少しばかり海外の事情に通じた日本人」にかつてワシントンで相対した幕府使節団の正使・小野友五郎と副使・松本寿太夫の近況を尋ねている。この旅の公式記録であるWilliam H. Seward's Travels around the Worldに記された答は――「大君は国家の罪人だった。小野友五郎もまた罪人だという。誰も彼がどこにいるか知らなかった。また松本寿太夫は逃亡者だった。あるものは上海にいると言い、あるものはサンフランシスコにいると言う」(詳しくは「明治元年の亡命者」参照)。日本が近代国家として生まれ変わるために経験した大規模な政治変動、その結果として権力の座を追われたものたちが、その後、どのような運命を強いられているのか――ということは、政治家ならば当然、興味をそそられずにはいられないテーマ。しかも、そうした話は、現政権の役人たちから聞き出すような性格のものではない。比較的中立的な立場にあるものか、もしくは当事者たちに聞くしかない。そして、渋沢たちはまさにそういう立場の人間たちだった。当然、彼らは語っただろう。きっと彼らの口からは止めどなく言葉があふれ出てきたに違いない……。そうした政府の「接伴役」からは決して聞くことのできない話におそらくグラントは興味深く耳を傾けただろう。そして、そういう話の中で徳川家の菩提寺である増上寺についても話が及んだと考えよう。維新以降、その寺領が大幅に削られていること。また、あろうことか明治7年には「排仏毀釈」を叫ぶ輩の手によって本堂が焼かれていること。なんということだ……と、そうグラント将軍が嘆じたとしても不思議はない。そんな中、誰かがこんなことを口にした――来たる15日はお盆と言って、仏教では死者がこの世に帰ってくる日とされており、墓前に詣でるのが日本では習慣となっている。われわれも15日には増上寺にお参りするつもりだ……。この話に心を動かされたグラント将軍は、ぜひ自分もお参りしたい――と、そう目の前の渋沢らに告げた。この思いがけない言葉に、その場にいた旧幕臣たちからは抑えようのない嗚咽がもれ出した……。

 ま、全くの妄想であります。全くの妄想ではあるんだけれど、でもこうしたストーリーを想定するなら「グラント松」の苗木を用意した人物も想像がつくのだ。それは津田仙だろう。というのも、渋沢らの主催で上野公園(この上野公園ももう1つの徳川家の菩提寺である寛永寺の寺領を政府が取り上げて作ったもの。渋沢らは、あえてそういう場所を歓迎式典の場所に選んでいた!)で行われた式典を記念して植えられたローソンヒノキとタイサンボクの苗木を用意したのは津田仙とされているので(上述岡本論文参照)。言うまでもなく津田仙も旧幕臣。もともとは陪臣だったが、幕臣・津田栄七の婿養子となって津田家を継ぎ、文久元年に外国奉行支配通弁となった。そして慶応3年に派遣された小野使節団に通弁御用出役として随行した。この際、津田はサンフランシスコの種苗商との間で日米の種苗を交換する契約を結んでいる。津田仙というのはそういう人物で、明治12年当時は麻布で農産物の栽培・販売・輸入などを手掛ける「学農社」を営んでいた。そんな津田仙ならばヒマラヤスギの苗木を用意することもできたのでは?

 ――と、こうしてそれなりのストーリーを描き出すことができたような気がしないでもないのだけれど……それにしても、かつてわが家の裏庭には1本のヒマラヤスギが生えていた――ということから始めた記事がとんでもない方向に転がったものだ。もっとも、どちらもその由来を知りようがないという点では同じなんだよね。父がなぜあの木を植えたのかは今となっては知る術がないし、増上寺の境内、山門を入ってすぐ右手に今も悠然と聳える「グラント松」がなぜ、どのような経緯で植えられたのかも今後、明らかになることはまずない……。


增上寺本堂(絵葉書)

付記 もしくは少し長めのキャプション 「增上寺本堂」と印字された絵葉書(昭和7年刊『主婦之友』附録)。ヤフオクで400円で入手。右手から大きく張り出しているのが「グラント松」の枝と思われる。本文でも典拠として挙げた『横浜山手公園物語』で鳴海正泰氏は「グラント松」の樹形が目通し200センチ、樹高15メートル前後であるとして「百二十年以上たっているにしては小さすぎる。ただし、関東大震災で焼けたあとに、再び芽をだしたものかもしれない可能性はある」と述べておられるのだけれど、この絵葉書で使われている写真が昭和7年に撮影されたものだとするならば、その可能性は消える。また東京大空襲で被災した可能性も考えられるものの、増上寺HPでは「1945年、増上寺は3月10日、5月25日と2度に亘る東京大空襲により、明治大正期に行われた復興も空しく、三解脱門と経蔵を除く諸堂宇(大殿・景光殿・聡和殿・開山堂・羅漢堂・五重塔など)が焼失」としていて、山門(三解脱門)は被災を免れたことを伝えている。とするならば、その近くの「グラント松」も被災は免れたと考えていい。つまり、この絵葉書に写り込んでいる「グラント松」こそは、現在も彼の地に聳え立っているその木であり、明治12年にユリシーズ・S・グラントが手ずから植えた木……。