春なのに――。「有馬頼義の『北白川宮生涯』について」を書いている時は、まだこんなでもなかったんだけどなあ……。
春の風に吹かれて、上市町舘の高台をぶらぶらしてきた。この高台、立山町天林のあたりからこの上市町舘のあたりまで相当広範囲に広がっており、高台全体を称して「上段台地」と呼ぶ。また「上段台地」よりも1段低い「下段台地」と呼ばれる台地もあり、どちらもかつて暴れ川の名を恣にした常願寺川が作り出した河岸段丘。当然、台地だけあってなかなかの眺望を誇っており、本来ならば高級住宅地になっていても少しもおかしくないと思うのだけれど――なにせ田舎ですからねえ。基本的にそこに広がっているのは田んぼまた田んぼ――ということになる。もっとも、世界には目利きがいるもので。NHK BSの「SAKE革命~日本酒から世界酒へ~」でも紹介された、ドン・ペリニヨンの元最高醸造責任者で〝シャンパン界の帝王〟の異名を取るリシャール・ジェフロワ氏が中心になって立ち上げた酒蔵「白岩」はこの上市町舘からはクルマで30分ほどのところにあり、やはり「上段台地」の上。2018年にドン・ペリニヨンの最高醸造責任者を退いたリシャール・ジェフロワ氏は第二の人生を日本酒造りに捧げることとし、酒蔵の建設にふさわしい場所を探してきたというのだけれど、「この美しい景色を見たときに、ここしかない」と思ったという。やっぱり、見るべき人が見たらわかるんだ……。

上市町舘はそんな「上段台地」の北の端(タモリふうに言うならば「際」)に当るのだけれど、かねてからワタシはこの場所が気になっておりまして。その理由は、田んぼまた田んぼのその風景が昔懐かしい日本の「野」を思い起させるというのが1つ。今やなかなかこういう風景にはお目にかかれませんよ。それと、もう1つの理由として、この場所がかつて土肥政繁という戦国武将が居館を構えていた場所だったということがある。え、土肥政繁? 恥ずかしながら、聞いたことがないんですけど……という、そこのアナタ。心配はご無用。それが当り前です。越中の戦国武将と言えば、いわゆる「越中大乱」の主役である椎名氏と神保氏が2大ビッグネームということになる。もっとも、それだってあくまでも富山レベルの話だけどね。全国レベルだと、この2人でさえほぼ無名。まあ、高校野球で言えば、富山商業とか高岡商業とかだろうね(地元ではこの2校を称して「両商」と呼ぶ)。地元でこそ強豪校で通っていても、全国に出ると一回戦突破がやっとこさというレベル。椎名氏と神保氏もそんな感じ。それぞれが支配した地域とのアナロジーで言えば、椎名氏が富山商業で神保氏が高岡商業かな? では、土肥氏は? まあ、上市高校てところでしょうか。ちなみに、これまで甲子園に出場した回数は……0。そんなレベルの武将のことを知っている方がどうかしている。かく言うワタシも詳しいことはほとんど知らなかった――つい最近までは。ただ、この上市町舘にかつて土肥政繁が築いた「弓庄舘」(もしくは「弓庄城」。どういうわけか設置されている案内板によって呼称が違う。昭和48年に設置されたものだと「弓庄舘城址」、平成14年に設置されたものだと「弓庄城跡」。「館」と「城」の関係についてウィキペディアでは――「館は城郭に比して防御力に劣るため、合戦に備えて防衛拠点(山城や支城など)を近くに設けることが多く、戦国時代中期ごろまでは、平時は山麓などの居館に領主が住み、合戦が始まると山城などに籠もった。戦国時代後期以降は、平時・有事ともに対応する大規模な城郭(平城・平山城)を構築するようになり、居館は城郭と一体化するようになった」。この説明に従うならば、かつてはこの地にあったのは「館」という理解だったのだろう。しかし、昭和55年から5年間に渡って行われた発掘調査の結果、南北約600メートル、東西約150メートルとかなりのスケールだったことがわかり、これを踏まえて「館」から「城」にグレードアップされたということかもしれない。ただ、地名として残っているのが舘なんだからさ。当然、これは、かつてこの地に「館」があったことにちなむと考えるのが自然で、だったらやっぱり「弓庄舘」じゃないんですかねえ……?)があって、かつそれにちなむ「弓の里歴史文化館」なる公共施設が2002年に作られてもいて、これまで多くの歴史ファンを集めてきた――というような話が全く聞こえてこないことをかねがね気にしていて(いや、それほど気にしていたわけでもないんだけどね。でも、やたらと施設が立派でねえ。こんな場所にこんな立派なものを作って大丈夫なのか? と。ちなみに、上市町というのは安易にハコモノにカネを注ぎ込むヘキがあるようで、2011年にはこの場所からもほど近い広野というところに地元の特産品を扱う「味蔵」なる物販施設を開設している。しかし、これが大失敗だった。結構、その前をクルマで通ることがあるのだけれど、いつ通っても店の前の駐車場はがら空き。で、さすがに町としてもこのままではアカンと思ったんだろうね、2015年には施設管理を民間に委託して、新たに「里山の駅 つるぎの味蔵」としてリニューアルオープンした――というところまでは知っているのだけれど、さて、その後、うまく行ってるんでしょうかねえ……)――と、その程度には土肥政繁のことを気にかけていたということになる。ひいてはこのことが上市町舘という土地そのものへの関心にも繋がったわけだけれど――
そうだなあ、これはどーしても書かなきゃならないわけじゃないんだけれど……えーい、書いちゃえ(笑)。こうした土肥政繁、ないしは上市町舘という土地への関心の背景にはちょっとした個人的事情もいくばくかは関係していると言っていい。というのは、ワタシの小学校時代の同級生に土肥千晴さん(一応、仮名、ということにしておきます。何が「一応」かは、まあ、ご想像におまかせするということで……)という女の子がいたのだ。とても勉強のできる子で、しかも相当に大人びていた。一般的にこの年代は男子よりも女子の方が成長が早いらしいので、そういう印象を持つことはありうるだろうけれど、土肥さんは他の女子生徒と比べても大人びていた。言葉遣いが違ったんだよなあ。大人みたいっていうか……。で、これがちょっと不思議なんだけれど、そんな土肥さんがどういうわけかワタシに好意を持ってくれたようで。一度、わが家を訪ねてきたことがある。同じクラスの宮崎恵子さん(同)という女の子と2人で。ドギマギしたワタシは満足に口をきくこともできなかったのを覚えている。そんなワタシを見て土肥さんは「いつものオカムラくんと違う」――とかなんとか。「いつものオカムラくん」は、まあ、なかなかひょうきんな方だったとは思う。ただ、何が原因だったか、ワタシが学校で泣いたことがあって。その時、土肥さんはこう言ったんだよね――「男が泣いていいのは、親が死んだ時だけだよ」。そういえば、家に招待されて一泊したこともあったはず(あるいは、ただのお昼寝だったかなあ。土肥さんのお母さんなんかと一緒に川の字になって寝たのは覚えているんだけれど……)。まあ、ひょうきんだったり、シャイだったり、泣き虫だったり。そんな子ども子どもしたワタシに「母性本能をくすぐられた」というやつですかねえ……。で、多分、あの土肥さんは、この「弓庄舘城址」ないしは「弓庄城跡」のかつての主である土肥政繁の末裔ではないのか? と、最初にこの場所を訪れた時点で。小学生にしてあの大人びた雰囲気とは、よほどの遺伝子を受け継いでいると見るべきで、先祖は戦国武将――というのも、いかにもありそうな話かなと。もっとも、これは今回、調べて初めて知ったのだけれど、土肥政繁は天正11年にこの地を追われて越後に落ち延び、同18年、同地の能生(現在の糸魚川市能生)で病没。残された一族は出羽に渡ってあの最上義光(「戦国一のワル」とされる武将。『独眼竜政宗』では原田芳雄がワイルドに演じておりました)に仕えたりしたものの、最終的に家系は断絶したとされる。その一方で政繁と行動を異にした土肥家傍流(別に真田一族の「犬伏の別れ」みたいなドラマがあったわけではなく、単に病弱のため、行動を共にできなかったらしい)は越中に残り、「俗家して農業を営んでいた」――とは、上市町郷柿沢にある上市町指定文化財「中世豪族屋敷」に設置された案内板の一節。もし土肥千晴さんが土肥氏の末裔だとするなら、直接的にはこちらの流れということに? それにしても大変な豪農ではある。
――と、こういうようなこともあって、かねてからワタシは土肥政繁(あるいは土肥氏)については一定の興味を抱いてきたわけだけれど、よもや土肥政繁がこんなに魅力的な武将だったとは思いもしなかった。もしかしたら「土肥政繁」という名前は歴ヲタなら知らぬもののいないビッグネームになっていたかもしれないのだ――羽柴秀吉があんなに光速で事態を収拾していなければ。そのことが本当に惜しまれる……。ということで、ここからはこの土肥政繁という知られざる戦国武将にフォーカスしてみよう。まずは土肥政繁の基本的なデータを確認することから。その場合、土肥家重臣・有澤氏の子孫に当る有澤永貞という人物(なんでも加賀藩で軍師を務めていた人物とか。土肥氏重臣の子孫が加賀藩の軍師に――とは、なかなかの出世ではある。あるいは土肥政繁が「弓庄の合戦」で見せた勇猛果敢な戦いぶりが加賀前田家から高く評価された結果? これは、そのことを強く示唆する事実……)が江戸時代の初めにまとめたとされる『土肥家記』なる公式ガイド(?)があるので、それに依るのがいいでしょう。この『土肥家記』、原本は金沢市立図書館が所蔵。しかし、それを複製・翻刻したものが立山町在住の上田久隆氏によって作成されており、富山県立図書館に寄贈されている。ちなみに、国立国会図書館サーチで検索したところ、全国の公共図書館で所蔵しているのは富山県立図書館だけ。まあ、自費出版なのでねえ。また、地元民以外にこの本を必要とするモノがいるかと言われれば。しかし、国立国会図書館にも所蔵がないというのはなあ……。ともあれ、この『土肥家記』がどのように土肥政繁のプロフィールを描き出しているかというと――
永禄、元亀、天正年中に到て、越中国新川郡の内、弓庄の城主、土肥美作守政繁と申は往昔、源家頼朝公の舊臣、土肥次郎實平の後胤と云々。然共、何れの御代より、越中に居住有けるとも系図、年譜等不傳ゆへ、慥に不知之。古き記録共に越中国城主の内、土肥の名字所々に有之候へは、如何様、数代相続の事は紛れなきと相見之候。然は、天正初比、美作守殿代に到るまて、新川一郡は大半領之、弓庄に居城有けるゆへ、弓庄殿と号す。(略)
ふふ。系図も年譜もなく、いつ頃、越中に住むようになったのかもわらかない(慥に不知之)と書いておきながら、ルーツが源頼朝の旧臣、土肥次郎實平である――ということだけはなぜかわかっていると。でも、まあ、武将の〝ファミリーヒストリー〟ってのはこういうものなのかな。で、この記載の中で注目すべきは、土肥氏は天正の初め頃には新川郡の大半を領有するに到っていたという点だよね。土肥氏っていうと、ワタシなんかの理解では(でも)、新川郡の一豪族というのが正直なところで、この『土肥家記』の記載は相当に意外。第一、分郡守護代として新川郡を治めていたはずの椎名氏はどうしたの? 実は元亀4年に上杉謙信は越中に侵攻、椎名氏の居城だった松倉城を包囲し、当時の椎名家当主だった椎名康胤は遂に開城を決意。そして、以後、歴史からその姿を消したとか。一方、『土肥家記』によれば、「この時、土肥殿は越後、上杉謙信に通し給ふと相みへ、何の比哉覧、年始の祝儀を献せらるる謙信の返礼残り有之」。つまり、土肥政繁はいつしかちゃっかり(?)上杉謙信と気脈を通じていたと。で、上杉の後ろ盾を得た土肥氏は椎名氏の没落によって権力の空白地帯となった新川郡で一気に勢力を拡大し、天正の初め頃にはその大半を領有するまでになった――と、こういうことになるのかな? しかも、面白いのは、やはり畠山氏の守護代として婦負郡を治めていた神保氏も時を同じくして没落していること。天正4年、上杉謙信は神保氏の居城であった増山城を攻略、その時点での神保家当主・神保長城(神保長職の次子とされるものの、ウィキペディアでは「正確な系譜関係は不明」としている)も、以後、歴史からその姿を消している。つまり、椎名氏と神保氏という永年、越中で覇を競いあってきた2大勢力が相次いで姿を消したということになり、この時点で越中は事実上、上杉の支配下に入ったということになる。で、そうなるとだ、早くから上杉と気脈を通じてきた土肥政繁は上杉株式会社の富山支社長という立場を手に入れたにも等しかったと言えるのではないか? もっとも、新型コロナウイルスの影響で閑散とした富山県立図書館の閲覧室に腰を据えていろいろ関係書籍を浚ってみたのだけれど、そんなふうに記している文献は見当たらない。どうも土肥氏は過小評価されているようなところがあって、ウィキペディアでも「弓庄城に拠った庶流の政繁が上杉謙信に臣従して辛うじて命脈を保った」(なお、この部分は書き換えておきました。『土肥家記』の記載を踏まえるなら、そういう認識はありえません)。結局、土肥政繁(あるいは土肥氏)というのは、新川の山野に盤踞した一豪族というのが大方の見方で、これはワタシ自身もそうだったのだから偉そうなことは言えないんだけどね、でもそれは先入主というものでしょう。実際の土肥政繁は新川郡の大半を領するような戦国期越中の屈指の有力武将だった。そして、上杉謙信によって平定された越中にあって早くから上杉氏に通じてきた土肥政繁の立場は相当に強固なものだったというのはまず間違いない。客観的事実を虚心に見つめるなら、そういうことになる。そういう観点で土肥政繁にまつわる物語は根底的に書き換えられるべきだとワタシは思うのだけれど――
ただし、この上杉株式会社富山支社長という立場は長続きしなかった。天正6年、土肥政繁の後ろ盾だった上杉謙信が急逝。この機を逃すまじと神保長住(神保長職の嫡子とされる。なんでも父・長職と対立して出奔し、織田信長に仕えていたとか。このあたり、神保氏の内情もなかなか複雑だったよう)が織田軍の先鋒として越中に侵攻、神保氏ゆかりの富山城の奪還に成功。ここに越中の政治情勢は再び激変することになる。そして、天正8年にはいよいよ佐々成政が越中に乗り込んでくることになるわけだけれど、そんな中、土肥政繁としても生き残るためには織田家に従うしかなかったものと思われる。ここは現地・本丸跡に設置された碑から引けば――「天正六年上杉謙信が死去すると、上杉勢の庇護が受けられず、越中に侵攻する佐々成政、柴田勝家らの織田勢に従うことになったが(略)」。つまり、土肥政繁は、織田方――というか、直接的な指揮命令系統で言うなら、佐々成政の指揮下に入った――ということになる。ただ、これはよほど本人としては不本意な身の処し方だったと思われる。そのことは、碑文が続けてこう記しているのを読めばわかる――「天正十年に織田信長が本能寺に討たれると再び上杉勢に属したため、佐々勢の攻撃をうけることとなった」。なんと土肥政繁は信長が討たれると好機到来とばかりに織田方に反旗を翻しているのだ。実に油断のならない男……。しかし、ある意味、これは戦国武将としては真っ当なふるまいで、むしろなんであの局面でこの種の動きが全国に広まらなかったのか? と。あるいは、様子見を決め込んでいる内に、秀吉があっという間に事態を収拾してしまって、タイミングを逸してしまったということか? この辺はワタシがかねがね疑問に思っている点で、普通なら一斉に火の手が上がるところですよ。そして、それまで織田専制政治の先兵となっていた佐々成政のような前線指揮官クラスの武将はそういう同時多発的な反乱のうねりに呑み込まれて、それはそれは無残な最期を遂げるというのがお決まりのパターン。そのサンプルとしてここは『太平記』に描かれた越中守護・名越時有とその一族の最期を思い起してみるのもいいだろう。例の「上下七十九人、同時に腹を掻切つて、兵火の底にぞ燒け死にける」というやつね(何が「例の」かは「高岡市二塚にある『恒性皇子御墓』を見てきた事附二塚に鷲は舞い降りた事」参照)。で、天正10年もそのように歴史は動くかのように見えた――土肥政繁の目にはね。だから彼は「信長討たれる」の報に迷うことなく反乱の火の手を上げたのだろう。しかし、情勢はまたまた激変した。なんと、備中から駆け戻った秀吉が光速で事態を収拾。訪れるはずの「天下大乱」は訪れなかったのだ。織田政権の前線指揮官たる佐々成政もほどなく態勢を立て直して弓庄舘を包囲。織田家臣従の証しとして土肥家から差し出されていた政繁の次男・平助を見せしめのためとして磔にした。『土肥家記』所収の「弓之庄古城之圖」には「爰ヲハリツケ田ト云」と、磔にされた場所も特定されている。そんな中、政繁は再三再四、越後の上杉景勝に援軍を依頼している。しかし、それに対し返ってくるのは「とにかく頑張れ」という精神的督励のみ。ここはどうしたってあの『真田丸』で遠藤憲一が演じた「お館様」を思い起さざるを得ません。もうね、あの人を頼りにしちゃダメだって(笑)。いや、まあね、上杉景勝も上杉景勝で身動きが取れなかったんだろうとは思うんだけどね……。しかし、こうした状況にありながらも、弓庄舘はよく耐えた。9月には一旦、佐々勢は兵を引いているし、翌天正11年2月には成政の越後出兵の隙を突いて「安城」(安住城=富山城か? とするなら、果敢に敵の本丸に攻め込んだということになる)の城外を焼き払い、さらには「太田之新城」(太田本郷城か?)を奪うなど、縦横無尽のゲリラ戦を敢行している。で、この間、上杉景勝は家臣を京都に派遣して政繁の所領安堵を働きかけているらしい。「お館様」も一応はやってはくれていたのだ。しかし、秀吉は既に越中は佐々成政に宛行うと決めており、上杉景勝もそれを受け入れるしかなかったようだ。かくて、万策尽きた。「右の通にて、城内、弥、勢力も衰へ兵粮も尽る故」――とは、『土肥家記』が奏でる100年越しの悲歌。そして、天正11年8月某日(『立山町史』ではその日付を8月30日としているものの、この日付は上杉景勝が土肥政繁の奮戦を賞して与えた「御状」に記されているもので、この日が弓庄舘開城の日とは見なせない)、遂に弓庄舘は開城。土肥政繁は上杉家を頼って越後に落ちた。そして、その後、いずれかの時点で弓庄舘は廃城となったと思われるものの、それがいつ頃であるかは、「弓の里歴史文化館」でも「主だった家臣たちもこれに同行して去ったため、この時点で廃城になったものと考えられます」としているだけで、確たることはわかっていないらしい。しかし、かつて弓庄舘があったことにちなむ「舘」という地名は残った。そして、政繁とは行動を異にした土肥家傍流も俗家した上で越中の地に残ったことは既に記した通り。そして、その末裔と思われる少女からなぜかワタシが好意を寄せられたことも。

それにしても、惜しかったよなあ。土肥政繁が「信長討たれる」の報を受け、好機到来とばかりに反乱の火の手を上げたのは全然間違っていなかったと思う。むしろ、土肥政繁としては最善手を打ったと言っていいのでは? そして、もしあの局面で羽柴秀吉が光速で事態を収拾するというミラクルを演じていなければ、その勝負手がもたらす結果は全く別のものになっていたはず。富山平野を見下ろす「上段台地」に本拠を構える土肥政繁からすれば、それだけでも戦略的には断然有利。その上、後方の魚津城には上杉方の須田満親がおり、さらにその後方の越後からも上杉方の援軍を期待できる状況。佐々成政としては高い確率で富山城を引き払って退却を余儀なくされていたのでは? そうなったら、土肥政繁は再び上杉株式会社の富山支社長という立場に返り咲くことができた。そして、もしそうなっていたら……その後の歴史はどう変わっていたか、それは誰にもわからない。しかし、1つだけ言えることがある。それは、この上市町舘の風景は今とは全く違ったものとなっていたであろうこと。間違いなくこの地は上杉株式会社富山支社の所在地として大きく栄えることになっていたであろうし、きっとそれにふさわしい立派な城も築かれていたはず。戦国期の城らしく、天守も備えたそれはそれは立派なね。その後、その幻の弓庄城(ここで満を持してこの呼称を使うことにしましょう)がどうなったかは、城主たる土肥氏の運命次第とは言えるのだろうけれど……でも、なんらかのかたちでその姿を今に伝えることにはなっていたはず。また、城があれば、その周囲には城下町が作られることになるわけだから……もしかしたらこの舘の地は、今頃は富山県庁が置かれる富山の中心地だったかもしれない(もし県庁がこの場所に置かれるくらいに歴史が変わっていたら、その場合は県名も「富山県」ではないだろう、というツッコミはこの際ナシで。それを言い出したら、「富山平野」も「富山湾」も使えない。歴史改変SFには練達のワザが求められます。そういえば、アメリカにはハリイ・タートルダヴという40年間、歴史改変SFばかり書き続けている作家がおりまして……)。場所としてはふさわしいですよ、高台だしね。見晴らしは抜群。いや、単に見晴らしがいいだけではなく、ここならかつて暴れ川と恐れられた常願寺川がどれだけ暴れようが被害が及ぶことはない。本当に抜群の立地ですよ。もし何かがほんの少し違っていれば、この地に――この富山平野を、そして遠く富山湾をも見下ろす高台に幻の県庁所在地・弓庄城市はあった――と、この何もない野っ原で春の風に吹かれながら……。