神保町という地名が、昔、その場所に徳川家旗本・神保氏の屋敷があったことに由来する――というのは、比較的よく知られている事実と言っていい。念のため、典拠という意味で書泉グランデ前に設置されている案内板の一節を引くなら――「町名の由来は、元禄年間(1688年~1704年)のころ、旗本の神保長治が広大な屋敷をかまえ、そこを通っていた小路が『神保小路』と呼ばれるようになったためといわれています」。ただ、ここに名前の挙がる神保長治の家系をずーっと遡っていくと、越中の歴史にその名を刻す神保氏にたどりつく――ということは、あまり知られていないはず。いや、そんなの別に知らんでも……、そうニヒルに宣う方もいらっしゃるでしょうが、このクニ(この場合の「クニ」とは今の「国」ではなく、律令制に基づく「令制国」、つまりは「越中国」のこと)に生まれて、かつ神田神保町という「世界一の古本の町」に格別の思い入れを持つものにとってはこの上もない吉事。これまでもことあるごとに周囲に吹聴して来たくらいなのだけれど――しかし、徳川家旗本の神保氏と越中の歴史にその名を刻す神保氏がどのように繋がるのだろう? と、今頃になって。というのも、越中の歴史にその名を刻す神保氏ではあるけれど、意外にも長住という人物を最後に歴史から姿を消している――ということが、「上市町舘の高台で」を書く過程でわかったので。実は、越中の歴史にその名を刻す――などと書いておきながら、ワタシの神保氏についての知識など高が知れていた。神保長誠(「御霊合戦」で大暴れした人)とか神保長職(「越中大乱」を引き起こした人)ならさすがにそれなりの知識は持ち合わせていたけれど、それ以外となるとほとんど。でも、当然、その系譜は、徳川家旗本・神保氏まで繋がっているものと思っていた。ところが――「その後、かつて長住の傘下にあったと思われる国衆・菊池右衛門入道が織田家臣・柴田勝家に長住の身上取り成しを依頼しているが叶わず、翌年に伊勢神宮へ越中還住を祈願している。その後の長住の消息は不明である」(ウィキペディア)。これを読んで、え? だったらどうやって徳川家旗本の神保氏に繋がるの……?
ということで、この際だからこの件についても調べてみようかと。ところが、これがなんとも妙なことになりまして。アチラを立てればコチラが立たず……。ともあれ、ここは順を追って説明することにしよう。今回、ワタシがテキストとしたのは『寛政重修諸家譜』という文献。ウィキペディアによれば「寛政年間(1789年 - 1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集」。また「史料的価値」の項では「この系譜は近世最大の系譜であり、大名と幕臣の経歴は詳細であって、『徳川実紀』とともに重要な研究資料である」――という『國史大辞典』の解説の一節も紹介されている。さらには「文章は平易簡明である。また編者は諸家の呈譜をよく吟味し、疑問のある場合は、一応そのままに採録してあるが、その旨を記して慎重な態度を示している」――とも。まあ、「文章は平易簡明である」という部分はともかく、それ以降の部分については、実際に読んでみた感想としても「なるほどなあ」と。しかし、歴ヲタの皆様方はこんなものを使っていろいろやっているわけか。ワタシなんて、今回、初めてこんな本があることを知った次第なんだけれど、これはなかなか奥が深いなあ……。ともあれ、この『寛政重修諸家譜』をテキストに神保氏の家系を紐解いてみたところ、どうやら系統としては2つあるようだ。そして、その内の1つは「十二世則茂のとき家系燒失す」とあって、それ以前については辿れない仕様となっている。一方、もう1つの方は初代が記されていて、幸いにもと言うべきか、神保長治はこちらの方の家系。で、その初代についても記されているわけだけれど、ただし名前については「某」としか記されていない。しかし、なぜか官名はわかっていて、それは山城守。そして、そのプロフィールとしてこんなことが記されている――
越中國富崎の城主たり。後彼國を去て近江國に住し、甲賀郡山南の庄を領す。某年死す。法名武邊。
ね。確かに越中国に源を発している。また、ここに出てくる富崎というのは、神保長誠の肖像画を所蔵していることで知られる真宗大谷派の寺院・本覚寺があるところ。なるほど、確かに徳川家旗本の神保氏はこの越中、しかも富崎に源を発する――、このことがこの記載によってまずは明らかになったと言っていい。ただ、「後彼國を去て近江國に住し、甲賀郡山南の庄を領す」――とあって、いずれかの時点で越中を去って近江に移っているわけだけれど、ということはワレワレがよく知っている神保長誠や神保長職との関係は? で、これについてはこの山城守から2代下った周防守についての記載に対する注釈として、こんなことが書かれている――
今の呈譜に、周防守某が男を惣右衞門長誠とし、畠山政長に仕へ、京合戰のとき一隊をあづかり、後近江國に蟄居し、永正二年死す。その子を對馬守長重なりといふ。寬永系圖神保第一の譜左京茂
常の祖に、長誠が事蹟をしるしてこれを辨ず。長誠は應仁年中老成の人と見ゆれば、その男を對馬守とするものその時代にをいてうたがひなきにあらず。すでに寬永の譜にもこれをいはざるがゆへに家說をとらずといへども、これをしるして上の神保同祖たらん事をしめす。
なかなか意味を取るのに難儀させられたんだけどね。でも、この『寛政重修諸家譜』は各家が幕府に提出した系譜(呈譜)の内容をまとめたものであることを考えるなら、神保家が提出した系譜には周防守の子(男)が「惣右衞門長誠」で、「畠山政長に仕へ、京合戰のとき一隊をあづかり、後近江國に蟄居し、永正二年死す」――と、そう記されているということだろう。そして、その「惣右衞門長誠」の子(男)が對馬守(『寛政重修諸家譜』では周防守の子とされている人物)――と、これもやはり呈譜にはそう記されていると読むことができる。その上で、「長誠は應仁年中老成の人と見ゆれば、その男を對馬守とするものその時代にをいてうたがひなきにあらず」――として、この家説(神保家側の言い分)は「とらない」――というのが、↑の記載の粗々の意味と見ていいのでは? 実際、そんな話は通りませんよ。だって、「惣右衞門長誠」という名前で「畠山政長に仕へ、京合戰のとき一隊をあづかり」――というのならば、それはもう神保長誠のことに他ならない。しかし、神保長誠が近江国に暮していたなんて事実はないはずだし、ましてや「永正二年死す」って。久保尚文著『越中中世史の研究』(桂書房)によれば、神保長誠は文亀元年にここ越中で亡くなっている。これは室町時代の越中の禅僧・東海宗洋の法話などを書き留めた「光厳東海和尚録」という古文書に記されている事実という。この東海宗洋なる人物、神保長誠とは同時代の人で、かつ神保家の出身だったとされており、そういう人物にゆかりの古文書に記されているのならば、その信憑性は疑いようがない。間違いなく神保長誠はここ越中で文亀元年に亡くなっているのだ。である以上、神保長誠は永正2年に近江で亡くなったという神保家の言い分は全くのデタラメと言わざるを得ず、ひいてはその子が「對馬守長重」であるとする系譜の信憑性にも疑問を抱かざるを得ないことに。さらには『寛政重修諸家譜』の編者が指摘している年齢的な問題もある。こうなると、編者が「とらず」としているのもムベナルカナ。
ところが――だ、ちょっと気になることが。呈譜では「對馬守長重」とされている八郎對馬守の子が政長、さらその子が長利――と、いずれも名前に「長」の一字が含まれている。さらにそれは下って神保長治の時代にまで引き継がれているわけだけど、これは「通字」と呼ばれるもので、武家の世界では定番の習わし。そして、なぜ甲賀系神保氏(という呼び方をすることにしましょう。ちなみに、甲賀系神保氏は甲賀流忍術の中心となった「甲賀二十一家」の1つだとか。これは「へえ」ですよ)が「長」の一字を通字にするようになったかといえば、やはり「惣右衞門長誠」にちなむと考えるべきでは? その「畠山政長に仕へ、京合戰のとき一隊をあづかり」――という輝かしい経歴を誇りとして、以降、その一字を取って通字とした――というのは、十分に考えうる可能性でしょう? そう考えるならば、甲賀系神保氏は確かに神保長誠の血を受け継いでいる……。
ね、ワタシが「妙なことになった」と書いた理由がおわかりになりましたよね? どう考えたって神保家側の言い分にはムリがあると言わざるをえないんだけど、一方で甲賀系神保氏は確かに神保長誠の血を受け継いでいる――ように思える。アチラを立てればコチラが立たず……。しかし、これはなかなかにオモシロイ。そして、こんな時、ワタシのアタマはよく働くのだ。幸いにも(?)外は雨。ここはじっくりと腰を落ち着けて、このナゾに挑んでみるというのも一興……。
で、まずは『寛政重修諸家譜』の編者が年齢的な理由を挙げて「對馬守長重」を「惣右衛門長誠」の子とする神保家の家説は「とらない」としている点について片づけておこう。「惣右衛門長誠」が亡くなったとされるのは永正2年(1505年)。一方、呈譜では「對馬守長重」であるとされている八郎對馬守が亡くなったのはそれから54年後の永禄2年(1559年)。八郎對馬守は「惣右衛門長誠」が亡くなった当時、まだ乳飲み子だったとするなら、2人が親子でも十分に行ける。むしろまだ10年くらいは余裕がある。そう考えるならば、年齢的な理由で八郎對馬守の父を神保長誠とするのは不合理である、ということにはならないかと。そうなると、それ以外で神保家が幕府に提出した系譜でおかしなところは、「惣右衛門長誠」が「京合戦」に参加した後、近江国で蟄居し、永正2年に亡くなった――というこの部分ということになる。こればっかりはデタラメとしか言いようがない? なにしろ、神保長誠が近江国に暮していたなんて事実はないわけだし、没年も文亀元年(1501年)であることがハッキリしているわけだから。どう考えたってこの神保家の言い分は「とれない」……と、そう判断するしかなさそうなんだけど。ただ、その一方で甲賀系神保氏が代々、「長」の一字を受け継いでいるという事実からは、甲賀系神保氏が確かに神保長誠の血を引いているように思える。こうなると、まるで神保長誠という名前の全く別の人間がもう1人いたかのよう……。え、神保長誠がもう1人いた……? 神保長誠は2人いた……!
くり返しになりますが、こんな時、ワタシのアタマはよく働くのだ。この可能性に思い至った瞬間、ただちにワタシの〝灰色の脳細胞〟は――うん、そういうことは、歴史上、決してないことではない、と。たとえば、最近、とみに注目が高まっている福井県福井市の「一乗谷朝倉氏遺跡」。この遺跡の主である越前朝倉氏には孝景という諱の人物が2人いた。第7代の英林孝景と第10代の宗淳孝景(「英林」「宗淳」はそれぞれの法名)。また、あの伊達政宗も2人いた。第9代の大膳大夫政宗と第17代の陸奥守政宗(「大膳大夫」「陸奥守」はそれぞれの官名)。越前朝倉氏や伊達氏というビッグネームでもこういう例があるのだから、中小の大名や国人クラスならそれこそ掃いて捨てるほど見つかるのでは? そう考えるなら、神保長誠という名前の武将が2人いたとしても決して不思議ではない。もっとも、同姓同名の人物が同じ時代に存在したケースはあったかどうか? 残念ながらワタシの限られた知識では、あったともなかったとも。ただ、普通に考えて、可能性はあるのでは? だって、それを妨げるもの(法度とか)があったわけではないのだから。同姓同名の人物が同じ時代に存在した可能性は限りなく高い……? ちなみに、「神保長誠は2人いた」という前提でそれぞれの名前について考えてみると、まず越中系長誠は畠山政長から偏諱を賜って長誠と名乗ったことがわかっている。一方、甲賀系長誠はどのような経緯でそう名乗ったのかは、判断する材料がない。ただ、何ものかの偏諱を賜った可能性は低いのでは? なぜなら、以後、甲賀系神保氏が代々、「長」の一字を通字としているので。もし「長」の字が何ものかの偏諱を賜ったものなら、その一字が通字となるというのは考えにくい。実際、越中系長誠の子は2人とも「長」の字は受け継いでいない(なお、ウィキペディアでは越中系長誠には「長茂」という子がいたとしているのだけれど、典拠が示されていない。上述『越中中世史の研究』が長誠の子として示しているのは慶宗と慶明という2人。「長茂」なんて一切出てこない。本当に「長茂」なんて子がいたんですかねえ……? あと長誠から2代下った長職が「長」の一字を受け継いでいるのだけど、ウィキペディアではこれについて「畠山尚長より『長』の一字を受けたものとみられる」。うーん、独自研究の匂いがプンプンするなあ……。まあ、確かにその可能性もあるだろうとは思いますよ。でも、むしろ長職がその出自に疑問が持たれていることを考えるなら、自らは神保氏の嫡流である――と内外にアピールするために一族の中で最もプレスティージが高い長誠の「長」の字を名乗ったと見た方が。そして、自分の3人の子にも長住・長城・長国と名乗らせた……?)。また、読みに関しては、もしかしたら越中系と甲賀系では違っていたかも? というのも、越中系長誠は「ながのぶ」と読むとされているのだけれど、でも普通に読めば「ながまさ」だよね。当然、甲賀系長誠の読みが「ながまさ」だった可能性はあるわけで、その場合は2人は必ずしも同姓同名ではなかったということになる……。
――と、なんだかいよいよ「神保長誠は2人いた」という可能性が高まってきたような気がするのだけれど(え、しない?)、いずれにしてもこういう仮説(トンデモ説?)を採用するなら、神保家が幕府に提出した系譜に記された神保長誠のプロフィールとワレワレが知っている神保長誠のプロフィールが大きく異なっていたとしても何ら不思議ではないということになる。ワタシとしてはぜひこの線で行きたいと思うんだけど、その上でその後の2人の人生が描き出した又曲線を見てみるなら――まず越中系長誠の方は、京都で畠山政長に仕え、政長が叔父の義就と畠山家の跡目をめぐって争った「御霊合戦」などで獅子奮迅の活躍を見せた。しかも、どうも「御霊合戦」は長誠の突き上げで始まったというのが実態のようで、『越中中世史の研究』によれば――「応仁元年正月、政長が管領職を罷免されると、長誠は政長を説いて館に火を放たせ、上御霊社にたてこもって義就派との戦いの口火を切った。こうして応仁の乱が始まった」。この記載を信じるなら、応仁の乱の口火を切ったのも、煎じ詰めるならば神保長誠だったということになる? しかし、そんな長誠は文明4年(1472年)、万やむを得ざる事情で帰国を余儀なくされる。これについては神保氏ゆかりの旧小杉町(現・射水市)が平成9年に編纂した『小杉町史』より引くなら――「こうした状況下、北陸では加賀富樫氏の内紛に一向一揆が絡み、在地情勢は混乱しはじめていた。越中では文明四年に、神保氏の家老格である氷見の鞍川氏が、能登畠山氏に影響されて義就方に呼応する動きをみせた。長誠は三百余のわずかの兵で帰国し、取り鎮めたという」。反乱を鎮めた長誠は、その後、再び京に上った時期もあったと思われるものの、明応2年(1493年)正月の時点では中風のため地元で療養を強いられていたことがわかっている。そして、以後、再び京に上ることはなく、文亀元年に亡くなった(なお、その間には第10代室町将軍・足利義材が細川政元に将軍の座を追われ、越中に落ち延びて神保長誠の庇護の下、事実上の亡命政権を樹立するというなかなかの出来事があったのだけれど、これについては、別途、稿を改めて)。その後、神保家は息子の慶宗の代に一度、滅亡するものの、享禄年間にはその慶宗の遺児と思われる(と『越中中世史の研究』に記されている。慶宗の遺児というハッキリとした史料的裏付けはないらしい。長職がその出自に疑問が持たれているというのはこういうこと)長職が神保家を再興、天文12年(1543年)には神通川を越えて新川郡に進出し、富山城を築いた。ここに新川郡をテリトリーとしてきた椎名氏との間で越中を二分する「越中大乱」と呼ばれる大騒動が引き起こされることになる。しかし、そんなふうに越中の覇権が越中の国人同士で争われている内はまだよかったのだ。いつしか戦いは上杉謙信と武田信玄という〝外国勢力〟の代理戦争という色合いを帯びはじめ、遂には上杉謙信によってまずは椎名氏が滅ぼされ、次いで神保氏も滅ぼされた。その後、上杉謙信が亡くなると神保長職と対立して出奔し、織田信長に仕えていた神保長住が織田方の先兵として越中に乗り込み、神保氏ゆかりの富山城の奪還に成功。ここに再び神保家は再興された――かに見えたものの、天正10年には父・長職の旧臣に富山城を攻められて虜となるという大失態。ほどなく柴田勝家に救出されるものの、これほどの不始末を織田信長が許すはずもなく、織田家から追放されてしまう。そして、それきり歴史から姿を消して、ここに越中系神保氏は最終的に終焉を迎えることになる。一方、甲賀系長誠も呈譜の言い分を信じるなら、やはり京都で畠山政長に仕え、「京合戦」(『寛政重修諸家譜』がそう書いているものの、具体的にどの合戦を指すのかは判然としない。歴史用語としての「京合戦」は建武3年に朝廷軍と足利軍の間で繰り広げられた京都市街戦を指すはず)で活躍した。同じ神保氏なのだから、越中系神保氏が主従関係にあった畠山政長に与力するというのは何ら不自然ではない。あるいは越中系神保氏が甲賀系や、さらには能登や加賀にも神保氏の支族がいたらしいので、それらに動員をかけたという可能性も? いずれにしろ、甲賀系神保氏もまた京都で畠山政長に仕えて戦った。しかし、「京合戦」が終ると領国である甲賀郡山南に戻り、以後、越中系長誠とは違って再び「中原に鹿を逐う」ような行動を取ることはなかったか? なお、『寛政重修諸家譜』ではこの間の消息について「近江国に蟄居し」と書いているのだけれど、これは何らかの不行跡の責めを負わされて蟄居謹慎を強いられたというよりも、単に「平穏に暮した」くらいの意味ではないかと。蟄居には「家の中にとじこもっていること」という意味もあるので。いずれにしろ、甲賀系長誠は、その後、領国である近江国甲賀郡山南をわが天地として生き、そして越中系長誠より4年遅れて永正2年、その地で亡くなった。しかし、甲賀系神保氏にとっては、長誠の代に京都へ上り、「京合戦」に参戦したというのはとびきり輝かしい経歴には違いないだろう。ということで、以後、その子孫は代々、「長」の一字を受け継ぐこととなった。そして、長利の代からは徳川家に奉公。さらに長治の代になって小川町雉子橋通りに広大な屋敷地を拝領。いつしかその表通りは「表神保小路」、裏通りは「裏神保小路」と呼ばれるようになった。そして、明治時代になると「表神保小路」は表神保町、「裏神保小路」は裏神保町となり、周辺にはさまざまな大学も建てられ、こうして「神田の古書街は明治時代の学校出現と共に始まった」――と野田宇太郎が『東京文学散歩』で書いたような状況ができ上がることになる。
――と、こーゆーストーリーをワタシの〝灰色の脳細胞〟は生み出したのだけれど――さて、雨も上がったようなので、少しばかり外の空気に当ってくることにしよう。あまり長時間、部屋に閉じこもっていると人というのは禄なことを考えない……。