過日、BSで『映像の世紀プレミアム』第1集「世界を震わせた芸術家たち」(の再放送。もともとは2016年に放送されたものだそうです)を見ていたら、なかなか含蓄のある場面に遭遇した。この番組、チャップリンやピカソなど、20世紀を代表する芸術家が世界に与えたインパクトを貴重な映像を元に振り返ったものですが、そんな芸術家の1人としてソ連の作曲家、ドミートリイ・ショスタコーヴィチも登場。紹介されているのは『交響曲第7番』にまつわるエピソード。この楽曲がナチス・ドイツによるレニングラード包囲戦の最中に作曲され、まだ包囲戦が続いていた1942年3月に当時、ソ連の臨時首都だったクイビシェフで初演されるや、ソ連国民に熱狂を以て迎えられたことは普く知られているところで、それがゆえこの交響曲は『レニングラード交響曲』と呼ばれていることも同じく周知の事実と言っていい。当然、楽曲に込められているものも、ショスタコーヴィチにとっては生れ故郷でもあるレニングラードへの愛であり、それを破壊しようとするもの(ナチス・ドイツ)への激しい憎悪――というのは、まあ、誰しも異論のないところでしょう。しかし、実はショスタコーヴィチがこの楽曲に込めたものはそれだけではなかった。番組ではまずナレーションでショスタコーヴィチがこの楽曲で描いたのは「ファシズム」であるとした上で、さらに字幕付きで――「ファシズムは単にナチズムを/意味するのではありません/この音楽は恐怖 屈辱 魂の束縛を語っているのです/交響曲第7番はナチズムだけでなく/今のソビエトの体制を含む/ファシズムを描いたのです」。これを見て、ああ、そう来たかと……。
この発言、字幕では「ショスタコーヴィチの発言より」とされていて、具体的な出典については示されていなかったのだけれど、見当はつく。多分、フローラ・リトヴィノワの回想録だろう。交響曲完成直後の1941年12月27日にクイビシェフで開いたホームパーティーで、おそらくは大作を書き上げた直後という高揚感から交響曲の一節を自ら演奏して見せるという大サービスの後、口々に賛辞を贈る招待客にショスタコーヴィチが語った言葉として招待客の1人であるフローラ・リトヴィノワが書き記したもの。ここは、孫引きということにはなるものの(この回想録が一般に知られるようになったのは本書によってなので、むしろ出典という意味でもこちらかと)、ローレル・E・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』(アルファベータ)より関連の下りを紹介――と行きたいところなのだけれど、生憎と現在、県立図書館は休館中でして。言うまでもなく、緊急事態宣言の影響です(今、ワレワレはナチス・ドイツならぬ新型コロナウイルスに包囲されている!)。ということで、ここはInternet Archiveで電子貸し出しが行われている同書の英語版、Shostakovich: A Lifeより紹介するなら――
When Dmitriy Dmitriyevich finished playing, everyone rushed up to him. He was tired, agitated. Everyone spoke at the same time. About this theme [the “invasion” episode of the first movement], about fascism. Someone immediately dubbed the theme “ratlike.” They spoke about the war, struggle, and Victory.... Samoused predicted enormous success for the symphony: it will be played everywhere.Later that evening ... I looked in again on the Shostakoviches to drink tea. Naturally, they were talking about the symphony again. And then Dmitriy Dmitriyevich said reflectively: “Fascism, of course. But music, real music, is never attached literally to a theme. Fascism isn't simply National Socialism. This music is about terror, slavery, the bondage of the spirit.” Later, when Dmitriy Dmitriyevich became used to me and began to trust me, he told me directly that the Seventh (and the Fifth as well) are not only about fascism but about our system, in general about any totalitarianism.
ね。間違いありませんよね。で、これはなかなか含蓄があるわい、と。というのも、実はこれと同じようなことをショスタコーヴィチは他の機会でも語っていて、よく知られているということでいえば、むしろこちらの方がよく知られていると言っていいのでは? で、こちらについては日本語版が手元にあるので、日本語訳で紹介するなら――
第七交響曲は戦争のはじまる前に構想されていたので、したがって、ヒトラーの攻撃にたいする反応として見るのはまったく不可能である。「侵略の主題」は実際の侵略とはまったく関係がない。この主題を作曲したとき、わたしは人間性にたいする別の敵のことを考えていた。
当然、ファシズムはわたしの嫌悪を催させるが、ドイツ・ファシズムのみならず、いかなる形態のファシズムも不愉快である。今日、人々は戦前の時期をのどかな時代として思い出すのを好み、ヒトラーがわが国に攻めてくるまでは、すべてがよかったと語っている。ヒトラーが犯罪者であることははっきりしているが、しかし、スターリンだって犯罪者なのだ。
ヒトラーによって殺された人々にたいして、わたしは果てしない心の痛みを覚えるが、それでも、スターリンの命令で非業の死をとげた人々にたいしては、それにもまして心の痛みを覚えずにはいられない。拷問にかけられたり、銃殺されたり、餓死したすべての人々を思うと、わたしは胸がかきむしられる。ヒトラーとの戦争がはじまる前に、わが国にはそのような人がすでに何百万といたのである。
戦争は多くの新しい悲しみと多くの新しい破壊をもたらしたが、それでも戦前の恐怖にみちた歳月をわたしは忘れることができない。このようなことが、第四番にはじまり、第七番と第八番を含むわたしのすべての交響曲の主題であった。
結局、第七番がレニングラード交響曲と呼ばれるのにわたしは反対しないが、それは包囲下のレニングラードではなくて、スターリンが破壊し、ヒトラーがとどめの一撃を加えたレニングラードのことを主題にしていたのである。
これは、相当のストロングワードですよ。その攻撃力たるやハンパない……。ともあれ、こちらの出典は何かというと、日本では1980年に刊行された『ショスタコーヴィチの証言』(中央公論社)。この本、ワタシは発売当時に読んでおりまして、それはもう大変な衝撃を受けたものです。そして、ショスタコーヴィチのレコードを買いまくる――という、それまでジャズや演歌を聴きまくっていた人間としては相当、飛躍した行動を取ることになったのだけれど……まあ、それほどこの本には感じるところがあったということだね。中でも「わたしの交響曲は墓碑である」という、章題からして相当にインパクトのあるチャプターにあってひときわ強力なインパクトを放つ↑の下りについては今なおわが〝灰色の脳細胞〟に鮮明に記憶されておりまして、ワタシにとってショスタコーヴィチと言えばまずはこの発言ですよ。一方、日本では2002年に刊行された『ショスタコーヴィチ ある生涯』で知られるようになった発言の方(もともとのフローラ・リトヴィノワ名義の回想録は1996年にロシア国内で発行されている雑誌に寄稿されたものという)は、内容的には似たようなものだとも言えるのだけど、インパクトという点ではかなり劣る。なにしろこちらにはスターリンのスの字も出てこない。やっぱり「スターリン」という単語は欲しいよねえ。そう考えるならば、『映像の世紀プレミアム』の制作陣はなぜ『ショスタコーヴィチの証言』で紹介されている発言の方ではなく、『ショスタコーヴィチ ある生涯』で紹介されている発言の方を採用したんだろう? と、そんなふうな疑問に駆られる人は――まずいない。そりゃあ、『ショスタコーヴィチの証言』の一節を「ショスタコーヴィチの発言」として紹介するのは躊躇われるよなあ……。
『ショスタコーヴィチの証言』(以下、原則として『証言』と略記)をめぐっては、その信憑性をめぐって激しい論争が繰り広げられており、なんとThe Shostakovich WarsなるPDFまで作成・公開されている。いかにこの論争が苛烈であるかがこの表題からもうかがえると思うのだけど――ま、アレですよ。『東日流外三郡誌』をめぐる真書派と偽書派の論争、アレに似ていると言えば、当らずと雖も遠からず? 実際、『証言』の信憑性に疑問を投げかける立場からすれば、『証言』は「偽書」ということになる。そして、ご丁寧にもと言うべきか、ウィキペディアの「偽書」の記事にも「偽書の可能性が指摘されている史料の例」として挙げられているというね。まあ、あくまでも「可能性が指摘されている」というレベルで、そう断定されているわけではないんだけれど、でも「皆様のNHK」としてはとてもそんな本の一節を「ショスタコーヴィチの発言」として紹介するわけには行きませんよねえ。ということで、『交響曲第7番』に作曲家が込めた思いということで紹介する「ショスタコーヴィチの発言」はローレル・E・ファーイが『ショスタコーヴィチ ある生涯』の中で紹介している発言の方――ということになったんだろう。ただ、よりによってローレル・E・ファーイの著書から引っ張ってきたというのは……。
実はThe Shostakovich Warsとも評されるこの苛烈な論争の口火を切ったのは他ならぬローレル・E・ファーイなのだ。日本では1980年10月に刊行された『証言』ではあるけれど、海外ではちょうど1年前の1979年10月にアメリカとドイツで同時発売されている。そして、それから1年後の1980年10月、1編の論文がThe Russian Reviewというアメリカの学術誌に掲載された。題してShostakovich versus Volkov: Whose Testimony?。これこそは、以後、40年に渡って繰り広げられることになる同書の信憑性をめぐる論争の口火を切るものだった。そして、その著者こそはローレル・E・ファーイなのだ。
ということで、一体、『証言』の何が問題なのか? それについてザックリとしたあらましのみここで記しておくと――まずはそもそも『証言』とはどのような著作なのか? これがある種の「回想録」であることは間違いない。ただ、よくあるタイプの回想録とはいささか制作過程が異なる。よくあるタイプの回想録というのは、ある人物(多くの場合は著名人)が自らの人生、経験、見聞などを、自らが直接ペンを執って文字にするか、さもなくば然るべき人物に口述筆記させるというのが一般的で、後者の場合は口述筆記した人物は共同執筆者(ないしは編者)としてクレジットされることもあるものの、黒衣としてその存在が伏せられる場合も少なくない。そして、そのような共同執筆者のことを俗にゴーストライターと呼んだりするわけだけれど、ただ、本当を言うと、このケースの場合、ゴーストなのはメインの執筆者の方で、だからこそ例の松本伊代の「まだ読んでないんですけど」みたいな迷言だって生まれるわけだよね。ゴーストライターと呼ばれるべきは名義人の方……というような話は置いといて――『証言』も大きく言えばこの後者の方法で制作されたと言えないこともない。ただ、その制作過程は相当にイレギュラーなものだった。というのも、『証言』はショスタコーヴィチが語ったことが逐語的にテキスト化されたものではないのだ。これについては『証言』の「編者」とされているソロモン・ヴォルコフも「編者序」において次のように記している――
彼はしばしば矛盾したことを語っていた。そんなとき、彼の言葉の真意を、二重底の箱から引き出し、推測せねばならなかった。わたしの忍耐は彼のむら気と戦った。いつでも疲れ果てて、わたしは帰ってくるのだった。速記メモの量は増していった。それを何度も読み返し、鉛筆の走り書きのなかから、わたしの聞いた多様な文体をもつ文章を作り出そうと試みた。
実は『証言』という一巻の回想録においてショスタコーヴィチは実に理路整然とした語り口をワレワレに披露してくれている。しかし、実際にソロモン・ヴォルコフがショスタコーヴィチから聞いた話はとてもそんなものではなかったわけだね。それを、かくも理路整然とした話に作り上げたのは「編者」たるソロモン・ヴォルコフその人ということになる。ソロモン・ヴォルコフは「編者序」でショスタコーヴィチから彼が期待したような話を引き出すために「時には同じ質問を形を変えてくり返さねばならなかった」――とも記していて、そんなふうに少しずつ少しずつショスタコーヴィチから言葉を引き出していったというのが彼が行なったインタビューの実態だったと見ていい。で、そんなふうに引き出された断片的な追想をこれほど理路整然とした「回想録」として再構成するというのは相当の力技。単にショスタコーヴィチが語ったことを、多少、前後を入れ替えたり、言葉を補ったり――という程度のことではここまで理路整然とした「回想録」に仕立て上げることはできなかったはず。おそらくは相当大胆な加筆が行われているであろうことは容易に想像がつく。まずこの時点で『証言』の信憑性には一定の疑問符が投げかけられることになるのは避けられない。ただ、制作過程がそのようなものであったとしても、最終的にでき上がった原稿に当人が目を通して、これでよし、とお墨付きを与えていたとしたら、話は違ってくる。その場合は、そこに記されていることを「ショスタコーヴィチの言葉」と受け止める必然性が生じてくる。そして、ソロモン・ヴォルコフが英語版の出版元であるハーパー&ローに持ち込んだタイプ原稿にはその「お墨付き」が記されていたのだ。それが本書を構成する全8章のタイプ原稿の1ページ目にショスタコーヴィチの手によって記された「読んだ(Chital)」という書き込みと当人の署名。再び「編者序」より引くなら――
集められた資料を適切につなげて脈絡のある節にまとめ、ショスタコーヴィチに見せると、彼はわたしの仕事を認めてくれた。文章として書き直されたものが彼に深い感銘を与えたのは明らかだった。わたしは少しずつ、この膨大な回想を適当な章にまとめて、タイプに打った。ショスタコーヴィチはそれを読み、それぞれの章に署名した。
この署名こそは『証言』がまぎれもなくドミートリイ・ショスタコーヴィチその人の「言葉」を記したものであることの証し――とソロモン・ヴォルコフは主張しているわけだけれど――さて、そんな『証言』の信憑性をめぐって最初に疑義を提出したのは、既に触れたようにローレル・E・ファーイという、当時、まだ30歳の音楽学者。1978年にはショスタコーヴィチの後期弦楽四重奏曲をテーマとする論文で博士号を取得しており、ショスタコーヴィチの音楽には一家言も二家言も持っていた。なんでも彼女はドミートリイ・ショスタコーヴィチの回想録が出版されるらしいという噂を聞きつけ、ヴォルコフに手紙を書いて協力を申し出ていたとか。しかし、その申し入れにヴォルコフは特段の反応を示さなかったらしい。そんなことがなんらかの影響を与えたのかどうか、『証言』刊行からちょうど1年後となる1980年10月になってその信憑性に深刻な疑義を投げかけることになる論文は他ならぬローレル・E・ファーイの手によって発表されることになる。彼女の指摘した疑義とは――『証言』にはショスタコーヴィチがソ連国内で発行されている新聞や雑誌に寄稿した旧記事の使い回しと思われる個所が複数認められる、というものだった。実はそれ以前に別の人物(Simon Karlinsky)によって同様の指摘がなされており、その個所は2か所あるとされていた。この指摘に触発された彼女が『証言』を検討したところ、他にもあるわあるわ。その個所は全部で5か所に上った。つまり、他の人物が指摘した個所も含めると、全部で7か所……。
この既存記事の使い回し、今風に言うならば〝コピペ〟ってことになるでしょうか。もちろん、それもショスタコーヴィチが書いたものなんだから「ショスタコーヴィチの言葉」には違いない(例の『ナントカ国紀』とはワケが違う)。しかし、ソロモン・ヴォルコフが行ったインタビューとは何の関係もない旧記事がほぼそのまま(「ほぼ」が付くのは、一部、年月日に関係する記述が修正されるか削除されていることによる)使い回しされていた――ということは、『証言』のインタビュー記事としての信憑性に重大な疑義を投げかけるものであったのは間違いない。しかもこの〝コピペ〟は『証言』の信憑性に関るもう1つの、そしてより深刻な疑念を投げかけるものだった。というのも、その全部で7か所見つかった既存記事の使い回し部分というのは、すべて各章の冒頭部分、つまり『証言』がまぎれもなくドミートリイ・ショスタコーヴィチその人の言葉を記したものであることの証しとされる「読んだ」という書き込みと当人の署名が記されているページだというのだ。『証言』の信憑性を担保するものとされてきた書き込み(ファーイは論文の中で「裏書き(visa)」と呼んでいる)が全て既存記事の使い回し部分にされているとなると、コトは重大と言わざるえない。なぜなら「読んだ」という書き込みと署名が効力を発揮しうるのはその使い回し部分のみに限られる、ということにもなりかねないのだから。
ただし、『証言』は全部で8章から成る。そして、その全ての章の1ページ目にはショスタコーヴィチによる「読んだ」という書き込みと署名がある――というのがハーパー&ロー側の説明。しかし、ファーイらによって発見された使い回し部分は全部で7か所。実はこの7か所というのは第2章から第8章までの各1ページ目。しかし、残る第1章の1ページ目についてはファーイらの懸命の努力にもかかわらず、それがいずれかの既存記事の〝コピペ〟であることはついに確認できなかった。このことは、一見、些細なことのように見えて、実は『証言』を偽書と見なすものたちからすればどうしても解決しなければならない難問(conundrum)だった。だって、第1章の1ページ目と言えば、まさに本のフロントページ。そこにショスタコーヴィチの「お墨付き」が記されているのが間違いないとするなら、その効力は本全体に及ぶと言えないこともないのだから。当然のことながら、真書派がこの事実を盾に『証言』の信憑性をアピールするのは明らか。しかし、この難問についに解答が与えられた(My examination of the Moscow copy of the Testimony typescritp, however, has finally provided the answer to this lingering conundrum.)――と、そうローレル・E・ファーイは2000年にロシア国内で発表した論文(Vozvrashchaias' k “Svidetel'stvu”。その後、2004年にアメリカで刊行されたA Shostakovich CasebookにVolkov's Testimony Reconsideredとして再録)の中で主張。実は彼女はこの年9月、モスクワのShostakovich Family Archiveに所蔵されているという『証言』のタイプ原稿のフォトコピーを分析する機会を与えられたというのだ。その結果、実はそれまで全て各章の1ページ目になされていると説明されていた書き込みと署名は第1章に関しては1ページ目ではなく、3ページ目になされていることがわかったのだ。そして、その3ページ目の内容を分析したところ、1966年にSovetskaya Muzykaという雑誌に掲載された回想録の一節と一言一句違わないことがわかったのだ。この瞬間、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の「八行の玉」がついに偽書派の手元に揃った……?
――というような次第で、いよいよ『証言』の信憑性は根底から揺さぶられる事態となったわけだけれど、にもかかわらず『証言』は真書であるとする勢力は依然として存在する。↑で紹介したThe Shostakovich WarsなるPDFファイルを作成したのも、実は真書派。あえてPDFファイルとして誰もが閲覧できる状態で公開しているのも、自分たちの主張を1人でも多くの人に知ってもらいたいからだという。その主張を一々ここで紹介することはワタシの任務ではないと思うのでご容赦いただきたいと思いますが、1つ書いておくなら、ローレル・E・ファーイが分析したというタイプ原稿はオリジナルではない可能性が高い。おそらくはフィンランド語版の翻訳者(Seppo Heikinheimo)が私的にコピーしたものと考えうる高い蓋然性があるらしい。そして、フィンランド語版の翻訳過程で行った「改変」が加えられている可能性も。ただ、なんとも言えんよなあ、真書派だってブツを見て言っているわけじゃないんだし。これは、まあ、ソロモン・ヴォルコフなりハーパー&ローなりがオリジナル原稿を公開すればハッキリする話なんだけど、ソロモン・ヴォルコフの説明では、オリジナル原稿はスイスの銀行に保管していたものの、1997年か98年にさるコレクターに売却してもう手元にはないと。えー、本当? 怪しいなあ……(個人の感想です)。で、これだけだと若干、真書派に不公平になるので(読み返してみてそういう印象を持ちました)、もう1つだけ書いておくなら、実は彼らには1つ〝切り札〟があるのだ。それは、『証言』には実際にショスタコーヴィチに取材したものでなければ書きえない、言うならば〝秘密の暴露〟が含まれているのだ。しかも、いくつも。中でも特筆すべきは、『証言』刊行時点ではその存在すら知られていなかった「反形式主義的ラヨーク」への言及(と思われる発言)が含まれていること。この楽曲は「ショスタコーヴィチの生前は、肉親やごく親しい友人の前でしか演奏されなかった」(ウィキペディア)とされており、ショスタコーヴィチの生前に刊行された全集にも収録されていない。しかし、1989年になってムスティスラフ・ロストロポーヴィチの指揮によって事実上の初演が行われ、ようやく人々の知るところとなった――というシロモノで、ショスタコーヴィチの生前にはその存在すら知られていなかった。ところが、そんな「反形式主義的ラヨーク」への言及(と思われる発言)が『証言』には含まれているのだ。なんでも「反形式主義的ラヨーク」というのは1948年にソ連の芸術界に吹き荒れた「ジダーノフ批判」をテーマとしているとかで、ジダーノフの演説や、スターリンの愛したグルジア民謡「スリコ」の引用、また自国の歴史的な作曲家の氏名さえ正しく発音できない官僚などを当てこすったとされる特徴的な音節などで構成されているという(というのは、全てウィキペディアの記事の受け売りであります。ワタシには到底、この楽曲について解説するだけの音楽的教養は備わってはおりません)。そして、『証言』にはそんな楽曲への言及が含まれているというのだ。それがこの下りなんだけれど――
こういうことをひとまとめにして、党は音楽芸術を根絶から救ったというのだった。ショスタコーヴィチとプロコフィエフは音楽芸術を根絶したいと望んでいたようだが、スターリンとジダーノフがそれを許さなかった、というわけである。スターリンはきっと満足したにちがいない。国全体が、自分たちのひどい生活のことを思いめぐらすかわりに、「形式主義」の作曲家たちとの死を賭しての戦いに立ちあがったのだから。もっとも、このことについて、わたしは何を語るべきだろうか。わたしにはこの主題を描いた音楽作品があり、すべてはそこで語られている。
これが確かに「反形式主義的ラヨーク」に言及したものなのかはワタシには判断できかねます。でも、ショスタコーヴィチに実際に取材したものでなければ、こんなふうには書けないよね。「わたしにはこの主題を描いた音楽作品があり、すべてはそこで語られている」――なんてね。だから、ソロモン・ヴォルコフが実際にショスタコーヴィチにインタビューを行ったのは間違いないだろう。そして、『証言』はそのインタビューを元に書かれている、ということも。それで、偽書? と、まあ、真書派の言い分は、そういうことになる。かくて双方一歩も引かず、という状況が40年も続いているわけだけれど、そういう状況でNHKが『映像の世紀プレミアム』において『交響曲第7番』に作曲家が込めた思いということで紹介する「ショスタコーヴィチの発言」をローレル・E・ファーイの著書から引いた――ということは、これは事実上、NHKとしては『証言』の信憑性をめぐる論争においてローレル・E・ファーイを旗頭とする偽書派の立場を支持した――と言えるのかも知れないね。で、それはいかにもNHKらしい判断だとは言える。なにしろウィキペディアのローレル・E・ファーイの記事を見ると「事実上この論争に終止符を打った立役者とされる」――なんて記述もあるくらいで、実は(少なくとも同書を「偽書」とする陣営内では)もうこの論争は決着がついた、ということになっていて、これ以上、真書派が何を言おうが、それは『東日流外三郡誌』の真書派が和田家の屋根裏には膨大な文書を収納できるスペースなど存在しないことが判明した後もなおもグダグダ言っているのと同じようなもの(?)。そんな状況にあることを考えるなら、NHKがローレル・E・ファーイの立場を支持するというのは至極当然の判断と言っていい。まあ、もしワタシが『映像の世紀プレミアム』の担当ディレクターだったとしても、同じ選択をしたかなあ……?
もっとも、この件についてのワタシ自身のスタンスはと言うと、若干、真書派寄り――というか、そうだなあ、神学論争における不可知論に近いと言えばいいか? というのも、どれだけ論争を重ねたところで、どうしようもないんですよ、この件は。ヴォルコフがショスタコーヴィチに取材して貴重なコメントを引き出したことは間違いない。このことは、偽書派も認めている。そしてその中には「反形式主義的ラヨーク」に関する発言のような〝特ダネ〟に近いものも含まれている。それを全く無視するなんて、MOTTAINAI。その一方で『証言』はヴォルコフによって相当に手が加えられており、一部は既存記事の〝コピペ〟であることも判明している。で、現状、どの部分がショスタコーヴィチの〝肉声〟でどの部分がソロモン・ヴォルコフの加筆部分かは区別ができない状態となっている。ヴォルコフはインタビューの模様を録音していないというし(その理由は「マイクを前にすると、蛇に睨まれた兎のようにショスタコーヴィチは堅くなる」からだとか。「これは、国営ラジオ放送に無理やり出演させられたことの反作用だった」――と言われれば、納得するしかない。ちなみに、ソロモン・ヴォルコフは『証言』の後にジョージ・バランシンというバレエの振付師に取材した『チャイコフスキーわが愛』という本を出しているのだけれど、こちらでは録音しているという。まあ、『証言』がこういうことになったので、さすがに同じ轍は踏むまい、と考えたということだろうね)、また速記メモもソ連を出国する際に失われたと主張している。これじゃあどうしようもないじゃないか。結局のところ『証言』は、そういうものとして(as it is)受け取る以外にはない――というのがワタシの結論というか。
で、むしろそれ(真偽論争)よりも、ワタシが今、興味を惹かれていることがある。それは、この『証言』という本を出版するに当ってハーパー&ローが見せた奇妙なふるまい。実はハーパー&ローは『証言』の出版に至る過程でなんとも奇妙なことをやっているのだ。というのも、『証言』がアメリカとドイツで同時発売となる直前の1979年8月になってある人物に同書のレビューを依頼しているのだ。で、この際、ハーパー&ローはその人物に『証言』のタイプ原稿を見せているのだ。え、そのどこが奇妙なのかって? いいですか、ハーパー&ローがこの人物に『証言』のレビューを依頼したのは同書発売の約1か月前(実はハーパー&ローと当該人物とのやりとりの中ではハーパー&ロー側から発売は2週間後という見込みも伝えられていたという)。であるならば、当然、その時点では『証言』は既に印刷中か、仮にそこまで行っていなかったとしても、少なくとも組み版等の作業は既に終っており、編集部には刷り出し(刷り見本)も届けられていたはず(ちなみに、ワタシは20代の一時期、飯田橋・神楽坂界隈の零細印刷関連企業を転々としていたことがあります。やっていたのは主に製版ですが、1冊の本がどのような工程を経て誕生するかは承知しているつもりです)。であるならば、当該人物に見せるのも、普通ならば印刷原稿ですよ。しかし、なぜかハーパー&ローの編集部はタイプ原稿を見せている。これって、奇妙だと思いません? これがですね、まだその時期というのが同書の出版を決定する前で、むしろ出版の可否を判断する参考とすべく当該人物にレビューを依頼した、というのならばタイプ原稿を見せるというのもわからないではない。いや、その場合でもソロモン・ヴォルコフが持ち込んだタイプ原稿をそのまま見せるということはしないんじゃないかなあ。社内でそれを活字に組んだ上で見せるというのが普通では? ましてや(ハーパー&ロー側の話では)発売を2週間後に控えた段階でタイプ原稿を見せなければならない理由はなにもないと言わざるをえない。しかし、なぜかハーパー&ローはタイプ原稿を見せた。これは奇妙ですよ。そして、こんな普通ならまずやらないようなことをやったのには必ずなにかしらの意図があったはず。その意図を探っていけば、もしかしたら同書の真偽論争にもなにか新しい視座が得られるかも知れない……。
ということで、まずはこの謎に満ちたレビューの経緯をもう少し詳しく見て行きたいと思うのだけれど、これについては当のレビュアーが1997年から1998年にかけてある音楽学者のインタビューを受けているので、それに沿って話を進めることにすると――この人物、ヘンリー・オルロフがハーパー&ローから最初にレビューの依頼を受けたのは1979年4月のことだった。つまり、『証言』がアメリカとドイツで同時発売される6か月前のこと。しかし、この際、オルロフはハーパー&ローの依頼を断っている。なぜか? 実はハーパー&ローがオルロフに提示した条件がきわめて特異なものだったのだ。ここは当該インタビュー記事(An Episode in the Life of a Book: An Interview with Henry Orlov by Liudmila Kovnatskaya)で紹介されているハーパー&ローのシニアエディター、アン・ハリス名義の書簡の一節をそのまま引くなら――
The terms under which this reading will take place are that it will be reviewed in our offices at 10 East 53rd Street, New York, N.Y.: and that in order to preserve the confidentiality of the memoirs, the manuscript must be read in the presence either of myself or my editorial assistant. Any notes that you may make while reviewing it will have to remain in our possession except while you are reading it or preparing your opinion. In order that you have access to these notes while preparing that opinion, I or my editorial assisatant will be present during that prosecc as well. When you have completed ti, you will give us the written opinion and your notes. Confidentiality requires that you not retain any copies of the opinion, the notes, or the manuscript.
For the same reasons of confidentiality, we must ask that you agree not to disclose any information about the manuscript without our prior written permission.
場所はハーパー&ローの社内。しかもハーパー&ローの社員の立ち会いの下で。また取ったメモを手元に残すことは許されず、さらには見た内容を口外しないという守秘義務まで課されるという……。一体何ですか? これは。まるでスパイ小説ではないか。特に取ったメモを手元に残してはいけない――てのは、アレですよ、Your eyes onlyってやつですよ。これを受けてインタビュアーは「まるでスパイに守秘義務を課す政府機関の書簡のようだ」と印象を述べているのだけれど、その通りだよねえ。で、こんなんじゃやってらんない、ということで、ヘンリー・オルロフはオファーを断ったそうだ。ところが、それから4か月後の8月24日になって再びハーパー&ローからレビューの依頼が舞い込んだ。しかも、条件については前回と比べると相当、緩和されているというか。場所はハーパー&ローの社員の立ち会いを条件にオルロフの自宅でも結構とされ、オルロフがタイプ原稿を書斎に持ち込むのも可とされた。またメモを手元に残すことは認められない、という条件も削除された。ただし、相変わらず厳しい守秘義務が課される点は変わりなし。出版社が事前にレビューを依頼する場合の条件としては相当に特異なものであることは基本的には変わりはないでしょう。しかし、オルロフは今回はオファーを受けた。その理由としてオルロフはハーパー&ローから提示された謝礼の金額が$500だったという「気前の良さ(munificence)」を挙げているのだけれど――ま、これには多少の照れも含まれているでしょう。もしワタシが彼の立場だったら、こんな特異な条件を課してまでレビューを求める本て一体どういうものなんだ? と、むしろそんな好奇心からきっと応諾していたに違いない。好奇心はそれほど人を前のめりにさせるものです。
で、おそらくはヘンリー・オルロフもそんな好奇心でレビューに臨むことになったわけだけれど、限られた時間(原稿はアン・ハリスがニューヨークからオルロフが住んでいたボストンまで持参し、かつその日の午後にはニューヨークに戻らなければならないというので、オルロフに与えられた時間はきわめて限られていた。結局、彼は4時間で400ページにも上るタイプ原稿に目を通し、6ページに渡るレビューを書き上げたという。ワタシには到底、達成不可能なミッションです……)の中で彼が書き上げたレビューは『証言』という本の信憑性に大いなる疑義を呈するものだった。実は、この際、彼が書き上げたレビューは同書のブラーブで使われることもなく(一般的に出版社が出版前に批評家等にレビューを依頼するのは、本の帯や裏表紙等に推薦文として掲載するのが目的)、一切、公表されることはなかったそうなのだけれど、このインタビューを機に全文を公開。それを読むと、なぜオルロフが『証言』の内容に懐疑的な見方を示すことになったのかがわかる。実はそれはあれやこれやの彼が知りえた事実と『証言』に記されていることとの整合性の問題もさることながら(これについてもいくつか重要な指摘がなされてはいる)、それ以上にタイプ原稿のコンディションにあったことがわかる。ここは重要な部分なので彼が書いていることを直接、読んでもらうことにするなら――
Significantly enough that, except for the inscription by his hand at the head of each of the eight chapters, the manuscript bears no traces of his handwriting, no alterations or even slight corrections. It would be neive [sic] to assume that Schostakovich agreed with every word written on his behalf by Mr Volkov.
なんと、彼が見せられたタイプ原稿にはショスタコーヴィチの「読んだ」という書き込みと署名以外には一切、何の書き込みも手直しもわずかばかりの訂正の痕跡もなかったというのだ。既に記したように『証言』はヴォルコフがショスタコーヴィチから引き出した断片的な追想を「適切につなげて脈絡のある節にまとめ」たもので、決してショスタコーヴィチが語ったことを逐語的に書き起こしたものではない。文字化されたものには、相当程度、ヴォルコフによって手が加えられており、そうすることでどうにか「脈絡のある節」に仕立て上げられた――という態のシロモノであると見なすべきで、当然のことながらショスタコーヴィチからすれば、おいおい、オレはこんなことを言っていないぞ、という部分だって至るところにあるだろうし、内容的にはまあまあこんなものかと納得するにしても、もう少し表現は何とかしてくれよ、という部分だって当然、あるはず。さらには、この部分はカットして欲しいとか、逆にこれこれの話を加えて欲しいとか……、もう数限りない注文があるはず。そうした注文なり意見なりダメ出しなりで真っ赤(あるいは真っ黒)になった原稿がライターの元に戻され、それを受けてライターが手直しし、再びクライアントの高覧に供され、さらなる注文・意見・ダメ出しがなされ……というようなことが何度かくり返されてようやく「回想録」というものはでき上がる――と想定するならば、そうした痕跡が全く認められないというのはいかにも妙ではないか? それともオルロフが見せられたタイプ原稿はそうしたプロセスを経て最終的にできあがった決定稿だったということだろうか? しかしヴォルコフは『証言』の「編者序」で同書の制作過程でショスタコーヴィチとの間でそのような作業がなされたということは記していない。「編者序」を読む限り、原稿のやり取りは各章ごとに1回限りで、その1回限りの〝著者校正〟で彼はショスタコーヴィチからOKをもらったということになる。それは、つまり、ショスタコーヴィチは、ヴォルコフが書き記した一言一句に無条件で同意したということになるわけだけれど、そんなふうに想定することはあまりにも「無邪気(naive)」である――とオルロフは書いているわけだね。で、これは全く以てその通りで、ありえないですよ、そんな話。これを踏まえヘンリー・オルロフは少なくともヴォルコフが「編者序」で説明している同書の作成プロセスに大いなる疑義を呈することになるわけで、ひいては『証言』のインタビュー記事としての信憑性にも根本的な疑問を抱かざるをえないってもんですよ……。
――と、まあ、ヘンリー・オルロフが行ったレビューというのは粗々こんな感じだったんだけれど――さて、今、ワレワレが問題にしているのは、なぜハーパー&ローの編集部はオルロフにレビューを依頼するに当って印刷原稿ではなくタイプ原稿を見せたのか? だった。それがいかに奇妙なふるまいだったかについては本稿の読者にもご理解いただけたと思うのだけれど、しかしヘンリー・オルロフからするならば見せられたのがタイプ原稿だったのは幸いだったに違いない。だって、原稿にはショスタコーヴィチの「読んだ」という書き込みと署名以外には一切、何の書き込みもない――というのは、見せられたのがタイプ原稿だからわかったわけで、もし見せられたのが印刷原稿だったら、そんなのわかりっこなかった。その場合は『証言』の信憑性について検討するにしても、彼が知りえたいくつかの事実との整合性を元に判断するしかなく、はたしてどこまで踏み込んだ評価が可能だったか? 与えられたのが4時間という限られた時間だったことを考えるなら、きわめて漠然とした評価を下すしかなかったのでは? 仮にハーパー&ローの編集部が出版2週間前というタイミングでレビューを依頼してかくもネガティブなレビューを頂戴することになったことをエディターシップの失敗だったと見なすならば、その失敗の元はレビューに当ってタイプ原稿を見せたことにあると言うことができる。だからね、もうホントにハーパー&ローの編集部はなぜオルロフにタイプ原稿なんて見せたんだ? と、いよいよその挙動が不審に思えてくるわけだけれど……さて、アナタはこれについてどういう可能性がありうるとお考えになるでしょうか? 別に印刷原稿を見せれば済むものをわざわざタイプ原稿を見せたことによってレビュアーからきわめてネガティブなレビューを頂戴することになった、このエディターシップの〝失敗〟。その由って来たるユエン……。ワタシの考えはこうだ――実はこれは失敗でもなんでもなかった、彼らは意図してそうしたのだと……。
ここで、大方の読者にとっては、おいおい、そんな話、聞いたことがないぞ、というような話をしたい。既に記したように『証言』は刊行直後からその信憑性をめぐって疑義が投げかけられるという非常に不幸な経緯をたどって今日に至っており、今では半ば偽書と断定されたかのような雰囲気さえあるのだけれど、実はこれは『証言』という書物にとっては必ずしも不幸なこととは言えない。むしろ、幸いだったとさえ言えるくらい。なぜか? 実は『証言』はその信憑性をめぐって激しい論争が繰り広げられており、しかもその論争は偽書派の有利で推移している――という、この状況こそは『証言』という書物が図書市場に流通しつづけるには絶対に必要な条件だったのだ。どういうことか? もし『証言』という書物をめぐってその信憑性をめぐる論争が繰り広げられるという事態が生じておらず、誰もがそれをショスタコーヴィチの〝肉声〟を記録した真書であると見なすような状況だったとするなら、おそらくこの本はとうに書店から姿を消していただろう。なぜなら、その場合は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの未亡人であるイリーナ・ショスタコーヴィチに同書の発売差し止めを求める権利が生じるので。実はイリーナ・ショスタコーヴィチは実際に『証言』の出版が準備されていた1978年9月にソ連邦著作権事務所(All-Union Copyright Agency)を通してハーパー&ローに対し著作権を盾に同書の発売中止を申し入れているのだ。この経緯については公式文書を元にその経緯をまとめたソ連の新聞記事(A Shostakovich Casebookに収録。ちなみに、記事を提供したのはローレル・E・ファーイ)から知ることができるのだけれど、これはハーパー&ローからするならば誠に憂慮すべき事態だったに違いない。確かにイリーナ・ショスタコーヴィチには同書の発売中止を求める権利が存在する。このことは、たとえば三島由紀夫の未亡人である平岡瑤子が、三島の死後、著作権を盾にめったやたらと出版差し止め訴訟を連発したことを思い起していただければ容易にご理解いただけるはず。平岡瑤子が連発した出版差し止め訴訟の数々についてはぜひウィキペディアの当該記事を参照していただきたいと思いますが、拙サイトの過去記事との関連で1つだけ挙げておくならジョン・ネイスンの『三島由紀夫 ある評伝』の回収・発売停止措置。「三島の同性愛に深く踏み込んだ内容が未亡人瑤子の怒りに触れて絶版に追い込まれた」――というのが、ウィキ先生が記すその理由。ともあれ、未亡人にはそういう力があるということであり、それはハーパー&ローとしても認めざるをえない。そして、ハーパー&ローのような名門出版社が著作権者の意向を無視した出版を行うというのは、社の方針としてもできないことだったろうと考えるならば、おそらくは『証言』の出版準備を進めていたハーパー&ロー編集部にとっての最大の懸案はイリーナ・ショスタコーヴィチが『証言』の出版にどのような立場を示すか? というところにあったに違いないだろうと思われる。そして、不安は現実のものとなった。上述の記事によれば、イリーナ・ショスタコーヴィチ(あるいはソ連邦著作権事務所)はその後も重ねてハーパー&ローに対し『証言』の出版中止を申し入れている。これは、大問題ですよ。はっきり言って、『証言』の出版は半ば暗礁に乗り上げたと言ってもいい状況だったろう。しかし、『証言』は1979年10月にアメリカとドイツで出版に漕ぎ着けている。一体、ハーパー&ローはイリーナ・ショスタコーヴィチの申し入れにどう対応したのか? これについても上述の記事に記載がある。なんとハーパー&ローはイリーナ側に対し「ショスタコーヴィチの相続人は本作品にいかなる権利も有せず、彼らの許諾は本作の出版には必要ない(Shostakovich's heirs have no rights to this work and their permission is not required to publish.)」と回答しているのだ。実はこうしたスタンスは同書の著作権表示からも見て取れる。日本語版でも英語版でも著作権者として表示されているのはソロモン・ヴォルコフだけ。イリーナ・ショスタコーヴィチはもとよりドミートリイ・ショスタコーヴィチの名前さえない。つまり、『証言』という本は著作権法上はソロモン・ヴォルコフの単独著作なのだ。日本語版ではソロモン・ヴォルコフは「編者」として表記されているのだけれど、これは間違いと言わざるをえない。『証言』はソロモン・ヴォルコフの単独著作であり、彼の本なのだ。つーか、ハーパー&ローはそういうことにして著作権法上の問題をクリアしたということ。
ただ、これはいささか危うい綱渡りだと言わざるをえない。もしイリーナ・ショスタコーヴィチがこうした言い分に納得せず、法的手段に訴えた場合、はたしてハーパー&ロー側に勝ち目はあったか? なかったのではないか? いくら名義上はソロモン・ヴォルコフの単独著作ということになっていようが、なにしろタイトルが『ショスタコーヴィチの証言』(ちなみに、英語版の原題はThe Memoirs of Dmitri Shostakovich as related to and edited by Solomon Volkov。直訳すれば「ソロモン・ヴォルコフに語られ、によって編集されたドミートリイ・ショスタコーヴィチの回想録」。なんとも回りくどいタイトルなんだけれど、これも著作権法上のハードルをクリアするための苦肉の策と考えればわかりやすい)なんだから。ドミートリイ・ショスタコーヴィチの未亡人であるイリーナ・ショスタコーヴィチには同書の出版差し止めを求める権利はある――と、素人考えでも。そして、もし『証言』刊行後に出版差し止め訴訟を起こされ、裁判所がその訴えを認めた場合、ハーパー&ローが負う損失は莫大なものになる。当然、その場合は名誉棄損だのなんだの、他の件も付随してくるのでね。だから、『証言』の出版に当っては、そういうことが万に一つも起きないような対策が講じられている必要があった――。
さて、こっからは筆者の純然たる妄想となる。『証言』の出版をめぐっては、著作権法上のリスクも勘案し、ハーパー&ローの上層部は一旦は出版見送りに傾いた――と想定しよう。確かにその方が賢明な選択ではある。ただ、現場レベルの判断は違った。なにしろ『証言』は命がけでソビエト国外に持ち出されたもの。ソロモン・ヴォルコフは「編者序」で次のように記している――
この最終稿をソ連で活字にすることが不可能なのは、二人ともわかっていたが、それを実現しようとしたわたしの何度かにわたる努力は空しく終わった。わたしは原稿を西側に運び出すことを決意し、ショスタコーヴィチも承諾した。彼の唯一の強い願望は、この本を自分の死後に刊行したいということであった。「わたしが死んだら、わたしが死んだら」と彼はよく語っていた。新たな試練を受ける心構えがショスタコーヴィチにできていなかったのは、彼があまりに弱く、病気で疲れていたせいである。
(略)
その後、まもなく、わたしはソヴェト政府に出国許可を申請した。一九七五年八月、ショスタコーヴィチは逝った。七六年六月、わたしはニューヨークに来て、この本を公刊する決心をかためた。この原稿を無事に、ここまで完全な形で運ぶのを手伝ったくれた勇気ある人々(その幾人かについては名前さえ知らない)に感謝したい。
まるで五木寛之の『蒼ざめた馬を見よ』みたいな話じゃないか。「自由の国」アメリカでこんな経緯で持ち込まれた原稿がボツにされるなんて、あってはならない――、ハーパー&ローの編集部はそんな使命感にも似た思いで真っ赤に燃え上がったと考えよう。そして、なんとかいい方法がないものかと編集部員が頭を悩ませる中、誰かがとんでもないことを思いついた――だったら『証言』は〝偽書〟として出版すればいい……。
イリーナ・ショスタコーヴィチが『証言』の出版を差し止めることができるのは、同書が真書であった場合のみ。その場合、彼女は同書の正当な著作権所有者となるわけだから、彼女の了解を得ない出版はできない、ということになる。でも、『証言』が〝偽書〟だったら? その場合、そんな権利は彼女には生じない。だって、その場合、ドミートリイ・ショスタコーヴィチはその本とは何の関係もない、ということになるのだから。当然、著作権も発生しない。必然的にドミートリイ・ショスタコーヴィチの未亡人であるイリーナ・ショスタコーヴィチは『証言』に対するいかなる権利も有さない――ということになる。結果、ハーパー&ローは堂々と『証言』を出版することができる……。
実はA Shostakovich Casebookを読むと、件の記事の著者(無署名)は「ショスタコーヴィチの相続人は本作品にいかなる権利も有せず、彼らの許諾は本作の出版には必要ない」というハーパー&ロー側の回答を受けて「出版社でさえ〝回想録〟の信憑性を信じていないのは明らかである」と結論づけている。この反応は、ハーパー&ローの側からすれば願ったり叶ったり。もしイリーナ・ショスタコーヴィチもそういうふうに受け取ってくれるのならば、『証言』出版に向けた最大の障害は取り除かれたと言っていい。実際、以後、イリーナ・ショスタコーヴィチは『証言』を偽書として非難することはあっても、その出版差し止めを求める訴訟はついぞ提起することはなかった。そして、今日でも『証言』は世界の図書市場で流通しつづけている。そんなことがなぜ可能だったかといえば、それは『証言』の信憑性をめぐって激しい論争が繰り広げられ、しかもその論争は偽書派の有利で推移している――という、この40年間に渡る状況があったればこそ。もしそうじゃなかったら『証言』はとっくに書店から姿を消していただろう。で、そう考えるならば、なぜハーパー&ローの編集部が『証言』の発売2週間前というタイミングでヘンリー・オルロフにレビューを依頼し、『証言』のタイプ原稿を見せたのか? という疑問にも1つの答が見えてくるような。ハーパー&ローの編集部はヘンリー・オルロフに〝発見〟してほしかったのではないか、『証言』の信憑性に疑問を抱かざるをえないようなタイプ原稿の孕む疑問点に。そして、そのことを外部に訴え、『証言』の信憑性をめぐる大論争を巻き起こしてほしい……。当然のことながら彼らだってヴォルコフが持ち込んだタイプ原稿には到底、見逃すことのできない疑問点があることは承知していたはず。なにしろ彼らは出版のプロなんだから。気がつかないはずはない。気がついていながら、それを外部の人間に見せているのだ。そのふるまいの背後にはなにか特別の意図が潜んでいたと考えるのは理の当然。彼らは、間違いなく、ヘンリー・オルロフに、『証言』のタイプ原稿が孕む重大な疑問点を〝発見〟してほしかったのだ。そして、彼らの狙いは、達成された。ヘンリー・オルロフはレビューにおいて見事にタイプ原稿が孕む疑問点を指摘してみせたのだから。しかし、彼らがヘンリー・オルロフにかけたもう1つの期待――その疑問点を外部に訴えてほしい、そして信憑性をめぐる論争を巻き起こしてほしい――という狙いは達成されなかった。彼らの読みとしては↑で記したような厳しい守秘義務を課せば、逆に人は外に洩らしてしまうもの――。しかし、意外にも(?)オルロフは約束を守った。いや、実際にはオルロフは1979年9月に受けたBBCのインタビューでこのことを語っている(当人の弁によれば、親交のあったBBCの特派員との非公式な電話インタビューを勝手に放送されたものだという)。しかし、それがきっかけでアメリカ国内で論争が巻き起こるということにはならなかった。ところが、天網恢々疎にして漏らさず。事前にハーパー&ローの編集部が予想だにしていなかったことが起きた。それがローレル・E・ファーイによる〝告発〟。多分、ハーパー&ローの編集部も『証言』に既存記事の使い回しが含まれていることは把握していなかったんじゃないかなあ。よほどショスタコーヴィチに詳しいものでなければ、ソビエト国内で発行された新聞・雑誌に寄稿された記事なんて知らないでしょう。実際、ショスタコーヴィチの権威とされたヘンリー・オルロフだってこれについては見抜けなかったわけだから。だから、ハーパー&ローとしては、ローレル・E・ファーイによる指摘は相当のサプライズだったに違いない。へえ、ソロモン・ヴォルコフはそんなことまでやっていたのか……。しかし、これによって『証言』はその信憑性をめぐる大論争の中に投げ込まれることになった。『証言』の編集スタッフはこのことを嘆いたのか、それとも……。
さて、なぜハーパー&ローの編集部が『証言』の発売2週間前というタイミングでヘンリー・オルロフにレビューを依頼し、『証言』のタイプ原稿を見せたのか? その意図を探っていけば、もしかしたら同書の真偽論争にもなにか新しい視座が得られるかも知れない……と、ワタシは↑の方で書いたのだけれど、得られましたかねえ、「新しい視座」。その判断は読者に委ねるのが筋だとは思いますが――ただ、ワレワレはこれからも『証言』の信憑性をめぐって大いに〝戦争〟を繰り広げるべきなのだ――少なくとも、イリーナ・ショスタコーヴィチが健在なうちは(イリーナ・スピーンスカヤ・ショスタコーヴィチは現在、86歳。パリで「ドミートリ・ショスタコーヴィチ・インターナショナル・アソシエーション」という亡夫が遺した作品の保存・普及・紹介等を行う事務所の副代表を務めている)。『証言』は偽書だから(あるいは、偽書という疑いがかけられているから)出版差し止めを免れている――という、本稿で唱えたトンデモ説を踏まえるならば、そういうことになる。そして、そんなバカなことを言っているやつはこれまで誰もいなかった――とするならば、それこそは「新しい視座」……。