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MARCHと赤門①
もしくはミシマについて語るときにワタシの語ること

 20代の一時期、コネで紛れこんだ編プロでライターの真似事をやっていたことがあって、その際、2度ほど東大の安田講堂に足を踏み入れたことがある。MARCH(当時はこんな呼び名はなかったと思うけどね)出身者としてはなかなかにプレッシャーを感じる仕事で、必死で体面を繕いつつ赤門を潜ったのを覚えている。しかし、1度目の取材終了後(確か安田講堂内にある総務課で就職協定か何かについてのコメントを貰うのがワタシに課せられたミッションだった。ま、「誰にでもできる簡単なお仕事」です)に軽ーく雑談めいた感じで出身校を聞かれたのには参ったなあ。あんなこと聞きますかねえ。あと、この時の記憶としては、建物の内部にまだ安田〝砦〟攻防戦の痕跡が残されているのを目の当たりにしたこと。もうその時点で10年以上は経過していたんたけどね。で、もうこれきり安田講堂に足を踏み入れることはないだろうと思っていたら、意外にも2度目があって、今度はさる高名なジャーナリスト(東京12チャンネルで名物ディレクターとして名を馳せたあの方です)からコメントを頂く仕事。これは自分でもやる気をそそられた。で、勇んで取材を申し入れたところ、とにかく忙しいんだと。ただ、いついつならば安田講堂で講演をやるので、それが終わった後、東京駅まで移動するタクシーの中でなら話ができると。それでいいんなら、講演が終わった後、そっちで掴まえてくれと(この「そっちで掴まえてくれ」はハッキリと覚えている)。で、当日、講演終了時間の少し前には安田講堂に行って、しばらく講演を拝聴することに。確か講演終了後は詰めかけた(というほどの数でもなかったかな)学生との質疑応答も行われたはず。それを聞きながら、そういえばかつてこの場所で三島由紀夫と東大全共闘が言葉を刃に渡り合ったんだよなあ、というようなことをボンヤリと考えていたのを覚えているのだけれど……


Yasuda Auditorium

 ところが、どうやらワタシはとんでもない勘違いをしていたようだ。三島と東大全共闘の討論会が行われたのは安田講堂じゃないんだよね。駒場キャンパスの900番教室というところなんだそうです。さらに意外だったのは、この討論会は安田〝砦〟攻防戦の後に行われていること。安田講堂に立てこもった東大全共闘のメンバー数百人(実数についてはよくわかりません。ウィキペディアでは「2000人前後?」としているのだけれど、いくらなんでもこれは盛りすぎでは? またこの数字には「構内にいるのは、3割くらいが東大生で、あとは他校の学生や活動家」との注釈も付けられており、東大以外の大学の学生も相当数含まれていたらしい)を警視庁機動隊が強制排除したのは1969年1月18・19の両日。一方、三島由紀夫と東大全共闘の討論会が行われたのは1969年5月13日。これはちょっと想像だにしていなかったというか……。ワタシがこの事実を知ったのは、ほんのつい数日前のことですが、それまではてっきり時系列が逆だと思っていた。つーか、ワタシは、三島由紀夫が東大全共闘が立てこもる安田講堂に乗り込んだものと思い込んでいたのだ。そして、約1000人と言われる全共闘の猛者相手に、単身、言葉のバトルを挑んだのだと……。しかし、意外や意外、三島と東大全共闘の討論会が行われたのは、あの東大安田講堂攻防戦の後。てことは、あの日、三島が相対した1000人というのは、安田〝砦〟攻防戦でむざむざと投降することを選択した、その1000人だったということになるわけだけれど……そんな連中に向って三島は「私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。他のものは一切信じないとしても、これだけは信じるということを分かっていただきたい」と言ったわけだ。こうなると、この言葉の解釈も若干、違ってくると思うんだけどね。従来、ワタシは(いや、ワタシに限らず、世間の大方の人もそうだろうと思うのだけど)、この発言について、思想的には相容れないけれど、君たちの熱情は信じる、という意味で受け取っていた(はず)。しかし、そうではなく、君たちの行動は信じられないけれど、熱情は信じる(あるいは、信じてあげよう)、という意味だったと、そう受け取るべきなのでは? だって、あの三島が、ただの1人として死を選ばず、むざむざと機動隊に投降することを選んだ連中を「信じる」わけがないじゃないか。一説には三島は警視庁総合警備本部幕僚長として現場指揮に当っていた佐々淳行に電話をかけて学生たちが悲劇的な行動に走るのを防ぐためにヘリコプターで催眠ガスを撒いてくれと嘆願(?)したとされているのだけれど、このことから察するに三島は安田講堂に立てこもった東大全共闘のメンバーは「死を覚悟している」と信じていたわけだね。しかし、そんな行動を取る人間は実際には1人もいなかった……。

 さて、三島の『金閣寺』を英訳したことで知られるイギリス生まれの日本文学者、アイヴァン・モリスがまだ三島の死の衝撃も生々しい1975年にThe Nobility of Failure: Tragic Heroes in the History of Japanという本を上梓している(日本では『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』として1981年に中央公論社から刊行)。アイヴァン・モリスは本書を上梓した翌年、旅先のイタリア・ボローニャで急逝しているので、これが遺著ということになる。当人にその予感のようなものがあったのかどうかはわからないけれども、第2次世界大戦中にイギリス軍将校候補生として日本語学習プログラムに参加し、それがきっかけとなって日本文学の道を進むことになった(ちなみに、この経緯はドナルド・キーンやエドワード・G・サイデンステッカーなどとほぼ同じ。第2次世界大戦後に欧米で花開いた日本文学研究は、戦時中、さしずめ「彼を知り己を知れば百戦殆ふからず」という発想の下に行われた日本語学習プログラムが端緒となっている、というのは面白い。言うならば、日本と戦火を交えることになったことで、欧米人をして「奴らのことをもっと知る必要がある」という反応を呼び起こし、その余勢で戦後の日本文学研究が花開いた、ということになるわけだから)人物の最後の書としては誠にふさわしいと言っていい内容のこの本は、実は三島由紀夫に捧げられている。ここはいささか長めになるのだけれど、同書の「序」でアイヴァン・モリスが記すところを斎藤和明訳で紹介すると――

 三島由紀夫から、かつて次のように指摘された。君は日本の宮廷文化の優美とか光源氏の世界の静寂を称賛してきたが、その賛美を書くことで日本の民族性が持つ苛酷かつ峻厳そして悲壮な面を覆いかくしてはいないか、と言うのである。私はここ数年、短命な生涯を送り、しかもその生涯が闘争と騒乱とに彩られた、現実社会に行動する人間群像に目をすえてきた。私の日本文化に対する見方に偏重があったとすれば、そうすることで均衡をもり返し得るのではないかと思う。以下の文章は、そのため、三島の霊に捧げられるべきものである。彼とは意見を異にすることが多かった。政治問題に関してとなると特にくい違うことが多かった。だが、考え方の相違が三島由紀夫に対する私の敬意と友情をそこなうことは、まったくなかった。
 実は、私自身も日本の英雄像とその伝統についての興味を長い間抱きつづけていたのである。つまり第二次大戦中以来、この国の歴史の中で演じられる「敗北」の特殊な役割につよく惹きつけられていた。初め、日本人の感受性に敗北というものがどのような意義をもたらしているかを理解できないままであった。私にそれがわかりだしたのは、一九五七年に三島由紀夫を知ったのちのことである。三島が崇拝していた人物とは、成功者ではなかった。現実社会に対して偉業をうち立てた人々ではなかった。一八三七〔天保八〕年の蜂起に挫折し自らの命を絶った与力――現代風に言えば熱血漢警部であった――大塩平八郎のような人物であった。一八六七〔明治九〕年、挙兵し消滅した神風連を、アメリカとの戦火に散った特攻隊員の若人たちを、三島はたたえていた。勇気ある敗者たちへ惹きつけられるという感情は、三島の生来のもので、それは単に個人的性癖からくるものでもない。日本人の国民性の中に深く根をおろしている感情の発露なのである。日本人は古くからの純粋な自己犠牲の行為、誠心のゆえの没落の姿に独特の気高さをみとめてきている。そして三島自身の最期、すなわち一九七〇年十一月二十五日東京の陸上自衛隊東部方面総覧部において彼が演じた生涯最後の一幕は、本書に扱う日本人の英雄観の伝統のシナリオにぴたりと密着した行為であった。

 初め、日本人の感受性に敗北というものがどのような意義をもたらしているかを理解できないままであった――。これは、なるほどなあ、ですよ。「判官贔屓」などという言葉で表される、「勝者」よりも「敗者」に思いを寄せるという、ワレワレにとってなじみ深い感情は、西洋合理主義に軸足を置く彼らには「理解できない」ものなんだね。しかし、それを理解する手がかりを与えてくれたのが三島由紀夫であった――。まあ、確かに、三島ほどそんな問題意識を抱くものに対し的確なヒントを与えてくれる人物もそうはいなかっただろう。アイヴァン・モリスも書いているように三島由紀夫は大塩平八郎や神風連や特攻隊員の若人たちに惹きつけられ、崇拝さえしていた。そんな三島はアイヴァン・モリスにとって〝生きたテキスト〟だったろう。である以上、本書が「三島の霊に捧げられるべきものである」のは当然のこと――ということになる。そして、おそらくは三島からの多大なサジェスチョンも受けつつ本書はこの欧米における日本文学研究の泰斗の突然の死の1年前に脱稿を迎えた、そういう意味では「畢生の書」と言ってもいいものだと思うのだけれど――ただ、ワタシの目から見るとこの本はちょっと変なんですよ。つーか、この本で「日本史の悲劇の英雄たち」として俎上に挙げられている人物の人選が、ちょっとねえ……。ここは同書の目次に沿ってその顔ぶれを紹介すると――

  • ◦ひとつ松、わが兄よ 日本武尊
  • ◦天皇の楯 捕鳥部万
  • ◦憂愁の皇子 有馬皇子
  • ◦落魄者の神 菅原道真
  • ◦没落の中からの勝利 源義経
  • ◦七生報国 楠木正成
  • ◦日本のメシア 天草四郎
  • ◦「救民」の旗幟 大塩平八郎
  • ◦大西郷崇拝 西郷隆盛
  • ◦いさぎよく散りて果てなむ カミカゼ特攻の戦士たち

 この中の「大西郷崇拝」がエドワード・ズウィック監督の映画『ラストサムライ』に多大なインスピレーションを与えた、というのは比較的よく知られている事実と言っていい。で、これについてワタシは少しばかり物申したい点があるのだけれど、それをやりだすと本稿の趣旨を逸脱してしまうことになるのでここでは自重して――まずこの人選を見て思うのは、おや、こんな人いたの? というような名前が1人2人。ま、いてもいいんですけどね、そこは、見る目が変わるとこうなる、ということで。ちなみに、ウィキペディアの捕鳥部万の記事には「菊池容斎が著した『前賢故実』には万の肖像がある」とありますが、この菊池容斎こそは1952年に武者小路實によって発表されることになる「東北朝廷史料」、いわゆる「菊池史料」の原所有者……というようなこともここでは置いといて――全く知らない人物が含まれているということに関しては、むしろこちらの蒙を啓いてくれるものと積極的に受け止めることも可能なのだけれど、しかしその逆のケースはどうだろう? というのも、↑のリストには、ワタシが「日本史の悲劇の英雄たち」と聞いて真っ先に思い浮かべる人々が1人も含まれていないのだ。それはたとえば会津の人たち――具体的には、かの「なよ竹」の歌で知られる西郷千重子とか、娘子隊を率いて戦った中野竹子とか、燃え盛る屋敷内で互いの腹を刺し貫いて相果てた田中土佐と神保内蔵助とか(このあたりは『八重の桜』の描写に引きずられ過ぎている感もなきにしもあらずですが)、言わずと知れた白虎隊とか――であり、あるいはまた彰義隊の首魁として獄死した天野八郎とか、死に場所を求めて箱館まで奔った隻腕の剣士・伊庭八郎とか、その箱館で親子3人揃って覚悟の爆死を遂げた中島三郎助・恒太郎・英次郎とか、そしてしんがりはやっぱりこの人でしょう、榎本亡命政権の閣僚で唯一の戦死者となったわれらが土方歳三とか――といった、つまりは戊辰戦争の死者たち。それが1人も含まれていないのだ。これは奇妙だと言わざるを得ませんよ。これについては、見る目が変わるとこうなる、ということではちょっと片づけられない問題を孕んでいるようにワタシには思えるのだ。というのも、アイヴァン・モリスは「大西郷崇拝」の中で戊辰戦争の犠牲者はわずかだったという意味のことさえ書いているのだ(Though large forces took part in the fighting in Edo (almost the same number of men as in the Sino-Japanese War), the actual loss of life was small.)。しかし、これは承服できない。上野戦争における彰義隊の死者は200人を超える。そして、新政府軍と旧幕府軍のショーダウンはこれが〝最終決戦〟だったというのなら「犠牲者はわずかだった」というのもそれなりに説得力はあるだろうけれど、戦いはその後も続いて、その死者数たるや……。北越戦争の死者は新政府軍が約1,000人、旧幕府軍が約1,100人。会津戦争の死者は会津側だけで約2,900人。箱館戦争の死者は新政府軍が約300人、旧幕府軍が約1,000人。また戊辰戦争全体の死者については新政府軍、旧幕府軍合わせて約8,000人という数字が『明治史要』に挙げられている。確かに西南戦争の死者は政府軍、西郷軍合わせて約14,000人だったとされており、これに比べれば少ない。しかし、使用された武器が違うのだから。それを差し引いたらはたして戊辰戦争と西南戦争、どっちがより悲惨だったと言えるのか――というか、そもそもそれを比較してどーなるのよ? と。

 しかし、アイヴァン・モリスはあたかも戊辰戦争が西南戦争と比べて大した戦いではなかったかのような見立てを披露しており、それを根拠に戊辰戦争の犠牲者たちを彼が見なす「日本史の悲劇の英雄たち」の祭壇からオミットしてみせたと理解することができるのだけれど――これって彼の判断なんでしょうかねえ? もしかしたら、三島由紀夫の歴史観が色濃く反映したものでは……?

 アイヴァン・モリスは序文で三島からサジェスチョンを受けたことを明かしているわけだけれど、とはいえ彼が『高貴なる敗北』を記すに当ってどの程度、三島のサジェスチョンに頼ったのかは判然としない。三島は単にヒントを与えただけなのかも知れない。ただ、序文の内容からはアイヴァン・モリスは相当、彼が抱いていた論点(日本人の感受性に敗北というものがどのような意義をもたらしているか)をめぐって三島と議論をした様子が読み取れる。そして「以下の文章は、そのため、三島の霊に捧げられるべきものである」と記していることを踏まえるならば、あるいは三島は、喩えて言うならば、日本文化論で博士号取得をめざす外国人留学生の指導教員のような存在だったと見ることもできるのでは? あるいは、これは、そう考えたいという誘惑にこのワタシが駆られている、ということなのかもしれないけれど、でも、『高貴なる敗北』には三島の歴史観が色濃く反映している――というふうに捉えるならば、いろいろと腑に落ちる点があるのだ。その人選であったり、戊辰戦争が大した戦いではなかったというような歴史認識であったり――という、いかにも戊辰戦争を軽視しているかのような歴史観。それが、三島の歴史観を色濃く反映したものであるという――。というのも、三島には戊辰戦争を軽視する――というか、戊辰戦争から目を背けたい理由があったので。

 実は、三島由紀夫の養高祖父に当る人物が戊辰戦争に参加しており、かつその人物が三島の考える「武士道」とは著しく反する出処進退を見せた、という事実があるのだ。要するに、その人物は、三島が崇拝していた大塩平八郎や神風連や特攻隊員の若人たちとは違って、死なかったのだ。あるいは、ここは、「生きて虜囚の辱めを受けた」とでも言うべきかな――三島が五体に染み込ませていたであろう価値観に則して言うならば。いや、単に「生きて虜囚の辱めを受けた」というだけでは足りないかも知れない。というのも、その人物は「第一番に降服した」という証言まで残っているので。これは三島にとってはおよそ受け入れがたい事実だったに違いないでしょう。あれほど「武士道」を重んじ、最後は切腹のための切腹のような自死を遂げた人物からするならば、自分の4代前の先祖がそんな出処進退を見せたというようなことは……。それは、彼にとって直視しがたい事実であり、現に永らく目を背けてきた事実ではなかったか?

 ここで、その人物にまつわる証言というやつをご紹介しよう。↑の方でちょこっと触れた中島親子の壮烈な戦死の話も出てくる非常に生々しいもので、証言者は元新選組隊士の田村銀之助。なんでも安政3年(1856年)生まれというから、箱館戦争当時は数え年で14歳。あの市村鉄之助よりもさらに2つ若い。そんな〝少年兵〟が土方歳三になついてなついて……。ともあれ、この田村銀之助が大正9年に史談会で語った証言の速記録である「田村銀之助君の函館戰爭及其前後に關する實歷談」(原書房版『史談会速記録』第40巻)で、ひとしきり彼が目撃し経験もした箱館戦争のディテールについて語った上で――

 前陳中開城順序に就て話し漏れがございますから、ちよつと附け加へて置きますが、五稜郭の開城前に臺場の方が先きに降服になりました。それは函館の山から大砲を打たれますと、到底防ぎが出來ず、どうする事も出來ませぬ故、已を得ず永井玄蕃さんを始め第一番に降服したのであります。慥か五月十五日頃でございました。それから千代ヶ岡は其翌日ですか到頭放棄しました。同所には彼の有名な豪傑中島三郞助氏父子三人が筆頭で、爰に籠つて居りました。氏は平素敵軍若し來れば大砲に實彈三個を入れて發砲し、三人共に討ち死にすると放言して居ましたが、果して豫期通り敵軍が表門に密集して迫つて來ました。そうすると豫ての覺悟通り三彈入りを實行しましたから、大砲が破裂して三人共に討死を遂げましたが、平素の放言通り實行した中島父子の如きは、稀に聞く所です。實に壯烈な戰死でありました。又敵軍の死傷は非常に多數であつたそうです。其時有名な小泉と云ふ喇叭手が居つたが、逃場を失つて雪隱に暫く隱れて居つた。若し敵來たらば決心をする積りで居りましたが、好い鹽梅に官軍が引揚げたので、五稜郭に戾つて來た。それで千代岡の事情が明瞭しましたのです。それから五稜郭の方には、永井玄蕃さんの方から頻りに降服の勸誘に來られました。(略)

 中島父子の壮烈な戦死の話を挟んで、永井玄蕃という人物の話がなされており、これが箱館戦争において「第一番に降服した」人物であり、かつ降伏後は五稜郭の榎本武揚らにも使者を送って頻りに「降服の勸誘」を行っていた……。実は、この永井玄蕃こそは三島由紀夫の養高祖父に当る人物なのだ。三島の曽祖父の永井岩之丞が永井玄蕃(諱は「尚志」。読みは「なおゆき」とされるものの、「なおむね」とする文献もある。ただ、官名が玄番頭だったため、一般には永井玄蕃とされることが多い。小栗忠順を一般には小栗上野介と呼ぶようなものですね)の養嗣子という間柄。従って三島からすれば養高祖父となる。血が繋がってはいないものの、この人物が三島の父方の高祖父であることには変わりはない(なお、ウィキペディアによれば、曽祖父の永井岩之丞も「函館の五稜郭に立て籠もって戦った」という。当然、こちらも養父とともに降った、ということでしょう)。これはですねえ、三島にとってはおよそ受け入れがたい事実ですよ。なにしろ、彼が崇拝していたのは大塩平八郎であり神風連であり特攻隊員の若人たちであったのだから。いずれも自らの信ずるところに従って命を投げ出すことを厭わなかったものたち。そんなものたちを崇拝し、最終的には自らもそのドラマツルギーに則って書かれたかのような「生涯最後の一幕」で割腹自決を遂げることになる男が、自らの4代前の祖先がこのような人物(あくまでも三島の視点から見た場合です。ワタシ自身は決して永井玄蕃という人物を「このような人物」とは思っていません。2006年の正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』では「今、薩長に白旗をあげたら、俺は何と言ってあの人(近藤勇)にわびたらいいんですか!」と魂の雄叫びを上げる山本@歳三に「ごめんなさいでいいじゃないか。それで怒るような近藤さんじゃないだろ」と諭す佐藤@玄蕃は、むしろ好きと言っていいくらい。最後も実に飄々としたもので、「では、降伏してくるか」。あのドラマで歴史考証を担当したのは大石学氏と山村竜也氏だそうですが、永井玄蕃にまつわる描写は間違いなく「田村銀之助君の函館戰爭及其前後に關する實歷談」を踏まえたものでしょう)だったということは、おそらくは三島にとって直視するのが躊躇われる〝汚点〟だったのではないか? ひいてはこのことが彼の目を戊辰戦争から背けさせる要因に? そして、そんな三島をメンターとして書かれた『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』には戊辰戦争で斃れたものがただの1人も描かれないという結果に……? ちなみに、以上、記したようなことは、ワタシ自身、ごく最近になってようやく思い至った次第。ごく最近――とは、ハッキリ言えば、「サムライは踊らない〜ジュール・ブリュネの脱走をめぐる「今そこにあるナゾ」〜」を書いている最中。その過程で「田村銀之助君の函館戰爭及其前後に關する實歷談」を読む機会があって(「サムライは踊らない〜ジュール・ブリュネの脱走をめぐる「今そこにあるナゾ」〜」で典拠とした「田嶋應親君の函館戰爭及其前後に關する實歷談」はやはり『史談会速記録』第40巻に収められている)、永井玄蕃が箱館戦争で「第一番に降服した」ということがわかって、へえ。実はワタシはそれまで永井玄蕃の出処進退をめぐっては全く異なるストーリーを思い描いていた。有り体に言うならば、永井玄蕃を最後まで薩長にひれ伏すことを拒んだ〝ラストサムライ〟と見なしていたのだ。そのため、『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』でも永井玄蕃が三島の養高祖父であり、かつ榎本武揚らとともに箱館に走って「蝦夷共和国」の箱館奉行になったという経歴の持ち主であることを指摘した上で、「そんなことを考えるなら、なぜ三島が榎本武揚らの壮大な歴史の実験について書くことがなかったのか、ちょっと不思議」――と、至ってピュアな感想を書き記していたくらい。しかし、事実はいささか趣を異にしていて、むしろ『新選組!! 土方歳三最期の一日』で描かれた姿に近かった。そのことを覚った瞬間、ワタシの〝灰色の脳細胞〟がにわかに活動を開始して……。

 さて、本稿でワタシが書きたいことは以上で全てとなります。これを踏まえて、たとえばなぜ三島がああいう劇的――というか、芝居がかった死に方をしたのか? というようなことは一切書きません。そもそもワタシにはそんな資格はないと思っているので。そんな資格があるのは、三島をよく読み、三島についてよく考えているものだけ。だから、ワタシはその有資格者ではない――ということは、ワタシ自身がよーくわかっている。第一、本稿で記したことを踏まえて、さて、なぜ三島はあのような死に方をしたのか? それは、箱館戦争において「第一番に降服した」人物を祖先に持つという〝恥〟を雪ぐ唯一の手段が自らは腹かっさばいて相果てることだったから――などと書こうものなら、失笑を買うのは必定でしょう。むしろそれよりも、東大全共闘のメンバーに「武士道」の何たるかを見せつけてやろうと思った、という方がまだしも? いや、それだって、人間をあまりに単純化しているという意味で噴飯物には違いない。だから、本稿に記したことを踏まえて、三島の自死についてどうこうということは一切書きません。ただ、三島をよく読み、三島についてよく考え、『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』は何を差し置いても見るという人は『史談会速記録』なんて読まんでしょう。しかし、「真実」は意外とこんなところに(も)隠されている――かもしれないよと……。