「MARCHと赤門① もしくはミシマについて語るときにワタシの語ること」を書いている時は全く失念していたのだけれど、今、東京大学本郷キャンパスがある場所は、かつては加賀藩の上屋敷があったところ。また敷地内には加賀藩の支藩である富山藩と大聖寺藩の上屋敷もあった(加賀藩屋敷地の一部を富山藩と大聖寺藩が借用していた)。富山藩上屋敷と大聖寺藩上屋敷があったのは現在、東京大学医学部附属病院がある辺りで、2012年から2014年にかけては内科研究棟の建て替えに合わせて東京大学埋蔵文化財調査室による発掘調査も行われており、富山藩邸には100を超す地下室があったとか(→それについて報じる地元紙の記事)、外国製陶磁器の名品がざくざく出てきたとか(→それについて報じる地元紙の記事)、このテの話が好きな人にはたまらんだろうという話もあるのだけれど、生憎とワタシは考古学的趣味は持ち合わせておりませんので。そんな中でもちょっと興味をそそられたのは、富山藩邸の不忍池に面した庭は崖の一部を削り取る大胆な造成が行われていた痕跡が認められるとかで、不忍池の全体が見渡せるようにされていた――という話かな(→それについて報じる地元紙の記事)。つまり、上野の山も一望に見渡せたわけだ……。ともあれ、今、東京大学本郷キャンパスがある場所は、かつては加賀藩(ならびにその支藩である富山藩と大聖寺藩)の上屋敷があったところで、かの「赤門」も加賀藩上屋敷の御守殿門。そう考えるならば、富山市出身のワタシにとっても大いにゆかりのある場所だったということになるわけで、なにもMARCH出身だからといってあれほどビビる必要はなかった? いや、そうは言えんか。わが家なんて両親とも実家は農家。世が世なら殿様の在府中の住まいである上屋敷に足を踏み入れるなんて絶対に許されない身分。むしろ、より身を縮こめる必要が……?
ちなみに、加賀藩と富山藩・大聖寺藩の関係をご説明すると、もともと徳川幕藩体制が築かれた時点では富山藩も大聖寺藩もなかった。しかし、寛永16年、加賀藩第3代藩主・前田利常が隠居する際、家督は長男の光高に譲るとともに、次男の利次に富山10万石、三男の利治に大聖寺7万石の分封を幕府に願い出て、それを幕府が認めた。こうしてできたのが富山藩・大聖寺藩であり、俗に言う「加賀百万石」が誕生したのもこの時。実はもともと加賀藩は120万石を誇っていた。しかし、これではあまりにもデカすぎる。幕府としても不安だろう――と、言うならば幕府の心中を〝忖度〟した前田家側が自ら藩領をダウンサイジングする分封を申し出た――というのがこの異例の事態の真相(らしい)。いずれにしても、富山藩と言い大聖寺藩と言うも、いずれも元は加賀藩の一部。で、分封後も藩主を務めていたのは加賀前田家の眷族なのだから、実質的には分封には当らないのでは? と、ワタシは思ってるんだけどね。むしろ、仙台藩と一門の関係に近いような。仙台藩には亘理伊達家とか水沢伊達家とかいろいろな分家があるのだけれど、ほとんどそれと違いがないような気がするんだけどなあ……?
ともあれ、こうして誕生した富山藩と大聖寺藩ではあるのだけれど、富山市民であるワタシは当然、旧富山藩領の住民――かというと、さにあらず。これが意外にも旧加賀藩領の住民なのだ。というのも、富山藩の領域はザックリ言えば今の富山市に相当するとは言えるのだけれど、イコールではない。ワタシが生れ育ったのはJR富山駅からクルマで15分というような場所で、この場所は「平成の大合併」で人口が41万人に膨れ上がる前の、正真正銘の(?)富山市に含まれる(ちなみに、その当時の人口は約32万人)。しかし、なんとそんな場所が藩政時代に遡ると加賀藩領だったのだ。実は、場所によっては、そういうことになるのだ。多分、これは富山市民でも知らない人がいるんじゃないのかなあ……。で、せっかくだから本当の「ちなみに」で書いておくなら(よく話のあやで「ちなみに」ということを言いますが、ほとんどの場合は「ちなみに」ではない。阿部寛が『新参者』で常套句のように「ちなみに聞いてみただけです」――と言っておりましたが、全然「ちなみに」じゃないんだよね。人はなぜか話の接ぎ穂に「ちなみに」と言うのだけれど、これは心理学的に掘り下げてみる価値があるような……?)、加賀藩領と富山藩領の領域は概ね川を境に分けられてはいたものの、一部、そうではないところもあって、そうした場所には塚を築き、松を植えて境の目印にしていたという。で、この松を「お境の松」と呼んでいたとかで、その内の1本がワタシが通っていた小学校のすぐ近くについ最近まで(昭和60年代を「つい最近」と言えるのならば)残っていた。今ではコンクリートで固められて面影はなくなってしまったけれど、アタッチメント(?)だった地蔵尊は残されていて、少しばかり曰くのある場所であることを偲ばせている。もっとも、案内板があるわけでもなし。よもや昔この場所に〝国境〟があったとは道行く人は気がつくまい……。
――と、そんなようなこともご説明した上で、さて、そんな旧加賀藩領に暮らす住民丁(甲乙丙丁の丁。筆者のファーストネームのイニシャルがTなので。ただし、「丁種」と言えば昔ならば国民の義務も果たせない役立たずのことで……)としては、少しばかり藩に対して物申したいことがある。それは、幕末政局への対応について。存在感がないにもほどがあるではないか。ドン(机を叩く音)。加賀といえば、大藩ですよ。富山藩・大聖寺藩を含めた石高120万石は、徳川家は別格とすれば、薩摩島津家の77万石、仙台伊達家の63万石、肥後細川家の54万石、筑前黒田家の52万石……を軽ーく凌駕してダントツでデカイ。正に「大国」だったのだ、加賀というクニは。いわゆる「薩長土肥」が束になってかかってようやく適うかどうかというレベル。それほどの国力を誇っていた。それがなんの存在感も発揮できなかった。
いや、正確に言うならば、存在感はあった。あるいは、存在感だけはあった、と言うべきか? というのも、当時、横浜で発行されていたジャパン・ガゼットという英字新聞には加賀の動向がたびたび報じられていたので。しかも、これがちょっとど肝を抜かれるような内容で。たとえば1868年5月29日付け記事(なお、この時代のジャパン・ガゼットの現物はほとんど残っていない。国立国会図書館に所蔵されているのも1874年以降のものだけ。しかし、当時、アメリカ・カリフォルニア州で発行されていた新聞が日本の内戦を報じるに当って盛んにジャパン・ガゼットの記事を引用しており、それによって報道内容を知ることができる。以下に紹介するのもサクラメント・デイリー・ユニオンの1868年6月29日号からの言うならば孫引き)――
We believe that the following information is both positive and correct. Many skirmishes and isolated fights have taken place, but as yet no general attack has been made. The Northern princes, however, with Kanga and Sendai at their head, have formed a coalition for stronger than the old one of the south, which succeeded in ousting the old Government, and getting possession of the Mikado.
なんと、加賀と仙台を盟主として北方諸侯が同盟を結成したと。そして、それは南の同盟よりも強力であると……。言うまでもなく、加賀と仙台を盟主として北方諸侯が同盟を結成したという歴史的事実はない。仙台を盟主として北方諸侯が同盟を結成した――という歴史的事実ならばある。そう、奥羽越列藩同盟の結成。しかし、どういうわけかこの新聞記事にはそこに加賀が加わっていたと。しかも、加賀と仙台を盟主として――なのだから、その主役は他でもない、加賀、ということになる。しかし、単にこれだけなら、単純な誤報ということもありうる。ところが、実はこのニュースには続報があるのだ。今度は1868年6月4日付け記事(こちらはデイリー・アルタ・カリフォルニアの1868年6月27日号からの孫引き)――
Leaving minuteness of detail, we need only mention the broad fact, that the Northern Princes, indignant at the personal treatment of the Tycoon, and all being more or less connected with or adherents of his family, consulted, combined, and rose as a man. Kanga, the greatest chieftain in Japan, whose territory is nearly one-third of the island of Niphon, and Sendai, who occupies one-fifth of the remainder, became the most determined opponents of the recent changes. All the combined Northern Daimios have advised Prince Mito to remain quiet, and grieve over the misfortunes of his family and the position of his adopted son; whilst the rest go forth to battle. (...) It is said that Kanga has already despatched 25,000 men, under competent leaders, and that he is assembling another army, at least equal in number, which is to be commanded by Stotsbashi in person. If the North triumphs, the election of a new Tycoon will take place from the Tokugawa clan; and Stotsbashi, should he survive the struggle, will obey the commands of his house and its supporters.
加賀の領土は本州の⅓であり、仙台は残りの⅕を占める。この両藩が最近の政変に対する最も断固たる反対者となった。そして、加賀は既に百戦錬磨の指揮官に率いられた25,000の大軍を急派しており、さらにこれと同程度のもう1つの部隊も編成中で、こちらは一橋(徳川慶喜)が自ら指揮することになっている。もし北部が勝ったら、新たな大君(将軍)が徳川家から選ばれることになるだろう……。
こうなると、誤報とかなんとかいうレベルではなく、完全なるフェイクニュースと言うしかない。しかし、こういう記事が当時、横浜で発行されていた英字新聞の紙面を飾っていたというのは紛れもない事実。ちなみに、筆者の見立てではこれは「会津のスパイ(spies of AIDZU'S)」(やはり、当時、横浜で発行されていたジャパン・タイムズ・オーバーランド・メールの1868年8月22日付け記事でこういう表現が使われている。ちなみに、こちらは現物が残っており、ぺりかん社版『日本初期新聞全集』第17巻に収録されている)によるプロパガンダ情報――ということになるのだけれど、この件についてはここでは深入りしません。興味のある方はぜひ『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』をお読み下さい。いずれにしても、当時、横浜で発行されていた英字新聞には盛んにこの種のニュースが掲載されていた。だから、こと存在感だけは大変なものだったのだよ、われらがKangaは。これ以外にも、たとえば東叡山寛永寺の貫首で上野戦争後、奥州に逃れ、奥羽越列藩同盟の「盟主」に奉じられた輪王寺宮公現法親王が加賀中納言(前田斉泰)と金沢宰相(前田慶寧)宛てに発給すべく起草された令旨なるものが残されているし(真如院蔵。大久保利謙編輯『江戸』第6巻に写真が掲載されている)、また同書所収の「上野輪王寺宮執当職大覚王院戊辰日記」を読むと、奥羽越列藩同盟サイドは慶応4年6月11日には加賀藩への使者派遣を決定していることも裏付けられる。奥羽越列藩同盟としては、なにがなんでも加賀を同盟に引き込みたかったということ。しかし、結局、この使者派遣は、東京大学史料編纂所准教授の箱石大が「奥羽越列藩同盟の加賀藩遣使計画が頓挫した理由」(『石川県史だより』第47号)に記すところによれば、北越戦争の過程で制海権を新政府側に奪われ実現しなかったという。つーか、そもそも加賀はその北越戦争には新政府側で参戦しているのだから。今さら奥羽越列藩同盟が使者を派遣したところで……。
――と、とにもかくにもこうしてその存在感だけは抜群のものがあったわが加賀藩ではあるのだけれど、しかしその実態はどうだったのか? ということを、以下、見ていきたいと思うのだけれど、まず少しばかり意外な事実があって、実は輪王寺宮の周辺ないしは奥羽越列藩同盟がそこまでの期待を加賀に寄せる根拠というか、必然性みたいなものはどうやらあったらしいのだ。というのも、当時の加賀藩主・前田慶寧は少なくとも慶応3年11月時点では「予が本心においては、何処迄も徳川家を助け」たいとの思いを持っており、さらには鳥羽・伏見の戦いが勃発した時点でも王政復古宣言は「薩州家奸臣共」の謀であるとして、「内府様𛀁御協力」するために出兵することも決めているのだ。これらはいずれも『加賀藩史料』所収の一次史料で裏付けられるファクト。ここでは慶応3年11月朔日付けの「御親翰留」なるものを引いておこう。これは10月14日に大政を奉還した徳川慶喜が諸侯会議招集のためとして10万石以上の大名に上洛を要請したことに対応するもので、この際、加賀藩は他のほとんどの藩がそうだったように様子見を決め込み、慶寧も病気を理由に猶予を願い出ている。そして、藩主代理として年寄・本多政均を派遣することとした。この「御親翰留」はその本多政均に与えられたもので、この時点での慶寧の本音が綴られた非常に興味深いもの――
今般御手前上京申付候主意は、公方様過日御任槐、無程政権を朝廷𛀁被帰候。其御次第を察するに、思召之外𛀁出候儀にも無之哉。方今朝廷之御政務与相成候而、往々天下可治事とは不奉存。尤王政と申儀、其言葉は正大公明に聞え候得共、其実如何有之哉。就而者予が本心においては、何処迄も徳川家を助け、天下之為めに尽力いたし度存寄に候得共、大切之時節、殊に病気にも候間、先御手前上京有之、得与天下之形勢をも考察せられ、前文之主意を基として、応其機幾重とも可被取計候。臨時押而も上京之儀、予而心得罷存候間、其機会に相臨候はゞ可被申越候。荒増心底任乞認め相渡候、以上。
十 一 月
右卯十一月本多播磨守上京被仰付候に付、御主意御親翰を以仰渡候。
ね、予が本心においては、何処迄も徳川家を助け、天下之為めに尽力いたし度存寄に候――と。藩主がそういう思いを持っていたのならば、輪王寺宮の周辺ないしは奥羽越列藩同盟が熱い期待を寄せるというのもあながち理由のないことではなかったと言えますよね。ただ、そういう思いは持ってはいても、それを実行できるかどうかはまた別で。この時も、病気を理由に代理を立てるという、この優柔不断(前田慶寧という人物に付いて回る4文字)。もっとも、慶寧にも事情はあったらしい。というのも、この時、藩内は佐幕か勤王かで真っ二つに割れていたとか。ここは『金沢市史 通史編2』が解説するところを引くなら――「家中では、佐幕と勤王の両端に意見が割れていたというが、藩主の真意に沿えば、徳川家に味方するのが藩の基本的姿勢ということになろう。しかし、当時一般的に領国における藩主の統率力は衰えていたし、家中内部は対立の様相が色濃く、藩論の統一は極めて困難であった。従って加賀藩の方針は、一応が藩主の真意により徳川家のために尽力することになっていたが、情勢次第で常に変化しうるものであった」。
しかし、藩内が勤王・佐幕の両論で割れていたのは加賀だけではない。仙台だって同じ。いや、当時のほとんどの藩がそう。なにしろ薩摩にだって佐幕派はいたのだから(『鹿児島県史料・忠義公史料』第4巻には藩の方針を批判するさる藩士の手稿が「佐幕ノ俗論」として掲載されている)。しかし、仙台藩にしても薩摩藩にしても最終的にはそれぞれ「佐幕」「勤王」で藩論を統一し、圧倒的存在感を以て幕末政局のそれぞれの陣営におけるキープレイヤーとなった。だから、藩論が2つに割れていたことは、言い訳にはならない。第一、どれだけ決断を先延ばしにしようが、時至れば旗幟を明らかにせざるをえない。それが武門の習いというもの。そして、その「時」はほどなくやってきた。慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発するや、徳川慶喜は加賀藩に対し出兵を要請。これを受け遂に加賀藩も肚を決め、兵を派遣することを決めた――。
そう、確かに兵を派遣することは決めた。ところが、そっからがもうね……。再び『金沢市史 通史編2』が記すところを引くなら――「ただし在京家臣の進言により出兵は近江今津辺りまでとされた。万一朝廷の不審を蒙っても、申し開きができるようにするためである。出兵のタイミングについて、在京家臣らは、刻一刻と変化する情勢を考えるとやや遅く十五日頃がよいが、他藩と比べて遅すぎるのもよくないと伝えている。十日、重臣村井長在が先鋒として近江に向って出陣した」。
もうね、コントですか? 早すぎず、遅すぎず、ちょうどいいタイミングを見計らって、10日を出兵の日取りと決めた――。あたしゃ加賀藩領に生まれたことを恥じますよ……。
しかし、コントはこれでは終わらない。言うまでもなく鳥羽・伏見の戦いはわずか3日でカタが付いたわけですが、朝廷は在京の家老・前田孝錫を呼び出して厳しく問い質したという。藩の動向がすべて「佐幕之国論」によるものと見なされ、朝廷において「甚御疑念深」かったためという。これに対し孝錫は、加賀藩は藩主・藩士一同勤王であると断言。しかし、奇しくもこの日、国許から徳川家加勢のための出兵を決めたという知らせが届き、在京家臣団はパニックに陥った。徳川家が「朝敵」となった今、徳川家加勢のための出兵は「御国之興廃」に関る一大事である――と、まあ、そういうことにはなりますよね。で、なんとしてでも出兵を止めなければならない――ということで、使者が国許へ急派された。京都から加賀までなら、おそらくは北国海道(西近江路)を行ったのだろうけれど、はたして早馬を何頭乗りつぶしたものだろう。しかし、その甲斐あってか、使者が国許に到着した時、村井長在率いる先鋒部隊はまだ小松にいた。「早すぎず、遅すぎず」で出兵の日取りを調整した甲斐があった? ともあれ、こうして急転する中央政界の最新情報が国許にもたらされ、村井隊は小松から金沢に引き返すことに。世に言う「小松大返し」である(言わん言わん)。
――と、まあ、ワタシもこんなふざけたトーンでは書きたくないんだけどね。でも、好むと好まざるとに関らず、こういうことになっちゃいますよ。で、加賀藩の幕末政局への対応がこのようなものだったことを踏まえた上で、改めて当時、横浜で発行されていた英字新聞に掲載されていた記事だとか、奥羽越列藩同盟側の動きだとかを見た場合、もう申し訳ないというかさ。加賀はそんな期待を寄せられるような藩じゃないんですよ。もうね、大政奉還→王政復古→鳥羽・伏見の戦いという怒濤の展開を尻目にひたすらコントの上演にウツツを抜かしていたのだから……。
それにしても、なぜ加賀藩の幕末政局への対応ははこうもオソマツだったのか? 藩主・前田慶寧が優柔不断だったから? ま、これは否定すべくもない。さる御仁が新型コロナをめぐる各知事の対応を論って「ポンコツとポンコツじゃないのがハッキリしたでしょ」と述べたやに伝えられておりますが(しかし、「元知事」ってのは、「知事」の上位概念かなにかなわけ? ネットメディアがいちいちその発言を報じているのが不思議で不思議で。おかげでワタシなんかも知ることができているわけだけれど。多分、アレだな、「元知事」になった途端に位が1コ上がるんだな。ウン、きっとそうに違いない……)、確かに危機管理にはそういう面がある。そして、大政奉還以降の大政局において前田慶寧が示したふるまいは彼が(他はいざ知らず)こと危機管理においては全くの「ポンコツ」であることを満天下に証明したと言わざるをえないでしょう。これはいかにホームタウンディシジョンを以て臨もうがごまかしようがない。
ただ、藩主がいかに「ポンコツ」でも、藩士がしっかりしていれば。しかし、この点でも加賀には大いに問題があったと言わざるをえないだろう。で、ここでぜがひでも指摘したい事実がある。それは、加賀藩からはついぞただ1人の工藤平助も林子平も高野長英も大槻磐渓も生まれなかったという、この事実。いずれも幕府の攘夷政策を批判したり、海防の重要性を説くなどした警世家(当時の言葉に「経世家」という言葉があったそうですが、むしろ「警世家」とした方がワタシなんかにはしっくり来るんですけどねえ……)。そして、いずれも仙台藩にゆかりの人物。仙台藩が幕末政局のキープレイヤーとなったのにはこうした裏付けがあったと言うべき(分厚い海防政策の蓄積を誇っていた仙台藩からするならば、ただ闇雲に攘夷を言い立てるばかりの薩長なんて今のネトウヨみたいなものだったろう。「文明開化」を担うべきは、思想的系譜から言うならば、薩摩や長州ではなく、むしろ仙台だったのだ……)。それに対し加賀藩からは「天下の書府」と誉めそやされるくらいにはこと「文」の面では恵まれた環境にありながら、ただ1人の工藤平助も林子平も高野長英も大槻磐渓も生まれなかった。加賀藩が幕末政局において何の存在感も発揮できなかったのは、そういう意味では必然だったと言うべきなのだ。では、なぜ加賀藩からはそうした人物が生まれなかったのか? それは、地政学的に外国の脅威を感じる環境下にはなかったからか? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。これは何とも言えないなあ。正直、ワタシごときの手に余るというか。しかし、明治以降は西田幾多郎や鈴木大拙といった大思想家を輩出した加賀藩から、幕末、ただ1人の工藤平助も林子平も高野長英も大槻磐渓も生まれなかったというのは紛れもない事実。このことは、幕末当時のこの藩の国情を問わず語りに語っていると見ていいのでは? で、そういう藩が優柔不断な藩主を担ぎ、藩士たちはそんな藩主を支えるでもなく、尻をひっぱたくでもなく、むしろ足を引っ張るような行動をくり返して、激動する時代を尻目に集団コントを演じ続けた。そんなオソマツな藩に戊辰政局で演じられる役割なんてあるものか。せいぜいが北陸道鎮撫総督として金沢入りした高倉永祜に求められるままに兵力・軍費・兵糧米等を差し出し、以後、繰り広げられる北国戦線での戦闘に(ようやく持ち場を与えられたとばかりに晴れやかな表情で?)従軍を果した――という程度のこと。これが、この藩が戊辰政局で演じた〝役割〟のすべて。
いや、もう1つあった。北国戦線で戦端が開かれて間もない慶応4年5月15日未明、佐賀藩兵約100人が本郷の加賀藩上屋敷に乱入、不忍池を挟んで上野の山と向き合う位置関係にあった富山藩の上屋敷の敷地内から上野の山内に向けてアームストロング砲の砲弾を浴びせかけることになる(なお、いろいろ調べてはみたのだけれど、今一この経緯がよくわらかないんだよね。『復古記』第11冊所収の「東叡山戦記」には「鍋島直大家記」を典拠に「十五日、上野賊徒御誅伐ニ付、戰爭之次第、大砲二門富山屋舖ヘ相備、同所ヨリ上野黑門口臺場、幷堂柵松藪之内等ヘ相備居候賊徒打拂」云々との記載があるものの、一体どういう経緯で加賀藩上屋敷を使用することになったのかについては何も記されていない。事前に加賀藩側と話が付いていたのか、それとも佐賀藩側が当日、強引に押し入ったのか? 強引に押し入ったとすれば、今風に言うならば強制収用に近いものだったということになるのかとも思うのだけれど、加賀藩側は抵抗しなかったのかねえ。いや、そんな気概など持ち合わせちゃいないか。おそらくは求められるままに立ち入りを認めたと、そんなところだろう……)。この事態に輪王寺宮の嘆きは尋常一様ではなく、「過日不慮に敗を取、君臣離散涕泣悲歎淚泉の如し」。さらには「幸にして今日時を得、軍艦にて海上萬里を片時に走り奧羽に脫し、不日に錦旗を靑天に飄し、會稽の恥辱を雪ぎ、速に佛敵朝敵退治せんと欲す」(佐藤信著『戊辰紀事』より)。
戊辰政局が本当の意味で重大な局面へと突き進んでいく、そのきっかけを作ったのは、求められるまま上屋敷の使用を許した加賀藩江戸藩邸のお歴々だったと言っていい。もし彼らが断固として佐賀藩兵の立ち入りを拒んでおれば、少なくとも一品親王が坐す門跡寺院にアームストロング砲が打ち込まれるというあってはならない事態だけは避けることができただろう。求められるままに兵を出し、求められるままに上屋敷の使用も認め、なんの主体性を発揮することもなく、ただ激動する時代の只中で右往左往し続けた加賀という大国が、昔、あった……。