――と、いろいろ書いては来たのだけれど、要するにだ、松田優作も中田耕治と同じ思いだったのだ、きっと。そう、「われわれの国に於いてハードボイルド・ドラマの可能性はまったくないか、あってもごくかぎられたものにすぎない」。ならば、せいぜい道化を装って(ちなみに、小鷹信光は『マンハント』1961年2月号で「通俗ハードボイルド」について記すに当って「道化探偵小説、あるいは通俗ハード・ボイルド」と書いている。「通俗ハードボイルド」の本質は「道化」にあり、という導師のご託宣?)コミカルに演じてみせるしかないではないか。それが「通俗ハードボイルド」であり、あの「工藤ちゃん」だったのだと……。
「工藤ちゃんの秘密〜松田優作とハードボイルドをめぐる「独自研究」①〜」では、最後をこんなふうに〆て「工藤ちゃん」というあの珍妙な(?)キャラクターについてワタシなりに精一杯、積極的な評価して下してみせたつもりなのだけれど、ところが『探偵物語』の放送終了(1980年4月1日)から約半年後の1980年10月4日に公開となった映画『野獣死すべし』において松田優作は「工藤ちゃん」とは似ても似つかぬキャラクターを演じて見せて、ワタシが必死の思いで繰り出したセオリーが台無しに? いやいや、必ずしもそうとは言えないぞ……。ともあれ、松田優作が「工藤ちゃん」の次に演じることになったのは――そう、伊達邦彦。大藪春彦が生み出した、日本ハードボイルド史上に屹立するタフガイ。ちなみに、松田優作はこの前年にも同じ大藪春彦原作の『蘇える金狼』で主演を務めており、こちらでは大藪春彦が生み出したもう1人のヒーロー、朝倉哲也を演じている。従って、朝倉哲也、伊達邦彦という大藪ワールドの2大ヒーローを松田優作は演じたことになる。あと北野晶夫を演じれば3大ヒーローをコンプリートすることになったわけだけれど、こちらは1982年に草刈正雄が演じることに。はたして監督が村川透ではなく、主演も松田優作ではなかったのには何か理由が……? ともあれ、朝倉哲也と伊達邦彦という2大ヒーローを演じた俳優は他にはおらず、松田優作がいかに大藪ワールドとの親和性が高い俳優と見なされていたかという、その証しであると言っていいと思うのだけれど――しかし、この角川映画版『野獣死すべし』で松田優作が演じた伊達邦彦は原作の伊達邦彦とはあまりにも違っていた。なんでも丸山昇一はそれが理由で大藪春彦からきつーいダメ出しを喰らったとか(ウィキペディア情報。ただし、「要出典」と注文をつけられており、情報源は不明。なお、ウィキペディアの「野獣死すべし」の記事にはワタシも若干の加筆・訂正を行っております。それがどの部分かは、きっと本稿をお読みになればご説明しなくてもおわかりになるはず……)。でも、多分、この件で丸山昇一を責めるのは酷なはず。というのも、おそらく松田優作が演じた伊達邦彦は原作の伊達邦彦と違っていただけではなく、脚本の伊達邦彦とも大きく違っていただろうと想像されるので。その根拠は、当時、発売されたオリジナルサウンドトラックLP(などというものを持っております)に付属のライナーノーツに記された人物像と実際に松田優作が演じた人物像があまりにもかけ離れているので。ライナーノーツにはどう記されているか? こう記されている――
画一化された現代社会。学生も、サラリーマンも、すべての女たちも、本来持っているはずの人間としての個性を捨て去り、ミニチュア化し、与えられた小さな快楽だけで満足している。そんな社会を、ドブネズミの世界と、断定する男がいた。ドブネズミたちの住む、この街は、もう狂っている。化石のように錆びついた大都会、マッドシティTOKYOを、一匹の野獣が揺り動かす。
野獣の名は伊達邦彦――昭和33年、文壇に発表されるやいなや、一大センセーションを巻き起こした、大藪春彦原作「野獣死すべし」のヒーローが、いま、スクリーンに蘇える。「野獣死すべし」は、大藪文学の処女作であり、出世作であり、代表作である。これまでに、昭和34年、須川栄三監督、仲代達矢主演で、東宝映画化されたが、今回の映画化では、「蘇える金狼」で配収11億円に迫る大ヒットを飛ばしたプロデューサー、角川春樹が、同作のゴールデン・コンビ(監督/村川透、主演/松田優作)と共に、日本ハードボイルド小説史上の〈原点〉に挑戦する!――80年代の〝野獣〟とは何か。
原作では、伊達邦彦は、大学院の学生という設定だが、今回の映画化では、通信社を退社したばかりで翻訳の仕事をしている29歳の青年に変え、原作よりも、なお、いっそうニヒルな現代性を強調、都会の静寂の中、最高の獲物を狙うときにのみ血を燃やす野獣となっている。空白の時代にあってこそ、さらにスリリングに、さらにパワフルに、クールな男の生きざまが描きだされる。
えーと、この中で特に読者諸兄姉の注意を喚起したいのは最後の段落なんだけれど、その前に最初の段落についても少しばかり。この部分、うっかりするとスルーしてしまうところだけれど、よくよく読むと、論理構成が支離滅裂。「本来持っているはずの人間としての個性を捨て去り、ミニチュア化し、与えられた小さな快楽だけで満足している」のなら、それは「ドブネズミの世界」ではなく、むしろ「モルモットの世界」とでも言うべきでしょう。「ドブネズミの世界」ってのは、もっと剥き出しで野性的。さらに言えば攻撃的で、人類にとっては恐怖でさえありうる。なにしろ、ドブネズミはペストを媒介するので。いずれにしても、あの1980年代という白っちゃけた時代(ちなみに、引用文中にある「空白の時代」は、筆者の記憶が正しければ、文芸評論家の菊田均の造語だったはず。当時、結構な批判に晒されたという印象が残っております)を表す言語表現としてふさわしいとは思えません(追記:実は大藪春彦も似たようなことを書いている――「狡智と度胸と、方法としての倫理によって、しぶとく生き残り、「どぶ鼠ども」の世間を密かに嘲り笑ってやるのだ」。しかし、それはまだ戦後の泥濘が続いていた時代の話で、まさにドブネズミのように泥濘の中を這いずり回っている人間たちのことを言っている。決して「本来持っているはずの人間としての個性を捨て去り、ミニチュア化し、与えられた小さな快楽だけで満足している」状態を指して言っているわけではない。まあ、わざわざ追記するほどのことでもないとは思うけどね)。また、そこに暮らすものが「本来持っているはずの人間としての個性を捨て去り、ミニチュア化し、与えられた小さな快楽だけで満足している」のなら、なんで「マッドシティ」? 人が「与えられた小さな快楽」に満足していれば街は発狂しませんよ。街が発狂するのは、人がさらなる快楽、より大きな快楽を求めて暴走し始めた時。ワタシは、当時の状況を捉えて、「本来持っているはずの人間としての個性を捨て去り、ミニチュア化し、与えられた小さな快楽だけで満足している」――と見なすこと自体は間違っていなかったと思う。しかし、だったら、「この街は、もう狂っている」というのは、当らない(お前はスガ官房長官か⁉)。むしろ、「この街は、もう死んでいる」と言うべき。そして、本当に映画の中でそう言ってのけた男がいた。その男の名を城戸誠という……。
ということで、本題に戻りましょう。↑に引いたライナーノーツの中でワタシが特に読者諸兄姉の注意を喚起したいのは、既に記した通り、最後の段落。つまり、本編の主人公の造形をめぐって「原作よりも、なお、いっそうニヒルな現代性を強調、都会の静寂の中、最高の獲物を狙うときにのみ血を燃やす野獣となっている」――と説明している部分。この説明と実際の映画の中の伊達邦彦を比較した場合、そこにちょっと唖然とするほどの懸隔があることは映画をご覧になった方ほぼ全員が同意されるはず。実際の映画で松田優作が演じた〝野獣〟は、決してそんな精悍な生き物ではなかった。ベトナムの戦場で完全にメンタルをやられた幽鬼のような存在として描かれていた。なんでも松田優作は「役作りのため」と称してしばらくスタッフと音信を絶ち、その間に10kg以上減量し、さらに頬がこけて見えるようにと上下4本の奥歯を抜いたという(ウィキペディア情報)。これに対し、監督の村川透が激怒し、松田優作と激しい口論を始めたという逸話も残されているとかで、つまりはああいう造形が製作サイドの意図に反したものであったことを物語っているわけだけれど、そのことは↑に引いたライナーノーツからも裏付けられるということ。おそらくここに記された人物像こそは製作サイドが考えていた「80年代の〝野獣〟」。しかし、松田優作は、そうした製作サイドが用意した人物像を一切無視して、全く新たな〝野獣〟を作り出したのだ――自分一人で。だから、大藪春彦がこの件で丸山昇一を批判するのは見当違いということ。大藪春彦が批判すべきは、松田優作。しかし、仮にこの件で大藪春彦と松田優作がやりあったとしたら、はたして大藪春彦に勝ち目があったかどうか。役作りのためと称して上下4本の奥歯を抜いてしまう俳優の狂気に圧倒されることになっていたのでは……?
それにしても、なぜ松田優作は伊達邦彦というヒーローをあんなふうに〝改変〟してしまったのだろうか? そして、「工藤ちゃんの秘密〜松田優作とハードボイルドをめぐる「独自研究」①〜」からの流れも踏まえて言えば、彼が『探偵物語』第12話「誘拐」(ちなみに、オンエアは『野獣死すべし』が公開されるちょうど10か月前の1979年12月4日)でテレビ画面を通して「日本のハードボイルドの夜明けはいつ来るんでしょうかね、小鷹信光さん」――と原案者に問いかけたこととは、何か関係があるのだろうか? ワタシは、ある、と考えている。というか、10か月前に自分が投げかけた問に対する、あれが答だったのだ――とさえ考えている。以下、この件について少しばかり書いてみようと思うのだけれど、これについて説明するためには角川映画版『野獣死すべし』をめぐってもう1つ重要な事実を指摘をしておく必要がある。実は角川映画版『野獣死すべし』は、伊達邦彦のキャラクター設定以外にもう1つ、原作と異なっている点があるのだ。それは、原作が主人公の内面ではなく、行動を描くことに注力するハードボイルド作品であるのに対し、映画では主人公の内面を描くことに主眼が置かれていること――。
ハードボイルドとは何か? というのは、なかなか一筋縄では行かない問ではあるのだけれど、本来、文学が主題とすべき主人公の内面的な葛藤みたいなものには目もくれず、ひたすらその行動を描くことに徹する文学的試行――とでも言えば、まあまあ、赤点を頂戴することはないのでは? しかし、角川映画版『野獣死すべし』は全く違う。むしろ、主人公の内面を描くことに主眼が置かれていたと言ってもいい。「アルビノー二のアダージョ」が鳴り響くスピーカーの前で頭をパーカーのフードですっぽり覆って胎児のように丸まったり、ホテルの一室でコールガールか何かに自慰行為をさせながら、自らはただ呆けたようにトマトジュース(?)をストローで啜りつづけたり――という、一見すると相当に痛い姿をわざと見せつけるというのは、主人公の内面を可視化するための方法以外ではありえない。さらに言えば、ウィキペディアが「日本映画における難解なラストシーンのひとつに数えられている」と書いているラストシーン――の少し前、主人公が目を覚ますとそこは無人のコンサート会場だったという、これ自体も相当に謎に満ちたシーンも、それまで描かれていたのが実はすべて主人公が見ていた夢だった――という解釈が可能となるための仕掛けだったと受け取るしかなく、こうしたことも含めて、主人公の内面というものにとことんこだわった作りになっていたと言っていいでしょう。
角川映画版『野獣死すべし』が、こうしたおよそハードボイルドからはかけ離れた作りとなった理由――、これについて文献等で裏付けとなる事実を掴んでいるわけではなく、全くの筆者の憶測でしかないことをお断りした上で――もしかしたら、これは、本来、ハードボイルドなど成立すべくもなかった1980年という「空白の時代」にハードボイルドを成立させるために松田優作が考え出した方法論だったのではないか? ここで少しばかり「工藤ちゃんの秘密〜松田優作とハードボイルドをめぐる「独自研究」①」に書いたことを振り返るなら、筆者が松田優作が「工藤ちゃん」というユニークな人物を造形するヒントにしたのではないかと睨んでいる「通俗ハードボイルド」の快作「ドライ・ジンと殺人と」の翻訳者である中田耕治は『宝石』1963年9月号に寄稿した「ハードボイルドは死滅する」という刺激的なタイトルの論考でこんなことを書いている――「私自身は、ハードボイルド派と呼ばれることは好まない。なるほど、私が書き、今後も機会があれば書きつづけるはずの作品は、ハードボイルド派の作品に近いものだろうと思う。にもかかわらず、私自身は、しばらくのあいだは通俗ハードボイルドしか書かないだろうし、また、書けないだろう。(略)何故か。答はきわめて簡単である。われわれの国に於いてハードボイルド小説の可能性はまったくないか、あってもごくかぎられたものにすぎないからである」。これは〝ハードボール〟ですよ……。もっとも、ワタシの読解力に問題があるのか、中田耕治がなぜ「われわれの国に於いてハードボイルド小説の可能性はまったくないか、あってもごくかぎられたものにすぎない」と言っているのかはいまいちよくわかんないんだけどね。ただ、中田耕治はこの論考でヴァン・ダインの『僧正殺人事件』の終章とハメットの『血の収穫』の冒頭の一節を並べた上で(どちらも1929年に書かれている)、前者から読み取れるのは「極度に排他的(エクスクルーシブ)な世界観、家柄に重きを置く社会的排他性、貴族的な基準」、後者から読み取れるのは「無教育な階層、貧困、社会的な緊張」であると指摘している。まあ、そんなところかなあ、とはワタシも思う。で、ここでどうしても思わざるを得ないのは、両者の間には時代と斬り結ぶという意味でおよそ比較するのも憚られるような覚悟の相違があったということ。端的に言うならば、前者は時代に背を向け、後者は時代に向き合っている。そして、この姿勢の違いがハードボイルド・ミステリーに決定的なアドバンテージを与えることとなった。いわゆる「本格派」が古色蒼然たる過去の遺物と見なされる一方、ハードボイルド・ミステリーはまぎれもない「現在(いま)」を代表するものと見なされたのだ。そんなハードボイルド・ミステリーが日本には第2次世界大戦の影響もあって1950年代になって紹介されることとなったわけだけれど――さて、ここでもう一度、中田耕治が述べるところに戻るなら、彼は『血の収穫』から読み取れるのは「無教育な階層、貧困、社会的な緊張」であると指摘していた。その中でも「社会的な緊張」は特に重要なキーワードではないか? なぜなら、ハードボイルドを生み出したものとは、突き詰めれば、この「社会的な緊張」だったと見なすことも可能なので。ハメットが生きたのは「禁酒法」と「大恐慌」の時代であり、社会には緊張感が充ち満ちていた。ハードボイルドという異端の文学はそうした「社会的な緊張」を培地として生まれてきた……。これは、ハードボイルドなるものに対する基本的認識として十分に妥当性のあるものであるはず。で、そう捉えるならばだ、中田耕治が「われわれの国に於いてハードボイルド小説の可能性はまったくないか、あってもごくかぎられたものにすぎない」と言うのも十分に得心が行くではないか。そりゃあねえ、1964年の東京オリンピック開催に向けて社会全体が浮かれ果てていたこの当時の日本にハードボイルドが生まれてくるような「社会的な緊張」なんて一体どこにあったのかと。「われわれの国に於いてハードボイルド小説の可能性はまったくないか、あってもごくかぎられたものにすぎない」――とは、つまりはこういうこと……? さらに、こうした認識を踏まえるならば、松田優作の「日本のハードボイルドの夜明けはいつ来るんでしょうかね、小鷹信光さん」という問いかけもにわかに鮮明な意味を見せ始めたような。そう、ハードボイルドが生まれてくるような「社会的な緊張」なんてどこにもなかったという意味では『探偵物語』が作られた1979年も全く同じだったのだから。
そして、それは、『野獣死すべし』が作られた1980年という時点でも全く変わらない。そんなさ、1年くらいで時代の様相が大きく変わるかってんだよ。だから、やれないんだよ、本来ならば、ハードボイルドなんて。でも、「やらなきゃいけないんだな、角川映画で」(『探偵物語』第20話「逃亡者」)。じゃあ、どうするか? さすがに『野獣死すべし』で「工藤ちゃん」はやれない。なにしろ、彼が演じるのは伊達邦彦なんだから。「社会的な緊張」なんてどこを探しても見つけようのない、ハードボイルドなんて生まれてくるべくもない時代に、伊達邦彦を演じなければならないというジレンマ……。
このジレンマの中で松田優作が見つけ出した答とは――「社会的な緊張」以外の何かにハードボイルドが生まれてくる培地を求めること。そして、その「何か」とは――主人公の「内面」。つまり、主人公が抱える「内面的な緊張」を、ハードボイルドが生まれてくる培地とすること――。
角川映画版『野獣死すべし』の主人公は元通信社の記者で、ベトナム戦争の取材過程で人の死にエクスタシーを覚えるに至ったという人物。人の死にエクスタシーを覚えるに至った――というのはなかなかにエグイ設定なんだけど、ただ極限状況に遭遇したものが何らかのかたちで心理的なダメージを蒙ることは今ではよく知られていて、そうした症状を指すPTSDという言葉も一般化している。もっとも、当時、PTSDなんて言葉はなかったんじゃないかなあ。あるいは、あっても一般化はしていなかった。つーか、そもそもあったところで当の松田@邦彦の救いになるものでは全然ないんだけどね。その内面に広がるのはただただ血なまぐさい戦場の光景……。まあ、はたして日本で作られた映画で主人公を「ベトナム戦争で心に傷を負った人物」にするというのは、どうなん? とは思うんですけどね。確かに沢田教一のようにベトナムの戦場で散った日本人カメラマンもいますよ。また、あの開高健も生き残ったのが不思議なくらいの経験をしている。でも、いずれも特異なケース。日本人にとってのベトナム戦争はいかなる意味においても「我が事」ではなかった。だから、そんなモノを日本で作られた映画のモチーフとして持ち出されても……ということは、正直、思いますよ。これは、まあ、『ディア・ハンター』(1978年)とか『地獄の黙示録』(1979年)とか、当時、アメリカでは盛んにその種の映画が作られていたので、それに乗っかったというところはあったでしょう。そういう意味では、いささか安易。ただ、この点については、ワタシは目を瞑ってもいいと思ってるんだ。重要なのは、ハードボイルド映画において「心に傷を負った人物」を主人公に据えた、というこのことなのだから。これは、当時、アメリカで台頭しつつあった「ネオ・ハードボイルド」の流れに沿ったもの――と言えないこともない。でも、「ネオ・ハードボイルド」の特徴が「名探偵が癌ノイローゼだったり、妻に逃げられたり、ホモだったり、元アルコール依存症だったり、ごく普通の人間と同じような悩み、苦しみを背負った人間である点にある」(権田萬治編『海外ミステリー事典』)とされるのに対し、松田優作が演じた伊達邦彦はとてもそんな甘っちょろいものではない。あれは文字通りの〝野獣〟だよ。心に傷を負った〝野獣〟。だから、手が付けられない。そして、映画は、この心に傷を負った〝野獣〟の内面に迫ることを最大のテーマとして進行して行く。そして、最後に至って、もしかしたらそれまで描かれていたのはすべて主人公が見ていた夢だったかもしれない――という解釈も可能であるような仕掛けを施して終りを迎える。実に念が入っている。主人公の内面というものにとことんこだわった作り――。
はたして、それが「ハードボイルド」なのか? と言われれば、なかなか微妙。大藪春彦が映画を見て脚本の丸山昇一を批判したというのも、単に伊達邦彦のキャラクターがどうこうというだけではなく、あそこまで主人公の内面を描いたんじゃもうハードボイルドじゃないだろう、という意味合いもあったのでは? しかし、じゃあ原作通りやればよかったのか? それでも〝商品〟としては成立したかも知れない――『蘇える金狼』のように。そして、製作サイドも、観客も、望んでいたのはそういう映画だったのかも知れない。しかし、松田優作はそれを拒否したんだよ。『探偵物語』という〝メタ・ハードボイルド〟とがっつり組み合い、ハードボイルドについて考え詰めた後では、もう前のようにはできなかった、ということなんだと思うな。そして、中田耕治が言う「社会的な緊張」なんてどこを探しても見つけようのない、ハードボイルドなんて生まれてくるべくもない時代に伊達邦彦を演じるために彼が考え出した方法論こそは主人公を「内面的な緊張」を抱えた人物とすること。言うならば松田優作は「社会的な緊張」に代って「内面的な緊張」を描くことで「新しいハードボイルド」の可能性を示そうとしたんだよ。そして、それによって、「日本のハードボイルドの夜明けはいつ来るんでしょうかね、小鷹信光さん」という1年前に自らが発した問に自ら答を出そうとした……。