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『一夢庵風流記』のあとがきを読む②

 このところ、前田慶次(あるいは、前田慶次郎)のせいで図書館に日参する破目になっている――と「『一夢庵風流記』のあとがきを読む①」では書いたのだけれど、単に映画『城取り』の主人公の件だけだったら「日参」というほどのことにはならなかっただろう。それこそワタシが地元図書館に日参(『スーパー大辞林』によれば「毎日のように訪れること」。うん、間違ってない……)する破目になったのは、『一夢庵風流記』のあとがきの中にもう1つワタシを図書館へと駆り立てる仕掛け(?)が施してあったから。そして、こっちの方がミッションとしてははるかに困難だった。現に「日参」という頻度で図書館に足を運ぶことになったのだから……。

 ということで、まずは『一夢庵風流記』のあとがきのモンダイの下りを読んでいただくことにしましょう。もっとも、それは至ってシンプルな、こんな下りなんだけれど――

 前田慶次郎という、戦国末期の時代をしたたかに、だが自由に生き抜いた一匹狼の新たなイメージが私の中に固定した。以後私はこつこつとこの男の史料集めにかかった。富山県の氷見に能坂利雄氏をお訪ねしたのもそのためだった。

 『一夢庵風流記』が1989年に読売新聞社からハードカバーで刊行され、さらに1990年、それを原作とする原哲夫の漫画『花の慶次』の連載が始まり、一躍、「傾奇者慶次」の大ブームが巻き起こって以降、一体どれほどの人が『一夢庵風流記』を読み、このあとがきに目を通したものか。しかし、その中で能坂利雄という人物をご存知の方はどれほどもいないはず。なにしろ、かくいうワタシもおよそ曖昧な記憶を脳の片隅に留めるばかりで。氷見のノウサカトシオ? そういえばどこかで見たか聞いたかしたことがあるような……。同郷人であるワタシでさえそんな感じなんだから、富山と何のゆかりもない人が知っているはずがない。そして、これがなんとも不思議なのだけれど、隆慶一郎はそんな一般的にはほとんど知られていないであろう人物の名前をここで唐突に持ち出して――そして、そのまま放置(?)するのだ。つまり、能坂利雄が何者であるかを一切説明していないわけですよ。これはなんともハードボイルドというか……。

 で、まさにこれがハードボイルドのハードボイルドたるユエンなんだけれど、一切、何の説明していないことで、かえって能坂利雄の存在感が浮き立つというね。だって、気になるもの。多分、ここでなにかしら能坂利雄についてのありきたりな説明をするよりも、何もしない方が能坂利雄という人物への注意を喚起するという意味ではよほど効果的であるはず。しかもだ、隆慶一郎がこのあとがきにおいて挙げている人名は、上杉景勝や前田利家といった歴史上の人物、ボードレールやランボオといった隆慶一郎が旧制高校時代に耽読したという詩人たち、そして文末に挙げられている担当編集者を除けば、石原裕次郎、司馬遼太郎、そしてこの能坂利雄の3人だけ。石原裕次郎、司馬遼太郎、そして能坂利雄――ですよ。これはねえ、いやでも注意を引かれますよ。でありあがら、能坂利雄が何者かについては、一切の説明を省いている……。あるいは、これは、能坂利雄という人物への注意を喚起するという意味では最高の方法と言っていいかもしれない。そして、待てよ、もしかしたら隆慶一郎は、能坂利雄の存在感を浮き立たせるためにわざとこんな〝放置プレー〟をしているのでは? と。要するにだ、隆慶一郎はこのあとがきを読んだモノが自ずと能坂利雄のことを調べることになるように仕組んでいる、これはそういう文章である……。

 ま、多分、ワタシの思い過ごしでしょう(笑)。でも、この際、〝事実〟なんてどーでもいいじゃないか。「確かにさすらいの悲しさは仄かに匂うけれど、そこには一片の感傷もなく、人間の本来持つ悲しさが主張低音のように鳴っているばかりである」――と、「前田慶次道中日記」からそんな音楽を聴き取る人間もいれば、『一夢庵風流記』のあとがきからこんな〝ストーリイ〟を読み取る人間もいると。ともあれ、ワタシはワタシが読み取ったところに従って能坂利雄についての〝調査〟に乗り出したということだ。

 さて、能坂利雄とは何者か? 一言で言えば、作家である。ただ、むしろそのプロフィールからは民俗学や古代史の研究者という横顔が強く浮かび上がってくるよう。ここは『富山県文学事典』(桂書房)が記すところを紹介するなら――

 能坂利雄 のうさか
としお
 大正一一・九・九〜平成三・八・一(一九二二〜一九九一)小説家、文筆家。氷見郡氷見町(現氷見市)生。富山青年師範学校卒業。昭和二三年「小説倶楽部」の編集に従い、小説を発表。この間、山岡荘八、海音寺潮五郎らの矢立会に参加した。二八年、富山新聞に「倶利伽羅地獄」を、二九年、北陸新聞に「編笠時雨」を、同年、北日本新聞に「落花三国志」を、四五年から北陸中日新聞に「前田利家」、「塚越忠次郎」を連載。小説集に『北陸の剣豪』(昭46)、『北陸の騒動』(同)がある。また早くから江戸風俗や紋章、地方祭祀の研究調査に従い、民俗学や古代史を学び、四〇年代後半からは主にそれらの研究的著作にはげみ『日本史の原像』(昭46)、『家系と家紋』(同)、『城と城下町』(同)、『前田一族』(昭48)、『続・城と城下町』(昭49)、『継体天皇の謎』(昭50)、『北陸古代王朝の謎』(昭57)を著し、ほかにも『川は見ていた』、『富山県人』、『家紋の知識』、『姓氏の知識一〇〇』、『日本家紋大鑑』、『戦国前田一族』、『北陸史23の謎』、『光台閣記』、『北陸零年の謎』、『能登へ上陸した神々』、『日本家紋総覧』(新人物往来社、平2)など多数がある。日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会会員。日本紋章学研究所長。雑誌「氷見春秋」や「海虹」の編集を担当した。また、李鷗の号で絵や書もよくした。

 ね、著作リストの中には時代小説(と思われるもの)も見受けられるものの、大半は民俗学や古代史関係の研究書。加えて、家紋だとか姓氏だとか。しかし、日本紋章学研究所長? そもそも紋章学って学問があること自体が初耳なんですけど……。そういえば、宗教象徴学の教授が活躍する大人気ミステリーがあったっけ。だったら、紋章学の教授――じゃなくて、いっそのこと自称「日本紋章学研究所長」を主人公とするミステリーなんてのもありかもしれないなあ……。閑話休題。このプロフィールから隆慶一郎がわざわざ富山県氷見市まで足を運んで能坂利雄を訪問した理由を見出すなら……昭和45年から北陸中日新聞に連載されたという「前田利家」、昭和48年に刊行された『前田一族』(なお、『戦国前田一族』は『前田一族』を改題の上、復刊したもの)。さらには小説集とされている『北陸の剣豪』。このあたりですかねえ。で、「前田利家」については読む方法が見当たらないので、とりあえずは富山県立図書館で『前田一族』と『北陸の剣豪』を借り受けることにしたところ――おお! なんと能坂利雄は前田慶次郎を主人公とした小説を新聞に連載していたというではないか。まずは『前田一族』のあとがきから――

 もともと私にとって前田家古文書や文献との接触は、すでに二十何年か前よりのもので、それらを渉猟しては割合多くの作品を発表してきた。ことに前田慶次郎については、二十年前新聞連載小説として発表した他、その頃「東都奇人伝」の中に短編ものとしても世に出している。最近では新人物往来社刊の拙著『家系と家紋』に収めた史実の考究や、『歴史読本』誌上にも「梅鉢紋伝奇」という利家主体の小説も発表した。この他評論、随想の類もかなり多く出しているので、本書へ取り組む上に非常な手助けとなった。

 また、ワタシが睨んだ通り、『北陸の剣豪』にも前田慶次郎についての一文(なお、同書について『富山県文学事典』では小説集としているものの、前田慶次郎について記した「穀蔵院一刀流前田慶次郎―天衣無縫のひょっと斎―」は評伝ないしは小伝と呼ぶのがふさわしい)が収められており、その冒頭でも――

 前田慶次郎ほど奇行に富んだ兵法者は絶えて珍しい。昭和二十九年ごろ富山新聞夕刊小説に「倶利伽羅地獄」と題して連載したことがあるが、当時ラジオにも連続ドラマとして発表した。架空の人物かとよく聞かれるが、れっきとした実在人物である。昭和二十四年「東都奇人伝」と題したシリーズ小説にも登場させたことがある。

 なんとなんと能坂利雄は前田慶次郎を主人公とする小説を新聞に連載していたばかりではなく、ラジオの連続ドラマとしても発表していた。他にも「東都奇人伝」とか「梅鉢紋伝奇」とかいった伝記小説(なんだろうなあ)にも登場させていた……。これはねえ、隆慶一郎としても氷見だろうがどこだろうが足を運ぶでしょうよ。そういうことがこれでハッキリしたと言っていい。

 ただ、ワタシの〝調査〟が順調に進んだのは、ここまで。こっからが、もうね。せっかくだからと、彼が列挙した小説類を読んで見たいと思ったのだけれど……。まず、『富山新聞』夕刊に連載したという「倶利伽羅地獄」についてだけど、富山県立図書館HPの「県内新聞雑誌記事見出し検索」で検索してもヒットせず。また、書籍化もされていないと見えて、蔵書検索でもヒットせず。これには「うーん」ですよ。さらに、前田慶次郎を登場させたという「東都奇人伝」と題したシリーズ小説に至ってはそもそも何に掲載されたものかもわからない。国立国会図書館サーチで検索しても「一致する資料は見つかりませんでした」。ただ、書かれたのが昭和24年ならば、『小説倶楽部』である可能性が高い? 『富山県文学事典』が記すプロフィールによれば能坂利雄は昭和23年から『小説倶楽部』の「編集に従い、小説を発表」したというのだから(なお、『小説倶楽部』の発行元は洋洋社という出版社で、社長は高岡市出身の吉田吉次という人物だった。そういうことが、能坂利雄が1989年7月から9月にかけて『富山新聞』に連載した「私の文学アルバム」に記されている。なんでものちには編集局長も務めたという。こうした事実関係を含め、ワタシが知りえた能坂利雄のプロフィールについてはウィキペディアの「能坂利雄」の記事に書いておきましたので、興味のある方はご一読下さい)。しかし、そうだとして、どうだというのか? 昭和24年発行の『小説倶楽部』なんて一体どうしたら見ることができるってんだ(どうやら国立国会図書館に所蔵されているらしい。さすがは国立。しかし、ワタシの立場では、これもまた「うーん」と言うしかなく……)。あと「梅鉢紋伝奇」は『富山県文学事典』のプロフィールで『北陸の剣豪』とともに小説集として挙げられている『北陸の騒動』に収録されていることがわかったのだけれど、読んでみると、なぜか前田慶次郎は登場しない。はて、どーゆーこと? 確かに「利家主体の小説」とは書いてあるけれど……。

 ということで、能坂利雄が書いた前田慶次郎を主人公ないしは登場人物とする小説は遂に読むことは叶わず仕舞――かというと、さにあらず。「倶利伽羅地獄」については読むことができた。一体どんなテを使ったのか? 実は富山県立図書館の新聞雑誌閲覧室では富山新聞の紙面閲覧システムなるものが提供されている。しかも、記事検索に対応しているのは平成5年以降に限られるものの(だから「県内新聞雑誌記事見出し検索」ではヒットしなかった)、閲覧ならば昭和21年まで遡って可能。これを利用すれば捜し出せないはずはないはず。相当の手間がかかることは間違いないけれど、やろうと思えばできる。やろうと思えばね。問題は、やろうと思うかどうか。ワタシは……思ったのだ(苦笑)。もうね、いささか自分でも呆れるというか。一体なんのためにそこまで……。ともあれ、まずは「倶利伽羅地獄」の基本データを紹介しましょう。小説「倶利伽羅地獄」は『富山新聞』夕刊の昭和28年11月24日号から昭和29年7月23日号まで全227回に渡って連載。また小説のタイトルは「倶利伽羅地獄」で間違いないものの、「ひょっとこ斎行状記」と題するシリーズの1編と位置づけられていたようで、最終回の「付記」で――「ひょっとこ斎行状記は『倶利伽羅地獄』の巻を一まずこれで終ります。いずれまた続編か別の巻でお目見得することもありましょう」。しかし、『富山県文学事典』のプロフィールを見る限り、結局、その機会はなかったということか? また、この小説、ワタシはすべて読み通したわけではないのだけれど(それは、とてもじゃないけれどムリです)、誠に時代小説らしい時代小説で、『小説倶楽部』の常連だった山手樹一郎や陣出達朗あたりを思い起こさせる作風とでも言えばいいか。もっとも、読んだことないんですけどね、山手樹一郎も陣出達朗も。あくまでもイメージの話。その辺の名前を思い起こさせるような、いかにも時代小説らしい時代小説というね。せっかくなので雰囲気だけでも味わってもらうなら――

 治部右衛門の体は、動揺した。
 右腕のつけもとから、真紅の血が吹き出ている。誰かに射たれたのであった。
 落した刀は足もとにあった。
 「むゝっ!」
 と呻き、がくっと膝を折った。
 「先生!」
 俄然色めき立った剣士達が、治部右衛門の傍にかけ寄った。
 「畜生!」
 と叫んだ剣士の一人が、性急にひょっとこ斎に迫ろうとすると
 「動くじゃないよ」
 社殿のわきの杉のかげから折りしも走った紫電の光に照らされ、にっこり微笑みながら半身を現わしたのは、短銃を擬したおせん姐さん。
 そして又、氷見の宿場で、土埋めの禁厭療法により危うく落命を免れた奇蹟的な梵天丸!
 続くは瓢軽者の甚六である。
 「先生!」
 「お前さん!」
 交々に呼んで近寄る三人の者達に、これはなんとした久しい懐しの顔合せであったことか。
 「ひょっとこ斎どの!」
 雨にずぶぬれたまゝ治部右衛門は頭を掲げ
 「負けた。富田治部右衛門この通り敗北いたし申した。なれど、生前、慶次郎の若さまにお目にかゝり度うございました。
 なるほど、仰せの通りあの殿はお逝き遊ばしたのかも知れませぬが、あなたと生写しのように承っております」
 「他人の空似。彼がまかってから久しいことじゃ。三途の川もすでに過ぎ、今頃は地獄の奥、閻魔の庁で、鬼どもの酒を横奪りして酔い痴れておることだろう。富さん、肥前守(利長)がたずねたら慶次郎はこの通りの姿だと笑って位牌を見せてやってくれ」
 「御意しかと!」
 ひょっとこ斎は、位牌を両手にそえて雨の石畳の上を歩き出した。

 えーと、前田慶次郎は死んだってことになってるようですねえ。でもって、慶次郎と生き写しのひょっとこ斎なる人物が大暴れ……。隆慶一郎がもしこの「倶利伽羅地獄」を読む機会があったならば、旧制高校時代は「ボードレール、ランボオ、ベルレーヌの詩に耽溺するかたわら、時代小説を片っ端から濫読していた」という彼のことだ、きっと往時を思い起す格好のヨスガにはなっただろう。ただ、前田慶次郎に関する史料集めという意味では、この「倶利伽羅地獄」は何の役にも立たなかっただろうねえ。だって、「倶利伽羅地獄」はご覧の通りの時代小説――全くのフィクションなのだから。ということで、こと前田慶次郎に関する史料集めということで言うならば、あとは能坂利雄からどういう史料の提示を受け(ちなみに、能坂利雄は『前田一族』では『三州志』『村井重頼覚書』『三壺聞書』、『北陸の剣豪』では『信越旅日記』『考拠摘録』『加賀藩歴譜』等を典拠史料として挙げている)、どういう話を聞き出すことができたか――ということになるわけだけれど、わざわざ『一夢庵風流記』のあとがきで能坂利雄の名前を挙げているということは、この訪問が隆慶一郎にとっては有意義なものであった証しではあるはず。そう考えるならば、史料提供もさることながら(はっきり言って、能坂利雄が挙げている史料はほとんどが『加賀藩史料』に収録されており、わざわざ氷見まで足を運ばなくてもアクセスが可能なもの)、おそらくは能坂利雄の口で語られる前田慶次郎の話がよほど傾聴に値するものだったのだろう。

 ただ、そう思う一方で、ちょっと気になることもある。というのは、能坂利雄が『前田一族』や『北陸の剣豪』に記している前田慶次郎の人物データと隆慶一郎が『一夢庵風流記』に記しているそれがいささかならず異なっているのだ。その最たる例が、没年。前田慶次郎というのはそもそもが謎に満ちた人物で、生年がわかっていない。さらに、没年と終焉の地に関しては全く異なる2つの説が伝わっている。1つは、慶長10年(1605年)11月9日に大和国の刈布というところで亡くなったとする説。もう1つは、慶長17年(1612年)6月4日に米沢の堂森というところで亡くなったとする説。で、能坂利雄は『前田一族』でも『北陸の剣豪』でも前者の説を採用している。ここは『前田一族』に記すところを引くなら――

 上杉軍が信濃攻略の折り、徳川氏に敗れてから、慶次郎は再び、景勝のもとを去って牢人となった。仕官するくだらなさに愛想がつきたのであろうか。
 一蓋の笠に五尺の身をかくし、追われるように戦国の蝸牛角上の争いの渦の中から風のように消えていった。一国一城の主になる機会に恵まれようとも彼は自らを捨てた。立身出世にも愛着を失った。平常ひそかに大望を抱いたというが、前田氏嫡流利久家の再興を期していたのであろうか。それにしても彼の奇骨のあるかぶき精神が、その所業においてウラ目にでて、ことは志と全く反対の運命を辿るのある。
 利家の顰蹙を買ったことはいうまでもない。『三壺聞書』には三女説を採っているが、一説には一男五女説を用い、男安太夫正虎は前田利長に仕えて書をよくしたことがみえる。「大和国刈布村、安楽寺に墓あり、方四尺、高さ五尺の石碑」と記されているのが慶次郎のものである。彼は慶長十年十一月九日、七十三歳の高齢で歿しているから天文二年の生まれで、叔父に当たる利家よりも五歳の年長者であった。

 これに対し、隆慶一郎は後者の説を採用し、亡くなったのは米沢であるとしている。その上で、前者の説についても「異伝」として紹介しつつ、「にわかに信ずることは出来ない」と退けている――

 米沢での慶次郎の逸話はほとんど知られていない。城外堂森に隠棲し、二千石の捨扶持を与えられて、嘯月吟歌、愛する伽姫と共に悠々の歳月を送ったものと思われる。米沢に移ってからはもう二度とかぶくことはなかったのではないか。景勝の次代忠勝の時まで生き、米沢で死んだ。没年は慶長十七年六月四日とあるから、関ヶ原以後十二年も生きたことになる。伽姫は十分に倖せだったと思う。
 他に異伝があり、前田利長によって大和刈布に蟄居させられ、慶長十年十一月九日に死んだとも云われるが、にわかに信ずることは出来ない。慶次郎の性格から考えて、到底おとなしく蟄居していた筈もないし、前田利長にしても慶次郎を抑えておく理由がないのである。やはり慶次郎は生涯の友だった直江兼続の住む米沢で死んだと考えたい。

 一方は「仕官するくだらなさに愛想がつきた」として上杉家を出奔したとし、一方は「慶次郎は生涯の友だった直江兼続の住む米沢で死んだと考えたい」――と、言うならば上杉家に骨を埋めたとしているわけだけれど、さて。どちらも前田慶次郎という〝自由人〟の出処進退としてはありそうな気はするのだけれど、後者はややセンチメンタリズムが勝ち過ぎている嫌いも……。

 また、これ以外にも両者の見解の相違点を指摘することができる。たとえば、能坂利雄は前田慶次郎が前田家を出奔した理由について「前田氏嫡流利久家の再興を期していたのであろうか」――とその心中を推し量っているわけだけれど、一方の隆慶一郎はというと――「慶次郎は後に竜砕軒不便斎、或は穀蔵院ひょっとこ斎を名乗り、一夢庵主と号した。この『一夢』を一国一城の主になる夢だと解釈する史家もあるが、果してそうだろうか。私にはそう単純なものではなかったように思われる」。能坂利雄も前田慶次郎は「一国一城の主になる機会に恵まれようとも彼は自らを捨てた」としている。しかし、仮に慶次郎が抱いていた「大望」が前田氏嫡流利久家の再興だったとするならば、それは「一国一城の主」になることとイコール。もともと前田氏嫡流利久家は尾張国荒子城主だったのだから(このあたりの前田慶次郎の出自とも密接に関る前田家草創期の非常に込み入った話についてはウィキペディアの「前田利益」の記事の「生涯」参照)。つまり、能坂利雄は前田慶次郎が抱いていた「大望」とは「一国一城の主」になることだったと言っているのも同然で、そうすると隆慶一郎が言う「史家」とは能坂利雄のことなのか? と。

 さらに、もう1つ、ワタシが気になる点を指摘しておきましょうか。ワタシは、隆慶一郎がわざわざ氷見まで足を運んだ理由の1つに、阿尾城を見たい――というのがあったのではないかと思っている。阿尾城というのは、氷見市阿尾の海岸から富山湾に突き出た独立丘陵に築かれた山城(というか、海城? 氷見市教育委員会編『氷見の山城』によれば、阿尾城跡をめぐっては1989年から1992年にかけて発掘調査が行われたものの、明確な城郭遺構は確認されなかったとして、「じつは、阿尾城は陸ではなく、海を正面に築いた城だったのではないか。つまり、この海に向けて突出した丘陵から、海上を航行する船舶を監視し、その海上交通の統制・支配を目的としていたと考えたら、どうか」。ま、「海城」なるものの定義から言うとどうなるのかは知りませんが、その立地を見る限りは、明らかに海城でしょう……)で、まだ前田家の家臣だった時分の前田慶次郎が城主(あるいは城代)をつとめていたという話がある。能坂利雄も『北陸の剣豪』で――「それでも一時は利家の客将として仕えたことがあるらしく、氷見阿尾城主となったことが前田藩創世期の資料の中に散見できる」(ただし、これはなかなか微妙な話で。確かに『加賀藩史料』には天正13年5月、阿尾城に配置された前田軍の筆頭で慶次郎の最初の通名とされる「前田宗兵衛尉」という名前が記された史料が収められている。しかし、『加賀藩史料』には元々の阿尾城主だった菊池氏に引き続き阿尾城への居城を認める天正13年7月28日付け「誓書」なるものも収められており、これを普通に解釈するなら、引き続き阿尾城の城主は菊池氏のままだった――ということになるのでは? その場合、前田慶次郎の身分は城を守るためだけに派遣された守備大将「城将」だったと見なすのが適当ではないかと。実際、江戸時代後期の加賀藩士・富田景周が著した『三州志』では慶次郎を「利益」という諱で記しつつ「城将利益」としているのが認められる。それとも、「城将」もまた広い意味での「城主」だったということになるのだろうか……?)。わざわざ氷見まで足を運んだ隆慶一郎がこの阿尾城に興味を示さなかったとは考えにくい。当然、見には行ったでしょう。ことによったら、能坂利雄が案内したという可能性も? ところが、『一夢庵風流記』にはこの阿尾城に関るエピソードが一切出てこないのだ。まあ、『一夢庵風流記』は前田慶次郎が前田家を出奔するところから話が始まるので、必然的にそうなるとは言えるのだけれど、しかし、わざわざ氷見まで足を運んで、阿尾城にまつわるエピソードをまったくオミットするというのもねえ……。

 その終焉にまつわるエピソードで立場を異にし、前田家を出奔した理由についても見解の相違が認められる。そして、阿尾城にまつわるエピソードはそっくりオミット――、これじゃあ、わざわざ氷見に能坂利雄を訪ねた成果なんてなかったに等しいんじゃないの? でも、隆慶一郎は書いてるんだよなあ、『一夢庵風流記』のあとがきに。「以後私はこつこつとこの男の史料集めにかかった。富山県の氷見に能坂利雄氏をお訪ねしたのもそのためだった」と。つまり、『一夢庵風流記』という小説が書かれるに当っては、氷見に能坂利雄を訪ねたことが間違いなく1つのマイルストーンになっているということ……。もしかしたら、彼は逆を行ったのかねえ。氷見に能坂利雄という〝遺賢〟が隠れていて、まだ誰も前田慶次郎に注意を払わない内からこの奇人に注意を払い続けてきた。そういう人物への敬意の表し方としては、2通りあるのかもしれない。1つは、その後を行く。もう1つは、その逆を行く――。そして、隆慶一郎は、逆を行くことを選んだ。そうでなきゃ、なにが「天下御免の傾奇者」かよと……?


余談 それにしても、『一夢庵風流記』はなんで『一夢庵風流記』なの? 話の筋から言えば、『無苦庵風流記』じゃないとおかしいんじゃないの? だって、隆慶一郎は前田慶次郎は米沢で亡くなったとしているわけだから――つーか、前田慶次郎は慶長10年11月9日に大和国の刈布で亡くなったとする説(慶次郎の従者だった野崎八左衛門知通が「遺言」として語ったことを書き留めたものにそう記されている。曰く「不便齋病次第に盛にして不治、慶長十年十一月九日巳の半刻、享年七十三にて卒したまへり。則刈布安樂寺に葬る。其林中に一廟を築き、方四尺餘、高五尺之石碑を建、銘に龍碎軒不便齋一夢庵主と記せり」。出典は『加賀藩史料』所引「考據摘録」。なお、「考據摘録」は旧加賀藩士で前田家御家録編輯方などを務めた森田柿園が「天文7年(1538)から万治3年(1660)までの加賀藩関係の諸事項をかかげ、そのよるところの書籍と関係内容を抜粋したもの」で、原本は金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵)を「にわかに信ずることは出来ない」――としているわけだからね。で、「一夢庵」というのは、この説と不可分と言っていいもの(建てられたとする石碑の碑銘に含まれるもの)なのだから。説自体を「にわかに信ずることは出来ない」として却下するなら、「一夢庵」という庵号だって却下しないといけないでしょう。一方、隆慶一郎は小説の最後で「無苦庵記」なるものを引用している。「生きるまでいきたらば、死ぬるでもあろうかとおもふ」――というやつね。この「無苦庵記」について隆慶一郎は「慶次郎が信濃善光寺に住んだ時の作として伝えられる」と説明しているのだけれど、今では「無苦庵」とは慶次郎が米沢の堂森に結んだ庵であるとされていて、屋敷跡とされる場所も特定されており、「米澤前田慶次の会」による発掘調査も行われている(コチラは2015年11月2日に行われた現地説明会について報じる山形新聞の記事。しかし、敷地面積が約7800平方メートルで土塁跡まで見つかっているの? それだと、庵と呼ぶには大き過ぎるような気もするんだけど……?)。そうとわかれば、慶次郎は米沢で亡くなったとしている隆慶一郎が小説の最後で引用するのに誠にふさわしいということになるのだけれど――しかし、そう考えるにつけても『一夢庵風流記』というタイトルはどうなの? 話の筋から言えば、『無苦庵風流記』じゃないとおかしいんじゃないの? と。で、ここは想像力を逞しゅうするなら――実は隆慶一郎は元々は慶次郎の最期については野崎八左衛門の「遺言」に沿ってストーリーを紡ぐつもりだったのでは? そのため、タイトルは『一夢庵風流記』とした。しかし、小説を書き進むにつれて「やはり慶次郎は生涯の友だった直江兼続の住む米沢で死んだと考えたい」という強い思いに囚われるに至り、強引に設定を変更したがためにかくなる混乱(?)は生じた……。この場合、隆慶一郎も元々は(あるいは、本音では)慶次郎は大和国の刈布で亡くなったと考えていた――ということに……?