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半ダースのジャズの本
(を読んでヒマ人が思ったこと、的な)

 「久須見健三はなぜヘレン・メリルを聴くのか?〜ナマシマ・ジローと「日本ハードボイルド」の原風景〜」を書くために地元図書館から借りてきた本が6冊ばかりある。すべてジャズの本。当時のジャズをとりまく状況(ジャズ・ブームの実態)について知りたくて、念には念を入れて6冊も借りてきた。で、もう書きたいことは書いてしまったし、この半ダースのジャズの本についてはお役御免としてもいいんだけれど、せっかく借りてきたんだ。いくつか興味をソソラレル発見もあることだし、この際だから落ち穂拾い的に書いておくと――湯川れい子って米沢藩の家老だった家の出身なんだってね。そんなことが、小川隆夫著『証言で綴る日本のジャズ』(駒草出版)のインタビューで語られている。これは驚きですよ。しかも、ウィキペディアによれば、その家老とは千坂高房だという。ということは、奥羽越列藩同盟結成の起点となった慶応4年閏4月4日付けの「回章」(仙米両藩の家老名義で奥羽各藩に白石への参集を呼びかけたもの。興味のある方は『仙台戊辰史』のこちらのページをご覧下さい)に「上杉弾正大弼家老」として署名している千坂太郎左衛門その人ではないか! これはもうサプライズを通り越して、絶句……。それにしても、サラリと言ってくれるよなあ、「うちは米沢藩の家老だった古い家柄なので」。そりゃあもうね、千坂家といえば、かの「上杉二十五将」にも数えられる千坂対馬守清胤につらなる家柄で、そんな家の出身者が『スイングジャーナル』の「読者論壇」に投稿したり(1959年秋のこととされるものの、巻号は不明)、『マンハント』の「愛読者座談会」に出席したり(1960年2月号。名前は「湯川礼子」)……。オレに発狂しろってのか⁉

 あと、話は全く違うのだけれど(つーか、インタビューの趣旨としては、こちらの方がメイン)、こんな証言もなかなか興味をソソラレル(ちなみに、これは本稿の後半部分への伏線ともなっておりますので、そのつもりでお読みいただければ幸いです)。まずは、当時、有楽町にあったジャズ喫茶「コンボ」が湯川女史(というか、当時はまだ女子高生。本人曰く「わたし、不良少女でしたから(笑)」)の音楽人生の始まりだったという話があって――

――当時、ほかに行かれたジャズ喫茶はあるんですか?
 「コンボ」だけです。あちこちに行くのは高校を卒業してからですね。
――まだロックはでてきてないし。
 出てきてないです、はい。エルヴィス・プレスリーを聴くのは五六年ですから、少し先になります。
――その三年くらい前が湯川先生の「コンボ」時代だったんですね。それで、高校を卒業されてあちこち行くようになりました。そのころの東京のジャズ・シーンは、湯川さんから見てどのようなものだったんでしょう?
 そうですね。「不二家ミュージック・サロン」がすごい人気だったかなあ。「テネシー」ではジャズをやってましたよね。あそこがロックをやるのはそのあとですから。それからあとはなんだろう? クラブでは「マヌエラ」とか「日比谷イン」とか。ジャズ喫茶だと新宿の「汀」とか。あと店の名前は忘れましたが、築地のクラブにクレージー・キャッツが出ていたときのことは覚えています。いいバンドでしたよ。
――クレージーのジャズ・バンド時代ですね。
 はい、ジャズをやっていました。でもハナさんは、すでにドラムを叩きながらステージ上であっちに行ったりこっちに来たりを。
――クレージー・キャッツはバンドとしては上手かったんですか?
 上手かったです。谷啓さんのトロンボーンが素晴らしかった記憶があります。でも、植木さんは記憶にないです。
――植木さんは少しあとの参加ですから、先生がご覧になられたのはその前かもしれませんね。

 ハナ肇とクレージー・キャッツがもともとはジャズ・バンドだったというのは、ワタシも一応、知ってはいるんだけれど、こうして同時代の人間の証言というかたちでその名前が出てきて、しかも「いいバンドでしたよ」と。正直、これは、ワタシの認識の中にはなかった「事実」。ハナ肇とクレージー・キャッツがジャズ・バンドとしても一流だった、というようなことはね。それにしても、よもや米沢藩の家老の曾孫? 玄孫? からクレージー・キャッツのジャズ・バンドとしての評価を聞くことになろうとは……。

 また、今回、ワタシが借りたジャズの本は半ダースもあるわけだから、当然のことながら、湯川れい子のインタビュー以外にもなにかと興味をソソラレル事実はある。中でも特記に値するのは、これは、まあ、借りた本が1冊や2冊ではなく、半ダースだったからこその〝発見〟とも言えるんだけれど、いわゆるhearsay(「風聞」とか「流説」というような意味)なるものがいかに不確かであるかということのある種のケーススタディとも言えるし、また史料考証においては複数の史料に当たってクロスチェックすることがいかに重要であるかという教訓のようでもあるし……。まずは『証言で綴る日本のジャズ』から今も新宿にあるジャズ喫茶「DUG」のオーナーでジャズ・フォトグラファーとしても知られる中平穂積氏のインタビューから。ちょうどジャズ喫茶「DIG」(今ある「DUG」の前身。ちなみに、DIGというのはマイルス・デイヴィスのプレスティッジ時代のアルバム・タイトルですが、ワタシが初めて買ったジャズのアルバムが、何を隠そう、この『DIG』なんだ。当時、ワタシは高校生かな。しかし、渋いなあ、最初に買ったジャズのアルバムが『DIG』というのは。最初に買ったハードボイルド小説が生島治郎の『薄倖の街』で、ジャズのアルバムが『DIG』。渋すぎる……)を始めたのがアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズが来日した1961年だという話があって――

――そのアート・ブレイキーが初来日にしたときのライヴ・アルバムがあります。そのジャケット写真が……。
 これがぼくのジャズの写真のスタートです。
――ザ・ジャズ・メッセンジャーズが中平さんの写真第一号ですか。
 このときは大手町の「サンケイ・ホール」で三日間ぐらいコンサートがあったんです。三日間とも一番前の席のチケットを買って、呼び屋さんに頼んで楽屋にも入れてもらいました。それが写真のスタートだし、日本にモダン・ジャズのグループが来たのもそれが最初です。
――トップのミュージシャンたちでしたからね。
 リー・モーガン(tp)、ウェイン・ショーター(ts)、ボビー・ティモンズ(p)とか、みんなぼくらは知っていたし。それでファンキー・ブームに火がついて……。
――当時は文化みたいなもので、ジャズ・ファンだけでなく、日本中のひとが熱狂した。子供だったのでよくわからないけれど、そうだったという話は聞いています。
 彼らが演奏した〈モーニン〉は田舎のおっさんでも知ってるというくらいで。

 次に相倉久人著『至高の日本ジャズ全史』(集英社新書)から第4章「〝モード〟の時代――アイデンティティ追求へ向けて」の冒頭。戦後のジャズ・ミュージシャンの来日状況を概観しつつ――

 ジーン・クルーパ・トリオにはじまりJATP、ルイ・アームストロングなど来日ラッシュがあったかと思うとふいにその勢いは衰え、一九五七(昭和三二)年、皇太子の上覧もあったベニー・グッドマン・オーケストラ以外に、めぼしいアーティストの来日もみられなくなった。
 その静寂が破られたのが、一九六一(昭和三六)年の正月。ファンキーブームに沸く日本のどてっ腹にパンチをくり出してきたのは、ファンキー・ジャズの権化アート・ブレイキーと彼が率いるジャズ・メッセンジャーズだった。(略)
 蕎麦屋の出前持ちまでが(これは差別的発言ではないかと思うが)〈モーニン〉を口ずさむほど、ジャズ・メッセンジャーズはよく知られたグループであり、世は「ファンキー、ファンキー」で盛り上がっていた。そこにきて彼らの来日となったのは当然プロモーターの瀬ぶみであり競どりの結晶だが、その天地をひっくり返すような狂乱ぶりたるや、予想をはるかに超えるものであった。

 もう1つ、今度は油井正一著/行方均編『ジャズ昭和史:時代と音楽の文化史』(DU BOOKS)から、いささか長めにはなるのだけれど、日本では1960年1月に発売された『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』がいかに売れたかという話の中で――

 『サンジェルマン』がいかによく売れたかという話をしましょう。
 銀座数寄屋橋の「ハンター」というレコード店に、当時後藤さんという年配の熱心な番頭がいた。今でこそ中古も大々的に手がけていますが、まだ開店間もなかったそのころはシャツ屋の息子さんが始めた「ハンター」も新譜が専門の小さな店で、戦前神田での経験を買われた後藤さんが営業を一手に任されていたんです。で、僕と飯塚経世が彼に相談役を頼まれまして、これは売れるからたくさん、これは売れないからダメという具合に適正な注文数を予測してあげる。これが次々に適中して、「ハンター」の動きは業界の注目を集めるようになった。
 だいたい通常で各七、八枚、蒐集会第一回選定盤(藤井肇、野口久光、植草甚一、油井正一の4人を選定委員とする「モダン・ジャズ名盤蒐集会」選定ディスクのこと――引用者注)の『モダン・アート』が思い切って二十枚という数字だったと思うんですが、『サンジェルマン』の時は、君、これ思い切って二百枚仕入れちゃいなさい、絶対売れるレコードだからすぐに銀座中のレコード店で品切れするだろう、在庫さえ持っていればファンが「ハンター」に駆けつけるよ。そう言ったら、実際その通りになった。
(略)
 これ見ていて口惜しがったのは岩浪洋三(笑)。『サンジェルマン』のサンプルを仏RCAから取り寄せるよう町田君(日本ビクター洋楽部RCAグループのジャズ担当者、町田寛のこと――引用者注)にサジェストしたのは彼だと言うんだ。ようやく取り寄せてもらったところへ油井正一がふらりとやって来て先に聴かれちゃった。実に口惜しい。しかし『サンジェルマン』に目をつけた自分のカンは正しかったんである(笑)。
 まあ岩浪君がそんなこと書くくらい『サンジェルマン』は話題にもなり成功したということでしょう。そしてレコードから一年後、ジャズ・メッセンジャーズが初来日を果たすころには、本当にソバ屋が〈モーニン〉口笛吹きながら出前を運ぶという状況になった。これは僕が言い出したんですが、でたらめに誇張しているわけではありません。

 最後に総仕上げという意味で小川隆夫著『伝説のライブ・イン・ジャパン:記憶と記録でひもとくジャズ史』(シンコーミュージック・エンタテイメント)からもこんな一節を。アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの初来日公演は意外にも必ずしも高評価一辺倒ではなかった(大橋巨泉や大江健三郎が否定的な見解を示していた)という記事の前段部分を受けて――

 ジャズ・メッセンジャーズの初来日公演が手放しで喜べない内容だったことは意外である。しかし、それは識者の冷静な評価であって、一般のひとたちには社会現象になるほどの大反響を巻き起こした。
 それには、細見のスーツをビシッと着こなした彼らのファッションもひと役買っている。それに飛びついたのが、週刊誌など、音楽専門ではない雑誌だ。『サンデー毎日』が「ファンキー・ブーム到来」として、彼らを特集したことが、それを象徴している。売り出し中だった大倉舜二や立木義浩など、さまざまな人気カメラマンが、格好の被写体としてジャズ・メッセンジャーズを写したことで、彼らの服装が〈ファンキー・ファッション〉と呼ばれ、若者の間で流行ったことも見逃せない。
 油井正一は、DJを務めていたNHKの「リズム・アワー」で、「蕎麦屋の出前持ちまで口笛で〈モーニン〉を吹いていた」と形容することにより、人気の高さと浸透の深さを表現した。それほど、〈モーニン〉で代表されるファンキー・ジャズが日本で認知度を高めたということだ。
 このときに蕎麦屋の出前持ちまで口笛で吹いていた〈モーニン〉はどの〈モーニン〉を指すのだろうか? それについて、あるとき油井に訊ねてみた。答えは〈モーニン・ウィズ・ヘイゼル〉だった。
 メッセンジャーズが来日した時点で、ブルーノート盤の『モーニン』は国内発売がされていない。ところが、来日の前年に発売された『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』は爆発的なセールスを記録していた。
 というわけで、日本ではしばらくあとまで、〈モーニン〉といえばこちらに収録されたヴァージョン(このレコードでは〈モーニン・ウィズ・ヘイゼル〉とタイトルされていた)が一般的だった。(略)

 以上、読んでおわかりいただけると思うのだけれど、これらはすべて同じhearsayをめぐる証言。しかし、最初に紹介した中平穂積が紹介しているヴァージョン(「彼らが演奏した〈モーニン〉は田舎のおっさんでも知ってるというくらい」)は相当、オリジナル(と思われるもの)からは逸脱していることがわかる。また相倉久人のそれはまずまず正確とは言えるものの、それが誰から(あるいは、どこから)出てきたものかが記されていない。これはタイトルで「至高の」と銘打っていることを考えるならいささか問題ありと言わざるをえない。その一方で「これは差別的発言ではないかと思うが」という何かに気を回したような注釈も。いわゆる「コンプラなんとか」(壇蜜)というやつですかねえ……。また『ジャズ昭和史:時代と音楽の文化史』での本人の〝証言〟は当然のことながら、この中でも特に貴重なものではあるけれど、しかし最初に氏がその種のことを発言したのが「リズム・アワー」というラジオ番組においてである、という決定的な情報は当人も語っておらず、小川隆夫の取材によって初めて明かされた事実であると言っていい。しかし、危なかったなあ。仮に今回、ワタシが地元図書館で借りた本が『証言で綴る日本のジャズ』だけだったら、ここまでのことはわからなかった。中平穂積が紹介しているヴァージョンをそのまま素直に信じ込んでいたに違いない。また、『至高の日本ジャズ全史』だけだったら、あるいは『ジャズ昭和史:時代と音楽の文化史』だけだったら、やはり程度の違いはあれ、間違った(あるいは、不十分な)認識を持っていたことだろう。だから、史料考証においては複数の史料に当たってクロスチェックすることがいかに重要であるかと。

 さて、ここからはちょっと余談めいた話(つーか、この記事全体が余談みたいなものだけどね)。今回、ワタシはアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの初来日当時の状況をめぐってこんなhearsayが流布していた(いる)ことを初めて知ったわけだけれど……ちょっと待てよと。確かあれも「蕎麦屋の出前持ち」だったような……。

 ワタシが少年時代を過ごした1960年代は怪獣映画の黄金時代で、『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)とか『怪獣大戦争』(1965年)とか『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(1966年)とか『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967年)とか、まあ、見たもんですよ。で、当時、映画というのは大体が2本立てで、怪獣映画の場合も必ず併映作品というのがあって、ほとんどの場合、大人向けの一般映画だった。確認したところ、『三大怪獣 地球最大の決戦』の併映作品は『花のお江戸の無責任』、『怪獣大戦争』の併映作品は『エレキの若大将』、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』の併映作品は『これが青春だ!』、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』の併映作品は『君に幸福を センチメンタル・ボーイ』――と、今、こうして書き出していても見たという記憶がほとんどないのはどうしたわけだろう? もしかしたら、怪獣映画だけを見て、併映作品は見なかった? そんな中、唯一、見たと自信を持って言えるのが『怪獣大戦争』の併映作品である『エレキの若大将』。なにしろ、断片的な記憶などではなく、1つながりのシーンが丸ごとそっくり記憶に残っていて、勝ち抜きエレキ合戦に出演中、青大将がヘマをしてアンプのプラグが抜けてしまい、音が出ないという大ピンチ! しかし、若大将が咄嗟に歌を唄って切り抜けるというね。いやー、良い時代だ。多少の問題があっても、何とか切り抜けられる――。彼らは昭和という時代人の体質で、前のみを見つめながら歩く(笑)。

 そして、もう1つ、丸ごとそっくり記憶に残っているシーンが。若大将は勝ち抜きエレキ合戦に出場するために大学のアメフト部のメンバーとなんとかいうバンドを結成するわけだけれど、何かの理由でメンバーが1人欠けてしまう。そのピンチにどこからともなく現れたのが蕎麦屋の出前持ちの寺内タケシ。若大将が窓に腰かけてギターを弾いていると、どこからともなく現れた寺内タケシの出前持ちが塀を乗り越えて部屋に入ってくる。そして、「へえ、これがエレキギターですか。若大将、ちょっと弾かしてくれませんか」。若大将が「ああ、いいよ」とギターを渡すと、もうね、初めて触ったと言いながら、テケテケテケテケ、と弾いちゃうわけだよ。で、若大将が「上手いじゃないか。だったら、ウチのバンドに入ってくれよ。1人メンバーが足りなくて困ってるんだ」。こうしてバンドは欠員を補充し、出場したエレキ合戦では寺内タケシの貢献もあって見事、10週勝ち抜きを達成した……。


エレキの若大将①

 ここまではすべてワタシの記憶にのみ基づいて記したのだけれど、この際だからと〝答え合わせ〟をしてみた。『エレキの若大将』は、現在、Amazon Prime Videoで配信されているのでね。すると、驚いたことに、ほぼワタシの記憶で合っているではないか! ただし、時系列その他には結構な違いもあって、寺内タケシ(役名は「タカシ」)の登場は映画の開始早々で、まだその時点では勝ち抜きエレキ合戦の話は出ていない。バンドも結成していない。だから、その時点では、若大将がタカシをバンドに誘うこともない。誘うのは、バンドを結成して勝ち抜きエレキ合戦に出場しようということになってから。バンドへの参加も欠員補充などではなく、結成メンバーとして。結成時点で、どうしても1人足りないという設定。そのタイミングで寺内タケシが2度めの登場となる。この時もどこからともなく現れると塀を乗り越えて部屋に入ってくる。そのためのハシゴが塀に立て掛けてあるんだよね。――と、↑で挙げた2つのシーンの時系列その他、結構、違っている点もあるのだけれど、それぞれのシーンはほぼ記憶通り。スゴイよね。1965年というと、ワタシ、7歳ですよ。そんな年齢で見た映画のシーンをほぼ正確に記憶しているんだから。しかも、映画のいちばんの見せ場であろう若大将が唄う場面はともかく、寺内タケシの登場シーンをここまで正確に記憶しているとは……。


エレキの若大将②

 その理由が、どこからともなく現れた「蕎麦屋の出前持ち」が実はエレキの達人だった――というトンデモ設定(?)にあるのは間違いないと思うんだけれど――さて、賢明なる読者諸兄姉はもうワタシが何を言いたいのかはおわかりのはず。そう、このトンデモ設定は「蕎麦屋の出前持ちまでが〈モーニン〉を口ずさんだ」という当時、広く流布していた(らしい)hearsayの「本歌取り」だったのではないか? その傍証となりそうな事実もある。『エレキの若大将』を含む『若大将』シリーズは全作、田波靖男の脚本だったそうだけれど、ウィキペディアによれば、田波靖男は1962年にそれまでお蔵入りとなっていたシナリオ(なんでももともとはフランキー堺の主演を想定して書かれたものだとか)が植木等主演の『ニッポン無責任時代』として日の目を見て以降、クレージー・キャッツ主演作品の脚本も担当。ワタシが見た(はずの)『花のお江戸の無責任』も田波靖男。で、そのクレージー・キャッツはというと、もともとはジャズ・バンドで、湯川れい子によれば「いいバンドでしたよ」。また相倉久人によれば、当時、有楽町にあった「コンボ」にはハナ肇以下、のちにクレージー・キャッツを結成することになるメンバーも頻繁に出入りしていたとかで、さらに「常連というほどではないが、牧芳雄、植草甚一、油井正一、藝大教授でクラシック作曲家の宅孝二もいたし」。つまり、ハナ肇とクレージー・キャッツを介して人脈がクロスオーバーしているわけですよ。もう傍証としては十分? さらにこれに田波靖男も「コンボ」に出入りしていたとか、相当のジャズ通だったというような証言でもあれば申し分ないんだけれど、さすがにそこまでのことはどの本にも。

 でも、どこからともなく現れた「蕎麦屋の出前持ち」が実はエレキの達人だった――というトンデモ設定が「蕎麦屋の出前持ちまでが〈モーニン〉を口ずさんだ」という油井正一起源とされるhearsayの「本歌取り」であるという仮説は、ワタシとしては結構、行けるんじゃないかなあと。だって、なんかなきゃあんな設定にはなりませんよ。もっとも、単に「蕎麦屋の出前持ち」がどこからともなく現れただけではなく、塀を乗り越えて若大将の部屋に入ってくるってんだから、オリジナルを超えているとも言えるけどね。普通に出前持ちとしてやってきたということにしてもいいはずなんだけれど、そうはせず塀を乗り越えて〝闖入〟してきたという……。ただ、これも「意味」を読みとろうとすればできる。もともとは当時の空前のジャズ・ブームに関して言われていたhearsayがエレキ・ブームへと越境を果たした、その演出表現であると……。

 以上、「久須見健三はなぜヘレン・メリルを聴くのか?〜ナマシマ・ジローと「日本ハードボイルド」の原風景〜」を書くために地元図書館から借りてきた半ダースのジャズの本から派生した一席のオソマツ。オチもないのは、これがただのヒマネタという証拠……。