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裏をかかれるな、彼は賢いぞ。
〜山周が日本初のスパイ小説作家であるこれだけの理由〜

 いやー、マイッタ。よもやこのワタシが山本周五郎をめぐって記事を2本も書くことになろうとは……。

 山本周五郎は「国産ハードボイルドの嚆矢」を放った書き手である――あるいは、その可能性がある(城戸禮で失敗したので、ここは慎重を期す)――ことは「千田二郎は外套の衿を立てる。〜「国産ハードボイルドの嚆矢」をめぐる一考察第二番〜」に記したとおり。で、これで当人としては満足だったんだけれど(本来、〝他流試合〟は1試合もすれば十分でしょう)、ただ、もう1つ、この作家をめぐっては特記するに値することがあるんだよね。というのは、山本周五郎は、戦後、エリック・アンブラーやグレアム・グリーンに刺激されて書かれるようになった本格的な(「大人の鑑賞に耐え得る」)スパイ小説の最初の書き手である可能性もあるんだ。この際だ、この件ついても書いておこうかなと。ま、モノゴトには勢いというものがあるわけで……。

 ということで、まずは「定説」から行こう。こんなとき、ワタシが決まって引っぱり出すのは大井廣介の『紙上殺人現場 からくちミステリ年評』(現代教養文庫)。1960年から68年まで『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に連載された月評を1冊に纏めたもので、各作品のリアルタイムでの評価がわかる貴重な〝史料〟。たとえば、島内透のデビュー時点での評価は上々だったことが本書によって裏付けられる。曰く「犯人犯行の趣向が別段凝ったものでないのに、読後に充実感をとどめるのは、力一杯うちこんでいるからだと思う。精進と次作を期待したい」。それなのに、なぜ、という気になってしまうんだけれど……。で、この年評の「1961年の現場」からこんな下りを紹介することにしよう――

〝こんどは、アンブラーに刺激され、アンブラーとはりあう作家が、期せずして、同時に登場した。中薗英助の『密書』と海渡英祐の『極東特派員』がそうだ〟
〝ぼくはしみったれで、コクのありそうな作品は読んじゃうのが、つい惜しくなり、とっといて、くだらん方から片づけて行く癖がある。其処でアンブラーは、早川書房には相済まん話だが、紹介されるのを片っぱしから読んでのけた。もはや失念したが、最初に紹介された『デミトリオスの棺』はまだましだったが、あとは『武器への道』がただ一つ充分読みごたえがあったきり、この二篇を紹介すれば、それで足りるという気がする。その他の中につきこめば、『密書』『極東特派員』も、わが国と、わが国と関連性のある国をシチュエーションにとっているだけ、むしろ読ませるくらいだ〟
〝『密書』は首相からインドネシア大統領への密書を、一商社の駐在員に託すというのが、そもそもおかしいが、蓋をあけてみると、納得できる仕掛けになっている。導入部が鮮かにかけているのが有利で(導入部でモタモタすると、つい眠ってしまうものなのである)、主人公に消されない保証になるものを持たせている設定も、主人公だけ九死に一生を得る設定よりよほど気がきいている。アンブラーから飛躍できる資質があるようにみえる〟
〝『極東特派員』は、台湾をめぐる中共、蒋軍事政権、自立派の三巴えの争いを、日本人の孤児で米人の養子になったジャーナリストを観照者に設定し、自立派に同乗している点など、ひとによれかし、ぼくには妥当に思われた。このような風通しのよさは、アンブラーの亜流に納らなくても、そのうち活しかたを見出すかと思われる。それはこの作品の長所で、三巴えの混戦はアンブラーさながらで、六代目菊五郎がフランス映画『望郷』を、国定忠次が赤城の山ごもりじゃねえかと、言ってのけた流儀を拝借すれば、もう一度、裸にすればドサ回りの大熱演めいている。いずれもやはくアンブラーをつき抜け、脱却してもらいたい〟

 どうやら大井廣介はあまりアンブラーを評価していなかったようだ。で、中薗英助と海渡英祐にも「アンブラーの亜流」に納まって欲しくないという、まあ、〝親心〟というやつなんだろうな。ともあれ、ここで俎上に挙げられている中薗英助の『密書』と海渡英祐の『極東特派員』こそは、言うならば「国産スパイ小説の嚆矢」ということになるのかな。もっとも、この場合のスパイ小説というのはあくまでも第2次世界大戦後にエリック・アンブラーやグレアム・グリーンに刺激されて書かれるようになった本格的な(「大人の鑑賞に耐え得る」)スパイ小説のことで、そうではない、少年少女を対象とするスパイ小説ならば戦前からあった。その代表格が山中峯太郎で、『少年倶楽部』『少女倶楽部』『幼年倶楽部』といった少年少女向けの雑誌に『亜細亜の曙』(1932年)をはじめとする陸軍少佐・本郷義昭シリーズや帝政ロシアの公爵令嬢が活躍する『空襲機密島』(1939年)など、少年少女の冒険心を刺激する「血湧き肉躍る」スパイ小説・冒険小説を書きまくった。で、実はスパイ小説をめぐる状況というのは本場イギリスでも似たようなところがあって、スパイ小説はイコール冒険小説だった。19世紀末葉から20世紀初頭にかけてそうした冒険小説仕様のスパイ小説を大量に生み出したのがウィリアム・ル・キューとエドワード・オッペンハイムで、当時、この2人の本(その数はなんと数百冊に上るとか)は売れに売れた。しかし、基本的にそれらは教養ある大人の読むものではないとされていて、英米の探偵小説に目がなかった江戸川乱歩でさえ「私は元来スパイ小説なるものが大嫌いで、ル・キュー、オップンハイムの徒とは縁なき衆生であった」(「英米探偵小説の展望」より)。ま、ワタシもル・キューやオッペンハイムは読んだことはありませんが、オッペンハイムの本ならば、昔、ペーパーバック屋だった頃の在庫に1冊あったなあ……。ともあれ、スパイ小説というのは日本でもイギリスでもそういう多分に「子供だまし」のところがある読物、というのが相場だったんだね。ただ、イギリスの場合は第1次世界大戦を経験することによってそうした〝幼年時代〟に終止符が打たれる。のちに自らの小説の登場人物(リチャード・ハネイ)のごとくリアルなイギリス情報部の情報部長に任用されることになるジョン・バカンは『三十九階段』(1915年)や『緑のマント』(1916年)などのリアルなスパイ小説を発表。『三十九階段』はアルフレッド・ヒッチコック監督により映画化もされた。また、今日、スパイ小説の古典と奉られているサマセット・モームの『アシェンデン』(1928年)については江戸川乱歩も「旧来の型を破った文学味のあるスパイ小説」と高く評価。ル・キューやオッペンハイムを「縁なき衆生」と斬って捨てた乱歩もモームには十分な「縁」を見出したということだね。ちなみに、そのモームは第1次世界大戦中、M16の諜報員として働いていたことが今では明らかになっている。で、こうした傾向の延長に登場してくるのがエリック・アンブラーやグレアム・グリーンということになる。ということで、今度は乱歩のアンブラー評を紹介するなら――「主人公やスパイたちの性格もよく描かれている。しかし物語の筋そのものは中世紀宗教裁判の拷問に似た残虐なスリルに満ち、その点に大衆性があるけれども、全体としては大人の読物になっている。ル・キュー、オップンハイムとは格段の相違がある」。ふふ、何かと言えば「ル・キュー、オップンハイム」なんだねえ。逆に、そこまで言われると、読みたくなってくるなあ、オッペンハイム……。ともあれ、こうしてスパイ小説は本国イギリスでは第1次世界大戦と第2次世界大戦という2つの大戦を経験することによって自ずとリアリズムを備えた「大人の読物」へとバージョンアップを果たしたという経緯があるわけだけれど、そうしたトレンドが日本に波及するのには時間がかかった。なにしろ、そうしたものが登場するのはようやく1960年代に入ってからなのだから。こういう状況を評して新保博久は中薗英助の「外人部隊を追え」が収録された集英社版『傑作小説大全 冒険の森へ』第6巻「追跡者の宴」の解題「追う者たちを追って」で「スパイ小説も戦後、グレアム・グリーン、エリック・アンブラーらの諸作が歓迎されながら、ハードボイルド同様、日本作家による定着には時間がかかった」。しかし、かかりすぎだよなあ。だって、イギリスでは第1次世界大戦中には既に『三十九階段』とかが書かれていたわけだから。それが、第2次世界大戦も終って、それも1960年代になって、ようやく――というんだから。多分、このあたりは、山中峯太郎が戦後、戦争に協力したとして公職追放となったことが影響しているんだろうなあ。で、羹に懲りて膾を吹くと……。ともあれ、こうして日本における本格的な(「大人の鑑賞に耐え得る」)スパイ小説のパイオニアは中薗英助と海渡英祐という2人のエイスケである――というのが半ば定説となっているわけだけれど……

 確かに対象を現代小説に限るならば、そういうことになるだろう。しかし、スパイと呼び得る存在は現代以前にもいたわけだから。である以上、時代小説や歴史小説にもスパイ小説と呼び得るものは、当然、あって然るべき。そして、山本周五郎の『樅ノ木は残った』はまさにそれに値するのではないか? と、これはワタシが『樅ノ木は残った』を初めて読んだ時点で強く確信したことで……だってさあ、あの本編の合間に挟み込まれる一ノ関藩主・伊達兵部とその腹心・新妻隼人の密談なんてほとんど一ノ関藩諜報部長の調査報告ですよ――

 ――里見どのは立ちました。
「集まった顔ぶれは」
 ――伊東七十郎、十左どの、蜂谷六左衛門どの、それからくみと申す女です。
「七十郎は泊っているのか」
 ――十日ほどまえから滞在しております。
「どんな話しがあった」
 ――伊東がこのような放言を致しました、ここに書いてまいりましたが。
「あとで読もう」
 ――速筆のままですから、御判読がむずかしいと思います。
「あとで読む、ほかにはないか」
 ――ございません、伊東の放言には誰も相手になりませんでした。もちろんあの方も同じことで、伊東がなにを申してもとりあわず、まったく知らぬ顔でございました。
「あれは賢い人間だ」
 ――ただ一つ、伊東の話しによりますと、数日まえに新吉原へまいり、山本屋へあがったということですが。
「それは知っている」
 ――あの方は人にさそわれたと云っておりました。
「おれが命じたのだ、おれが命じてつれてゆかせたのだが、彼はついに尻尾を出さなかった」
 ――それだけでございます。
「畑の子供たちと宮本の弟はどうしている」
 ――宮本新八は里見どのがひきとり、畑の姉弟は塩沢丹三郎の家におります。
「動かしたら知らせろ」
 ――そのつもりです。
「裏をかかれるな、彼は賢いぞ」
 ――そのつもりでいます。

 ね。もう完全に新妻諜報部長による調査内容のブリーフィングの図、ですよ。『樅ノ木は残った』にはこうした対話形式の断章が随所に挟み込まれていて、それによっていわゆる「スリルとサスペンス」を盛り上げていくという手法がとられているわけだけれど、上手いよねえ。これがあるおかげで『樅ノ木は残った』は時代小説でありながらほとんどスリラーのような雰囲気を醸し出すことに成功していると言っていい。実際、山本周五郎はこの手法を海外のスリラーから学んだんじゃないのかなあ。「千田二郎は外套の衿を立てる。〜「国産ハードボイルドの嚆矢」をめぐる一考察第二番〜」でも記したように、山本周五郎という人は質屋の徒弟時代に正則英語学校に通うなど英語は堪能だったようで、ノーマン・メイラーあたりは原書で読んでいたらしい。であるならば、海外のスリラーに学ぶ、なんてのはお手の物だったのでは? ちなみに、生島治郎は五木寛之との対談で『樅ノ木は残った』をハードボイルド・タッチの作品とした上で「おれは彼がチャンドラーを読んでたような気がする」と語っているわけだけれど(全半は『五木寛之雑学対談』、後半は『生島治郎の誘導訊問 眠れる意識を狙撃せよ』がネタ元となります)、むしろワタシだったら――「おれは彼がアンブラーを読んでたような気がする」。もっとも、文体的にはエリック・アンブラーとの共通点はほぼ皆無だけどね。エリック・アンブラーという人は苦労人ではあったようですが、文章そのもはいかにもイギリスの知識人が書いたという感じのもので、ハードボイルド・タッチなんで微塵も感じさせない。むしろ、そういう知識人然とした文体でスパイ小説を書いたというところがアンブラーの功績であるわけで。

 ともあれ、『樅ノ木は残った』にはスリラー、就中、スパイ小説の雰囲気が濃厚に感じられると。で、特筆すべきは、それが書かれたのが1954年から56年にかけてであること(『樅ノ木は残った』は1954年から56年にかけて日本経済新聞に連載された。ちなみに、あまりに長いので連載は完結を待たずに打ち切りになったらしい。『樅ノ木は残った』はその未完部分を書き下ろした上で1958年に講談社から2巻本として刊行された)。つまり、中薗英助の『密書』や海渡英祐の『極東特派員』よりも早いわけですよ。こうなると、山本周五郎こそは戦後になってようやく日本でも書かれるようになった本格的な(「大人の鑑賞に耐え得る」)スパイ小説の最初の書き手だった――ということになるのではないか? というのがワタシのかねてからの持論でして。で、実はワタシはこれをワタシの独創であるとまでうぬぼれていて、人に対してもそんなことを吹聴したりもしていたのだけれど、意外にも『樅ノ木は残った』はスパイ小説である、ということに関しては、賛同者というか、既にそういうことを言っている人がいることがわかった。「千田二郎は外套の衿を立てる。〜「国産ハードボイルドの嚆矢」をめぐる一考察第二番〜」で紹介した木村久邇典と縄田一男の対談「山本周五郎・人と作品――いつも、どう生きどう死ぬかを問いかけていた」。あれは『山本周五郎を読む』という本に収載されているものなのだけれど、同書には他にも周五郎作品の特徴を『聖書』に準えた篠田正浩のインタビュー記事「私の中の山本周五郎像――周五郎は庶民なんて信じていなかった」など、読みごたえのある記事がてんこ盛り。つーか、いちばんのお薦めはこのインタビュー記事だね。これはスゴイですよ。なにしろ、インタビュアーから「山本周五郎は、そういう歴史観と同時に庶民の哀感のようなところにスポットを当てていますね」と振られ、「それは嘘です。あの人は庶民なんか信じていないでしょう。そういう読まれ方をされていることが口惜しかったのではないですか」――と、設問そのものを否定して見せるというね。インタビュアーとしたら、血の気が引く思いだったでしょう。ただ、その後、話は「むしろキリスト教的な人間の、この世に聖なるものがなかったら人間は存在する理由がない、という前提が山本周五郎にはある。聖なる心をいだいていながら、汚辱にまみれた世の中で、まるで見えていないものを発掘するんです。だから、観念小説ですね。どこにもリアリズムがない。もうほとんど空想小説といってもいいぐらいでしょう。聖書のように書いているんじゃないかな、物語をね」――とつながって行くわけで、結果的にはすばらしいインタビュー記事になっている。初出は『鳩よ!』1992年9月号とのことですが、『山本周五郎を読む』に再録される理由は十分。で、これと比べるといささか見劣りはするのだけれど、次に挙げるならば田野辺薫の「『樅ノ木は残った』の美学」だね。なんでも田野辺薫という人は文芸評論家からゴルフ記者となり、『週刊アサヒゴルフ』の編集長を務めた人だというのだけれど……よーわからん(笑)。ともあれ、その田野辺氏は『樅ノ木は残った』についてこう書いているのだ――「兵部は甲斐の身辺に成瀬久馬を放ち、甲斐は甲斐で酒井忠清邸に部下の中黒達弥をもぐりこませる。そして敵の動静と酒井・兵部の間に交わされた伊達分割の証文をめぐるスパイ合戦が展開される。そういう意味では、妙趣つきないスパイ小説ということができる」。ね、完全にワタシの「『樅ノ木は残った』=スパイ小説」説を裏書きしてくれている。もっとも、これによって「『樅ノ木は残った』=スパイ小説」説はワタシの独創でもなんでもなく、既に(とっくに?)指摘されていた事実だった、ということになるわけだけれど……まあ、そういうことはどうでもいい(とも言い切れないんだけれど、ここは呑み込む)。それよりも、「『樅ノ木は残った』=スパイ小説」説だ。実はこれを補強するさらなる事実がある。これは(これも)「千田二郎は外套の衿を立てる。〜「国産ハードボイルドの嚆矢」をめぐる一考察第二番〜」を書く過程で初めて知った事実なんだけれど、山本周五郎は戦前にもスパイ小説(この場合は山中峯太郎らと同類の「血湧き肉躍る」タイプの方。なにしろタイトルが『少年間諜X13号』とかだから)を書いていたんだよね。それらは『山本周五郎探偵小説全集』第5巻「スパイ小説」に纏められているのだけれど、編者の末國善己によれば「周五郎の戦前の探偵小説は、冒険活劇はもちろん、怪奇幻想色の強い作品であっても、日本が開発した秘密兵器を狙う敵国スパイが暗躍、探偵役がそれを防止するというパターンが多い。いってみれば、それらのすべてがスパイ小説、防諜小説といえなくもない」とかで、戦前の周五郎作品の中でスパイ小説と呼び得るものは相当数に上るようだ。こうなると、『樅ノ木は残った』をスパイ小説と見立てるのは奇説でもなんでもない、ということになるはず。むしろ、当然の見立てということになるのでは? で、そうなると、必然的に、山本周五郎は、戦後、エリック・アンブラーやグレアム・グリーンに刺激されて書かれるようになった本格的な(「大人の鑑賞に耐え得る」)スパイ小説の最初の書き手である――ということになるはずだと思うんだけれど……しかし「国産ハードボイルドの嚆矢」の件でワタシは1回失敗しているからなあ。ここは安全策をとって「その可能性がある」としておくのが得策というか……。

 ただ、それはそれとしてだ――山本周五郎という人はタダモノではない。ハードボイルドの分野でもスパイ小説の分野でも、その源を辿っていけばこの人の存在に突き当たることになるわけだから。である以上、この人の業績を無視して日本ミステリー史は書けない、ということになるはず。それにしてはミステリーの文脈でこの人が語られることが少なすぎるという印象を禁じえないんだけど。例えば江戸川乱歩の『幻影城』には岩谷書店版にも光文社文庫版にも実に精緻な「人名索引」が収載されているのだけれど、この「人名索引」に山本周五郎は載ってないんだよね。つまり、江戸川乱歩は山本周五郎について語っていないということ。『山本周五郎探偵小説全集』全6巻(+別巻)が刊行されるほど多くの探偵小説が残されているというのに(なお、大井廣介の『紙上殺人現場 からくちミステリ年評』には2度、山本周五郎への言及がある。「1960年の現場」では『五瓣の椿』を取り上げ、「連続殺人といえば、山本周五郎の『五弁の椿』はマゲモノだが、連続殺人を扱っている。犯行者が動機はあるにせよ、犯行に罪の意識を抱き、当然のことだがほろんで行くのが後味をよくしている」。ここは、さすがと言っておきましょう)。朝日新聞の担当記者として山本周五郎の信頼も厚かったとされる木村久邇典は『日本百科全書』の「山本周五郎」の記事で「初めは劇作や童話、少女小説の執筆を主としていたが、32年(昭和7)5月号『キング』に時代小説『だゝら團兵衛』を発表して以後、大人向けの大衆娯楽雑誌を作品活動の舞台とするようになる。ために一般からは大衆作家とみなされ、新進、中堅時代には純文学作者や批評家からはほとんど黙殺された」――と、山本周五郎が文壇のエスタブリッシュメントからは「黙殺」されてきた実態を明かしているのだけれど、山周を「黙殺」してきたのは純文学作者や批評家だけではないのではないか? 探偵小説の書き手や論じ手たちからも同様に「黙殺」されてきたと言うべきなのでは? そうした禁をオレが破ってやるぜ――と、そんな大それた思いで本稿ならびに「千田二郎は外套の衿を立てる。〜「国産ハードボイルドの嚆矢」をめぐる一考察第二番〜」を書いたわけではないけれど――と、一応、口では言っておきましょう。でも、腹の内は、別……(笑)。