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ある郷土愛者の超主体的「史跡」考①
〜ワレかくてモンスター・クレーマーとなりにけり。〜

 富山県朝日町城山の宮崎城跡にある「北陸宮の御墳墓」をめぐって一悶着(多分、朝日町教育委員会だとか「まいぶんKAN​」だとかというところに3、4回は電話したと思うので「一悶着」とは言えるでしょう――特に朝日町サイドからすればね。しかし、後に朝日町教育委員会が経験した例の件ほどではないと思うけどなあ……)を起こしたのは……あれはもう2年前になるのか。その後、折り返しかかってくるはずの電話もかかってこないまま(従って、記事の更新もできないまま)今日に至っているわけだけれど――まあ、それはいいとしよう。今さら2年前のことを蒸し返してもね。そもそも、こっちはただのシロウトなんだから。こっちがクロウトなら、あっちだって放置という対応は取らなかった(取れなかった)だろう。それは、つまり、こっちがなんのバックグラウンドも持たないただのシロウトでしかないという、こっち側の問題ということで……。

 ということで、今さら2年前の問題を蒸し返そうというわけではない。全く新しい問題。いや、「全く新しい」とまでは言えないんだけれど……でも、「北陸宮の御墳墓」の件ではない。それに付随して、もう1つ、見過ごしにできない問題があることがわかったのだ。まずは2年前の記事でも紹介した現地の案内板を見てもらうことにしよう――


北陸宮の御墳墓・案内板

 2年前は、この説明文の内の「この御墳墓は、昭和45年7月嵯峨御所の厚意により、御分骨を受けてこのゆかりの地に奉築したものである」という部分に引っかかって「一悶着」を起こしたわけだけれど、実はこの案内板にはこの部分以外にも突っ込むべき箇所があるのだ。そういうことが、最近になってわかった。それが、どの部分か、おわかりになりますか? え、「長門本源平盛衰記によれば」という部分? まあ、ね。『源平盛衰記』に「長門本」なんてないので、間違いっちゃあ間違い。ただ、書かれているようなこと(「倶利伽羅の合戦では平氏攻略の計画を立てたのは宮崎氏とある」云々)は『平家物語』長門本にも『源平盛衰記』にも書かれているので、これは「(平家物語)長門本(や)源平盛衰記によれば」――と言葉を補ってあげれば解決はつく。つーか、これくらいのことで電凸していたんじゃ、行政側だってたまったもんじゃないでしょう。そうじゃなくって、もっと本質的で、深刻な。この地に鎮座する「史跡」の存在理由に関るような。そういう問題がこの案内板には含まれているのだ。その箇所とは――「宮崎太郎長康公の供養塔」。あるいは、この部分を含む「宮崎太郎長康に迎えられ」「宮崎太郎長康は」「この長康公のことである」等々、「長康」の2文字を含む記載のすべて。実は、宮崎太郎の諱を「長康」とするこの朝日町の主張(?)は、今、深刻なチャレンジを受けているのだ。

 まず、基本的な事実を押さえておこう。といっても、わからないことばかりなんだけどねえ……。そもそも、宮崎太郎という人が、よくわからない。↑の案内板にあるように、「平安末期における越中東部の豪族で、木曽義仲に属し宮崎の地に館を築いていた」――というのは、まあ、確かなんでしょう。ただ、その素性をめぐって、祖は藤原利仁とされる、とする説もあるものの、それが本当かどうか。「利仁の後裔を称する氏族は多く仮冒は少ない」とするウィキペディアの説明が正しいなら、まあ、これは信じてもいいのか? ともあれ、昔、越中国の宮崎という村に宮崎太郎という武将だか豪族だかがいたと。その宮崎太郎が、後白河法皇の孫で、父・以仁王の敗死後、北陸道に逃れていた一の宮(とは「第一王子」という意味なので、名前とは言えない。実は宮の名前はわかっていない。世上、言われている「北陸宮」というのも伝えられている多くの尊称の1つに過ぎず、実のところどう呼ばれていたのかはわからない。『訳註大日本史』では「子某」とされていて、厳密を期すならばそういうことになってしまう。しかし、仮にも皇孫を掴まえて「子某」というのもねえ……)を宮崎の居館に招いたのは、実はこれも正確なところはわからないのだけれど、前後の事実関係から寿永元年8月頃だろうとは推定できる。で、9月には木曾義仲との対面が実現しただろう、ということも推定はできるのだけれど、これも本当のところはわからない。ちなみに、檀一雄の『木曾義仲』ではこの越中宮崎での宮と義仲の対面シーンはそっくりオミットされている。その理由について愚考を繰り広げた「檀一雄の『木曾義仲』を読んだら〜スルーされた1年半の謎を追って〜」は、実は弊サイトでは結構な人気コンテンツ。多分、檀一雄の『木曾義仲』について多少なりとも突っ込んで考察した唯一のウェブ記事ということになるんだろう。そもそも『木曾義仲』というのがおいそれとお目にかかることのできない稀覯書となっているという……。ともあれ、宮崎太郎は「以仁王の令旨」を発して源平合戦の火蓋を切った(そして、自らは早々に歴史の舞台から退場した)以仁王の遺児を自らの居館に招き、木曾義仲との対面を実現した。そして、『源平盛衰記』によれば――「越中國宮崎ト云處ニ御所ヲ造テスヘ進セ御元服アリケレバ木曾ガ宮トモ申」。越中国宮崎に宮の行在所となる「御所」が造られたことが記されているのだけれど、その場所がどこかというのは、これまた「わからない」と言うしかない――というか、そう言うのが誠実な態度。で、これについてはウィキペディアの「北陸宮」の記事にあえて「御所」という節を設けてそのあらましについては記しておいたのだけれど、まあ、前田慶次の無苦庵のように発掘調査が行われているわけでもなし。この件に「答」が見つかることは、将来に渡ってもないでしょう(なお、あえて書き添えておくなら、ウィキペディアに書いたのはあくまでも「あらまし」だからね。実態はもっともっとややこしいし、厄介。なにしろ、笹川説は脇子八幡宮という歴史ある神社の「御由緒」に真っ向からチャレンジするものなのだから。そりゃあ、いろんな感情が絡んできますよ。しかも、笹川説の提唱者である竹内俊一氏はその笹川地区の生まれで、竹内家というのは元をただせば開村の家柄だというんだから。そんな人物に笹川地区の「辻の内」地内を御所跡の「第一の候補地にあげるより他にないだろうと思われる」と言われてもねえ……)。ただ、北陸宮(一応、これ以降はこの尊称で通すこととします。『大日本史料』でも「稱北陸宮」とされているし、あんまり意固地になるのもね。ちなみに、ワタシの知人は「北陸宮」という尊称について「リリシズムあふれる美称ですね」。それを受けて、ワタシはワタシで、「最初に越中宮崎城跡の櫓台跡に立った時(日本海の海岸線が一望できます)、言いようのない寂寥感に襲われたのを覚えております」。当時は「北陸宮御所跡」と記された標柱も立っていて、北陸宮の元服式が行われたのはまさにこの場所であるとされていた。そんな曰くを反芻しながら風に吹かれていると、ふとアマリア・ロドリゲスの哀切な歌声が聞えてきたような気がしたものだ。あの時はワタシ自身が都落ちして間もなかったので、勝手にオノレの身の上を重ね合わせていたんだろうなあ……)を自らのテリトリーである越中宮崎の地で秘護し、(皇位に上ることこそ叶わなかったけれど)義仲の入京後の寿永2年9月19日になって晴れて都へと返り咲くその道筋をつけたのが宮崎太郎であるのは間違いない。これだけでも宮崎太郎というのは日本中世史に名を刻すべき人物だと思うのだけれど、さらにこの人物には世の歴史通が刮目すべき見せ場がある。それが宮崎城跡に設置された案内板に言うところの「長門本源平盛衰記によれば、倶利伽羅の合戦で平氏攻略の計画を立てたのは宮崎氏とあるが、この長康公のことである」。ここは『平家物語』長門本より引くなら――

……十一月平家十万余騎の勢を二手に分て、三万余騎をば志雄の手に向けてさし遣し、七万余騎をば大手へ向けて、越中前司盛俊が一党五千余騎を引分て、加賀国を打過て、終夜砺波山を越て、中黒坂の猿が馬場にひかへたり、木曾是を聞て、五万よきを相具して、越中国へ馳せ越て、池原の般若野にこそ控へたれ、越中国住人木曾に付中にも、宮崎太郎は安高の湊の軍に内かぶとを射させて、前後不覚なりけるを、あをだにかきて越中国へ越て、宮崎にていたはりけるに、廿日と云に疵は愈ぬ、うひだちに鎧着て、木曾殿へ参りたりければ、木曾殊に是を感じ給、弓矢とる身こそ哀なれ、二つもなき命を的に懸けて、大事の手を負て、已に死ぬべかりける人のよみがへりて、又鎧着て出給たるこそいとをしけれ、今度の軍は殿原を頼むぞ、義仲は小勢なり、平家は大勢と聞ゆ、面白く計ひて敵を討たんずるぞ、此山の案内者をば殿原にて有らんずるぞ、今度の軍にかたせうかたせじは殿原の計ひぞと宣ひければ、宮崎申けるは、誠に山の案内はいかで知らで候べき、此砺波山には三の道候なり、北黒坂、中黒坂、南黒坂とて三候、平家の先陣は中黒坂の猿が馬場に向へて候也、後陣は大野、今湊、井家、津幡、竹橋なんどに宿して候也、中の山はすいてぞ候らん、よも続き候まじ、南黒坂のからめては楯六郎親忠千騎の勢にてさし廻して、鷲が島うち渡りて弥勒山へ上るべし、中黒坂の大将軍は根井小弥太、千騎の勢にて倶利迦羅を廻りて、弥勒山へ打合せよ、北黒坂の大将は、巴といふ美女千騎の勢にて安楽寺を越て、弥勒山へ押寄て、三手が一手に成て鬨を作るならば、搦手の鬨はよも聞えじ、平家後陣の勢続きて襲と思ひて、後へ見返らば、白旗のいくらも有らんをみて、源氏の搦手廻りたりと心得て、あわてながら鬨を合候はんずらん、其時鬨の声聞え候はんずらん、其時搦手は廻りにけりと心得て、是より大勢に押寄に押寄すならば、前にはいかでよるべき後には搦手あり、逃べき方なくて、南の大谷へ向けて落候はんずらん、矢一射ずとも安く討んずるぞと申ける、木曾是を聞てあら面白や、弓矢取の謀はかくぞとよ、平家何万騎の勢有りとも、安く討ちてんずるな、殿原とて、宮崎が計ひに附きて搦手をぞ廻しける……

 義仲は小勢なり、平家は大勢と聞ゆ、面白く計ひて敵を討たんずるぞ――、そう下問されて山岳夜襲戦法を献策した人物こそはわれらが(?)宮崎太郎だとされているのだ。それが史実かどうか? というのは、当然、あってしかるべき論点ではありましょう。でも、宮崎太郎という武将が『平家物語』や『源平盛衰記』という名高い軍記物語においてこういう重要な役割を担う一種の〝立役者〟として描かれている、というのは紛れもない事実。ワタシは、この事実と北陸宮をお守りしたという史実、この2つだけでも宮崎太郎という人物は日本中世史の欠くべからざるキーパーソンであると。それはもう「郷土愛」がどうこうということとは関係なく、歴史のパースペクティブとしてね(われながら、言っていることがよーわからん。「地球儀を俯瞰する外交」くらいには意味不明?)。にもかかわらずその存在はこれまでほとんど無視されてきたと言っていい。檀一雄の『木曾義仲』では完全にネグレクトされているし、『新平家物語』や『義経』や『平清盛』といった源平合戦を題材とする歴代の大河ドラマでも端役としてさえ描かれたことがない(いや、『新平家物語』はちゃんと見たことがないので断言はできないんだけどね。でも、多分、そうでしょう)。そして、トドメというか、ダメ押しというか、あの(なにが「あの」かはよくわかりませんが。ま、この場合は「あの膨大な記事数を誇る」かな? 査読なしで誰でもエンサイクロペディアンになれるんだから記事の数が膨れ上がるのは当然。もしかしたら「査読なし」って凄い〝発明〟なのかも知れないなあ……)ウィキペディアにさえ記事がないというね。これはねえ、いくらなんでも不当ですよ。

 ――と、かねてからワタシは思っていて、なんならオレが書いてやってもいいけどなと。でも、そう思うだけで実際はやらない、というのがワタシという人間のクオリティでもある。そんなそぶりは毛ほども見せずについ最近までいたのだけれど……多分、「島内透」の記事を書いたことが呼び水になったんだろうなあ、もうね、気がついたら、宮崎 太郎(みやざき たろう、長承元年(1132年) - 建久6年(1195年))は、平安時代末期の越中国の武将。越中宮崎城主……と始めていた。ホント、ヒトの行動というのはわからないものですよ。「北陸宮の御墳墓」をめぐってあんなに熱くなった2年前ならさもありなんだけれど、今頃になってだもんなあ……。ともあれ、こうしてワタシは、従来、ウィキペディアになかった「宮崎太郎」のページを作成すべく行動を開始したわけだけれど、記事を書き始めた時点では簡単に終るだろうと考えていた。大して書くべきこともないんだし(おいおい)。ところが、作業を開始してほどなく、ちょっと待てよと。一体、それって、どういうこと……? 実はこのミッションのために用意した資料の中に朝日町商工観光課が2013年に刊行した『越中武士団 宮崎太郎長康・宮崎党「その時代と歴史」』という本(というか、小冊子かな。なにしろ35ページしかない)があるのだけれど(こちらは著作者とされている「木曽義仲・巴と宮崎太郎あさひ塾」の公式サイト)、その「義仲没後の宮崎太郎長康・宮崎党」というチャプター(見開き2ページ)にこれまで↑に紹介した案内板だとか「義仲・巴 出世街道マップ」(なんてものが「義仲・巴」広域連携推進会議によって作成されている。なんでも「義仲・巴」広域連携推進会議というのは「木曽義仲や巴御前をモデルとした大河ドラマの誘致や、広域観光、地域活性化、ふるさと教育を推進するため、長野・富山・石川・埼玉・滋賀・神奈川県のゆかりの41団体で構成」した半官半民の組織――だそうです)などを通して世に広まっていた宮崎太郎の基本データが深刻なチャレンジを受けることになる記載が含まれているのだ。それはこんな下りなんだけれど――

 1184(元暦元)年1月21日、木曽義仲が、近江国粟津で、相模三浦の石田為久により討死した後の宮崎太郎長康・宮崎党について、「朝日町誌」および「南信伊那郡史料(上)」によると、「…太郎一人逃れて信州入り、伊那郡黒田村を横領して居館を構え…」とあり、また、黒部市荒町宮崎文庫記念館が所蔵している史料年代表には、「伊那に住み、1195(建久6)年63歳没」とある。

 さらに、同所蔵の「信州伊那の宮崎家系譜(主計家系図・座光寺原在住・宮崎館跡)」によれば、「藤原姓宮崎太郎長康……義仲敗死(1184)後逃れて、信州黒田村に入る…」とある。そして、長野県篠ノ井「長谷寺過去帳及び宮崎源蔵家位牌等」によれば「…藤原利仁…宮崎太郎重頼――入善小太郎重房(為直)1221、57歳没――宮崎定範1221、30歳没」などと、黒部市荒町の宮崎家系譜と、信州篠ノ井の宮崎家系譜などの関係が、こと細かに記載されていることから、双方の関連性に確かな真実があるように考えられる。

 これだけだと、何のことやらよくわかんないんだけどね。でも、見開きとなっている右ページ(13p)には「これらのほかに、いろいろな史料があると思われるが、今までの史料を整理して見ると、次の二つの流れになるのではないかと考えられる」として「宮崎太郎長康」を初代宮崎城主とする「《その1》「朝日町誌」宮崎太郎長康家系図 信州伊那家系図」と「宮崎太郎重房」を初代宮崎城主とする「《その2》長野県篠ノ井長谷寺過去帳宮崎源家位牌等宮崎隆造とその家系図」(なお、「宮崎源家位牌」は「宮崎源蔵家位牌」の誤りと思われる。本文ではそう記されているので)がいわば両論併記のようなかたちで示されている。これは、要するにだ、初代宮崎城主については「宮崎太郎長康」とする説(あるいは、初代宮崎城主を「宮崎太郎長康」とする家系図)と「宮崎太郎重頼」とする説(あるいは、初代宮崎城主を「宮崎太郎重頼」とする家系図)が存在する、ということだよね。これは、え⤴ ですよ。そんなの、聞いてないよ……。↑に示した宮崎城跡の案内板にも「宮崎太郎長康公の供養塔」とハッキリ記されていて、宮崎太郎の諱については長康で疑問の余地がないことをうかがわせている。それが、突然、こんなことに……。

 ただ、ね、宮崎太郎というのは、『平家物語』や『源平盛衰記』では「宮崎太郎」としか記されていないんだよね。曰く「加賀の国の住人富樫の太郎、越中国の住人宮崎太郎二人馳帰りて」云々。曰く「越中国住人木曾に付中にも、宮崎太郎は安高の湊の軍に内かぶとを射させて」云々。で、これがちょっとばかり奇妙なのは、『平家物語』長門本には宮崎太郎の嫡子や弟とされる人物も登場するのだけれど、こちらはそれぞれ「入善小太郎為直」、「別府次郎為重」とちゃんと諱まで記されている。どういうわけか宮崎太郎だけは諱抜きのしごくカジュアルな感じで記されているわけだけれど、それがどういう理由によるものかはちょっと見当がつかない。普通、逆だと思うんだよ。父(兄)が諱込みの仰々しい名前で、子(弟)が諱抜きのカジュアルな名前。しかし、実際にはその逆になっているわけで、そこになんらかの意図が込められているのかいないのか……。しかし、事実として、『平家物語』にも『源平盛衰記』にも宮崎太郎の諱は記されていない。にもかかわらずこれまで(あるいは、ワタシが知る限りでは)宮崎太郎の諱は「長康」である、というのが半ば確定情報のように広まっていて、今、問題にしている『越中武士団 宮崎太郎長康・宮崎党「その時代と歴史」』でも表題ではハッキリと「宮崎太郎長康」と言い切っているわけだから。ただ、実際に本をひも解くと、どうもコトはそう簡単ではないらしい、ということがわかる仕掛けとなっているわけだけれど……。

 では、なぜ宮崎太郎の諱は(『平家物語』や『源平盛衰記』では特に記されていないにもかかわらず)「長康」であると信じられるに至ったのか? それは、1960年代に朝日町が城山を古城の地として整備するに当って行った調査の成果、ということになるらしい。当時の町長である中川雍一氏が1993年に刊行した『海から来た泊町』によれば――「史跡を整備するにしても、そのための手がかりがなければならない。朝日町教育委員会は北陸宮と宮崎太郎のための資料編さん委員会を設置し、野島二郎、野村久四、森群平、大菅達二の四氏を委嘱した」。この調査結果をまとめたのが『北陸宮と宮崎氏』であり(ちなみに、この本、1970年に宮内庁に献上されているという)、「この資料によって北陸宮の墳墓建設が決められた」――と、中川雍一氏が同書に記した内容を踏まえるならばそういうことになるのだけれど、どうやら宮崎太郎の諱を「長康」とするなどの、今日、宮崎太郎のプロフィールとして伝わっているあれやこれやのことどもは、この調査の結果、判明したものであると考えていいようだ。実際、朝日町が1984年に編纂した『朝日町誌 歴史編』でも宮崎太郎のプロフィールを記すに当って――「義仲の戦死によるその後について「北陸宮と宮崎氏」編さん委員会の研究結果を述べて見よう」。

 さて、こうなると、「北陸宮と宮崎太郎のための資料編さん委員会」は何を根拠に宮崎太郎の諱を「長康」とするなどの、今日、宮崎太郎のプロフィールとして伝わっているあれやこれやのことどもを「知った」のか? ということになるわけだけれど、どうやらそのネタ元は『南信伊那史料』という文献らしい。1901年に佐野重直という姓氏研究家が著したもので、国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧可能。その上巻「古跡名勝 第一 城砦舘宅陣屋関趾 下伊那ノ部」にこうある――

●宮崎氏之舘跡 座光寺原宮崎ニ在リ文治年間藤原氏ノ分流宮崎太郞長康居住其先仝氏ハ日向國宮崎氏ヲ興シ後備中國ニ移リ源平蜂起ノ亂ニ木曾義仲ニ屬シ樋口次郞ト相備ニ附セラレ武勇ヲ顯スト雖モ利アラス義仲亡フルニ及ンテ長康獨リ逃レテ信州ニ入リ伊那郡黑田村ヲ押領シテ此ニ居館ヲ搆ヘ家號ヲ以テ在名ヲ立テ地字ヲ宮崎ト稱ス長康ノ男、仝周防、仝刑部承久中故在テ黑田氏ヲ冐ス、其男宮崎彌五郞、仝彌兵衞、仝三太夫ニ至リ正慶二年四月北條高時ノ催促ニ依リ嫡子太郞次郞ヲ伴ヒ六波羅ニ參陣シ仝五月八日落去シ越後守仲時ニ組シ前后敵ニ襲レ仝十日江州番場ノ宿ニテ父子共ニ生害ス、二男仝太郞三郎相傳ス、仝小太郞、仝孫治郞ニ至リ應永中嫡子ト共ニ坂西氏ニ屬ス、仝孫藏、仝孫五郞、仝彌平兵衞、仝孫次郞、仝孫藏、仝右馬允天文中松岡氏ニ屬シ本領貳百貫文又山吹、田澤ニテ越田ヲ恩賜セラレテ後山吹ノ舘ニ移ル三男子アリテ皆武田家ニ仕フ二子仝八郞忠房本領百五拾貫ヲ食ミテ相傳ス天正三年武田勝賴ニ從ヒ三州長篠ニ參陣シ彈丸ニ中テ還陣シ手疵ヲ保養ス勝賴歸途宮崎ノ舘ニ寄リ賞シテ鶴駭ノ銘馬ヲ與フ八郞手疵癒ヘスシテ絕命ス、其男仝築後泰滿ヲ經テ、仝十太夫忠政ニ至リ武田氏亡ヒテ後德川家康ニ仕ヘテ忠勤淺カラス故ニ筑後守從五位下ニ敍セラレ此トキ娘セン女ハ源君ノ侍女トナル天正十八年下總國ニ於テ所領ヲ賜リ降テ慶長六年當郡駒場附近ニ於テ加祿ヲ賜リテ中關ニ移ル以下其在ニ記ス對照スヘシ(當家ノ系譜云)

 さーて、これを全文読み通すというガッツを発揮した勇者はいるやいなや……? ともあれ、ここに登場する「藤原氏ノ分流宮崎太郞長康」こそはわれらが宮崎太郎その人である――と、「北陸宮と宮崎太郎のための資料編さん委員会」では判断した(らしい)。ただ、↑には妙なことも書かれているよね。そう、「仝氏ハ日向國宮崎氏ヲ興シ後備中國ニ移リ源平蜂起ノ亂ニ木曾義仲ニ屬シ」――と、宮崎氏の発祥の地は日向国であり、その後、備中国に移ったとしている点。で、そもそもの発祥の地を日向国とするのはいいとしても、その後、備中国に移ったというのは、どーなの? 『朝日町誌 歴史編』によれば、「北陸宮と宮崎太郎のための資料編さん委員会」はこの件について岡山県に問い合わせたそうだ、「一二世紀以前に岡山県史に宮崎太郎長康家が見られるかどうか」と。すると、岡山県の県民広報課長から「宮崎一族は当地方出身の有名人としてはその姓が見られない」との回答が得られたとかで(さすがはクロウトが行った調査は違うわ……)、これを踏まえ「備中國」は「越中國」の誤記であると判断。かくて「藤原氏ノ分流宮崎太郞長康」こそは宮崎太郎である、ということが「北陸宮と宮崎太郎のための資料編さん委員会」の結論となった――と、どうやらそういうことらしい。そして城山の宮崎城三の丸跡には「北陸宮の御墳墓」と並んで(それを守護するように?)「宮崎太郎長康公の供養塔」が造られ、今に至っている――と、こういうことになるようだ。

 ただ、それが今になって揺らいでいるわけだよね。そうハッキリと書かれているわけではないけれど、『越中武士団 宮崎太郎長康・宮崎党「その時代と歴史」』に書かれていることを素直に読むならば、そういうことになる。それが一体どういう経緯をたどってそうなったのかは同書にも記されていない。ただ、その重要なプレイヤー(あるいは、チャレンジャー)となった存在については示唆されていて、それは黒部市荒町にある宮崎文庫記念館だろう。こんな施設があることもワタシはこの本で初めて知ったのだけれど――実は、立派なウェブサイトが存在する。そして、その「尊史庵(宮﨑文庫)由緒」にはこう記されているのだ――

この地は、往古源平合戦時に、宮﨑城主宮﨑太郎重頼(当宮﨑家の始祖)が木曽義仲と共に京へ攻め上る間、北陸の宮を天皇推挙時まで秘護し奉った仮宮跡と伝承される。

 これは、え⤴ ですよ。もういろんな意味で、え⤴ 「宮﨑城主宮﨑太郎重頼(当宮﨑家の始祖)」という部分もそうだけれど、「北陸の宮を天皇推挙時まで秘護し奉った仮宮跡と伝承される」という部分も。これまで言われていたこととはとことん異なる。北陸宮の御所(仮宮)をめぐっては、一応、取り沙汰されている場所にも足を運んで推理をめぐらしてきたものからするならば、もうなんというか……だから、もうなんというか……言葉が出てこんのだよ。黒部市の荒町って、そんなところじゃないだろう……。ただ、『越中武士団 宮崎太郎長康・宮崎党「その時代と歴史」』によれば、現在、黒部市荒町地区周辺には数十件の宮崎家があるとかで、その内の1つ(おそらくは本家)である宮﨑隆三家が累積してきた経典・蔵書等を収蔵するために先祖代々の屋敷跡に「尊史庵」と「古文書館」(宮﨑文庫記念館)を建てた――と「宮﨑文庫記念館のあゆみ」の記載内容を踏まえるならばそういうことになる。しかも、その所蔵物がスゴイ。後醍醐天皇の御宸筆歌とか御鳥羽天皇の御尊影とか北畠親房卿の神皇正統記とか。こうなるとねえ……。で、この宮﨑隆三家では始祖を「宮﨑城主宮﨑太郎重頼」であるとしているわけだけれど――

 想像するにだ、「北陸宮と宮崎太郎のための資料編さん委員会」はこの宮﨑隆三家の存在を全く把握できていなかったのではないか? で、ただひたすら『南信伊那史料』が書いていることを信じ、同書が記す「藤原氏ノ分流宮崎太郞長康」こそはわれらが宮崎太郎その人であると結論付けた。そして、それに基づいて「宮崎太郎長康公の供養塔」まで造ってしまった。ところが、1991年になって宮﨑文庫記念館がオープンし、宮﨑隆三家の存在が知られるようになった。そして、同家では始祖を「宮﨑城主宮﨑太郎重頼」であるとしていることも。ここに至って「北陸宮と宮崎太郎のための資料編さん委員会」が導き出した結論は深刻なチャレンジを受けることになった――と、そういうことなんじゃないかと思うのだけれど、こうした事態について朝日町教育委員会なり「まいぶんKAN​」なりがどういう立場を打ち出しているのかはワタシは知りません。問い合わせたって、「後程こちらの方からかけなおします」ということになって、結局、その電話はかかってこないんだから(1度ならず2度までもそういう扱いを受けた。どうやらワタシは朝日町の歴史資産にイチャモンをつけるモンスター・クレーマーと見なされているらしい……)。ただ、相当に困っていることは間違いないでしょう。「宮崎太郞長康」として供養塔まで造った人物が今さら「宮崎太郎重頼」だった(かもしれない)――とはねえ。

 で、この際だから1つだけ申し上げておくなら、「北陸宮と宮崎太郎のための資料編さん委員会」は疑うべきだったんですよ、『南信伊那史料』の記載内容、もしくは同書が典拠とした宮崎家の系譜を。これについてはウィキペディアの記事でも「系譜をめぐる異説」として書いたんだけれど、『朝日町誌 歴史編』が『南信伊那史料』などを元に描き出す信州伊那の宮崎家の系譜は華麗とも峻烈とも呼び得るもので、初代長康の代に源平合戦を戦ったのを手始めに7代三郎太夫の代に至って時の執権・北条高時の催促により六波羅に参陣し(元弘の乱)、光厳天皇を護衛して戦うも敗れて近江国の馬場宿・米山の一向堂で自害。さらに17代輝康の代には河内国烏帽子形を領していたとされるものの三好の変(永禄の変)で戦死、ここで長康家は断絶。その一方で16代右馬允の次男・八郎が分家して忠房を名乗り、武田勝頼に臣従。長篠の戦いで弾丸に当り座光寺原宮崎の館で保養に務めるもほどなく戦病死。保養中、勝頼は宮崎の館に立ち寄り、鶴駿(『南信伊那史料』では「鶴駭」)という名馬を賞与したという。さらに忠房家3代目に当る泰景は徳川家康に仕え、従五位下筑後守に叙せられ秀忠から「忠」の字を賜り諱を忠政と改めたという。こうした赫々たる履歴がすべて事実とするならば、宮崎家は源家、北条家、武田家、徳川家という日本を代表する名家に仕え、源平合戦、元弘の乱、永禄の変、長篠の戦いという日本史を彩る合戦を戦ってきたことになる(さらに『寛永諸家系図伝』によれば、泰景の3子もそれぞれ徳川家に仕えており、次男・安重は「慶長五年、濃州関原御陣に供奉す」、三男・景次は「慶長五年、上杉景勝逆心のとき、台徳院殿(秀忠)に供奉し、宇都宮ならひに信州眞田にいたる」。つまり関ヶ原の戦いにも参陣していたことになる)。こんなことがねえ、信じられる? 日本古文書学会の会長も務めた歴史学者の中村直勝(『海から来た泊町』によれば、「北陸宮と宮崎太郎のための資料編さん委員会」は調査に当たって林屋辰三郎の協力を得たとされる。中村直勝はその林屋辰三郎の恩師に当る)は『日本古文書学』(角川書店、1977年)で「三百大名の中で鎌倉時代以来の家柄と言えば薩摩の島津候位なものではあるまいか。/諸大名の中で、曲りなりにでも家系らしいもののあるのは、まだしもの方で、氏素性さえも怪しい諸侯の方が、多い」(下巻、1186p)と述べている。大名でさえそうなのだから、旗本クラスで平安時代以来の由緒を誇るというのはどーなのかと。中村はまた「こうした家系の面目から、家系を飾る必要から、系譜の偽作ということがあったろうことは、無理からぬことである」(同)とも述べているわけで――ま、これが「答」なのではないかと……。