えーと、今回、お題にしようと思っているのはH・P・ラヴクラフトの「クトゥルフの呼び声」なんだけれど……「八雲が殺した」→「その木戸を通って」と来て、次が「クトゥルフの呼び声」とは……ワレながら、思い切ったもんだなあ、と。「クトゥルフの呼び声」が「わからない」なんてカミングアウト(?)して得になることなんて何もありませんよ。ここは、わからなくてもわかったようなフリをしているのが得策ってもんですよ。実際、ペーパーバック屋だった頃はそうしていたわけだから。で、2012年7月30日付け記事みたいなものだって書いていたわけで。だから、これからもそうしていればいいんだよ。それを、なにを好き好んで……。
しかし、正直に言おう、ワタシは「クトゥルフの呼び声」が「わからない」。つーか、ダメなんだ。笑っちゃうんだよねえ、肝心要の部分で。それがどういう部分かというと――「クトゥルフの呼び声」で肝心要といえば、それはもうクトゥルフそのものに関る部分に決まってるわけで、それは最初、本編の語り部であるフランシス・ウェイランド・サーストンの大伯父にして1926年の冬に謎の死を遂げたブラウン大学考古学部教授、ジョージ・ギャマル・エインジェルの遺品の1つである「粘土造りの奇妙な薄肉浮彫り」に刻印された奇妙な図形として登場する。ここは創元推理文庫版『ラヴクラフト全集』より宇野利泰訳で――
その薄肉浮彫りは、厚さ一インチ弱、縦五インチに横六インチほどの大きさで、ほぼ長方形をしていたが、明らかに現代人の手になったものであった。それでいて、意匠のもたらす雰囲気が、あまりにも現代と隔絶していた。ぼくがいうまでもなく、キュービズムや未来派の現代絵画は、気紛れとも思われる奔放な構図を示しているが、有史以前の文字にひそむ謎めいた均整さまでを再現しようとは試みない。これらの意匠の大部分は、あきらかに古代文字の一種だった。それでいて、大伯父の収集した古代文字の記録に永年慣れ親しんだはずのぼくが、これと同種の、あるいは類縁関係にあるものを思い出すことができなかった。
象形文字らしい線の羅列のほかに、明らかに画像と思われるものがあるのだが、印象主義的手法が強烈すぎて、何を写し出すつもりであったのか、その本体を想定するのさえ不可能だった。おそらく、ある種の怪物、でなければ、そのシンボルなのであろうが、いずれにせよ、よほど病的な空想力の持主でないことには、思いつけるものでない醜怪な形状なのだ。ぼくもぼくなりに、想像力を最大に駆使してみて、その結果、章魚と竜と人間のカリカチュアを一緒くたに表現するのが作者の意図だと感じとった。どうやらこの見方がこの物の本質を衝いているように、ぼく自身には考えられたのだ。鱗に覆われたグロテスクな胴体の上に、触手を具えたぶよぶよの顔が載っている。しかも胴体には退化した翼の痕跡が残っている奇怪な姿だが、何よりもショッキングな恐怖感を与えているのは、その全体の輪郭の凶悪さだった。そしてその背景には、太古の一眼巨人族(注:ギリシア神話に登場するキュクロプスのこと。作中には「クトゥルフは、伝説に残るこの一眼巨人キュクロプス族以上にしぶとくて」との記載もあるのだけれど、これだとクトゥルフ神話なるものがギリシア神話の派生物であるような印象を与えてしまうのでは? だって、実際にそうなんだからしょーがないじゃん、と言われればそれまでなんだけれどねえ……)の国の壮大な建築群らしいものがおぼろげに描いてあった。
このね、なんともしかつめらしい叙述の只中になぜか唐突に――「章魚と竜と人間のカリカチュアを一緒くたに表現するのが作者の意図だと感じとった」(なお、念のために書いておくなら、この翻訳だと「カリカチュア」は「章魚と竜と人間」に係っているように誤解されかねない。しかし、原文はsimultaneous pictures of an octopus, a dragon, and a human caricatureとなっており、「カリカチュア」は「人間」のみに係っている)。え、章魚? 章魚って、あのタコ……? いやね、タコが西洋では「悪魔の魚」と呼ばれているのは知っていますよ。しかし、ウィンナーをタコの形に加工して食べるワレワレ日本人からしたら、この描写は相当にユーモラスというか(実際、コレですからね。ワタシが最初に遭遇したクトゥルフで、以来、ワタシにとってクトゥルフといえばコレ……)。太古の昔に宇宙から飛来した《偉大なる古き神々》の中でも大司祭と崇められるクトゥルフがよもやタコに喩えられるヴィジュアルの持ち主とは……。
ただ、まだこの時点ではこれはサーストン青年が大伯父の遺品である「粘土造りの奇妙な薄肉浮彫り」に刻印された「画像と思われるもの」を彼なりの言葉で言い表したものに過ぎない。つまり、彼の眼にはそれが「章魚と竜と人間のカリカチュア」を一緒くたに表現したものに見えた――ということでしかない。しかし、「章魚と竜と人間のカリカチュア」云々は決して主人公の眼にはそう見えた、という類いの話ではなく、エインジェル教授のノートにもそうハッキリと記されているのだ。これは物語の第2章で描かれるエピソードで、大伯父が記したと思われる「一九〇八年――アメリカ考古学会の会合における、ルイジアナ州ニューオリンズ、ビエンヴィル街一二一番地居住、ジョン・R・ルグラース警部の話。ならびに、上記の話についての註釈とウェッブ教授の説明」と題する手記を紹介するかたちでサーストン青年が記すところによれば――この年、アメリカ考古学会の大会がセントルイスで開催された。その際、「いたって風采のあがらぬ中年男」がエインジェル教授を訪ねてきた。この男、実はジョン・レイモンド・ルグラースというニューオリンズ警察の警部で「一見しただけで嘔吐を催すほどグロテスクな、明らかに太古の作と思われる小さな石像」を持参していた。この石像、大会に先立つ数か月前、ブードゥー教徒の不法集会(と記されている。ということは、当時、ブードゥー教は禁じられていたということ? と思って調べたところ、風呂本惇子著「大西洋を渡った精霊たちのその後」というPDFファイルが見つかった。その第4章「アメリカのヴードゥーとその周辺」にこうある――「プロテスタントが主流のアメリカ南部では農園主の家族が近くにいて、監督の目も厳しく、精霊の記憶を伝えていくのは難しかった。例外地域の一つはフランス植民地だったルイジアナである。ここでも「コド・ノワール」は、奴隷の集会を許した主人にも罰則を与えるほどだったし、カトリックの衣をつけない宗教は認められなかった。(略)ヴードゥーへの抑圧は続いており、1817年には「日曜に、コンゴ・スクエアで」集うのは奴隷の娯楽として認められたがそれ以外の集会は禁止、午後9時以後の外出も禁止された。しかしコンゴ・スクエアで踊るカリンダやバンブラはいわば表面を取り繕う合法的なダンスであり、水辺の集会は密かに続けられていた」。これを読む限りは確かにブードゥーの集会は非合法化されていたようにも思える。ただ、一方で「南部でデンマーク・ヴィジーやナット・ターナーの大きな反乱のあった1820-30年代はコンゴ・スクエアへの黒人の出入りも禁止されたが、1840年代にはその禁が解かれ、1850年にはヴードゥーへの過度の抑圧を批判する記事が『ウイークリー・デルタ』に載った。タラントによれば、逮捕された(白人も含む)女たちが、著名な弁護士を雇ってヴードゥー・ダンスが純粋に宗教的儀式であることを主張し、逮捕の不当性を訴えた。ヴードゥーの側からの初めての公的な反撃である。予期せぬ状況にうろたえた裁判官は、逮捕の口実を白人女性と奴隷が集まることを禁ずる条例に求めざるを得なかった」とあって、1850年代で既にそういう状況だったとするならば、はたして1908年という時点でブードゥー教徒が「不法集会」を開くということがあったのかどうか、いささか疑問を覚えるところではあるんだけれど……。なお、「コド・ノワール」とはルイ14世が1685年に発布した通称「奴隷法」のことだそうです)を強制捜査した際に押収したもので、集会はニューオリンズの南方、樹林に囲まれた沼沢地帯の奥地で行われており、邪教徒らは大かがり火をめぐって踊り狂っており、大かがり火の周りには十基の処刑柱が等間隔に並んでいて、その各々には近隣の開拓者部落から攫われたと思しき住民の死骸が頭を下にして吊るされていた。そして、その大かがり火の中央には高さ8フィートばかりの柱が立っており、その上に据えられていたのが件の石像だった。ルグラース警部らは「筆紙に尽くしがたい死闘」の果てに47名の邪教徒らを逮捕してニューオリンズに連行するとともにその小偶像を押収品として持ち帰るのだが、彼は逮捕した邪教徒らの口から抽き出した常軌を逸した話に当惑する一方、この「恐怖の象徴の意味を知り、奇怪な祭儀の源泉を突きとめようと考えるにいたった」。そして、セントルイスでアメリカ考古学会の大会が開催されると知るや、件の石像を手に駆けつけたという次第。そして、石像はルグラース警部が予想した以上の興奮を考古学者たちに引き起こした――
ルグラース警部は、彼の提出した石像が学者たちに、これほどの衝撃を与えるとは予想もしていなかった。学者たちはそれを一見しただけで、たちまち激しい興奮状態に陥って、全員が目を凝らして注視した。悠久の歳月を経てきた品であるのが明らかで、閉ざされた太古の世界を力強く語っている。彫刻史上、どのような流派も、このような恐怖の対象を創り出したことはないはずだが、それでいて、石質不明のこの物体の暗緑色の表面に、数世紀、いや、数十世紀の年代を見てとることができるのだった。
石像は学者たちの手から手に渡って、周到綿密な検討を経た。高さはおよそ七、八インチの、小ぶりながら優れた技術で刻まれた芸術品とも呼べるものだった。どこか人間臭さが漂っているものの、頭は章魚にそっくり、何本かの触手が顔から伸び、鱗に蔽われた胴体に爪の長い前足と後足、そして背中に細長い翼。やや肥満ぎみの全身に凶悪が害意をみなぎらせて、正方形の台座に蹲っているのだが、その台座には判読不能の異様な文字が刻みつけてある。怪物は翼の先を台座のうしろ端に触れさせて、中央に尻を据え、両膝を立てた後足の鉤爪で台座の縁をしっかりと掴み、長い爪の四分の一はさらに下方へと伸びている。そしてまた、頭足類を思わせる頭をやや前方に傾け、触手の先端は、立膝をした後足にあてがった前足の甲に触れさせ、その全体の印象が異様なほどの生々しさで迫り、由緒不明の偶像であるだけに、身の毛のよだつ無気味さなのだ。要するにそれは、測り知れぬ太古に作られたことと、われわれの知る文明社会の美術様式とはまったく類を異にしたものと知るだけであった。
ね、ここでもやっぱり「頭は章魚にそっくり」であると。つまり、クトゥルフは、単にサーストン青年の眼にはそう見えたというだけではなく、誰の眼にもそう見える――というレベルでタコそっくりなのだ。而してそれは太古の昔に宇宙から飛来したこの地球の「旧支配者」であるという。これはねえ、イマジネーションがジレンマで痙攣を起こすとでも言うか。まさにタコと邪神の二律背反……。もっとも、当のラヴクラフトが描いたこの石像の鉛筆画が残されているのだけれど(→こちら)、それを見る限りはあまりタコっぽさは感じられない。ま、「考える半漁人」とでもいったところか? ただ、それと同時に、「身の毛のよだつ無気味さ」だの「われわれの知る文明社会の美術様式とはまったく類を異にしたもの」だのという印象も受けないんだけどねえ……。
ともあれ、こうしてHPLは太古の昔に宇宙から飛来した《偉大なる古き神々》の中でも大司祭と崇められるクトゥルフをタコそっくりの頭部を持つ怪物として具象化してみせているわけだけれど、3部構成となっている「クトゥルフの呼び声」の第3章ではいよいよそのタコの怪物との対決が描かれる。サーストン青年がニュージャージー州パターソン市の博物館の保管室で標本の調査をしていたところ、標本箱の下に敷いてあった古新聞に問題の石像とそっくりの石像の写真が載っているのを発見。彼はその古新聞『シドニー・ブルティン』に掲載された記事を貪り読むことになるのだが、それは謎の難破船とその唯一の生存者に関る記事であり、写真の石像は生存者の所持品の中にあったものという。この記事と当の生存者であるノルウェー人の二等航海士、グスタフ・ヨハンセンが遺した手記(記事に興味を惹かれたサーストン青年ははるばるノルウェーまでヨハンセンを訪ねることになる。しかし、その時、ヨハンセンは既に亡くなっていた。そして長文の手記を遺していたという設定)によれば――ヨハンセンを含む乗組員11名は1925年2月20日、2本マストのスクーナー船エンマ号に搭乗してニュージーランド北島のオークランドからペルーのカヤオ港をめざして出港した。しかし、3月1日には大暴風雨によって針路を狂わせ、3月22日には南緯49度51分、西経128度34分の海上で武装快速船の襲撃を受け、船は沈没。しかし、船員らは沈没寸前に船を海賊船に横付けすると勇敢にも敵艦上に乗り移り「人数においてわずかながら優る相手方を皆殺しにするのに成功した」。えー、これぞ接舷攻撃(アボルダージュ)というやつではないか! 明治2年3月25日、土方歳三ら旧幕府軍が甲鉄艦(旧ストーンウォール号)に対して敢行し、無念にも失敗した作戦。もしこの奇襲攻撃が成功していたら、日本の歴史は(少しだけ)変わっていたかも知れない……。えーと、話が逸れた。ともあれ、こうして海賊船(その名はアラート号)の奪取に成功したヨハンセンらは、その翌日、海図にない小孤島を発見して上陸した。実にこの孤島こそはクトゥルフが封印されている石造都市ルルイエ(宇野訳ではル・リエー)だったわけだけれど、ま、この島でヨハンセンらがどういう体験をすることになるかは、この際、いいでしょう。案外、想像の範疇を超えるものではなかったりして(え?)。それよりも、脱出劇。ヨハンセンら――と言っても、その時点で生存していたのはヨハンセンともう1人のウィリアム・ブライドゥンという船員だけなんだけどね――は命からがら島からの脱出を図ることになる――
全員が上陸して、留守にしていたにもかかわらず、アラート号の蒸気は冷えきっていなかった。二人が無我夢中で、操舵室と機関室のあいだをを駆けまわると、エンジンが動きだし、船は言語を絶した恐怖の下におかれながらも、徐々に死の海を進行し始めた。岸辺では死人を呑みこむ奇怪な石像物の上で、暗黒の星から渡来した邪教の神が、逃れ行くオデュッセウスの船に呪いの声を吐きつけるポリュペーモスさながらに、口から泡をとばして何やらわめき立てていた。しかもこのクトゥルフは、伝説に残るこの一眼巨人キュクロプス族以上にしぶとくて、たちまちそのぬらぬらした巨体を海中に滑りこませ、宇宙的な力で波を引き裂き、凄まじい勢いで追跡してきた。振り返ってそれを見たブライドゥンは、その瞬間に気が狂った。そしてその後は、思い出したように笑い声をあげる状態がつづき、ある夜、これも同様に半狂乱のヨハンセンが甲板上をうろうろしているあいだに、船室内で死んでいった。
だが、ヨハンセンは屈しなかった。アラート号のエンジンが全能力を発揮せぬうちに、怪物に追いつかれるのが必然的とみたので、一かばちかの冒険に運命を賭ける決意をした。エンジンをフル・スピードにしておいて、電光のような素早さで甲板上を駆けぬけると、舵輪をいきなり逆回転させた。悪臭を放つ水面に渦が生じ、不潔な水沫が逆巻いた。そしてそこを、悪霊のガリオン船を思わせて、膠質の怪物が追跡してくる。エンジンを動かす蒸気力が最高の段階に達したとき、わが勇敢なノルウェー人は、アラート号の船首をジェリー状の怪物の巨体へ向けた。たちまち両者は接近して、いまや、武装快速船の舳に突き出た第一斜檣が槍烏賊に似た怪物の頭から伸びた触手とすれすれになった。だが、ヨハンセンはひるむことなく、突進をつづけた。気泡のはじける破裂音、切り割ったマンボウが流すどろどろした汚物、あばかれた古塚から噴出する悪臭、それらすべてが千倍にも拡大されてそこにあって、どのような記録者であろうと、この凄まじさを紙上に表現できるとは考えられぬ。アラート号は一瞬のうちに、目を刺す緑の雲に包まれて、船尾だけが外に出ているにすぎぬのだが、そこもまた毒液が煮えたぎっていた。そしてしかも――おお、神よ!――いったんは砕けて星雲状に変わった名も知れぬ暗黒の落とし子が、ふたたび元の形をとり戻しつつあるのだ。だが、アラート号は蒸気力を最高にして、フル・スピードの逃走に移り、一秒ごとにその距離を広げていった。
え、槍烏賊? 章魚じゃなかったの? 同じ頭足類でも、結構、印象は異なりますよ? ここはやっぱりタコでしょう……と、そんなツッコミも入れつつ――「クトゥルフの呼び声」という怪奇小説の正否は読むものがこの場面で恐怖を感じられるかどうかに懸かっていると言っても過言ではない。そして、残念ながらワタシには感じられないんだ。ワタシに感じられるのは、そうだなあ……、B級カルトムービーを見ている時に感じるようなマッタリ感かな? もうね、これ以上、無駄な時間の過ごし方はないとわかりつつ、やめられないオノレの惰弱さがどういうわけかこの上もなく愛おしい……。そんな感じで↑の下りも楽しめないことはないんだけれど、ただ「怖い」とは感じないよなあ。だって、コレなんだもの。コレを「怖い」と感じる感覚がワタシには理解できない……。
ただ、こんなことばかり言っていてもしょーがないので、この際、この「章魚と竜と人間のカリカチュア」についてもう少し深堀り(?)してみると、おそらくそれはあの時代(20世紀初頭)の「恐怖」の1つの原型だったのでは? と。19世紀もどん詰まりの1897年にイギリスでは『ピアソンズ・マガジン』、アメリカでは『コスモポリタン』に連載され、翌年、イギリスではウィリアム・ハイネマン、アメリカではハーパー&ブラザーズから刊行されたH・G・ウェルズの『宇宙戦争』はSF小説の古典的名作として今でも読み継がれているわけだけれど、しかしこの小説が当時の人々に与えた衝撃は現代を生きるワレワレがいかに想像力を駆使しようが正確なところを見積もることはできないのでは? というのも、当時は火星に高度な文明が存在するというのは科学的に探求されるべき可能性であると考えられていた。実際、日本研究者としても知られるパーシヴァル・ローウェル(1891年に刊行されたNoto: An Unexplored Corner of JapanにはAcross the Etchiu Deltaと題されたチャプターもある。つまりは当地も訪れているわけですね。「黄昏は長く余韻をとどめ、曲がりくねった道は、田圃の畔に縁取られながら、稲のじゅうたんの中を数マイルにわたって縫うようにうねっていた。私たちは、数百フィートごとに、農家をやりすごした。農家は、刈り込まれた生け垣に覆いをされ、木下闇に沈み込んでいた」――とは、今からもう20年前になるのかな? ワタシが手がけた同チャプターの試訳の一節であります……)などは私財を投じてアリゾナの砂漠地帯に61cm屈折望遠鏡を備えた天文台を建設、亡くなる1916年まで火星人が存在すると信じて、火星の観測に打ち込んだ。そんな中、火星人が襲来するという小説が発表されたのだから、その衝撃たるや並大抵のものではなかったであろうことはアタマでは理解できる。しかし、それがもたらす「戦慄」みたいなものはわかりようがない。結局はこれがすべてではないかとワタシは思っているのだけれど……ともあれ、その『宇宙戦争』において侵略者たる火星人がどのように描かれているか? ここは「クトゥルフの呼び声」と同じく宇野利泰訳で紹介すると――
灰色で、まるい、巨大なものだ。大きさは熊ほどもあろうか。それが徐々に、のたくりながらシリンダーから匍い出してくる。ふくれあがって、光線を受けると、濡れたけものの皮のように光った。
二個の大きな、暗さを底に沈めた眼が、ぼくたちをみつめてうごかない。それをかこんでいるかたまりが、どうやらその【もの】の頭であるらしい。まるくて、顔と呼んでもよさそうな格好である。眼の下のあたりに、口らしいものがある。唇はないが穴があいていて、それがふるえ、あえぎ、よだれまで垂らしている。からだ全体も、むくむくともりあがっては、痙攣的に動悸を打つ。ほそい触手でシリンダーのふちをつかみ、べつの触手を空中に泳がして……
生きた火星人を見ていないかぎり、その外観の奇怪さ、おそろしさを想像しろといわれても、無理なはなしである。V字型の口は上唇をつき出してみせるが、眉の隆起はなく、くさび型の下唇の下には、あごも見られない。たえずふるえている唇。ゴルゴンの髪にも似た何本かの触手。馴れない世界の大気に触れて肺臓がくるしいのか、あらしのような息であえいでいる。動作にしても、地球の重力に耐えかねるのであろう、のろのろと、苦渋を露骨にしめしていた。とりわけて、その巨大なふたつの眼の異常なまでのきびしさ――これはまた、生ま生ましいほどに強烈で、人間世界とかけはなれた残忍さをそなえている。とにかく醜悪無残な怪物だった。油を塗ったようびぎらぎらする褐色の皮膚が、一様に菌状腫を患った感じでふくれあがり、それが緩慢な動作で、無器用にうごめいているところは、いいようのないほど不潔な存在に思われた。最初に出会い、最初に見たときから、ぼくは不快感と恐怖で打ちのめされていた。
まるい頭部と「ゴルゴンの髪にも似た」何本もの触手を具えたその姿は容易にタコを連想させる。実際、1898年に刊行されたハーパー&ブラザーズの版で使われたウォーリック・ゴーブルによる挿し絵でもその姿はタコそっくりに描かれている(→こちら)。また『宇宙戦争』の挿し絵としては1906年に刊行されたフランス語版で使われたブラジル人画家、エンリケ・アルヴィン・コレアによるものがよく知られているのだけれど、その中には↑の場面を描いたものもあって、これまたその姿はタコそっくりに描かれている(→こちら)。そして、まさにこれらがこの時代の恐怖の原型になったのだ。章魚のような、烏賊のような、そんな見るもオゾマシイ醜怪なものが襲ってくるという恐怖――、もしかしたらそれはコーカソイドの意識下に潜む恐怖を反映したものかも知れない(この際だから書いておくなら、「コーカソイド」という概念自体が多分に人種差別的な思想を含んでいたとされていて、ウィキ先生によれば「提唱者であるブルーメンバッハもさまざまな人間の集団の中で「コーカサス出身」の「白い肌の人々」が最も美しい、人間集団の「基本形」で、他の4つの人類集団はそれから「退化」したものだと考えていた」そうです。で、そんな白人至上主義的な偏見はHPLその人にも認められる。彼が描き出す世界では凶事をもたらすのは決まって非白人。たとえば、サーストン青年の大伯父であるエインジェル教授が亡くなったのは「異様に暗い路地から出てきた海員らしい黒人に突きあたって、その場に昏倒した」ことが原因だし、ルグラース警部がニューオリンズの沼沢地帯の奥地で遭遇したのは「シムかアンガローラの筆がなければ描き出せないような、白人と黒人の混血と思われる変形の人間の群れ」。そしてグスタフ・ヨハンセンらを襲った武装船に乗り組んでいたのは「醜悪な容貌のカナカ土人と欧亜混血の水夫たち」。あたかも非白人であることはそれ自体が凶事であるかのような。章魚のような、烏賊のような、そんな見るもオゾマシイ醜怪なものが襲ってくるという恐怖の深層にはコーカソイド以外の4つの人類集団を自分たちより「退化」した異形のモノと見なす意識もしくは無意識が眠っている――というのは、毎日、富山湾で獲れる頭足類に舌鼓を打つ一モンゴロイドの被害妄想とでも言いますか……?)。ともあれ、H・G・ウェルズは『宇宙戦争』によって時代の恐怖を可視化した。H・P・ラヴクラフトが太古の昔、宇宙から飛来した「旧支配者」を創造するに当たってそのイメージに影響されたとしても無理からぬところ。そして、それは当時にあっては十分に「恐怖」の表象でありえたのだ。
でも、今はムリだよ。当時の人たちがクトゥルフの造形に覚えたであろう「戦慄」みたいなものは今を生きるワレワレにはわかりようがない。ワタシが「クトゥルフの呼び声」が「わからない」というのも、つまりはそういうことなんだとワタシ自身の分析としては……。