月命日に合わせてお寺さんをお招きして、いわゆる「月忌法要」というものを執り行うのが世間的にはどれほど一般的なのかは知らないけれど、当地は「浄土真宗の金城湯池」と呼ばれている土地柄でもあり(加えて父は毎朝のお勤めを欠かさない実直な念仏者だった)、わが家では毎月6日は朝一でお寺さんをお招きしして2010年1月6日に満85歳で亡くなった父の「月忌法要」を執り行うのが習わしとなっている。で、いつの頃からか、この際、お寺さんから教区報なるものを頂くようになった。教区報とは聞きなれない言葉だと思うんだけれど、なんでも浄土真宗本願寺派では「全国を5連区、32教区・特区(31の教区と沖縄県宗務特別区)に分けて教務所を設置し、各教区は533の組(そ)に地域割りしている」(ウィキペディア)とかで、教区報とはそれぞれの教区が発行する広報誌ということになる。で、わが家に配布されているのは浄土真宗本願寺派富山教区が発行する教区報である『ともしび』。しかし、仏教系の広報誌でこの題号をねえ。印象としては、キリスト教系の広報誌の題号という感じなんだけれど……。ともあれ、そんな『ともしび』ではあるのだけれど、父と違って信心の定まらないワタシはこれまでは開いたことすらなかった。しかし、この2021年10月号は違った。もう一目見るなり、へえ、と。その好奇心の由って来たるユエンが表紙を飾る中山楓奈さんだったことは言うまでもない。彼女が銅メダル獲得以来、一体どれくらいのインタビューを受けたかは知らないけれど、その度ごとに彼女が醸し出すニル・アドミラリと言ってもいい雰囲気(要するに、笑わない、ということ。それは、つまり、「媚びない」ということでもあります)に惹きつけられているものとしては、これは、へえ、ですよ。しかも、仏教系の広報誌の表紙という、一見、場違いと思えるシチュエーションでの遭遇だというのに、え、どうして? とは思わない。一瞬の間こそあれ、そうか、彼女は龍谷高校だったな……と、納得してしまうというね(つまり、彼女のパーソナルデータはあらかたわが〝灰色の脳細胞〟にインプットされているということであります)。そんなワタシだから、普段は見向きもしない「教区報」なるものを手に取ってみたわけだけれど……思いもかけないことにこの浄土真宗本願寺派富山教区教区報『ともしび』2021年10月号はもう1つの理由でワタシの好奇心を鷲掴みにすることになった。
それは、冊子中程に掲載された連載コラム「真宗物語」。バックナンバーを確認したところ、本年4月号から始まった新連載の由。この10月号のお題は「嚴照寺の大杉」で、このお題に興味を惹かれたわけでもないのだけれど、ザッと目で文字を追ったところ、「南朝の後亀山天皇が」という文言が目に留った。曰く「時は南北朝動乱の末期、京都では南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した直後であった」。え? と思って、改めて初めから読み直したところ、砺波市福岡にある嚴照寺は浄土真宗第5世宗主にして井波別院瑞泉寺の開基として知られる綽如が開創した寺で、その綽如は生前、3度に渡って宗主の譲状を書いていること、3度めは明徳4年のことであり、それはちょうど「京都では南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した直後であった」――と、こういう文章の流れとなる。で、ここからがワタシの好奇心を鷲掴みにした記事の核心部分――
さて、綽如上人の最期については、嚴照寺とその門徒衆に伝承されてきた物語がある。現住職の西脇順祐師からお聞きしたことをかいつまんで紹介する。
綽如上人は、氷見市論田を経由して砺波の地に入られ、嶋村で迎えられ元福岡(現在は庄川河川)に庵を設け、担いでこられた阿弥陀三尊像を安置された。これが嚴照寺の発祥である。そして、瑞泉寺建立のために近国を勧進して回られた。瑞泉寺勧進状には明徳初暦(一三九〇年)とある。綽如上人には、このように浄土真宗の教線を拡大する目的のほかに、南北合体の後も続いた南朝側の不満分子を慰撫する目的もあったのではないかと伝承から西脇師は推測する。ために、綽如上人を京から派遣された北朝側の回し者だと曲解したこの地の南朝支持者に、井栗谷において惨殺され、遺体が谷内川に流された。それを御門徒衆がすくいあげ、現在嚴照寺本堂が建てられている字大谷(後に称するようになった)に埋葬した。そして、その埋葬場所に二本の杉を供華樹として植えた。それが三度目の譲状を書いた二日後のことであったとは…。
これは、えー、ですよ。綽如が越中の南朝支持者に惨殺されたというのもそうなんだけれど、それ以上に綽如の越中下向には「南北合体の後も続いた南朝側の不満分子を慰撫する目的もあったのではないか」というのがね。↑にも記したように、綽如というのは井波別院瑞泉寺の開基として知られている人物で、その瑞泉寺にはワタシも何度か行ったことがある。この寺こそはあの「百姓ノ持タル國」(ただし、この人口に膾炙したフレーズ、蓮如の10男とされる実悟という人物が書き遺したものの中に認められるものなのだけれど、正しくは「百姓ノ持タル國ノヤウ」。あくまでも比喩として言っているんだよね。決して加賀一国が「百姓」によって自主管理されたわけではない――、その冷厳なる事実を物語るのが末尾の「ノヤウ」の3文字……)と謳われることになる加賀一向一揆の発火点になった場所なんだよなあ……と、そんな感慨を持ってその偉容を眺めたことはあっても、よもやそれが「南北合体の後も続いた南朝側の不満分子を慰撫する目的」で建てられたなんて、もう本当に想像だにしなかったこと。いやー、オドロイタ。
しかし、これってどれほど信憑性のある話なんだろうか? 記事では「こうした伝承というものは、学問的には史実と認めることができなくても、内容が衝撃的な出来事の場合は十分史料的価値を有すると思うのである」――とコラム子(署名は「敏」)は締めくくっているのだけれど、ゴメン、どうして「内容が衝撃的な出来事の場合」は「十分史料的価値を有する」のか、その脈絡がいまいち理解できないんだけれど……。まあ、ただの伝承と斬って捨てるのではなく、こうしてコラムというかたちではあれ、紹介する価値はある――と、そういうことなのかな? いずれにしても、「学問的には史実と認めることができな」いと。実際、当の瑞泉寺HPの「瑞泉寺の歴史」でも↑に記されたようなことは一言も記されていない――
井波別院瑞泉寺は、明徳元年(1390年)、本願寺5代綽如上人によって開かれました。外国から送られてきた難解な国書を、綽如上人が解読し、天皇は大変喜び、一寺寄進を申し出られたと伝えられております。
綽如上人は、多数念仏信者の浄財による建立を希望され、天皇は勧進状を認(したた)める料紙を贈り、勅願所として当寺を建立することを許可されました。明徳元年(1390)越中へ帰った綽如上人は、直ちに「勧進状」(明治38年国宝に指定)を作り、広く加賀・能登・越中・越後・信濃・飛騨・6カ国の有縁の人々から浄財を募り、瑞泉寺が建立されました。この寺は、北陸の浄土真宗信仰の中心として多くの信者を集め、又越中の一向一揆の重要拠点ともなった寺院となっていきます。
15世紀末には、井波城と称しました。福光城主石黒氏を破るとともに、井波の町は寺内町として発展します。16世紀、佐々成政の軍勢に攻められ、焼き払われてしまいます。その後城端北野に移った後、再び井波へ戻り、現在の場所に再建されました。
現在の本堂は、明治18年(1885年)に再建されたもので、木造建築の寺院としては、日本でも有数の建物です。井波大工の棟梁松井角平恒広を中心に多くの大工、彫刻師が完成させました。太子堂は、大正7年(1918年)、井波建築、井波彫刻、井波塗師の優れた技を集めて再建されました。棟梁は松井角平恒信で、大工34人が建築にあたり、7年がかりの大工事でした。大門(山門)は、天明5年(1785年)、京都の大工によって建て始められましたが、京都本願寺の再建工事が始まったため、井波大工がその後を引き継ぎ完成したものです。
まあ、ワタシなんかの限られた知識を基準にするのもなんなんだけれど、ワタシが瑞泉寺の歴史として承知しているのも大体こんなところ。つまり、どこをどう突いても南朝の「な」の字も出てこない。ただ、『ともしび』の記事を踏まえた場合、「天皇は勧進状を認める料紙を贈り、勅願所として当寺を建立することを許可されました」――と、瑞泉寺が時の今上帝(なお、南北両朝の合一が図られたのは明徳3年なので、明徳元年の時点ではまだ南北両朝が並立していたことになる。ここで言う天皇も「北朝の天皇」ということであり、細かい話だと思われるでしょうが、南朝シンパとしては一言しておかないと。それと『ともしび』の記事に関連して言うならば、綽如の越中下向には「南北合体の後も続いた南朝側の不満分子を慰撫する目的もあったのではないか」というのは時系列から言ってもおかしいんだよね。綽如が越中に下向して杉谷に庵を結んだのは両朝合一が図られる8年前の至徳元年とされているので。この点については後ほど改めて検討しますが、一応、問題提起ということで)である後小松天皇の勅願寺として建てられたとしているのは、なかなか興味深い。というのも、越中が南朝の重要拠点の1つであったのは間違いのない事実で、後醍醐天皇の第4皇子(あるいは第8皇子。当地では「後醍醐天皇八ノ宮宗良親王」として知られる)である宗良親王が興国3年(1342年)から2年ばかり当地に駐駕(という言葉が『越中勤王史』なる書で使われている。意味は「貴人が乗物をとめること。転じて、貴人が滞在すること」。ちょっとワタシなんかの教養では出てこない言葉であります)しているし(ちなみに、その間、親王を物心両面でサポートしたのが木船城主の石黒重之で、後に瑞泉寺と戦うことになる福光城主・石黒光義とは同族。さらに言えば、その石黒光義が瑞泉寺との戦いに敗れて自害したとされるのがこの後に出てくる安居寺。この辺もいろいろ想像力を刺激されるところではある……)、また「錦の御旗という名の「負けフラグ」について〜令和3年夏に記す②〜」にも書いたように、当地には南朝第3代長慶天皇の御陵とされるものが複数存在する。ワタシがその所在を確認しているものだけでも南砺市安居、南砺市下梨、砺波市隠尾と3か所も。その内、南砺市安居にある御陵山は昭和初期、宮内省が設置した「臨時陵墓調査委員会」による現地調査の対象となった。御陵を管理する安居寺では長慶天皇は元中8年(1391年)3月18日に同地で崩御したと伝えており、今でも3月18日には法要が行われているという。で、この安居寺というのが瑞泉寺とは直線距離にして9キロくらいしか離れていない。安居寺に伝わる伝承(というか、寺に伝わる旧記にそう記されているのだという。ここは『彌勒山安居寺緣起』なる書より引くなら――「天授四年春御讓位の後諸國行脚遊ばされ當寺に玉趾を駐めさせ給ひしが俄に御不例にて明德二年辛未三月十八日崩御あらせらる因て御尊骸を此處に埋葬し奉りたりと寺の舊記に傳ふ」)が史実かどうかは別としても、そう伝えられていること自体、この地が南朝の拠点であったことを強く示唆していると言っていい。そんな場所に後小松天皇の勅願寺が建てられたのだ。それが宗教的にも(安居寺は真言宗の寺なので、その目と鼻の先に浄土真宗の寺院ができたというのは、当然のことながら、宗教的インパクトは大)政治的にも相当にインパクトのある出来事であったろうことは容易に想像できる。うーん、なんか、匂ってきたぞ……。
というわけで、調べてみたんだよね。すると、実に意外というか。ワタシは『ともしび』に記されているようなことはよほどの奇説だろうと思っていたのだけれど(それこそ、嚴照寺とその門徒衆の間だけに伝わっているような)、ところが最初に目を通した『綽如上人伝』(越中真宗史編纂会高岡事務所)で早くも有力な情報に遭遇したのだ。まず、綽如の越中下向の理由については諸説あるとして、その主なものを列挙した上で「更に近年越中五ケ山上梨の高桑敬親氏は同地方に傳はると云ふ口碑によつて俄然次の如き新說を出された」として――
南朝の遺臣が越前方面より五ケ山に入り籠り、下梨を本據として越中北朝勢の牽制につとめてゐて、事每に事を擧げんとした。故あつて後小松天皇は當時の碩學本願寺綽如上人に内意をふくめて五ケ山の南朝系を佛法力によつて鎭撫せんことを命ぜられた。綽如乃ち北國に下向して井波に本據を構へ、先づ五ケ山の眞言宗を改宗せしめつゝ上流に遡られたが、位置から云つても下梨を最も重視せられた。
なんと、綽如の越中下向は「五ケ山の南朝系を佛法力によつて鎭撫せん」という後小松天皇の「内意」を受けたものだというのだ。既に記したように、綽如が越中に下向して杉谷に庵を結んだのは至徳元年(1384年)とされているので、越中下向が「南北合体の後も続いた南朝側の不満分子を慰撫する」という目的だったとしたら時系列が合わないんだよね。でも、「事每に事を擧げん」とする五箇山の南朝系を「佛法力によつて鎭撫せん」とする目的だったとしたら、その点はクリアされる。それから、「南朝の遺臣が越前方面より五ケ山に入り籠り」という部分は、正直、ワタシは初耳なんだけれど、ただ長慶天皇の御陵とされるものは五箇山にもある。それが、南砺市下梨にある長慶天皇御陵。そして、↑の記事では「南朝の遺臣が越前方面より五ケ山に入り籠り、下梨を本據として越中北朝勢の牽制につとめてゐて」――と書いているのだ。これは……。
かくなる上は、この説の言い出しっぺとされる高桑敬親氏が説くところを読んでみるしかあるまい。調べたところ、高桑敬親氏は南砺市上梨(旧・平村上梨)にある浄土真宗大谷派の寺院・円浄寺の住職で教員でもあった人物という(注記:この点に関し、旧版では「校長も務めた」としておりましたが『越中五箇山平村史』下巻の「小・中学校の児童生徒数並びに沿革の概要」で高桑敬親が校長を務めたという事実は確認できませんでした。同書では高桑敬親の略歴として「大正十五年東中江小学校訓導をふり出しに、三十余年間小中学校に勤務」としており、やはり校長であったことは確認できません。これらを踏まえて旧版の記載内容を訂正します)。また五箇山民謡「こきりこ節」の保存に尽力した人物でもあるらしい(ソースはこちら)。しかし、待てよ……。中学1年の夏の林間学校は五箇山で、夜は地元の小学校の教室でごろ寝したのを覚えている。そして「こきりこ節」も教わった。教えてくれたのは年配の男性だったという記憶があるんだけれど、あれってもしかして……? ともあれ、『綽如上人伝』が言う「新說」とは『高志人』第3巻第1号に発表されたものだとかで、だったら県立図書館に所蔵があるはず……ということで、今日、県立図書館に出向いてコピーしてきたのが「五箇山の吉野朝史考(上)」。その「綽如上人と五ケ山」と題する一節を紹介するなら――
傳說であるか世の風評であるか、もう大分古い事でそれは確かと明言は出來ないが、何でも私等が子供の時分に五ケ山に昔吉野朝の遺臣が落ちて來てゐた事があるといふ話をきかされてゐる。其の傳說といふのは斯うである。何所から來たかそれは判らぬが兎も角吉野朝の遺臣が建武の中興に失敗して、此の五ケ山で何とかして頽勢を復起しやうと其の日を待つてゐたが、遂に後龜山天皇は、三種神器を北朝の後小松天皇に御渡しになつた。所が四面閉塞された此の五ケ山では、世の大勢はわからず、あれ程に頑張つた南朝が、何うして大した戰爭もなしにをめ/\三種の神器が北朝の手に渡るものであるのか、之を信ずる事が出來ず折もあらば事を擧げんとしたのである。時の天子後小松帝は非常に御心配になつて本願寺の綽如上人に内意を含め彼等が都の樣子を聞くにまかせて、それとなく此の確定せる皇位の繼承を認識させ、且つ彼等が企つ所の謀叛を宗敎の力によりて思ひ止まるやう敎化せしめられたもので、綽如上人の井波下向はそも/\の目的が其處にあつたのだとの事である。
成る程、綽如上人の北國巡錫の理由が、單に開山親鸞聖人の足跡を尋ねるとか、京都の兵亂を避けるといふだけの事では、余りに理由が薄弱すぎる。一體親鸞でも綽如(注:蓮如の誤りか? でないと意味が通じんような……)でも北國に夫だけの强固なる宗敎的地盤を得て門徒を培養したといふ事は、都に於て或は時の天子より若くは五山の僧徒より貶謫迫害を受けた爲、北國巡錫も餘儀なくさせられた事が原因するものである。然るに綽如に於ては事實丸で反對で都では歡待こそ受けては居れ、斯うした虐待は受けてゐない。且つ開山の足跡でもない井波に根據をかまへ、他に布敎の地方もあらうに、山間の五ケ山にのみ心血を注いで布敎し、遂に下梨で逝去してゐられる。(下梨での往生は確實であらう。瑞泉寺記錄には井波で往生のやうに書いてあるが、現在下梨道場と井波瑞泉寺とは本家と分家の關係になつてをり、上人の逝去後代々の瑞泉寺連枝の葬儀には、本家の下梨道場が香爐を持つ習慣になつてゐる)尙井波に赴かれる先に野尻に杖を留めてをられる事の理由も考ふべきである。
最後の「尙井波に赴かれる先に野尻に杖を留めてをられる事の理由も考ふべきである」というのがちょっと気になるんだけどね。というのも、(もう1つの)長慶天皇御陵がある安居寺の現在の住所は富山県南砺市安居なんだけれど、この場所、かつて(「臨時陵墓調査委員会」による現地調査がなされた当時)は富山県西礪波郡西野尻村と言ったのだ。そんな地に綽如は最初に「杖を留めた」……。綽如の越中下向は越中の南朝党に対する宣撫工作が目的だったとする高桑説は、この一事によっても裏付けられるような……?
ただ、その点は認めるとしてもだ、せっかくクリアされたはずの時系列の矛盾がねえ。ここは改めて事実関係を整理するなら、綽如が浄土真宗宗主の座を第2子の光太麿(巧如)に譲ることを認めた「譲状」(既に記したように、綽如は生涯に3度、「譲状」を書いている。これはその最初のもの)の日付は至徳元年(1384年)2月28日(『綽如上人伝』史料篇)。この後、綽如は北国へ旅立ったとされる。そして、井波の杉谷に庵を結んでいた彼が「外国から送られてきた難解な国書」(『賢心物語』によれば「大唐ノ國王」より「日本ノ内裏」に送られた「朝状」という。その中に「ヨマレサル文字三字アリ」)を解読した功により後小松天皇から一寺寄進の申し出を受け、北国6カ国で浄財を募ることになる、その趣意書であるところの「勧進状」の日付は明徳元年(1390年)8月□日(『綽如上人伝』史料篇)。一方、後亀山天皇から後小松天皇に三種の神器が引き渡され、延元元年/建武3年(1336年)以来の皇統の分立状態に終止符が打たれたのは明徳3年(1392年)閏10月5日(『大日本史料』7編1冊1頁)。つまり、綽如が最初に越中の土を踏んだと思われる至徳元年はもとより、瑞泉寺の建立に着手した明徳元年(なお、↑に引いた「瑞泉寺の歴史」もそうだし、ウィキペディアやコトバンクもそうなんだけれど、なぜか一様に瑞泉寺の創建年を明徳元年としている。しかし、明徳元年というのは瑞泉寺建立のための建設資金を募る「勧進状」に記された年紀。その明徳元年を瑞泉寺の創建年とするのは間違い。その点、瑞泉寺HPの「略年表」では明徳元年に「綽如上人、勧進状を認め瑞泉寺建立に着手」と、正確な事実関係が記されている。そして、実は、瑞泉寺の創建が何年かは「略年表」にも記されていないんだよね。瑞泉寺は、創建後、一度、無住となっており、記録が残っていないんだとか。このあたりも瑞泉寺の建立にはなにやら曰くがあると疑わせる理由ではある……)の時点でもまだ南朝は存続していたのだ。だから、「あれ程に頑張つた南朝が、何うして大した戰爭もなしにをめ/\三種の神器が北朝の手に渡るものであるのか、之を信ずる事が出來ず折もあらば事を擧げんとしたのである。時の天子後小松帝は非常に御心配になつて本願寺の綽如上人に内意を含め」云々というような状況はあるべくもないのだ。このあたり、事実関係の精査がいささか疎かだったと言わざるをえないなあ。ただ、至徳元年にしろ明徳元年にしろ、もうその頃には南朝の頽勢は誰の目にも明らか。そういうタイミングで南朝の有力拠点(さしずめ「南朝の金城湯池」?)である越中に宣撫工作の手を伸ばす――ということは、あるかもしれないよね。その場合、宗教が有力な手段となりうることは古今東西の歴史が証明している。綽如の越中下向はそのためのもの――という解釈は、十分、理に適っているのでは? ちなみに『綽如上人伝』では高梨説を「上人五ケ山布敎に關する口碑傳說に、瑞泉寺の後小松院敕願寺の事及び上人と將軍義滿公との關係(注:浄土真宗の宗祖・親鸞は日野家の出身であり、代々の宗主も日野家の猶子となっている。その日野家と足利家は姻戚関係にあった。従って、綽如と義満も姻戚――ということを言っているんだと思う、多分)より附會した想像說」としているのだけれど、一方で気になることも書いている。則ち――「尤も「拾塵記」に「被仰付事子細有多量」と云ひ、「祖師代々事」に「子細アリケリト云々」とある言葉は、考へ樣によつては右の事實を裏付けるかの如くに考へられぬでもなからうが」云々。調べたところ、『拾塵記』も『祖師代々事』も実悟の著作。蓮如の10男という身の上で、当然のことながら教団の内部事情には通じていたであろう〝消息筋〟が綽如の越中下向には何らかの「子細」があったと記しているわけだよ。もうほとんど「真相」を明かしているに等しいではないか!
しかし、こうなると、嚴照寺の住職・西脇順祐師が物語る「綽如上人を京から派遣された北朝側の回し者だと曲解したこの地の南朝支持者に、井栗谷において惨殺され、遺体が谷内川に流された」――という綽如の最期をめぐる伝承もあながち俗伝と退けることはできないのでは? 綽如の最期をめぐっては『綽如上人伝』でも「綽如上人御傳には不明の点が多いが、その尤なるものに上人御入滅の問題がある。從來判明せる分は、明德四年四月二十四日、四十四歲御入滅、の二点のみである」としていて、死因はおろか終焉の場所も特定されていないらしい(高梨敬親が「遂に下梨で逝去してゐられる」としているのも、あくまでも数ある説の1つというのが実態らしい)。しかし、亡くなったとされるのが南北両朝の合一の翌年であることはよくよく噛みしめる必要がある。綽如は明らかに北朝側の人だった。である以上、絶望に駆られた越中の南朝党の怨嗟を一身に浴びる立場にあったことは間違いない。状況はどうしようもなく危機的で、むしろその身が無事である方がおかしいくらい……と、こんなことを考えつつふと手元に目を落とすと、中山楓奈さんが表紙を飾る浄土真宗本願寺派富山教区教区報『ともしび』2021年10月号が。しかし、こうして見ると、実にいい写真。彼女のエキゾチックな顔立ちが背景の金仏壇とよくマッチしている。もともと彼女の顔立ちはインド人を思わせるところがあって(太い眉に輪郭のクッキリとした二重まぶた。額の真ん中で分けた黒髪は、この写真ではわからないけれど、腰の辺りまで伸びている)、そういえばスジャーターって彼女くらいの年齢の少女じゃなかった? と、そんなことさえ考えてしまうくらいなんだけれど、そんな印象は金仏壇をバックにするといよいよ強くなる。FUNAというサインだって、えーと、サンスクリット語? とかね。仏教系の広報誌の表紙を飾るには誠にふさわしい。もっとも、そんな彼女の真っすぐなまなざしに魅せられて同書を手に取ったものの中にこんな〝結論〟へと思考を遊ばせてしまうものがいるとは「御同朋の社会をめざす運動(実践運動)富山教区委員会」(同書の編集主体)のメンバーとしては想像だにしなかったことだろうけれど……。