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朝松健を読む①

 困ったなあ。こっちは「下人」のつもりで記事を1本書いちゃってるんだけど……。

 畠山重忠がいささかかすれ気味の声で言ったことを書き出すとこうなる――「先頃、館に盗みに入ったところを捕えたのですが、顔に見覚えがあり、確か伊東の祐親殿の雑色かと。主人が恩赦なら下人も許すようにとお指図があったのですが、果たして逃していいものかと」。噂の(?)善児の属性をめぐって「雑色」と「下人」という2つの単語が用いられているんだけれど、これって矛盾なく成立するものなの? つーか、そもそも「雑色」というのがよくわからない。「コトバンク」を見るといろいろ書かれてはいるんだけれど、逆にそれでわからなくなるというか。ただ、どうやら時代によって意味するところが微妙に違うらしい。で、『精選版 日本国語大辞典』には「④ 平安時代以後、公家・武家の家の従者。雑役をつとめる」とあるので、善児の場合はこれに当たるんだろう。ただ畠山重忠は「下人」とも言っているわけで、では『精選版 日本国語大辞典』は「下人」についてはどう書いているかというと「④ 平安時代以後の隷属民。荘園の地頭や荘官、名主や地主などに隷属して、家事、農業、軍事など主家の雑役につかわれ、財産として土地といっしょに、あるいは別々に売買質入や譲渡の対象となった。雑人。奉公人」。こちらでは「隷属民」とハッキリと。となると、同じように雑役に従事する境遇にしても「雑色」と「下人」には厳然たる違いがあるような? そうなるとねえ……。どうやら善児は梶原景時に仕えることになりそうなんだけれど、ということは善児は侍所の下級官吏となるわけだ。いくら下級とはいえ「下人」が官吏になるなんてことはありえんので――時代考証チームから進言でもありましたかねえ、善児の身分は「雑色」にしましょうと……?

 ということで、本題。朝松健の「東山殿御庭」(なお、「東山殿御庭」は井上雅彦監修のホラーアンソロジー「異形コレクション」第29巻『黒い遊園地』のために書き下ろされた短編小説ですが、2006年、他の一休もの4編とともに『東山殿御庭』として単行本化。本稿では区別する意味で短編小説の方を「東山殿御庭」、短編集の方を『東山殿御庭』と表記します。ライターの経験がある人ならこんなの常識でしょうが、意外と知らない人がいるようなので。つーかね、本作は第58回日本推理作家協会賞短篇部門の候補作になっているんだけれど、日本推理作家協会のHPでは候補作を紹介するに当たってすべて二重カギ括弧で括ってるんだ。これだと短編小説の方なのか短編集の方なのかわからないじゃないか。こんなシロウトがやるようなことを……)を読んだところ、なんと善阿弥が登場。そう、「善児について」でワタシが「善児」という名前はこの人物に由来するのではないか? とした、あの善阿弥。ここでは「山水河原者」として東山殿こと東山山荘の作庭の指揮を執っているという設定。で、その身分については――「彼らは長らく支配層より「下賤の者」と蔑まれてきたため、河原者などと呼ばれてきたが、先の公方が山水河原者の一人を同朋衆に取り立てて、善阿弥なる名を与えてからというもの、徐々に作庭現場での発言力が増しつつあった」。えーとね、「「下賤の者」と蔑まれてきたため、河原者などと呼ばれてきた」というのがちょっと。ワタシなら「彼らは長らく支配層より「下賤の者」「河原者」と蔑まれてきたが」とでもしたかな? それと、なぜそういう身分のものが前将軍の別邸の作庭に関っているのか、その説明も十分とは言えない。ただ、実はこの善阿弥とは初代ではなく、二代目なんだよね。初代は5年前に亡くなっており、今はその息子と思われる小四郎なる人物が二代目善阿弥を名乗っているという設定。で、そういうこともあってか、割り振られた役柄も大したものではない。出てきた時は、おっ、と思ったんだけどねえ。二代目では朝松健としてもさほど想像力を刺激されることはなかったか? ただ、一休と初代善阿弥は生きた時代がほぼ重なるので「ぬばたま一休」シリーズには初代が登場する作品もあるかも知れない。ここは、それに期待、ということにしておこうかな。要するに、善阿弥についての説明不足や役不足は、この際、大した瑕疵とはならないと。つーか、そんなのはワタシが目を瞑れば済むことなので。それよりも、これは見事ですよ、1編の怪奇ミステリーとしてね。しかもだ、本編は「異形コレクション」第29巻『黒い遊園地』のために書き下ろされた作品なんだけれど、「異形コレクション」というのはある1つのテーマ(お題)の下に編まれたテーマ・アンソロジーで、第29巻のお題は「遊園地」。そういうお題を与えられて、これを出してくるかよと。だって、室町だよ。一休だよ。一体どーゆーことだよと。しかし、最後の1行に至って、読者が、ああ、と膝を打つというね。ホント、『黒い遊園地』で本作を読んだ人は唸ったと思うな、最後の1行でね。いやー、お見事(なお、本作をお読みになっていない方は、こんな漠とした説明じゃストレスがたまるばかりでしょうが、その場合はウィキペディアにこの小説についての記事があるので、次善の策としてその「あらすじ」を読むというのもアリかなと(最善の策は言うまでもなく「東山殿御庭」を読むことであります)。で、実は――ということで明かすならば、つい最近まで「スタブ」という扱いだったこの記事を一晩かけて今あるような内容に強化したのは、何を隠そう、このワタシであります。それほどこの作品にはパッションを刺激されるものがあったということだね。ただ、ここで少しばかり「中の人」の思いも述べさせてもらうならば、ワタシは一晩かけて記事の強化に相努めたわけだけれど、なんでそんなに時間がかかったのか? それこそは「あらすじ」であります。ウィキペディアの映画や小説の記事には大体「あらすじ」が記されておりますが、その内容が不十分だと容赦なく「スタブ」というテンプレートを貼り付けられることになる。ワタシなんかは、そう思うんならオマエが書けよ……と思うんだけどねえ。しかし、とにもかくにもそれがウィキペディアの習わしとなっていて、このテンプレートが貼り付けられるや当該の節にはこう表示されることになる――「この節にあるあらすじは作品内容に比して不十分です。あらすじの書き方を参考にして、物語全体の流れが理解できるように(ネタバレも含めて)、著作権を侵害しないようご自身の言葉で加筆を行なってください」。でも、ねえ、「東山殿御庭」ってミステリーなんだから。あるいは、ミステリー仕立ての怪奇小説。そんな小説の「あらすじ」を「ネタバレも含めて」って、それが適切なの? 結局、いろいろ考えて、いちばん肝心の部分はぼかすかたちとしたのだけれど、もしかしたらこの小説の場合、本当に大事なのは最後の1行なのかもしれない。この最後の1行があるからこそ、これが『黒い遊園地』とタイトルを付されたアンソロジーに収録される必然性が生じるわけで、逆に言えばその部分を最後まで隠している、そして最後の最後にそれが明かされて、読者が、ああ、と膝を打つというね、そういうカタルシスが得られる、その部分を書いちゃっていいものかと。で、「それから5日ほどして」以降はなしにすることも考えたんだけれど、でも「概略」でもう書いちゃってるので。「ブランコの古名である「鞦韆」が怪異の謎を解く鍵として使われており」と。だから、「ネタバレも含めて」と注文をつけられていることでもあるし、最終的に、これはよしとしようと。でも、今でもこれでよかったのか? という思いはある……と、もし次善の策で「あらすじ」をお読みになろうとされる場合は、あの1,174字ばかりにはそういう「中の人」のハンモンが隠されていることも心の隅に留めながら読んでいただければ……)。

東山殿御庭

 さて、ここからは、そんな「東山殿御庭」がなぜ日本推理作家協会賞受賞に至らなかったのか? をめぐって――つーか、そういう結果に終わったことに対する1人の本読みからの異議申し立てとでもいうか……。既に記したように本作は第58回日本推理作家協会賞短篇部門候補作であり、『東山殿御庭』の帯ではわざわざ「第58回日本推理作家協会賞短篇部門選考委員」と肩書きを付した上で「宮部みゆき氏絶賛!」と大書。さらに2019年に行われたインタビューではインタビュアー(朝宮運河)がこの作品に話を振るに当たって「「東山殿御庭」は、普請中の銀閣寺を舞台にした怪談。第58回日本推理作家協会賞(短編部門)の候補にも選ばれています」。これを受け、当の朝松健も「評価されると思っていなかったんですが、一休ものの代表作ということになるでしょうね」。日本推理作家協会賞短篇部門の候補となったことがこんなにも喧伝されるというのもなかなか珍しいんじゃないかと思うんだけれど、いずれにしても当人も「一休ものの代表作ということになるでしょうね」と述べるくらいの自信作ということにはなるのだろう。ただ、にもかかわらず本作は日本推理作家協会賞受賞には至らなかった。これがどうにもガテンが行かない。ワタシが選考委員なら躊躇なく推すけどなあ。で、一体、選考委員のセンセイ方はどこが気に食わなかったんだろう? と思って選評を読んでみたんだけれど、桐野夏生は――「謎解きの言葉「しう」にやや苦しさを感じた。「お題」があっての作品と聞いて、巧さに脱帽はするが」。また藤田宜永は――「実力派の作家の作品だけに、文章も物語の運びも安定感がある。謎の提出の仕方に疑問を持ったが、これはお題をもらっての作品、と選考会場で聞き、そういう無理があったのか、と同情的な気分になった」。どちらもお題の件に触れている。しかも、お題が先にありきの作品であることがマイナスに作用としている、というのがご両所のご意見らしい。わからんなあ。むしろ「遊園地」というお題でこれを出してきたところがスゴイんじゃないの? いくら実力派のご両所のご意見であるとは申せ、これはねえ……。

 ワタシはね、「東山殿御庭」をミステリーとして読んだ場合の瑕疵ということで言うならば、こういう論点はあり得ると思う――一休は、東山殿御庭の絵図面に走り書きされた「しう」という二文字がやはり義政が普請した新花の御所の絵図面と高倉御所の絵図面を手がかりにそれが「しうせん」を意味することを突き止めるわけだけれど、この際、森侍者は「なるほど、〝しうせん〟を設けたのでございましたか」と得心するものの、政長はそんな言葉を耳にするのは、生れて初めてだという。これには一休は「やれやれ、応仁の乱の十年は都を焼尽いたしたのみならず、子供から〝しうせん〟の思い出まで取り上げた訳じゃ」と嘆息することしきり――と、そんな応酬があって、さて「しうせん」とは一体何を意味するのか? ということが、東山殿御庭に現われる妖かしの正体とともに物語を牽引する謎とされているわけだけれど、その発言が一休の嘆息を誘うことになる畠山政長は嘉吉2年(1442年)生まれなんだよね。ということは、応仁・文明の乱が勃発した応仁元年(1467年)当時(なお、いわゆる「応仁の乱」なるものは畠山家の家督相続をめぐって引き起こされた「御霊合戦」が将軍家をも巻き込む大乱戦に発展したもので、その「御霊合戦」が勃発したのはまだ元号が応仁と改元される前の文正2年1月18日なのだから、ここは厳密を期すならば「文正2年当時」とすべきでしょう。ただ、あまりこんなことをくどくどと言い立てるのもねえ……)、既に25歳。だから、一休が「やれやれ、応仁の乱の十年は都を焼尽いたしたのみならず、子供から〝しうせん〟の思い出まで取り上げた訳じゃ」と嘆息してみせた、その「子供」には当たらないんだ。そうすると、政長が「禅師、一体その……。〝しうせん〟とは何のことでございますか」などとお伺いを立てるというのは、恐ろしくリアリティに欠ける、ということになって、日本推理作家協会賞の選考委員のセンセイ方がこの点を論って「東山殿御庭」にダメ出しするのならば、それはアリとは言えるでしょう。実際、この点では朝松健はミスを犯している、とは言えるんだ。ただ、それは決して致命的ではない、というのがワタシの評価。というのも、室町時代というのは文正2年(1467年)から文明9年(1477年)までの10年間のみが戦乱の世だったわけではないのだから。それ以前からずーっとそうだった。その起点を求めるなら、多分、足利義教が第6代将軍となった正長2年(1429年)ということにはなるでしょう。で、ご存知の方はご存知だと思うのだけれど、この足利義教というのが強烈な人物で。朝松健は先に紹介したインタビューで「室町幕府の6代将軍に足利義教という人物がいます。「万人恐怖」と評されるほど強権政治を敷いた将軍で、刃向かう人間は公家だろうが武家だろうが、容赦なく死罪。延暦寺も攻め滅ぼしていて、山田風太郎先生は義教こそ織田信長のプロトタイプだと書かれています」と述べておりますが、ここに出てくる「万人恐怖」というのは伏見宮貞成親王の日記『看聞御記』の永享6年2月8日の条に出てくるフレーズで――「而煎物商人於路頭此事申間召捕、忽被勿首云々、万人恐怖莫言々々」。実際、その治世は「恐怖政治」を地で行くもので、中山定親の日記『薩戒記』の永享6年6月12日の条には「抑左相府殿政務之後、遭事之輩已及数多」として義教に粛清された人々の一覧が掲げられているのだけれど、その数は公卿59名、神官3名、僧侶11名、女房7名に及ぶ。この最後の女房7名に義教という人物の嗜虐性がとりわけ強く感じられる……。

 一方、この間、畠山家はどういう状況にあったかといえば、足利義教が将軍となった正長2年。この時の畠山家の当主は満家という人物で、第5代将軍義持の後継を決める際、義持の4人の弟の中から籤引きで選ぶと決めたのが満家とされる。その事情を詳しく承知しているわけではありませんが、まあ、平家の都落ちに伴う新主践祚に当たって後白河法皇が卜占をもとに安徳天皇の異母弟・四ノ宮を新帝(後鳥羽天皇)としたという前例もあるわけだし。そう考えるならば、この時の満家は当時の後白河法皇なみの実力者だったということになるのかな? 当然、義教としてもあのオヤジ(?)にだけは頭が上がらない、そういう存在だったに違いない。しかし、永享5年(1433年)、満家は62歳で死去。すると義教の畠山家に対する姿勢は一転して強圧的になった。畠山家の家督は長男の持国が順当に相続したものの、嘉吉元年(1441年)、持国が結城合戦への出陣を拒んだことを理由に強制的に隠居に追い込み、家督は弟の持永が相続することになった。ま、彼我の力関係がどういうものであるかを見せつけたわけですね。で、そのまま義教の治世が続いていれば、あるいは畠山家が家督をめぐって兄弟同族が相食むという事態となることはなかったのかもしれない。しかし、その年の6月、義教は結城合戦の祝勝会名目で開かれた宴席で首を刎ねられるという一大事が出来(嘉吉の乱)。なんでも義教の首を刎ねたのは赤松家家臣の安積行秀という人物らしい。また、このクーデターの仕掛け人で最終的には自害することとなった赤松家当主・満祐の介錯を仰せつかったのも安積行秀だったとかで……誰か書いてやれよ、このアッパレなるモノノフの記事を……。で、この事態を好機と捉えたんだろう、持国は隠棲していた近江で兵を挙げ、京都に進軍の構え。それに対し持永は戦わずして越中へ逃れたものの(畠山家は永らく越中守護を務めており、その治世は160年にも及ぶ。越中は「大己貴命ノ作リ玉フ国」にして「畠山氏ノ治メ玉フ国」だった――ということかな?)、兄が差し向けた追手に討たれたともさらに逃れて播磨国で亡くなったともされている。ここは万里小路時房の日記『建内記』の嘉吉元年8月14日の条として記すところを引くならば――「又聞越中國畠山左馬助事。兄尾張入道向打手之處合戦寄手多以被打云々。是兄弟私之論也」。要するに万里小路時房としてはこれは全くの兄弟間の諍いであると。ただ、その原因を作ったのは間違いなく第6代将軍足利義教なんだけどねえ……。さて、明くる嘉吉2年(1442年)、義教の後継として長庶子・義勝がわずか9歳で第7代将軍に就任すると持国は細川持之に代って管領に就任。嘉吉3年(1443年)、その義勝が謎の死(と、ここはあえて太字表示としておきます。一休曰く「七月二十一日は、先代義勝公――義政公の兄君の四十三年目の祥月命日じゃ。……二十一日より三日間、改元の儀のために内裏に泊りがけとなる義政公が、心行くまで〝しうせん〟を楽しまれるのは、今夜しかござるまい」……)を遂げ後継として弟の義政がこちらもわずか8歳で第8代将軍に就任すると、管領たる持国の立場は強くなりこそすれ弱くなることはなく、ここに畠山家の権力基盤はいよいよ盤石なものに……と思いきや、文安5年(1448年)になって持国が庶子の義夏(のちの義就)を後継とするとにわかに家中がざわつきだした。というのも、従来、持国は弟の持富を後継にすると公言していたので。このにわかな心変わりと言ってもいい決定に当の持富は納得していたとされるものの、宝徳4年(1452年)、持富が亡くなると一部の家臣団が持富の子・政久の擁立を画策。これは事前に露見して政久派は家中を追われる破目に。しかし、ほどなく細川勝元のバックアップを得て反撃、逆に持国を隠居に追い込み、義就も伊賀国に落ち延びた。もうね、攻守が目まぐるしく入れ替わるルーズベルト・ゲームさながらですよ。で、まさにルーズベルト・ゲームよろしくまたも攻守が入れ替わって、享徳4年(1455年)には今度は義就が義政の支持を得て上洛、入れ替わるように政久は流浪の身となり、長禄3年(1459年)、失意の内に死去。しかも、政久には嗣子がなかった。これでさすがのルーズベルト・ゲームもゲームオーバー……かと思いきや、そうはならず。遊佐長直、神保長誠ら家臣団は政久の弟の政長を擁立して義就と対峙。そして、文正2年1月19日、遂に両派は上御霊神社で激突――と、ざっとなぞるだけでもこんな感じで、とにかくずーっとお家騒動を繰り広げていたわけですよ。そんな中、畠山政長は嘉吉2年に生れているわけだけれど、とてもじゃないけれど子供らしく「鞦韆」に興じる、なんて家庭環境にはなかったでしょう。畢竟、「しうせん」と聞いても「禅師、一体その……。〝しうせん〟とは何のことでございますか」ということにもなるはず。あるいは、ここは言い方を変えるならば、この政長の台詞がリアリティを持ち得るのは、その背景に正長2年、足利義教が将軍職に就いて以来の人倫も糞もあったもんじゃない、ただひたすらケモノたちがサバイバル・ゲームを繰り広げてきたような約50年間があったればこそ。だから、朝松健は一休にこう言わせるべきだったんだね――「やれやれ、正長2年、義教公が将軍におなりになってからの50年ばかり、世に戦乱は絶えず、遂には都を焼尽いたしたのみならず、子供から〝しうせん〟の思い出まで取り上げた訳じゃ」。ただ、一休にそう言わせるためには正長2年以来の世の有り様についてもある程度、説明が尽くされている必要があるわけだけれど、そこは、まあ、ページ数の兼ね合いもあったのかなあ、十分になされているとは言いがたい。で、おそらくはやむをえなくという感じで「やれやれ、応仁の乱の十年は都を焼尽いたしたのみならず、子供から〝しうせん〟の思い出まで取り上げた訳じゃ」――と言わせているのだろうと思うんだけれど、それだと政長が「しうせん」という言葉を知らない理由としては不十分なんだよね。だから、朝松健がここでミスを犯した、というのは否定すべくもない。でも……わかるんだよなあ、多少なりとも室町時代を知っているものからすれば。確かに「室町」という時代は子供たちから遊びの思い出も何もすべて奪い去ってしまっただろうなあ、と。だから、ミスを犯したけれど、それは決して致命的ではない――と、そう言っているわけだけれど――ただ、ミスはミスなのだから。選考委員のセンセイ方がこの点を問題視して「東山殿御庭」を選外としたというのならわからないでもない。でも、選評を読んだ限りではそういうことでもないらしい。藤田宜永なんて「謎の提出の仕方に疑問を持った」としているんだけれど、謎の提出の仕方? 何のことを言っているんだか……。朝松健という人が既に一家を成した作家だからいいようなものの、もしこれが新人賞の選考で、こんなわけのわからない理由で落されたとしたら新人はたまったものではありませんよ……。

 えーと、ちょっと自分が今どこにいるのかわからなくなっているんだけど。一体オレは何を書くつもりでいたんだっけ? 確か、正長2年以来の世の有り様について書いた上で……ま、いいや。ここは、えいやっ、とぶった切って一気に結論に持って行くなら――いずれにしても正長2年以来の世の有り様を踏まえるならば、畠山政長が「しうせん」と聞いてそれが何を意味しているかわからないというのは十分に説得力のある設定。そして、ここが重要なのだけれど、現在、ワレワレは「しうせん」と聞いてもそれが何を意味するのかがわからない――『季語辞典』なんてものを常時携行しているような限られた人を除けば(なんでも「鞦韆」は春の季語なんだそうで。「鞦韆に抱き乗せて沓に接吻す」は高浜虚子44歳の時の作になるらしい。確かに「中年の脂」が乗っている……)。つまり、ワレワレは畠山政長の立場に身を置きうるのだ。ここに「東山殿御庭」が極上の怪奇ミステリーとして成立する条件が、ある……。