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13人もいない。
〜ワタシはこうして守邦親王にハマった〜

 守邦親王――。

 つい数日前までは、その名前すら知らなかった。しかし、承久の乱についてつらつら考えていたら、あれよあれよという感じでこの人物の存在に行き当たり、今やある種のエンパシーさえ覚えはじめているという……。そんなちょっと不思議な思考の逍遥について少しばかり――。

 始まりは、承久の乱の原因についていささか疑問を持ったことだった。これについては『承久記』でも「承久ノ亂ノ原因」(慈光寺本)としてそれなりに説明がなされていて、要約するならば、後鳥羽上皇が寵姫・亀菊に摂津国長江庄300余町を与えたものの、幕府により任命された地頭がこれに従わず、ならばと院宣を以て同庄を亀菊に寄進するよう命じたものの北条義時がこれに従わなかった――と、まあ、そんなようなことがね。古活字本だとこれにさらに後鳥羽上皇に近い仁科盛遠(西面武士)への処分問題が絡むわけだけれど、ただいずれの問題も本当の原因だとは思えない(もしそれが本当の理由だとしたら、あまりにも後鳥羽上皇が理不尽)。で、ウィキペディアとかを読んでいろいろ研究したところ、どうも本当の原因は宮将軍問題じゃないのかという感触を持った。宮将軍問題とは、鎌倉方が第3代将軍・源実朝の後継として上皇の皇子を望み、その実現ために一千騎の兵を上洛させて、言うならば力の誇示に訴えたという、そういう問題。こうした経緯については、1950年代に初めて承久の乱に関する体系的研究を提示した(というのは、現・富山大学講師で『鎌倉殿の13人』の時代考証チームの一員でもある長村祥知が『中世公武関係と承久の乱』で書いていることの完全なる借用であります。ワタシごときに承久の乱の研究史を論評できる道理がありません……)上横手雅敬が1958年に上梓した『北条泰時』(吉川弘文館)で実にきっぱりとした文体でこう記している――

 実朝の死は、直ちに院に報告された。これよりさき実朝の存命中から、義時は政子を京都に派遣し、実朝の後継者について院の当局と相談させ、皇族将軍の東下を密約していた。実朝に嗣子がなかったためである。しかし実朝が死ぬと、院は幕府の自壊を期待し、後継将軍の件は有耶無耶にしたまま、実朝弔問の使と同時に、摂津の国長江・倉橋両荘の地頭改補を幕府に命じた。同荘の領家は、院の寵愛する女房亀菊であったが、地頭が亀菊の命に従わなかったという理由によるのである。しかし幕府の立場としては、勲功の賞によって与えられた地頭を罪科なく改易することはできないのであり、義時の弟時房は、一千騎の随兵を率いて上洛し、院に対して拒否の回答を伝えた。さらに皇族将軍の推戴案を撤回し、頼朝の妹の外孫に当る左大臣九条道家の子三寅を将軍に迎えることとした。三寅は僅か二歳であった。そしてこの間の交渉は幕府と院との関係を極めて険悪なものとした。

 うん、これはわかりやすい。ただ、いささかわかりやす過ぎるという気がしないでもない。つーか、今、ウィキペディアでこんな記事を書いたら、どんな目に遭うものか。やれ「要出典」だの「独自研究」だの。特に「しかし実朝が死ぬと、院は幕府の自壊を期待し」という下りはねえ。到底、無傷ではいられないでしょう。でも、当時はこれで通っていた。そういえば、瀧川政次郎の『日本歴史解禁』もそういうところがあるよなあ。なにしろ、「公現親王は、奥羽越同盟に推されて天位に即かれた」とする根拠が「尾佐竹博士のことであるから、必ずや確乎たる証拠によつてその事を云はれたものと思ふ」っていうんだから……。えーと、問題はそういうことではなくて――実朝の存命中から義時が北条政子を派遣し、後継について院の当局と相談させていたというのは『愚管抄』にも記されている(巻6「順徳」の条に曰く「ソノ同二月廿一日ニ。実朝母ハ熊野ヘ参ラントテ京ニ上リタリケルニ。卿二位タビ/\ユキテヤウ/\ニ云ツヽ」云々)。ただ、『愚管抄』に記されているのは、院の当局(卿二位こと藤原兼子)が自分の養い子である頼仁親王を実朝の後継将軍に推薦した(「サラズハ将軍ニマレナド思ニヤ」云々)という話であって、上横手雅敬が言う「密約」と言えるようなものだったのかどうか? また、イマイチよくわからんのは、実朝暗殺事件の有力な絵解きとして五味文彦が提唱した説があるわけですよ。要約すると、従来考えられていたように実朝は北条氏の傀儡ではなく、むしろ将軍親裁を進めつつあり、朝廷との連携まで打ち出していた。それに危機感を抱いた義時や義村らが公暁を利用して実朝を亡きものにした――というね。で、ワタシもこれで実朝暗殺事件の謎は概ね(あくまでも「概ね」です。詳しくは「実朝暗殺考」をお読みあれ)解けるのではないかと思っているのだけれど、仮にこの絵解きが正解だとした場合、なんで義時は後鳥羽の皇子を後継将軍として貰い受けようとしたのか? それは、実朝を暗殺した目的に反するのでは? それとも、実朝の後継は朝廷から貰い受ける、というのは既定路線で、もし実朝がその後見人となったらその権威は御家人らが太刀打ちできるものではなくなる。だから、実朝を屠った上で、既定方針通り新将軍は朝廷から貰い受け、その後見人には義時が就いて将軍を傀儡化する――、そういうこと? うーん、そういうことならわからんでもないんだけれど……。まあ、とりあえず、ここは、承久の乱の真の原因は宮将軍問題――つーか、それをめぐって義時が弟の時房に一千騎の随兵を率いて上洛させたことにある、ということで。それは力を以て朝廷を従わせようとしたに等しく、その結果、どういう落とし所に納まるにせよ、遺恨は残る――従わせようとされた側にはね。そりゃあねえ、こんなことを許していたら朝廷の権威などあってなきがごときもの――と、後鳥羽ならずとも思うでしょう。ただ、そうは思っても逆に力を以てつぶしにかかるというのは、これは後鳥羽なればこそ、だろうなあ。その後鳥羽上皇を演じるのが、尾上松也? どうもピンと来んなあ……。いずれにしても、承久の乱は、宮将軍問題を真の原因として引き起こされた――と、これが、まあ、ワタシの言う「ちょっと不思議な思考の逍遥」の第一歩。

 で、この宮将軍問題――というか、宮将軍構想は、5代執権・北条時頼の時代に実現することとなる。それが、第6代将軍・宗尊親王。後嵯峨天皇の第1皇子というから、身分はすこぶる高い。それでよく関東に下向させるという決断に至ったものだと思うのだけれど、ウィキペディアによれば「母方の身分が低いために皇位継承の望みは絶望的であり、後嵯峨天皇は親王の将来を危惧していた」。まあ、そういう背景があるにしたって、結局は承久の乱ですよ。承久の乱で負けた、その結果がすべてであると……。ともあれ、建長4年(1252年)、鎌倉方にとっては待望の宮将軍が誕生した、ということになる。鎌倉幕府の将軍・執権・連署のプロフィールを網羅した『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(吉川弘文館)でもこの宗尊親王について記すに当って「幕府は待望の皇族出身の将軍を鎌倉に迎えたのである」。で、この辺りからワタシの思考はちょっと不思議な足取りをたどりはじめることになる。まず、紆余曲折を経て実現したこの宮将軍制度(?)が江戸幕府でも取り沙汰されたことがあるというのだ。これはウィキペディアの「宮将軍」に記されている事実で、曰く「江戸時代の延宝8年(1680年)に江戸幕府4代将軍徳川家綱が嗣子なくして死去した後、大老酒井忠清が次の将軍に有栖川宮家より幸仁親王を迎えるよう提案し、堀田正俊らの反対に遇い、実現しなかったとする宮将軍擁立説がある。これは『徳川実紀』にも書かれている」。へえ、と思って、『徳川実紀』を確認したところ、確かに徳川綱吉の記録である「常憲院殿御実紀」にこう記されているのを発見――

世に傳ふる所は。此時大老酒井雅樂頭忠淸は。むかし鐮倉殿の御後絕しとき。京に申て攝家の中の子一人請進らせて幕府の御後をつがしめ。其後は又親王の中を申下して。武家の主と仰ぎたる先蹤にならひ。有栖川殿をや申おろし御代つぎとせんと申ける。時の元老の申こと故各これに雷同せし中に。堀田備中守正俊一人正議をとりて。正しき御血脈の公達をすてゝ。いかに他より御後を立る理あらんと詞をはげしく申けるにぞ。人みなこれに服しける。かくて備中守正俊のみ御前で出て此事聞えあげ。雅樂頭忠淸。稻葉美濃守正則などいふ諸老臣は。皆退朝せしめて後。正俊一人が奉書をもて急にまうのぼり給へとありけり。此時供奉する家司めす間もなければ。曾我周防守祐興ばかり御供せり。大手の御門にて牧野備後守成貞は追付しが。はや夜中なり。急なる召何事ぞと成貞心ち安からず。黑木書院まで御側はなれず參りければ。備中守正俊出て御前に導き奉る。備後守成貞猶もをしすゝみければ。正俊ひそかに成貞が袖をひかへ。御吉事ぞ。吾此詞たがはんには神明の在あり。今は御前近し。退くべしと申けるにぞ。成貞も安心せりといふ。此等の事はもとよりあらはに記し置るべきにもあらねば。公の記錄などに書のせしものなし。されど此後忠淸正俊が榮枯得喪のさまをもて考ふるに。世の傳ふる所のごとくなるべきも𛁈らず。よて𛁈ばらくその說をこゝに附しぬ。そも/\忠淸が親王家一人申下して虛位を授け。をのれ權を專にせん事。北條義時がごとくせむと。はからひしものなりといへり。𛁈かれども當時三家はじめ。諸老臣有智の輩なきにもあるべからず。忠淸ほどのものならずとも。かゝる淺露の計ひする樣あるべからず。こはその頃後宮の中に妊娠の女房あるよし聞えければ。もし男子ならば正しく正統をもて世つぎにせんものなり。もし御連枝の方々もて御代つぎとせば。其時彼を廢しこれを立る事なしがたし。京より申請たる所ならんには。廢立せん事いとやすければ。かの妊娠出產までの閒は。京家の公達もて。御代つぎとせむとはからひしなりといへり。されど今をもて見る時は。忠淸が此擧いかにも上策とは申がたかるべし。

 「世に傳ふる所」ってんだから、確かな話ではないわけですよね。とはいえ、江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』にこうして書き留めた(↑の下りは、一応、丸括弧で括られており、補足情報という扱いとなっている)からには、そうするに値するだけの情報であるというのが編纂者サイドの判断ではあるんだろう。それにしても、おもしろいのは、ここで北条義時の名前が出てくることだよなあ。ワレワレは今、小栗旬という俳優を媒介としてこの歴史上の人物と相対しているわけだけれど、あの小四郎がこうして江戸幕府の公式記録に希代の奸物然として記録されるような人物に変貌を遂げることになるとは――今のところはまだ想像できないなあ……。ともあれ、こうして鎌倉幕府において建長4年(1252年)から幕府が潰える元弘3年(1333年)まで維持された宮将軍制度は江戸幕府でも実現寸前(?)まで行ったことがあるわけだけれど、ただこの制度を試みに「関東の武家政権が京都の朝廷に宮を人質として差し出させた」制度と解釈した場合、そうした制度は江戸幕府でも実施されていた。それが親王を門主として戴く輪王寺門跡の創設。初代輪王寺門跡は後水尾天皇の第6皇子である守澄法親王。関東に下向して東叡山寛永寺に入ったのは正保4年(1647年)のことだった。以来、幕府が潰える慶応4年(1868年)まで営々としてこの制度は維持されることになる。もっとも、この制度は一朝事あった時に徳川方が「朝敵」とならないようにするための予防措置だったというのが通説(つーか、そういう解釈は俗説だというのが通説)なんだけどね、でも実態としては人質だというのが公平な見方というものでしょう。大名の奥方を江戸に住まわせたのは実態としては人質だったのと同じことですよ。ただ、実際の人質事件でもあることだけれど、その人質が人質という立場を超えて〝犯人〟とある種の共犯関係に陥ることがある。そうした事態に至る心理状態を犯罪心理学では「ストックホルム症候群」と呼ぶわけだけれど、最後の輪王寺門跡である公現法親王はまさにその典型だった。ここにそれを明確に裏付ける史料がある。「常野戦史補話」(『史談會速記録』第80輯)というのがそれで、慶応3年9月、日光山登拝のために同山の宿坊である照尊院に滞在していた公現法親王に上州を根城とする過激尊王派が謁見して義挙の先頭に立つよう働きかけるという出来事があった。これはその働きかけの中心となった金井之恭なる人物がのちに史談会で語った話の速記録ということになるのだけれど――

……私共は素より倒幕論で、此處に岡谷君も御出ですが、岡谷君の令弟に板倉三次郎といふ御方もあり、ナカ/\勤王家でありました、同氏とも共々諮つて、種々奔走をしまして、其頃槍を集めるとか鐵砲を手に入れるとか、今日申すと如何にも迂闊千萬な話でありますけれども、銀杏穗の槍を打たせるとかいふやうな騷ぎをして同志を募り、又日光宮後に北白川宮でありますが、公現親王を奉じて、私は上州新田ですから、新田滿次郎という者𛂞小身ではありますけれども、新田氏の正系で私も同族であります、故に之れを奉じて輪王寺宮公現親王を戴いて、尊王攘夷――關東は御承知の通り幕府の餘威がまだ甚しい時分ですから、倒幕などゝ言ふては人の耳に入らないから、尊王攘夷と云ふことで、人を集めまして頗る同志も多くなりました……

……日光山の照尊院、是𛂞岡谷君の御寺で、秋元家の先祖の院號でございます、其寺に潛伏して居りましたところが、住持が宮樣の御守りで御師匠さんであつた、其所に私が潛伏して居る間に、照尊院を説いて名分大義を了解さして、それから、宮樣へ申し上げた、さうすると宮樣の御答に、自分は關東へ下つたものであるから、何處までも徳川氏と盛衰を共にするから、さういふ話𛂞困ると仰つしやつた……

 親王の身分にある者が「新田氏の正系」を自称する人物からの働きかけに「自分は關東へ下つたものであるから、何處までも徳川氏と盛衰を共にするから、さういふ話𛂞困る」――。その言葉に嘘はなかったことは、その後の宮の行動が証明している……と、承久の乱の原因から始まった思考の逍遥があれよあれよという感じて幕末の東叡大王(輪王寺門跡の別称の1つ。輪王寺門跡はその名の通り日光山輪王寺を管領するのが本分であるものの、平生は東叡山寛永寺に住していたためにこう呼ばれていた)にたどりついたわけだけれど、これだけでも相当に不思議な思考の逍遥と言っていいはず。しかし、こっからさらにね。ふと鎌倉幕府の宮将軍で公現法親王に相当する立場に置かれたのは誰だろう? と、そんなことを思った。要するに、鎌倉幕府が滅亡した元弘3年当時の将軍は誰かってことだね。すると、それは守邦親王であることがわかった。鎌倉幕府にとってはこの人物が「最後の将軍」ということになる。そういうことをここで知るに至ったわけだけれど、これ自体、なかなかの出来事で、いろいろ考えさせられるというか……。室町幕府の最後の将軍は足利義昭、江戸幕府の最後の将軍は徳川慶喜。これは常識の範疇と言っていい。で、鎌倉幕府も幕府なんだから、当然、「最後の将軍」はいたわけだけれど、鎌倉幕府の最後の将軍が誰かなんてほとんどの人は知らないでしょう。知っていたとしても、どういう人だったかはとんと承知しない……、そんなところに違いない。で、ワタシもそのクチだったわけだけれど、調べてみたところ、ホントに影の薄い人物だったようで。ウィキペディアによれば「将軍としての守邦親王の事績もほとんど伝わっておらず、文保元年(1317年)4月に内裏(冷泉富小路殿)造営の功によって二品に昇叙されたことがわかることくらいである」。また、鎌倉幕府最後の戦いであるところの「鎌倉の戦い」で守邦親王がどうふるまったのかもほとんど――いや、全くわかっていないらしい。ここはウィキペディアの記事でも典拠とされている『鎌倉将軍・執権・連署列伝』が記すところを引くならば――

 周知のごとく、元弘三年(一三三三)五月二十二日、鎌倉幕府は滅亡した。北条一族の主だった面々をはじめとする幕府有力者二八三人が北条氏の菩提寺である東勝寺で自害するという、すさまじい幕切れであった。首府が戦場となり六千余人という多数の使者を出したという点で、日本史上存在する鎌倉・室町・江戸の三つの幕府のうち、もっとも悲惨な滅び方をしたといえよう。しかし、その日の守邦の行動は全く不明といってよく、単に出家したという事実しかわかっていない。思えば、後醍醐の皇子である大塔宮護良親王が諸国に下した倒幕の令旨において打倒の目標とされたのは、「伊豆国在庁時政子孫高時法師」であった(略)。北条得宗家は、鎌倉幕府とほぼ等価の関係であったといえる。幕府の長であるはずの将軍守邦は、敵対勢力からも当事者と見なされていない。鎌倉将軍の最後は、幕府とともに滅びるのとは違う意味での悲哀を感じさせる。

 確かにねえ……。また、悲哀を感じさせるという意味では、もう1つ。実は、守邦親王は鎌倉幕府滅亡から3か月ばかり経った元弘3年8月16日に薨去したとされるものの(典拠は『群書類従』第48「将軍執権次第」)、どういう最期だったのかは全くわかっていないというのだ。仮にも征夷大将軍ですよ。しかも、歴とした皇親(後深草天皇の皇孫)。延慶元年(1308年)には親王宣下も蒙っている。そんな人物の最期がわかっていないという……。

 こうなると、逆に興味がそそられるというか。で、この人物について、能うる限り調べてみようと。まず、どういう最期だったかは全くわかっていないものの、終焉の地が現在の埼玉県比企郡であるとうかがわせる史料はいろいろ残されているようで、これについては『鎌倉将軍・執権・連署列伝』にも記されてはいるのだけれど、こういうのを「餅は餅屋」と言うのかな? 地元埼玉で発行されている『埼玉史談』にさすがというような記事が掲載されていることがわかった(教えてくれたのはこちらです)。まだ同誌が創刊されて間もない昭和5年に刊行された第2巻第5号掲載の「守邦親王に關する文書」というのがそれで、著者(大塚仲太郎)が発掘した「守邦親王に關する文書」があれこれ紹介されている。その内、「兵家茶話」なる史料(見つけました。コレです)の記載として「鐮倉大樹守邦親王は鐮倉滅亡の後、潛に武藏國比企郡增尾鄕に來り給ひて薙髮し、梅王子と申奉る。其住し給ふ處を御門村と云」。また「附信志」なる史料(こちらは全く不明)にはさらに詳しく記されていて「(略)正慶二年鐮倉執權北條相模守高時滅亡す。故に將軍守邦親王近臣右大允近信の諌について兵難を僻ため、大澤梅澤松本林關口(各末葉今に有之)等の近臣を召連愛妾を(近信のむすめ)携ひそかに鐮倉を出、近信の舊領武州比企郡增尾鄕に(舊跡今に有り御門と唱ふ)遷居し、梅王子と號近鄕を押領したまふ」。具体的な人名まで記されているのだから、これは相当に信憑性は高いと言っていいでしょう。だから、守邦親王はここ武蔵国比企郡増尾郷で亡くなったと見ていいでのでは? そうすると、これはなかなかに味わい深いというか。これは『鎌倉将軍・執権・連署列伝』にも記されているのだけれど、武蔵国比企郡というのは頼朝の乳母である比企尼の夫・比企掃部允の領地で頼朝が伊豆国蛭ヶ島に配流となると妻とともに下向してその地から頼朝を支え続けた。そういう因縁の地で、おそらくは身分を晦ます目的で薙髪し、名も梅王子と変えて――さて、どうしようと思っていたのか? それはなんとも想像しようがないのだけれど、ただ北条時行を奉じて再挙を図ろうとするものはいても守邦親王を奉じて再挙を図ろうとするものなんていなかったんじゃないかなあ(※「ジャンプBOOKストア」で『逃げ上手の若君』の第1巻を立ち読みしたことろ、守邦親王の「も」の字も出てこない。それどころか「代々幕府を支配してきた北条氏の本家もすっかり衰えた」「形の上では今も幕府の総帥だが…実権は側近達に握られている」。これはなんなんだろうなあ。昔の2時間ドラマとかによく出てきた「○○コンツェルンの総帥」とか、そんな感じ? いずれにしろ、将軍はお飾りとしても存在しない、そんな世界線がここにある……)。それほど鎌倉幕府にとっての将軍なんて有名無実。だから、この点では大きく公現法親王とは状況が異なると言っていい。公現法親王(または歴代の輪王寺門跡)が武士や江戸庶民から篤い尊崇を受けていたことはさまざまな史料で裏付けられる。また現に彰義隊や奥羽越列藩同盟に奉じられたという事実があるわけだから。皇親の身でありながら坂東に身を置くという一見すると似た境遇にある2人がなぜこうも違った扱いを受けることになったのか? それこそは北条氏の「不徳」の致すところ――とは言えるわけだけれど……多分ね、守邦親王では「錦の御旗」にはなり得なかったんですよ。というのも、この時、京都に翻った「錦の御旗」とは大覚寺統が掲げたもの。持明院統に属する守邦親王ではその対抗馬にはなり得ない……。実際、新政権の持明院統に対する対応は苛烈なものだった。実はこれも『鎌倉将軍・執権・連署列伝』に記されているのだけれど(だから『鎌倉将軍・執権・連署列伝』というのは本当によくできた本であります。ただ、編者である細川重男氏の肩書きが「中世内乱研究会総裁」というのがなんとも……)、鎌倉幕府滅亡に先立つ元弘3年5月、六波羅探題を攻め落された北条仲時・時益らは光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇らを奉じて東国への逃亡を企てた。しかし、近江国番場宿(現・滋賀県米原市)で行く手を阻まれ、仲時ら一門と郎党432人は打ち揃って自決。光厳天皇らは捕えられ、「怪げなる網代輿」(『太平記』巻9「主上々皇為五宮被囚給事付資名卿出家事」)に乗せられて持明院殿に送り返されるという仕打ち。これじゃあねえ、守邦親王を奉じたところで……。ということで、守邦親王としても、京都に戻ることもままならず、坂東の片隅に身を隠してじっと息を殺している他ない――その先に、どんな展望があろうがなかろうが――。そんな守邦親王の最期を伝える史料はさすがの大塚仲太郎も発掘できなかったようで、辛うじて「勤進録」(現在、大梅寺に設置されている案内板だと「勧進録」)なる史料に「偶王病而薨、引導大梅圓了長老坂下、乳母殉死亦葬塋側云」とある程度。ただ、これも素直に信じていいものか? 薨じたのが元弘3年8月16日で動かないとするなら、鎌倉落ちから間がなさ過ぎる。死因を病死とするのは疑ってかかった方がいいような……?

 ――と、承久の乱の真の原因は? ということから始まった思考の逍遥が最終的に守邦親王の真の死因に思いを馳せる――というところにたどりついたわけだけれど、ワレながらこの展開はオドロキ。一体、ポイントはどこだろう? 鎌倉幕府で導入された宮将軍制度が江戸幕府でも取り沙汰されたことがあったことを知ったところだろうか? それとも、そこから輪王寺門跡に思いが飛んだところか? あるいは、そこからさらに鎌倉幕府の宮将軍で公現法親王に相当する立場に置かれたのは誰だろう? と、さらなる飛躍を遂げたところ? うーん、その全部がポイントと言えばポイントか……。いずれにしても、こうしたちょっと不思議な思考の逍遥を経てたどりついた守邦親王という人物に対してある種のエンパシーを覚えはじめているのは確か。つーかね、見てみたいんだ、この人物を主人公とするドラマを。この際だ、敗者を礼を以て描くことには定評のある三谷幸喜には単発ものでいいからこの人物を描いてもらえないものか? 『鎌倉殿の13人』は、言うならば「鎌倉幕府草創の物語」。ならば、そのスピンオフとして「鎌倉幕府終焉の物語」というのもありでしょう。その主人公こそは鎌倉幕府最後の将軍――いや、「最後の鎌倉殿」である守邦親王。もっとも、比企で守邦親王に仕えた近臣は13人もいたかどうか。史料に名前が挙がるのは近信・大沢・梅沢・松本・林・関口とわずか6人。どう数えても13人もいない――、そんなやりきれない「最後の鎌倉殿」の物語……。