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敗北からの作家論
〜風見潤はなぜ大人向けのミステリを書かなかったのか?〜

 最初に手の内を明かしてしまおう。「訃報、但し絶対でない。〜言うならばソレは『風見潤幽霊事件』であること〜」なんて記事を書いたワタシではあるけれど、実は大して読んでいないんだよね、風見潤って。ハッキリ言ってしまえば、記事でも言及した「天文考古学者・神堂賢太郎」シリーズ2冊と『クトゥルー・オペラ:邪神降臨』だけ。しかも「天文考古学者・神堂賢太郎」シリーズ2冊は今月に入ってから読んだもので、それでよくもあんな記事が書けたもんだと自分でも思うんだけれど……ただ、風見潤という人のことはかねてからリスペクトはしていて。つーかね、ワタシが見るところでは、風見潤という人は大変な才人ですよ。そういう思いだけは久しく持ちつづけている。で、そういう思いの発端はワタシがかつてペーパーバック屋だった頃に遡る。実はですね、風見潤が翻訳を手がけたSFの相当数が、昔、ペーパーバック屋だった頃の在庫にあったんだ。これとかこれとかこれとか。いずれもなかなかにマニアックな作品ではないかと思うのだけれど、すべて買い取りで在庫に加わったもの。要するに、こういうマニアックなSFを原書で読んでいるツワモノがこの日本にいるってことで、当時は、なんてんだろうなあ……そういうツワモノたちからの挑戦(?)を受けて立つべくこっちも必死で頑張っていた、そんな感じだったと思う。で、持ち込まれた本が一体どんな本なのか調べていたら、驚いたことに翻訳が出ていて、翻訳した人は風見潤という人だったというね。これが、まあ、ワタシが風見潤という人を知ることになるそもそものきっかけということになる。だから、ワタシにとっての風見潤とは第一義的には『黒い霊気』や『闇よ、つどえ!』を訳した人。そして、これはもう驚くべき事実と言っていいと思うんだけれど、これらはいずれも風見潤が20代の頃の仕事なんだよね。津原泰水も「病の夢の病の」に書いているように「学生時代から翻訳で稼いでいたというK氏は抜きん出た存在で、小生にとっては憧れの先輩だった」。学生時代から翻訳で稼いでいたってんだから、もうどんだけ才能のある人なんだと、そんな感じですよ。

 ――と、こんな思い出話で煙に捲きつつ、この辺からしれーっと本論に入っていこうというコンタンなわけだけれど……そんな人物が翻訳ばかりではなく、創作でもその才能を発揮するに至るというのは誠に以て自然な流れで、1978年の『喪服を着た悪魔』(ソノラマ文庫)を皮切りに立て続けに作品を発表。1980年から82年にかけて発表した「クトゥルー・オペラ」シリーズについては「訃報、但し絶対でない。〜言うならばソレは『風見潤幽霊事件』であること〜」でも紹介したように菊池秀行が創土社版の解説で「ひょっとしたら、日本のクトゥルー神話長篇シリーズの第一号のみならず、SFとホラーを合体させた最初の長篇シリーズとの栄誉も冠せられるかも知れない」。要するに、風見潤という人は、ここでも遺憾なくその才能を発揮して見せたと、そういうことになる。ただ、『喪服を着た悪魔』に始まる「少年探偵・羽塚たかし」シリーズもそうだし、「クトゥルー・オペラ」シリーズもそうなんだけれど、いわゆるジュブナイルと呼ばれるもので、ターゲットとされているのは十代の少年少女たち。当然、内容もそれに相応しいもので、「クトゥルー・オペラ」なんて7組の双子の少年少女たちが邪神たちと戦うという、え、クトゥルー神話でそんなのアリなの? というような。これについては栗本薫が「目から鱗状態」であったことをインタビューで述べているそうですが、ワタシは当該インタビューを読んでいないのでここではこれ以上触れません。ともあれ、そんな少年少女向けの小説で作家キャリアを始動した風見潤はさらに1988年の『清里幽霊事件』(講談社X文庫ティーンズハート)を皮切りに今度は少女向けミステリでその異能を発揮――つーか、以後はほぼ講談社X文庫ティーンズハートの専属作家のようにふるまい、2006年3月、その講談社X文庫ティーンズハートが刊行を終了すると、あたかもそれに殉じるかのように筆を絶ってしまう――と、この作家の約30年に及ぶキャリアを思いっきり凝縮して紹介するならそういうことになるわけだけれど……これがねえ、なんとも不思議で。いや、講談社X文庫ティーンズハートに殉じるかのように筆を絶ってしまったというのはワタシなりに心中を推し量れないこともない。なにせ、総刊行点数は76冊に上るっていうんだから。とてつもない数ですよ。そりゃあ疲労も溜まるでしょう。しかも、2005年には永年、作家とイラストレーターとしてパートナーを組んできたかやまゆみが乳がんで亡くなっている(風見のティーンズミステリにおける代表作である「幽霊事件」シリーズは2004年12月刊行の『月食屋敷幽霊事件』までは一貫してかやまゆみがイラストを担当。かやまが病気で絵筆を取れなくなった『魔界京都幽霊事件』以降の3冊のみかやまに代って椎名咲月が担当している)。だからね、もうこれまでにしよう、と思ったとしてもさして不思議ではない。ワタシが不思議だというのは、その部分ではなくって、風見潤という作家のキャリアがほぼ少年少女向けの作品のために費やされているというこのこと。これがねえ、どうにも腑に落ちない。いやね、世の中には児童文学を専門にしている人だっているわけだから、ジュブナイルとかティーンズものに特化したミステリ作家やSF作家がいたってなんらおかしくはない。ただ、風見潤という人はジョン・スラデックの『黒い霊気』やフリッツ・ライバーの『闇よ、つどえ!』を訳している人なんだ。この人の関心が奈辺にあったかは、彼が手がけた翻訳作品のこうしたかなり濃いめのラインナップから凡のところは見当はつく。ワタシが見るところでは、相当にハードコアな人ですよ。それはもう間違いないって。もちろん、そうしたパーソナリティーは初期の「少年探偵・羽塚たかし」シリーズや「クトゥルー・オペラ」シリーズでもある程度、発揮されているとは言えるんだろうけれど……ただ、そうして始動した作家キャリアがさほどのプロセスも経ないまま早々にティーンズミステリの創作に収斂し、終ってみれば(いや、本当に「終った」のかどうかはわかんないんだけどね。つーか、「終っていない」と信じたい……)ほぼそれに終始してしまったように思えるのは……これはもう、どうしたって納得できんのですよ。要するに、これはこういうことになると思うんだけれど――風見潤はなぜ大人向けのミステリ(というのがいかにもこなれない言い方であるのは重々承知している。でも、他に適当な言い方が思いつかない。本来ならばリン・カーターがファンタジーに特化したペーパーバック・シリーズを立ち上げるに当たって「大人が読むべきファンタジー」という意味で「アダルト・ファンタジー」と名付けたことに倣って「アダルト・ミステリ」とでも呼びたいところなんだけれど、生憎と日本では「アダルト」と冠すると別の意味を持っちゃうんでねえ……)を書かなかったのか? と。いや、風見潤は大人向けのミステリを全く書いていないわけではない。1985年から89年にかけて、いわゆる「ノベルズ」というかたちで6冊ほど書いている。以下がそのラインナップということになる――

  • ◦出雲神話殺人事件(1985年7月 エイコーノベルズ)
  • ◦殺意のわらべ唄(1987年4月 廣済堂ブルーブックス)
  • ◦東京トワイライトクロス(1987年7月 アルゴブックス)
  • ◦津軽神話殺人事件(1987年11月 エイコーノベルズ)
  • ◦闇の夢殿殺人事件(1989年2月 天山ノベルス)
  • ◦火の国殺人事件(1989年10月 廣済堂ブルーブックス)

 ただ、この6冊のほとんどはいわゆるトラベルミステリと呼ばれるもので、さほど構えたものではない。当人も『出雲神話殺人事件』のカバー裏で「車中のつれづれにぜひ一冊。ページをめくりながら駅弁を食べれば、ひときわおいしく食べられます」「では、おいしいミステリにむかって出発進行!」。そんな軽ーいノリの読物で、土台、風見潤という作家の代表作となりうるものではない。当然、これらの作品が風見潤という作家について考えるに当たって大きなウェイトを占めるということもないと思う。風見潤について論ずるならば、「少年探偵・羽塚たかし」シリーズか「クトゥルー・オペラ」シリーズ、もしくは「幽霊事件」シリーズということになるだろう(なお、風見潤に関するまとまった文章というのはほとんどないと言っていい状況で、多分、麻里邑圭人という人が書いた「ティーンズハートミステリレビュー」くらいじゃないかなあ。もっとも、「くらい」と形容するのが憚られるような労作で、なんと「幽霊事件」シリーズ全65作と「TOKYO捕物帳」シリーズ全4作を完全レビュー。その冒頭で「幽霊事件」シリーズを評して「実は全作ガチガチの本格ミステリだったことを知るミステリファンはあまりいないように思われる。その理由としてはシリーズが全作絶版なのもさることながら、何より少女向け小説レーベルでしか発表されていなかった点が大きいだろう」――としているのは、正直、ちょっと痛いところを突かれたなあ、と。ただし、風見潤という作家を紹介するに当たって「また風見は『幽霊事件シリーズ』以外にも多数のミステリを書いており、ここでの詳しい紹介は省くが、『少年探偵・羽塚たかしシリーズ』三部作「喪服を着た悪魔」「死を歌う天狗」「古都に棲む鬼女」や、『天文考古学者・神堂賢太郎シリーズ』の一作「闇の夢殿殺人事件」などはミステリファンなら充分読む価値があるだろう」――としているのは、さーてねえ……)。で、それはそれで十分に論じられるべきだし、評価されるべきだとも思うけれど、ただどうしたって思わざるを得ないんだよなあ、なぜ風見潤は大人向けの(トラベルミステリのような軽いものではない、本格的な)ミステリを書かなかったのか? と。これはねえ、「訃報、但し絶対でない。〜言うならばソレは『風見潤幽霊事件』であること〜」でも取り上げたなんとも不可解な「訃報」の件とはまた違った意味で1つの大きな謎と言っていいんじゃないだろうか?

 ――と、そんなことを思ってはいても、そのためにどうこうということはついぞ考えたことはなかった、正直なことを言うならばね。また、今回、ワタシが↑に挙げたノベルズ本6冊の内、「天文考古学者・神堂賢太郎」シリーズの2冊、『殺意のわらべ唄』と『闇の夢殿殺人事件』を読んでみる気になったのもそのことが直接の理由ではない。さしあたって読みたい本がないという状況で、ふと風見潤の名前がアタマに浮かんで、というのが本当のところで、その中でもなぜこの2冊だったかといえば……それはもう村山潤一の導きだったと言うしかないね。いや、ネットで見た時点では村山潤一とまではわからなかったんだけれど、ただ、これですからね。あと、これもね(こっちの方は杉田英樹という人でした。失礼ながら、どういう人であるか、ワタシは全く存じ上げません)。で、しばしの現実逃避をこの2冊に托すことにしたわけだけれど……これがねえ、期待外れもいいところで。トリックの巧拙については、この際、措いておこう。それよりも、ザンネンなのは、探偵役が天文考古学者である必然性が全く認められないことですよ。天文考古学者、就中、レイ・ハンター(『殺意のわらべ唄』では神堂賢太郎の恋人役である早瀬奈々の口を通して「いくつかの遺跡が一直線に並んだとかいって喜んでいる人のこと」と説明されている)というのはなかなかに魅力的な設定ではあると思うんだ。しかし、それがほとんど(あるいは、全然)ストーリーに活かされていない。法隆寺夢殿、磯長陵、橘寺が二等辺三角形を形成しているというだけではねえ。そっからどう展開するかでしょう。また、天文考古学者にしてレイ・ハンターという突出した属性を付与されているにもかかわらず、特段の個性のようなものが認められないのはどうしたわけか? 当時、既に御手洗潔は降臨していたわけだし。肝心要の探偵役がこれじゃあなあ(有り体に言って、ミステリは探偵役のキャラが9割。それが現実であります……)。最初にも書いたように、ワタシはこの人を大変な才人であると思っているので、この2冊のテイタラクはなんともザンネンと言うしかなく……。

 ただ、そんな思いがめぐりめぐって「訃報、但し絶対でない。〜言うならばソレは『風見潤幽霊事件』であること〜」なんて記事として結実(?)したのは、なんとも。そして、もしかしたら、この作家をめぐるもう1つの謎についても一定の解答が得られた――かも? 実は『殺意のわらべ唄』を読んでいたら、こんな下りに遭遇したのだ――

「気味の悪いことをしたものね。でも、なんでそんな手間をかけたんでしょう、犯人は?」
 奈々の言葉に警部はちょっと肩をすくめて、
「それがわからんのですよ。ロープは木をたばねるためでしょう、この工事現場に何本も置いてありました。だから犯人の手元にはロープがふんだんにあったはずだ――首を絞めるほうが簡単ですよ。それなのに、わざわざブルドーザーを動かして、首を切断している。田舎のこととて目撃者はいなかったが、げんにお嬢さんにエンジン音を聞かれている」
「ブルドーザーを使ったのは、手近に斧がなかったからだし、返り血をあびるのが嫌がったからじゃないかしら」
「なるほど、ブルドーザーを使えば、返り血の心配はありませんな。刃の部分から運転席までは二、三メートルはあるわけだから。――それにしても、なぜ首を切ったのかという疑問は残りますね」
「推理小説では、首を切るのは身元をわからなくする場合が多いんです」
 奈々が言った。大学時代はミステリー・クラブの副部長をつとめたこともあるのだ(ちなみに、そのときの部長が賢太郎だ)。
「だが、首は死体のそばに転がっている。身元もへったくれもありませんよ」
「まさか、胴体と首とが別人ということはないでしょうね」
 賢太郎が訊ねた。推理小説ならいざ知らず、現実に人が殺されたのだから興味本位の態度はとるまいと思っていたのだが、つい口を挟んでしまった。
 小沼警部は唖然としたように二、三度口をあけたてしたが、
「つまり殺された人は二人いて、一人は熊沢さんで、首だけが転がっており、もう一人は身元不明の人物で、首を切られて胴体だけを吊り下げられたというんですか。――そりゃあ、とっぴな考えだが、まさかねえ。まあ、奥さんが長野まで行ってくれれば、そのへんもはっきりするでしょう」

 まさか、胴体と首とが別人ということはないでしょうね――。これは間違いなく『占星術殺人事件』のことを言っているよね。これはねえ、なかなかにショッキングですよ。だって、作中で同業者の作品に言及するということは、どうしたってある種の敗北感を吐露することにはなってしまうわけだから。普通ならば、意地でもそんなことはしない。それを、やってしまうという……。で、思ったんだよね。もしかしたら風見潤が大人向けの(トラベルミステリのような軽いものではない、本格的な)ミステリを書くことがなかったのはこれが理由なのではないか……? ここで、いささか唐突ではあるけれど、平成ノブシコブシの徳井健太が『敗北からの芸人論』で書いて以来、あちこちで使われるようになったフレーズを繰り出そう。すなわち――「ダウンタウンにはなれない絶望」。徳井健太によれば「この「ダウンタウンにはなれない絶望」というのは、ある年代のほぼすべての芸人が一度は抱く感情だ。先輩後輩問わず話をしていると、僕のような落ちこぼれ芸人に限らず、お笑いの才能に溢れ、売れっ子になった芸人たちでさえそうだった」。同じようなことがミステリの世界にもあって、この場合、ダウンタウンに相当するのは島田荘司なのではないか? 島田荘司の才能というのはそれほど突出している。なにしろ、イギリスの有力紙『ガーディアン』は「世界の密室ミステリベスト10」の第2位に『占星術殺人事件』を挙げているくらい。いいですか? エラリー・クイーンの『帝王死す』やガストン・ルルーの『黄色い部屋の秘密』を抑えての第2位ですよ。スゴイとしか言いようがない。かく言うワタシもひと頃は夢中になって読んだもんですよ。ま、それも『アトポス』までだったんですがね。でも、その才能が尋常でないことは異論を挟む余地がない。それは、同業者ならなおのこと強く感ずるところでしょう。そして、徳井健太の言う「ある年代のほぼすべての芸人が一度は抱く感情」に似た思いに取り憑かれた。すなわち――「島田荘司にはなれない絶望」。そして、これも徳井健太が記すところに倣うならば、そんな「一回負けた状態から自分なりのスタイルを探っていくその過程」を経てたどりついたのが講談社X文庫ティーンズハートのために書き下ろした75作(76冊)の少女向けミステリだった……。



The Tokyo Zodiac Murders

付記 もしかしたら「島田荘司にはなれない絶望」はこんなかたちでも突きつけられることになったのでは? ということで1つ付け加えておくなら、2004年に『占星術殺人事件』の英訳であるThe Tokyo Zodiac Murdersが刊行されている。出版元は日本のIBCパブリッシングで、主に英語教材などを出している出版社。そんな会社が、なんでミステリの英訳を? そこんところはよくわからないんだけれどね。ただ、翻訳は文化庁が2002年に立ち上げた「現代日本文学翻訳・普及事業」の一環として行われたことはこちらで裏付けられる(これについては本の前付けにも記されている)。まあ、有り体に言うならば、いわゆる「クール・ジャパン」戦略の一環で国主導で行われた翻訳、ということにはなるんでしょう。そのため、はたしてどの程度、英語圏の〝探小読み〟の目に触れ得たのか、いささか疑問ではあるんだけれど、ただ本文でも触れたように本作は2014年には『ガーディアン』の「世界の密室ミステリベスト10」で第2位にランクされるという栄誉に浴している。それを考えるなら、それなりの意義はあったということにはなるのだろう(ちなみに、本作は2015年にはイギリスのPushkin Pressによって再刊されている。これは「世界の密室ミステリベスト10」で第2位にランクされたことがきっかけとなったものと思われる)。で、2004年といえば、風見潤が「幽霊事件」シリーズを書きまくっていた頃になるわけだけれど、もしかしたら彼の作家キャリアで最も脂の乗っていた時期だったと言っていいかも知れない。せっかくなので、ここは本文でも紹介した麻里邑圭人著「ティーンズハートミステリレビュー」からいくつか目ぼしいコメントを拾い出すなら――『四国一周殺人おにごっこ幽霊事件』(2004年9月)については「読了後、読者はやられたと思うと同時に名探偵とは何かを再認識するに違いない。ただ一点気になるとすれば汽車旅おにごっこに関するトリックの取って付けた感が否めないところだが、それを差し引いても充分秀作レベルの作品である」、『月食屋敷幽霊事件』(2004年12月)については「本作はクローズド・サークル状況下での犯人探しに真っ向から挑んだ作品であり、特に第一の事件における、ある些細な事実から辿り着く犯人像が実に秀逸。/また第二の事件にしてもトリックこそよくあるものだが、館の構造を活かしつつもそれと悟らせない点が素晴らしい。ラストの唐突な○○との対決には思わず笑ってしまうかもしれないが、内容としては「ヤマタイ国幽霊事件」(シリーズ三十八作目)以来の有栖川有栖『学生アリスシリーズ』を思わせる王道フーダニットの佳作であるのは間違いない」。しかし、そんな「秀作」「佳作」を連発していた作家がそれからわずか2年後には筆を折ってしまう(『夜叉ヶ池幽霊事件』以降、新作が発表されていない、ということは、つまりはそういうことですよ)というのは、いかにも奇異ではある――ちょうどそのタイミングで講談社X文庫ティーンズハートが刊行を終了するという出来事があったとしてもね。そうなると、2004年に『占星術殺人事件』の英訳が刊行されているという事実がなにやら頻りに語りかけてくるというか……。そもそも風見潤という人は翻訳でデビューした人。ウィキペディアによれば、その第1号は1974年刊行のエドワード・D・ホック著『コンピューター検察局』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)。そして、その後も多くのミステリやSFが風見潤の手によって日本の読者にお披露目されている。そういう仕事をずーっとやってきた人が「自著が他言語に翻訳される」ということにどのような感受性を育むに至ったかは、正直、計りようがない。しかし、自分とは同年代(島田荘司が風見潤の3コ上)の作家のデビュー作が(国主導とはいえ)英訳されるのを目の当たりにして、はたしてオレの書いてきた小説の中にそのような栄誉に浴するものがあるだろうか? と思い至ったとしても不思議ではないような気がするんだよね。そうなった時に、それまでと同じものを書き継ぐ、なんてことは、もうできない。それは、もう、できないって。――と、当の風見潤に言わせれば、全く以て赤の他人の勝手な妄想でしかないようなことをよくもまあくどくどとね……。