なんでもフランス書院の官能小説の最大のヒット作はこの『女教師』らしい。そんなことが、NEWSポストセブンの2014年5月8日付け記事「フランス書院 米の翻訳小説から出発だが「フランス」の理由」に記されている。確かにルイーズ・ベネット(本作のヒロイン。ピッツバーグのとある高校で立体幾何学を教える女教師。度の強い眼鏡、膝下までのスカート、不格好な低い平底の靴というさえない衣服にだまされるものの、実は「ハリウッドのグラマー女優も顔まけのむっちりしたからだをしている!」と説明されている。ちなみに、「度の強い眼鏡」「膝下までのスカート」「不格好な低い平底の靴」という三点セットはわが国のオタクにも愛好され、後にそれらを完全装備した一人のミューズを生み出すことになる。その名は「水越沙耶香」……)が堕ちて行く様は読ませる。深夜の舗道上での放尿シーンは、美しいとさえ思った。もしワタシが映画監督だったら、このシーンを撮るためだけに『女教師』の映画化を望んだかも知れないなあ。しかも、単に映像的に美しいだけではなく、ドラマツルギー的にもなかなかのシロモノですよ。一見するとルイーズはリック(ルイーズの教え子。クラス一の悪童。「荒っぽいイタリア人街で、貧乏な子供として」育つ)に操られているように見えるのだけれど、実は違う。ルイーズがリックを操っている。それを裏づけるのが、次のシーン――
ポールはかたくなに目を伏せていた。
「よく聞くのよ、ポール。正直になってちょうだい。気になるのは、わたしのことなの?」
少年は顔を赤らめた。
「こんなことをいいだして、ごめんなさい。だけどたいせつなことなのよ。これまでの成績とあなたの能力があれば、あと一年で大学進学の特待生になれることはまちがいない。不可が一つでもつくと、それがみんな駄目になってしまうわ」
「わかってます」ポールは小さな声でこたえた。
「じゃあ、お話をしましょうね。あなたの一生は、あの課目一つのためにめちゃめちゃになってしまうかもしれない」しゃべりながらルイーズはしだいに気がたかぶってきた。
「こんなこと、いいだすべきじゃなかったかもしれないけど、わたしたち、なにか手を打たなきゃならない」
そういって深く息を吸い込むと、彼女は意を決して口火をきった。「セックスの悩みなのね、ポール。妄想の原因は、わたしなの?」
ポールは勢いよく立ちあがって、戸口に駆けていこうとした。
「お待ちなさい、ポール。話しづらいことはわかるけど、先生にとってもたいせつなことなの。話しあうしか解決の道はないと思うんだけど」
ポールはチラッと目をあげかけたが、視線はルイーズの靴下をはいた足でとまり、また床に逆もどりした。
「そう、それよ、ポール。わたしの足さえまともに見られないのね。なんとかしなくちゃいけないわ。こういうことを克服する道は、たった一つしかないのかもね」
しばらく沈黙がつづき、ふたたびしゃべりはじめたとき、ルイーズの口調は前とは変わっていた。「ポール。あなたは、わたしの肉体にもっと馴れなきゃいけない。先生がそのお手伝いをしてあげるわ」
ポールは身ぶるいし、部屋の四隅を目で追った。
ルイーズは部屋を覗き見ようとして誤って踏み箱から転落したポール(ルイーズと関係を持つもう一人の教え子。リックとは対照的に「教室では目立たない、おとなしい少年」とされている)を室内に招き入れ、あえて覗き見のことには触れず、最近の成績不振のことを問いただすのだけれど、その途中で不意に口調を変える。そして〝個人レッスン〟を開始するのだ。なんでここでルイーズは唐突に口調を変えたのか? それは、窓の外からリックが覗いていることに気がついたからだろう。そう、この時、リックは窓の外から2人の様子を見つめていたのだ――
リックには、その部屋の中でいったい何が起っているのか、さっぱり見当もつかなかった。そもそもはじめっから、どこか調子が狂っていた。ハイランド通りを人目をさけるようにして歩いて行くポールの姿を目ざとく見つけ、後をつける気になったのも、ポールがあまりにこそこそしていたからだった。わけがわからなかった。
いまこうやって、庭のすみで見つけたハシゴにのぼり、居間の中をのぞきこみながらも、リックはまだ当惑しつづけていた。ポールが長椅子に坐って前を凝視している。ポールのうしろには、幾何学の女教師、ミス・ルイーズ・ベネットが素っ裸で立っている。おったまげるような光景だった。
リックは用意していたカメラをとりだして写真をとりまくった。感光度の高いトライXのフィルムがいっぱいつまっている。こいつはついてるぞ! ルイーズ・ベネットは素っ裸で立ってるだけじゃなく、でっかいオッパイを指でいじくっている。カチッ!
「なんてこった! オッパイをもんでやがるじゃないか! (カチッ!) 狂ったようにモミモミしてやがる(カチッ!) ポールときたら、まるでデクの棒のように反対側を見つめている。こいつはすげえや。いったい何のまじないなんだ(カチッ!) 先生は服を着はじめやがった。ポールのやつ、何の気なんだろう。教会でお祈りでもしてるつもりなんだろうか。せっかくの先生のハダカを拝もうともしやがらない。頭がどうかしてるんだ、やつは」
ギャラリーは人を演技者にする。ルイーズもきっと窓の外の〝観客〟の存在に気がついて演技モードに入ったのだ。そして、ポールに個人レッスンを始めたのだろう。大した「お女性」ですよ。てゆーか、大した作家ですよ、トー・クンというのはね。『女教師』というのは、一読した限りでは、ごくありきたりのポルノ小説のように思えるのだけれど、実は相当に企みに満ちたポルノ小説であると言っていいんじゃないのかな? 本作では、真に性的快楽を貪るのは女であって、男ではないのだから。男は、ただ奉仕させられるだけ。これ以降、ルイーズは隠し撮りされた写真をネタにリックに脅され、言われるままにノーブラとノーパンで教壇に立つなど、さまざまな痴態を晒して行くことになるのだけれど、それだけを見るならばルイーズはリックに操られているかのよう。しかし、実はルイーズがリックを操っているのだ。それは間違いない。そして、そうしたふるまいを通してルイーズはいよいよ淫蕩になっていくのだけれど、間違ってはいけないのは、ルイーズは決してリックに〝開発〟されたのではないということ。どんなに悪ぶったって、所詮は十代の少年でしかないリックにそんなことができるはずがない。ルイーズはもともと淫乱だったのだ。実際、ピッツバーグにやって来る前のエピソードとして、ルイーズは映画館でエド(婚約者)のなすがままにまかせてあられもない痴態を周りの観客たちに晒してみせる。「うめき声をあげ、背を反らせ、手すりにかかった両足をくねらせ、(略)じっと自分を見つめている貪欲な男たちの熱っぽい視線をうけとめていた」……。
だから、ルイーズはもともと淫乱だったのだ。で、こんなふうに解釈するならば、リックはまんまとルイーズの罠にはまったということになる。そして、以後、ただひたすらルイーズの性欲を満足させる役割を果たし続けることになる。そして、遂には深夜の舗道上での〝放尿プレイ〟に至るわけだね。ここはねえ、作者の筆が最も冴えていると言っていい部分で――
首輪につながれた全裸の女が、黒い靴下をはいて夜の舗道に立ちすくんでいる。その光景は、性的であると同時に、奇妙に詩的な美しい光景でもあったかもしれない。
首輪はぴったりとしていて、革紐にも充分なゆとりがある。リックはあたしをこんな姿で歩かせようとしてるのかしら? こころよい小きざみな快感の波におそわれ、また濡れてくるのが感じられた。
二人はそのまま歩きはじめた。遠くから人影が近づいてくると、リックは革紐を引いて合図を送り、ルイーズは庭の茂みの奥に身をひそめた。足音がしだいに近づいてくるのを、茂みの奥にじっとうずくまったルイーズが、おびえながら待っているのを、リックはたのしんでいた。何度めかに、彼女が緊張に耐えきれなくなって立ちあがろうとしたとき、リックは革紐の端でルイーズを鞭打った。茂みを手でかきわけ、なるべく音を立てぬように気をつかいながら、人影が通りすぎるまで彼は打ちつづけた。革紐で打たれるたびに、ルイーズはあふれるほど濡れていった。リックはそれを指で確かめ、得意そうにしていた。
ルイーズの家の近くの茂みまで近づいたとき、リックは革紐をぐいっと引き、足をとめた。何を待ってるのかしら? ルイーズはドキドキしながら待った。心地よいしあわせな感じが胸いっぱいにあふれている。なんてたのしい夜だったのだろう? ほとんど本能的に、ルイーズは地面にしゃがみこみ、オシッコをはじめた。
リックが待ってたのは、これだったんだわ! 彼は、わきにからだを少しずらし、靴が濡れないように気をつかっている。それは小さな流れになって、勢いよく地面をつたっていった。いつまでもつづけていたい! ああッ、なんていい気持ちなのかしら! このままでいってしまいそう!
この鮮烈な描写の中で注目すべきは、リックが靴が濡れないように気をつかっていることかな。有り体に言って、彼は引きはじめているのだ、ルイーズが披露するあまりの痴態にね。しかし、もう彼は逃げられない。その後もルイーズの痴態につきあわされつづけたリックは、遂には壊れてしまう。ただし、ポールの目を通して描かれるその場面描写からはそうとはハッキリとは読みとれない。ポールの目にはその場面はどう映っているか? こう映っている――
リックがはじめるのを見つめながら、ポールは我慢しきれずに手をのばし、はやりたつコックをさすりだした。人目に触れるところで、あけっぴろげにからみあっている男女の光景はたまらなく刺激的だった。窓からのぞき見していることも刺激を倍加した。
でも(引用者注:この「でも」は訳文にはない。でも、「でも」はあった方がいいと思う。原文でも“But why was Rick getting up?”となっている)、なんでリックは、あんなに早くすませて、からだをはなしてしまうんだろう? もう立ちあがりかけている。ベネット先生がまだ終わってもいないことは、ポールの目にもはっきりみてとれた。もう一度、もう一度とせがんでるじゃないか! だがリックは、高笑いして、ジッパーをあげてしまった。さっさとすませて、何事もなかったように平然と部屋を出て行った。こんなやりとりを見るのははじめてだ。ポールにはわけがわからなかった。床に素裸で寝ころがって、もっと、もっととせがんでいる先生をそのままにして、リックは帰ってしまったのだ。ポールは意を決して、正面のドアに近づいていった。
リックは「もっと、もっと」とせがむルイーズをそのままにして部屋を出ていってしまうわけだけれど、一見するとリックはいわゆる〝放置プレイ〟に興じているかのよう。でも、そうではない、ということが次のシーンで裏付けられる。実はすべて――とは、教室でバストを見せたり、机の上にあおむけになって大股を開いたり、遂には生徒たちが欲するままに任せたり――といった狂態のすべてはポールとの〝個人レッスン〟の様子を盗み撮りした写真をネタにリックに脅されてやったことだと言い繕う(というのが正確な表現でしょう)ルイーズの言葉を信じたポールは「真っ正直に腹を立て」リックの元に向かう。そして、ほどなくポールは写真のネガとプリントをそっくり手にして帰ってくる。この意外な展開にルイーズは事情を尋ねるのだけれど――「なあに、たいしたことじゃなかった。写真をよこさなければこうするつもりだってことを、一つ二つリックに教えてやっただけです。あっさりしたもんだった。おかしなことに、彼はさからおうとさえしなかった。みかけほどタフじゃなかったのかな」。さらにポールが言うには「隠していた焼き増しのプリントまでのこらず返してくれたんです。黙ってればわかりっこないのに、自分から返してきたんです」。このヘタレぶりは、ここまでリックが見せてきた悪童ぶりからは想像できない。しかし、ポールの説明に嘘がないとするならば、リックは壊れてしまったということだろう。彼が「愛してる」と言ってはばからない(と、これもポールによるならば)ルイーズ・ベネットの底なしの淫乱ぶりに遂にメンタルが耐え切れなくなったのだ。だから、彼は決して「高笑いして」部屋を出て行ったのではない。むしろ、「狂い笑いして」出て行ったのだ(ちなみに、原文では「だがリックは、高笑いして、ジッパーをあげてしまった。さっさとすませて、何事もなかったように平然と部屋を出て行った」は“But he just laughed, zipped his pants, and walked out.”となっている。つまり、彼は「ただ笑って」部屋を出て行ったのだ)。おそらく、リックはもう二度と女性と関係を持つことはできないだろう。それほどのダメージを彼は蒙った――、そう解釈するならば、これは「ルイーズ・ベネット」という一匹のモンスターとその餌食の物語なのかも知れない……。
ということで、今回も最後は少しばかり余談的に――。最初でも紹介したNEWSポストセブンの記事では『女教師』に関して「入社30年を超える同社取締役でフランス書院文庫編集長のY氏」のこんなコメントを紹介している――「著者はトー・クン、アメリカのペーパーバックライターです。日本のハードボイルド小説の父といわれる小鷹信光さんが訳を担当してくださいました」。実は、この説明は、間違い。『女教師』(原題はForever Ecstasy)の著者であるトー・クン(Tor Kung)は「アメリカのペーパーバックライター」などではなく、ピューリッツァー賞の詩部門にも2度ノミネートされたことがある詩人で、こちらでは本名のジャック・ギルバート(Jack Gilbert)で通っている。トー・クンというのはそんなジャック・ギルバートがポルノ小説を書くときに使った変名で、ジャン・マクリーン(Jean Maclean)という人物との共同ペンネームだったそうだ。それがなぜ「アメリカのペーパーバックライター」と誤認されることに? 多分、それはフランス書院が底本に使った版(エディション)に理由があるのだろう。トー・クンというのはもともとはパリの名物出版社、オリンピア・プレス(もしくは「オランピア・プレス」。詳しくは「ハリエット・デイムラー著『ダーリン』〜フランス書院の海外ポルノ小説シリーズを読む①〜」をお読み下さい)の作家でForever Ecstasyもオリンピア・プレスの姉妹インプリントであるオフィーリア・プレスから1968年に刊行されている。ただし、この当時、オリンピア・プレスは既にニューヨークに拠点を移しており(ド・ゴール政権の弾圧でフランス国内での出版活動がままならなくなっていた)、それに合わせてグリーンリーフ・クラシックスやブランドン・ブックスといったアメリカ生え抜きの純然たるポルノ専門叢書との競合に晒される破目に。ここはジョン・ディ・セイント・ジョア著『オリンピア・プレス物語:ある出版社のエロティックな旅』(河出書房新社)巻末の「わがジロディアス――「訳者あとがき」にかえて」で青木日出夫が記すところを引くならば――「一九六〇年代後半から一九七〇年代前半にかけて、アメリカでは、オリンピア・プレスに張り合う出版社が次から次へと現われては消えていった。なかでもグリーンリーフ・クラシックスとブランドン・ブックスはオリンピア・プレスの強敵となった」。そのため、オリンピア・プレスは1970年代に入るとそれまでのアルバトロス叢書を模したようなタイポグラフィカルなカバーからピクトリアルなカバーへと様変わり。それは、たとえばこんなカバーなんだけれど、いかにもアメリカン・ペーパーバックって感じで、オリンピア・プレスらしさはどこにもないよね。もっとも、メフィラス曰く「郷に入っては郷に従え。私の好きな言葉です」。こういう変わり身はむしろ称賛されるべきかと。元ペーパーバック屋としても、こういうピクトリアルなカバーは決して嫌いではなく……。で、Forever Ecstasyはこのオリンピア・プレスの新シリーズ(Olympia Press Series)からも刊行されているのだ(こちらです)。おそらくフランス書院が底本にしたのはこの版なんだろう(ただし、早川清文学振興財団が運営する「小鷹信光文庫ヴィンテージペイパーバックス」にはオフィーリア・プレスの版が収蔵されており、オリンピア・プレスの版は収蔵されていない。当の小鷹さんは「〈訳者あとがきに代えて〉ぼくのポルノ論」で「この本を出版した老舗のポルノ出版社(オリンピア・プレス)」と書いているのだけれど……)。そりゃあ、ねえ。こんなカバーを見せられて、著者のプロフィールも不明となれば、それを名もない「アメリカのペーパーバックライター」と誤認したとしても無理はない(この点について小鷹さんは「もともとポルノ・ライターというのは〝匿名性〟に意味がある稼業だから、作家のことなんかどうでもいい」。しかし、そう言い放っていた小鷹さんが『女主人』の「訳者あとがき」では饒舌に原著者とされるチャールズ・バートンについて語っているわけで。曰く「UCLAのある分校で講師をやっている」「ほかにもちょっと名の知られたペンネームで、ミステリを二、三作書いている」。ここは江戸川乱歩の「心理試験」を思い起こしたと書いておきましょうか……?)。ついでに書いておくならば、フランス書院の海外ポルノ小説シリーズの第1号となる『ダーリン』は「あとがき」でフリーウェイ・プレスの版が底本に使われていることがわかるのだけれど(それを裏づける情報は奥付にも記されている。しかし、フランス書院の奥付は信用できない。というのも、『女教師』の奥付にもCopyright © 1968 by Freeway Pressと表示されているのだけれど、これはありえないのだ。なぜなら→)フリーウェイ・プレスというのはモーリス・ジロディアスがオリンピア・プレスの倒産後に立ち上げたペーパーバック・ハウスで(だから、1968年当時はまだ存在しない)、こちらもいかにもアメリカン・ペーパーバックって感じのカバー(こちらです)。しかし、こちらももともとはオリンピア・プレスの本で、著者のハリエット・デイムラーはかのスーザン・ソンタグが「ヒップスター」と評する当時(1950年代)のアイコンだった。しかし、「入社30年を超える同社取締役でフランス書院文庫編集長のY氏」によれば、こちらも「アメリカのペーパーバックライター」ということになるのかな? いずれにしても「著者はトー・クン、アメリカのペーパーバックライターです」というのは間違いなので、訂正しておいた方がいいかなと。まあ、ペーパーバック屋から足を洗ってもう10年。今さらこんなことにこだわってもしょーがないんだけどねえ……。