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硬骨漢は揺れた
〜生島治郎と「ポルノ小説まがい」に関するノート〜

 この6月以来、フランス書院の海外ポルノ小説シリーズを読み耽ってきたわけだけれど、その甲斐あってか、今やちょっとやそっとの濡れ場では驚かなくなったワタシがいる。従来、これはちょっとなあ……と思っていたような描写でも、久しぶりに読み返してみたところ、なんだ、これくらい。で、件の描写をめぐっていろいろ思いあぐねていたようことも、呆気なく雲散霧消しちゃったり。ま、こういうことを意図してフランス書院の海外ポルノ小説シリーズを読み耽ってきたわけではないんだけれど、結果から言えば、これはこれでアリだったかなと……。

 生島治郎が作家キャリアの晩年に至って著した作品のいくつかにそれまでの彼ならばとても考えられなかった生々しい濡れ場を描いたものがある。たとえば1998年に刊行された『女首領』がそうだし、2001年に刊行された『上海カサブランカ』がそう。これは、永年、この作家を読みつづけてきたものにとってはなかなかに難儀な問題というか……。生島治郎が描く小説の登場人物は名前やキャラクターが違おうとも皆同じ1つの行動原理(それを生島治郎は「ルール」という言葉を使って言い表すのが常だった)に従って行動していたと言っていい。それが端的に表現された場面として、ここでは志田司郎シリーズの後期の傑作『殺人者は夜明けに来る』(実を言えばワタシはこの作品こそは志田司郎シリーズの最後の作品でもよかったのでは? と思っている。いや、ことによると、当の生島治郎もそのつもりだったのでは? しかし、ある目論見からそうするのを断念した――というような筆者の妄想についてはこちらに詳しく記してありますので興味ある方はご一読を……)からこんなシーンをご紹介しよう――

 陶酔が全身をおかし、理性が麻痺してしまわないうちに、私は重ねていたいずみの唇から、自分の唇をはなした。
 そうするのには、かなりの努力が必要だった。
(かまうものか。そのまま陶酔のなかに溺れきってしまえ)
 心のどこかで、そんなささやきが私をそそのかしていた。
(いったい、自分をなんだと思っているんだ? ストイックな聖職者気どりでいるのかね?)
 別に、自分がストイックな聖職者だなどとはうぬぼれてはいなかった。私はごく平凡な、あらゆる欲望によわい、ありふれた中年男にすぎない。
 ただ、ふつうの人間より、いささか強情でエゴイスティックな性格であり、自分の決めたルールは他人からなんと云われようと、そいつを変えようとはしない始末のわるいところがある。
 いま、いずみに誘惑され、その誘惑のままに身をゆだねるのは、私のルールに違反することになりそうだった。
 私は彼女から身をはなし、片手に持ったままだった水割りのグラスに口をつけた。

 志田司郎は調査を依頼された正央銀行頭取・佐竹佑正の個人秘書・河原いずみ(世間一般で使われる言葉に置き換えると「愛人」)から自宅マンションに呼び出され、露骨な誘惑を受ける。なにしろ、志田を自室に迎え入れたいずみの身なりはといえば――「ブラウスは透けてみえるほどうすく、ブラジャーはつけていないのがはっきりわかった。うす紫色にぼかされてはいるものの、なめらかな白い肌や、ほっそりとした身体に似合わず、こんもりと盛りあがった乳房がありありと見える。いや、うす紫色にけむって見えるので、なおさら扇情的な効果があった」。だから、もうね、完全に誘っているわけですよ。で、志田も危うく誘いに乗りかかるのだけれど――すんでのところで踏みとどまる。「いま、いずみに誘惑され、その誘惑のままに身をゆだねるのは、私のルールに違反することになりそうだった」――。要するに志田司郎は「据え膳食わぬは男の恥」とは思っていないわけだね。むしろ、ガツガツと食らいつく方が恥だと。で、ここでも「かなりの努力」を払って据膳=誘惑を退けた……。もちろんこれが生島治郎の言う「ルール」のすべてではないわけだけれど、生島治郎が描く「男」にはこと下半身に関してはすこぶる自制的であるという共通点が認められる。濡れ場が描かれることはあっても〝行為〟そのものがあからさまに描かれることは決してない。それが生島ハードボイルドをことのほか清潔なものにしていたと言っていいと思うのだけれど……そんな生島ハードボイルドが「変ってしまった」――、多分、『女首領』や『上海カサブランカ』を読んでそういう印象を抱いた生島ファンは少なくないのでは? かくいうワタシもそうだった。それほど『女首領』や『上海カサブランカ』に描かれた濡れ場は生々しい。なにより、露骨なんだよ、表現が。それはほとんどポルノ小説と言ってもいいくらいで、たとえば『女首領』の場合だと――

 金明にのしかかり、バスローブをはだけて、ねっとりとしたキスをする。キスをしながら、やさしく両の乳をもみしだいた。
 金明は背を反らせ、熱い息を吐いている。
 私がバスローブを脱がせると、全く抵抗はせず、素裸になった。
 私は指先で金明の股間を探ってみた。すでにじっとりと濡れていて、指がすっと中へ入った。
 私は身体の向きを変え、金明の股間の方へ顔を持っていった。そして指を使って、彼女の股間を開いた。ピンク色のクリトリスと大陰唇小陰唇があらわになる。すでに中は濡れそぼっていてつやつやと輝いていた。
 陰毛はそれほど濃くはなく、クリトリスのあたりをうすくおおっている程度である。私はその草むらを舌で押し分け、さらにクリトリスを舌先で愛撫した。同時に中指をそろそろと小陰唇の中へと忍びこませる。
 それからさらに、左手の指先で金明の乳首を愛撫した。
 いわゆる三所責めというやつである。
 私は中指をバイブレーターのように震わせた。これは私の特技である。この指でたいていの女は悶絶する。
「あ、あーっ」
 金明も喘ぎながら、身をくねらせた。
 私はさらに、舌先をクリトリスから外し、そのかわり親指を押し当てた。そして二本の指を震動させる。さらに口では乳首を吸い、左手を使って、もう一方の乳をもんだ。
 四所責めということになる。
「いいっ、いいわ」
 金明は身をくねらせながら、悲鳴に近い声を上げた。同時に股間から愛液があふれてくる。
 私はしてやったりと思った。金明を充分に征服したような気分だった。
 金明の乱れた姿態を見ているうちに、またしてももよおしてきた。
 すると、金明がそれを察したかのように、首をもたげた。そして私のペニスをくわえこんだ。さらに手を伸ばして、私の乳首を刺激する。
 私のものはたちまちいきり立った。眼の前に金明の濡れそぼったバギナがあり、彼女の乳は豊満である。それらを見ながら、自分はペニスと乳首を刺激されている。
 こんなテクニシャンの女と出会ったことはなかった。おたがいに性感がたかまりあうのがわかる。
 私はまたしても射精してしまった。

 私はまたしても射精してしまった――とは、つまり、もう一回戦を終えちゃってるんですね。で、↑は二回戦の模様ということになる。ちなみに、一回戦は口内発射で終わっている。だから「私はしてやったりと思った。金明を充分に征服したような気分だった」――とは、男としての面目を施したと、そういうことなんだろうな。それにしても、露骨だよねえ。「中指をそろそろと小陰唇の中へと忍びこませる」だの「中指をバイブレーターのように震わせた」だの。そんな露骨な表現をしなくたって男女の交わりは描けるだろうに……。ちなみに、この第8話「マフィアの恋」(『女首領』は『週刊小説』に断続的に連載された連作短編集で「マフィアの恋」は第8話にして最終話に当たる)に描かれた主人公・日野真二(元『週刊ポップス』のデスク。出版元が不渡りを出して倒産後に「女首領」こと「チャイニーズ・ゴッドマザー」の二つ名で知られる在日華僑の高利貸し・謝金令の下で貸し金の取り立てみたいなことをやっている)と謝金明(謝金令の娘)の濡れ場はざっと13ページはある。13ページに渡って日野と金明の〝行為〟が省略なしに描かれているのだ。この「省略なし」というのがなんとも……。「泣く蝉よりもなかなかに、泣かぬ蛍が身をこがす」――、都筑道夫が言うようにそれがハードボイルドの精神だとするならば(ちなみに小泉喜美子著『メイン・ディッシュはミステリー』によれば、これは「文耕堂の『御所桜堀河夜討』三段目で豪勇無双の武蔵坊弁慶が自分の娘を主君の愛妾の身代りに殺さねばならなかった悲しみに耐えるくだりで使われた一節」だとか。ただし、こちらの版では表記が若干違っていて――「鳴蟬よりもなか/\に、泣かぬ螢の身をこがす」。それにしても、ここで小泉喜美子の本の一節を紹介することになろうとはなあ……)、はたしてこれがハードボイルドと言えるのか? ということは、どうしたって思わざるを得ず……。

 また『上海カサブランカ』の濡れ場も相当ですよ。こちらもバスルームとベッドルームでの二回戦制(?)になっているので、ここはバスルームでの一回戦の模様を紹介するなら――

 やがて、華が浴室に入ってきた。
 胸もとまで、バスタオルでおおっている。
 紅がその姿を見ていると、その視線を意識しているような素ぶりで、タオルをはらりと落とした。
 まぶしいほどの白い肌であった。その胸はこんもり盛り上がっていて、ピンク色の乳首があった。
 紅が両股の茂みに眼をやる前に華はざぶりとバスタブの中へ入ってきた。
 そのまま、両腕を紅の首に巻きつける。
 二人はディープキスをした。
 キスをしながら、華は紅の股間をまさぐってきた。
 紅は華の乳首を愛撫する。
 紅の股間のものはいきり立ってきた。
「ちょっと、ここへ腰かけて」
 と華はバスタブのふちをたたいた。
 紅は湯から上がって、バスタブのふちに腰を下ろした。
 華は紅の両股を開けさせた。それからシャボンを股間に塗りつけた。そのまま急所を洗いつつ、股間を愛撫しはじめた。シャボンのぬるぬるとした感触を利用しつつ、たくみに急所を愛撫する。紅の急所はいやが上にもいきり立った。
 それを見極めると、華は湯でシャボンを洗い流した。そして、紅のいきり立ったものを口にくわえた。
 舌と唇を使いつつ、しゃぶりはじめる。それはたとえようもない快感を紅に与えた。
 こんなテクニックをいつ身につけたのだろうと、快感に身をゆだねながら、紅はぼんやり考えた。
(略)
「今度はあなたがここへ座って下さい」
 華は言われたとおり、バスタブのふちに腰を下ろした。
 紅はその両脚を押し開いた。はじめ、かすかに抵抗したが、華は脚を開いた。華の秘所があからさまになった。
 むっちりとした白い両股の間に、うすく毛が生えていた。紅はさらに秘所を大きく押し開いた。ピンク色の割れ目が見えた。
 紅はシャボンを取ると秘所に塗りつけた。
「やめて」
 と華は悲鳴を上げた。
「ぼくはあなたと同じことをしているだけですよ」
 紅は閉じようとする両股をこじ開けた。それから秘所を愛撫しはじめた。ぬるぬるしたシャボンの泡を利用して、秘所の中へ指を入れる。中指を深く差し入れつつ、親指で秘所のまわりをこすった。
「ああ、いい。ああ、いい」
 華は悲鳴を上げつづけた。
「いってしまうわ」
「まだ、駄目だよ」
 紅は華を抱き上げて、バスタブの中へもどした。

 引用文中に登場する「紅」とはわれらが紅真吾であることは言うまでもないけれど、そのお相手である「華」なる〝お女性〟は、実は華香花(ファン・シャンファ)という女優。しかも、両親とも日本人でありながら日本のプロパガンダ映画に中国名を名乗って出演している――。ある程度の年配の方ならこれがある実在の人物をモデルにしていることは容易におわかりいただけるはずで(「香」の一字が共通するのは決して偶然ではないということ)、それはもう大変な美人女優でした。華香花の場合も「つぶらな瞳に弓なりの眉、切れ長の眼、背筋がぞくっとするような美人」と描写されている。そんな「皇国日本」と一体となったやんごとない印象さえ抱かせる美人女優とのアバンチュールがまるでソープランドで繰り広げられる恥戯さながらに……。

 ということで、ここはやはりこういうことを思わざるを得ないわけだけれど――2003年、朝日新聞は生島治郎の訃報を受け、「硬骨漢、純愛に揺れる」と銘打ったいささか風変わりな追悼記事を掲載した(2003年4月7日付け夕刊10面)。「自らの信念をまげず、独りでも不正に立ち向かう硬骨漢ぶりは、72年の日本ペンクラブ批判にもあらわれていた」――と、その「硬骨漢」ぶりを伝える一方で「だが、40代後半からは「純愛」に揺れた」――。ここで言う「純愛」とは『片翼だけの天使』などに描かれた川崎・堀ノ内の元ソープ嬢、京子さんとの関係を言ったものだけれど(記事には2人が仲睦まじく頬ずりする写真も掲載されている)、それをただ「純愛」と形容するだけではなく、それに「揺れた」としているところがこの追悼記事のミソ。もっとも、記事にはどう「揺れた」かなんてことは何も書かれていない。しかし、本文でも「揺れた」と書き、見出しにもそう打ったというのはやはり相当なことだと言わなければならない。有り体に言うならばだ、この追悼記事の執筆者(署名は「加藤修」とあるので、現在、朝日新聞の書評サイト「好書好日」の編集長を務めておられる加藤修氏と思われる)は生島治郎は京子さんと知り合うことで変ってしまったと言っているわけだね。「揺れた」というのは、その婉曲表現。ギリギリそういう表現に止めつつ、しかし本音では強くそのことを惜しんでいる――。確かに一人のハードボイルド作家が〝老いらくの恋〟にわれを忘れる様は永年その人物を見つづけてきたものからしたら「見るに耐えない」といったところがあったのかもしれない。そして、そんなハードボイルド作家の〝色ボケ〟は作品にも表れていた、それが『女首領』や『上海カサブランカ』に描かれた、露骨この上もない、これぞ「ポルノ小説まがい」と言うしかないような濡れ場。特に『上海カサブランカ』は生島治郎の〝白鳥の歌〟であり、そればかりではなく一編のミステリー小説としても実にタフな企みに満ちたおよそ一筋縄ではいかない作品。そうした仕掛けを施した作家の心中をどうしたって忖度せざるをえないような、この作家の愛読者からしたならば特別な作品でもあるのだけれど(なお、この作品については某密林のカスタマーレビューに少し長めのレビューを投稿しておりますので興味のある方はご一読を……)、それだけにその中に↑のような「ポルノ小説まがい」の描写が含まれているというのはなんとも悩ましい限りで……。

 ――と、ここで話は冒頭に戻る(あ、なるほど!)。つまり、この6月以来、フランス書院の海外ポルノ小説シリーズを読み耽ってきたわけだけれど、その甲斐あってか、今やちょっとやそっとの濡れ場では驚かなくなったワタシがいる。従来、これはちょっとなあ……と思っていたような描写でも、久しぶりに読み返してみたところ、なんだ、これくらい……。そう、それが『女首領』と『上海カサブランカ』だったわけだけれど、いやー、ホントにそうでね。↑で指摘した『女首領』の下りにしたって、ロイ・カールスン著『あばずれ』みたいに236ページに渡ってただただ女性器をいじくり回すだけというなんとも振り切れた小説(ホントなんだよ。「ふっくらともりあがった土手を、ガードナーの親指が、それぞれ右と左へ、軽くひっぱった。土手がひっぱられるにつれて、土手のすぐ内側の柔らかなひだもひっぱられて、左右にわかれ、割れ目のピンク色の内部があらわになった」――てな感じの記述が236ページに渡って延々と続くんだよ。いくらなんでも引くよ……)を読んだ後では、むしろ抑制的と感じるくらいで。要するに、フランス書院の海外ポルノ小説を読み耽った結果としてワタシの中にこの種の世界に対する耐性が養われたということだろうね。で、別にこんなのどうってことないよなあ、と。そもそもだ、仮にハードボイルド小説に「ポルノ小説まがい」の描写が含まれていたとしても、それがどうだというのだ。ハードボイルドもポルノグラフィも煎じ詰めるならば「男の幻想」を具現化したものでしょう。そういう意味では似た者同士と言ってもいい。実際、ハードボイルドの中には「軽ハードボイルド」(by 都筑道夫)とも「通俗ハードボイルド」(by 山下諭一)とも呼ばれる軟派な変わり種があって登場する探偵氏はプレイボーイと相場が決まっている。当然、↑で志田司郎が示したようなストイシズムとはまるで無縁。それどころか、ほとんどお約束のようにブロンドの美女とベッドをともにすることになるという……。だから、その日本における伝道師たちが同時にポルノグラフィの伝道師でもあったというのは何ら不思議ではない、ということになる。そして、そんな彼らとは一線を画し、レイモンド・チャンドラーの衣鉢を継ぐ「正統ハードボイルド」の伝道師として歩みつづけてきた作家が最後の最後に「ポルノ小説まがい」の描写で永年の読者を戸惑わせたとしても――そんな時こそ、考えてみるべきなのだ、そもそもハードボイルドとは何なのかを。それが「男の幻想」を具現化したものであるという認識に正しく到達しさえすれば――きっと↑に紹介したような「ポルノ小説まがい」の描写も比較的スンナリと受け入れられる――はず……?