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鎌倉殿ノート①
〜三谷幸喜が三浦義村に割り振った「役割」について〜

 さて、いよいよ最終章が始まるわけだけれど、山本耕史演じる三浦義村については、ネット記事などでは北条義時の「盟友」と紹介されるのが常で、NHKの公式サイトでもそうハッキリと明記されている。しかし、実際のドラマでは、そのように描かれているとは言い難い。2人が誰某の追い落としを図って謀議をめぐらす、というような「盟友」という設定からは容易に想像されるようなシーンはほぼない。それどころか、2人の間には明確な上下関係が存在すると言ってもいいくらい。それは、たとえば稲毛重成の斬首に関る一連の描写に端的に表現されていた。この際、義時は「平六を呼べ。あいつにやらせろ。こそこそと隠れて動いた罰だ」。さらには、報告を終えてもなおもその場に留まっている義村に「下がっていいぞ」。これによって、2人の間には明確な上下関係があることがいささか容赦のないかたちで表現されていたと言っていい。それに対して、平六が去り際に見せた謎に満ちた笑みの深いこと深いこと。何層にも感情が折り畳まれているような……。結局、義村は義時の「スタッフ」ではないのだ。せいぜいが「ライン」。つまりは、義時の指示を受ける立場。義時の周囲は北条一族で固められており、そこに三浦が入り込む余地はない。そうしたこともあってか、『鎌倉殿の13人』というドラマにおける三浦義村の「役割」はきわめて限られたものになっていると言っていい。見せ場と言えるようなものも、意外なくらいに(これまで山本耕史が三谷大河で演じてきた役柄を思えば)少ない。思い浮かぶ限りでは、畠山重忠と和田義盛が伊東祐親を討ち取りに行った時、その前に(ムダにカッコよく?)立ちはだかったとか、例によって例のごとく見事な肉体美を披露してみせたとか(三谷大河で山本耕史といえばこれ)、傷心の大姫を(まるで坂崎磐音のように)慰めたとか、その程度。あとは、実朝にトンチキな「処世の術」を講義するなど、もっぱらコメディ・リリーフの役割を担ってきたと言っていい。はたして「山本耕史の使い方」として、これで正しいんだろうか? という疑問――というか、モヤモヤかな?――がワタシの中にはずーっとあって、それが最近では番組自体への疑問にもなりかけていたところなのだけれど……

 10月9日付けで公式サイトで公開されたインタビューを読んで、そんなモヤモヤの向こうにボンヤリと見えてきたものがある。というのも、インタビューの中で三谷幸喜は、『鎌倉殿の13人』の登場人物には古今東西の映画や舞台、小説の登場人物が投影されているとして、「三浦義村は『オセロー』に出てくるイアーゴー」だと言っているのだ。これは、なかなかのサプライズで……。イアーゴーというのは、ヴェニスのムーア人将軍であるオセローの旗手を務める人物で、表面上は忠実な部下(当人の言葉によれば「誠実イアーゴー」)を装いつつ、心底では激しい敵愾心を燃やしているという設定で、その感情は生半可ではない――

イアーゴー さあ、ひとつ伺おうじゃないか、やっぱりおれは、なんでもかんでもあのムーアに心中だてしなければならない男かどうか。
ロダリーゴー そんな奴に尾っぽを振る馬鹿がいるものか。
イアーゴー まあさ、お静かに。おれが奴に尾っぽを振っているのは、いずれはお返しをしようという寸法さ。誰も彼もが頭(かしら)になるというわけにはゆかないし、頭という頭が、心から子分に尾っぽを振ってもらうというわけにもゆかない。なるほど忠義一途の飛蝗(いなご)野郎というのはどこにもいる。おのが奴隷の境涯にありがたがって身を捧げ、傭主の驢馬そっくり、そうして一生を使い果すのはいいが、それもただ飼葉ほしさの一念からで、あげくのはては、老いさらばえて放りだされるのが落ちというわけさ。馬鹿正直もいいかげんにするがいい。そうかと思えば、猫かぶりの忠義面、手前の心はもっぱら手前のために取っておくという手合いがいる。主人にはせいぜい忠勤ぶりを御覧に入れておいて、絞れるだけ絞り取ろうという算段だ。そうして上著に裏を張り、懐が温くなりだすと、あとは手前だけをかわいがるというやつさ。こういう手合いには性根がある、それこそ、何を隠そう、かく言うおれ様。なぜと言って、そうだろうが、汝はまさしくロダリーゴー、しかしてその事実に誤りあき以上、もし予をしてかのムーアたらしめば、予はついにイアーゴーたりえざるは明かなりで、奴に尾っぽを振って見せてはいるものの、つまりはわれとわが身に尾っぽを振っているだけの話。いいか、「知る人ぞ知る」だ、誓って義理人情などのためではない、そう見せかけて、覘(ねら)いはもっぱらわが身の利益さ。正直な話、目に見える行いにこの胸底の心の動きをそのままをあらわに出して見せようものなら、それこそ事だ、たちまちにして、心臓を袖に引掛け、鳥につつかせるようなざまになる――おれは見かけとは違った男なのさ。
――福田恆存訳『オセロー』より

 こんなね、「面従腹背」を絵に書いたような男が三浦義村というキャラクターの中には投影されている――と三谷幸喜は明かしたわけですよ。ある意味では、ネタバレにも等しいんじゃないかという気もするんだけれど……ともあれ、そもそもの話として、三浦義村は「盟友」なんかじゃなかったんですよ。幼なじみであり、従兄弟ではあるけれど、決して「盟友」ではなかった。土台、近藤勇と土方歳三のような関係性など、鎌倉というトポスでは望むべくもなかったのだ。

 でね、こうなるといっそ清々するというか。思えば三谷幸喜は第25話を終えたタイミングで行われたインタビューでは山本耕史演じる三浦義村という役柄について尋ねられ、こんなふうに語っていた――「三浦義村はとても不思議な人で、どの局面においても何を考えているのかわからない。まずは、その面白さを生かしたいという思いがありました。それに加えて、演じる山本耕史さんの魅力ですよね。山本さんには、「新選組!」の土方歳三、「真田丸」の石田三成と、毎回僕の大河に出ていただいて、さあ今回は、山本さんにどの人物を演じてもらおうと思ったときに、つかみどころがないけど、かっこいい三浦義村をぜひ演じてもらいたいと思ったんです。第25回まで来ましたけど、案の定、いまだに三浦義村は、実際はどんなやつなのかわからない人物ですよね。もうここまで来たら、最後までその感じでいきたいなと。ただ、歴史好きな方であればご存じの通り、これから義村は暗躍しますからね。そして、せっかく山本さんに演じてもらうのだから、最後の最後に、義村の最大の見せ場を用意するつもりです。まだ言えませんが、物語の終盤、ラスボス的な存在で主人公に立ちはだかるのはこの男かもしれません」。この時点では、ワタシはまだ三浦義村は「盟友」だと思っていたので、それがなんで「ラスボス」になるのか、不思議でならなかったんだけれど、そもそもイアーゴーだったのなら、なんの不思議もない、ということになる。もっとも、仮に義村がイアーゴーのようにふるまったとしても(『オセロー』のイアーゴーはオセローに愛妻・デスデモーナのありもしない不義密通疑惑を吹き込んで嫉妬の沼に陥れる)、それで「ラスボス」というのでは、ちと弱い。また、オセローのように義時がのえをお手討ちにしたという史実もない。だから、義村はイアーゴーであるとしても、そのふるまいは全く違うものになるのだろう。

 では、鎌倉版イアーゴーである三浦義村は、どうふるまうことになるのか? そして、北条義時は最終的にどうなるのか? これについては、10月9日に放送された「『鎌倉殿の13人』応援感謝!ウラ話トークSP~そしてクライマックスへ~」の中で公開されたインタビューで相当のヒントを与えてくれている。その中で三谷幸喜はこう語っているのだ――「義時の人生を描くにあたって、最後、彼はどこに到達するんだろうか。それは、物語として最後に何を描くかと同じことなんですけども、僕が思った以上に、義時は結果ダークになっていくんですよね。色々な人の死に関わっていった彼が最後、幸せに亡くなっていいんだろうか、という思いが凄くあって。やっぱり、彼なりの最後というものをきちんと描くべきじゃないかという感じがしての最終回ですね。だから、あんまりない、大河ドラマではない、主人公のラストシーンになる……なった気がしますね」。どうやら、三谷幸喜としては、北条義時を幸せには死なせたくないらしい。北条義時の死は、公式には病死とされるものの、毒殺説もあって、その真相はベールに包まれている。である以上、三谷幸喜には相当のフリーハンドが与えられていると言っていいわけで、実際のところどういう手を繰り出してくるか、ほとんど予測は不可能な状況ではあるんだけれど(ワタシとしては、本郷和人教授が『婦人公論』の連載でお書きになっているのがいい線行っているんじゃないかという気がしておりますが、さて……)――物語の最後を飾ることになるであろう「北条義時の最期」で三浦義村が重要な役割を果たすことだけは間違いないでしょう。むしろ、本作における三浦義村は、その最後のシーンから逆算して作られたキャラクターだったのだ――と、そんなことが、今、朧げながら見えてきた……。



 ちょっとね、考えてみた。既に記したように、三浦義村は『鎌倉殿の13人』というドラマにあって、大した「役割」は果たしてきていなかった。その一方で、時々、妙なことを言ったりやったり。たとえば、梶原景時を追い落とす一連の政治謀略の過程で、問題の発端を作った結城朝光におそらくは金子(砂金かな?)が入っているのであろう巾着袋を渡してくれぐれも他言しないよう言い含める、という、え、すべては平六の策略だったの? と疑わせるようなシーンだとか(第28話「名刀の主」)、北条義時がなんとか畠山との衝突を避けようと奔走する中、時政に命じられて畠山重忠の嫡男である重保の捕縛に向かった義村はというと、時政から生捕りにするよう指示されていたにもかかわらず、あっさりと殺してしまって、おいおい、執権殿の命令にそんなに簡単に違背していいのかよ⁉ と(当の義村は「やらなければ、やられていた」と弁明していたものの、なぜかその場面はスキップされていたので事の真相は不明)。その真意がどこにあるにせよ、この義村の行動により、もう義時が望んでいたような事態の平和的解決は不可能となったわけで、てことは、「武士の鑑」と謳われた畠山重忠を討つに至る最終的なトリガーを引いたのは三浦義村ということ? そういうことになるんだけれど……ということとかね(第36話「武士の鑑」)。そういうことが、ちょくちょくあるわけですよ。

 一見して、大した事はやっていない。その一方で、ちょくちょく変なことをやっている。それが、『鎌倉殿の13人』というドラマにおいて、どういう意味を持つのか? ここはね、すべては伏線であると解釈すべき。そして、三浦義村がイアーゴーたる本性をさらけ出すことになるであろう最終回においてそれらが回収されることになる、と考えよう。そうすると、途方もない絵が見えてくるではないか。一見、ダークヒーローとしてすべての粛清劇を主導してきたように思える北条義時ではあるけれど、実は彼はそうするように仕向けられていたのだ。仕向けていたのは、他でもない、三浦義村――。それが明確に描かれていたのは梶原景時のケースだけではあるものの、それ以外のケースもよくよく見るとそういう絵柄が見えてくる。たとえば、比企能員の乱では、義村は比企から加勢を求められている。義村がそれにどう応じたのかは、ドラマでは明確には描かれていない。しかし、追いつめられた比企は「わしの身に何かあれば三浦も立つ」と。つまり、比企は三浦を味方だと思っていたわけで、そういう意味での言質は与えていた、ということになる。それによって比企をその気にしてしまった、という側面はあるわけで、それは、事実上、比企を焚きつけたに等しい。同じことは、畠山討伐に至る過程やいわゆる「牧氏事件」での行動にも当てはまる。畠山討伐の腹を固めた時政から祖父・義明が畠山重忠に討たれたことを引き合いに出して加勢を求められると、あたかもそれに応じたような行動を取っているし(この時は、畠山と戦うことになった場合、お前はどっちに付くんだと問われ、「決っているでしょ」と言って時政に酒を注いでいる。それによって、事実上の言質を与えるという描写になっていた)、「牧氏事件」の時も途中までは時政の意を汲んだかたちで動いている。これまた時政をその気にさせるのに大いに役立ったはず。そして、この後、描かれることになる和田義盛の乱においても、やはり義村は同じような「役割」を演じることになるはず。最初は義盛の誘いに乗って(起請文まで書いて!)、相手をその気にさせておいて、土壇場で裏切るというね。比企にしても、時政にしても、義盛にしても、仮に義村が加勢を拒んでいたら、それでも事を起こしただろうか? おそらくは、形勢必ずしも我に有利ならず、として、自重する道を選んでいたのでは? しかし、それは、三浦義村が望む展開ではない。三浦義村が望むのは、彼らが事を起こす展開であり、それによって彼らが「討伐」の対象になること。あるいは、ここはより義村の意図に即した言い方をするなら――北条義時が彼らを「討伐」せざるをえないような展開に持って行くこと――。だからこそ彼は比企や時政や義盛の誘いに乗って見せたのだ。また、畠山重保を捕縛に向かった際は、時政の指示に叛いて重保を殺し、それによって事態の平和的解決の可能性を閉ざし、畠山を「討伐」せざるをえないような展開に持って行った――その都度、義時が血の涙を流して「討伐」の決断を下した、そのウラで、邪悪なるイアーゴーよろしくほくそ笑みながら……。

 そう考えてくるとですね、もしかしたら三浦義村は頼朝の死にも関わっているのではないか? と。世間では、頼朝は義時によって毒殺されたという「考察」で囂しい。確かに義時が八田知家に言った「燃え残っては困るのだが」という一言は、それを疑わせるに足るもの。でも、ワタシの見るところでは、動機がないんだよね、義時には。頼朝が北条排除に動いたわけでもないし。北条は頼朝体制下で十分、優遇されていた。確かに後継が頼家なら、北条の血を引いているわけで、北条の血を引いた鎌倉殿を立て、北条の支配体制をより盤石なものにする、というリクツが立たないわけではない。しかし、だからと言って、殺さなければならない理由もない。それまでの義時の言動からしても、あまりにも唐突すぎる。だから、義時が頼朝を毒殺したという見立てはいかにも無理筋だとワタシは思うんだけれど……ただ、確かに頼朝はもう用済みだった。頼朝がいなくても鎌倉はやっていけるところまで来ていた。そして、もう頼朝は用済みだ、と傲然と言い放ち、かつそれを平然とやってのける男がいたとするならば、それは三浦義村しかいないでしょう。義村は「オレはあいつを信用していない」と言っていた。「首刎ねちまえよ」と言ったこともある。もう用済みとなったら、さっさと片づけてしまった方が安全ではある。であるならば、はたして義村にそれを躊躇する理由があったかどうか……。もっとも、そんな気配はドラマでは全然感じられなかったよね。だから、義村犯人説は義時犯人説よりも無理筋だとは思うんだけれど……ただ、ミステリーというのは不可能を可能にするものでね。大蔵御所の奥深く動揺が走る中、晴れ晴れとした表情で現われた義村がいかにも楽しげに「頼朝、死ぬらしいな」と言ったのは、まだ頼朝の病臥が公になる前。さらに、意気揚々と弓を引き絞り、的に向かって矢を放って見せた――。そんな姿を目の当たりにした義時は、あっ、とばかりに気がついた。実は、あの時、義時が頼朝に渡した水筒は、義村が用意したものだったのだ。ということは……。しかし、事はあまりにも重大。義時はすべてを自分の胸に納めることを決意。さらには、万が一にも事が発覚しないよう気を配り、八田知家に「燃え残っては困るのだが」とつい言わずもがなのことを言ってしまったのも、その思い余ってのこと……。ま、究極のこじつけではあります。でも、ミステリーの種明かしなんてえてしてこんなものでね。三谷幸喜が参考にしたというアガサ・クリスティーにしたって、言ってしまえば、この程度のものですよ。それを、大河ドラマでやるかどうかは、また別の話ではありますが……。

 ということで、この頼朝毒殺説の真相も含め(?)、最終回ではモロモロのことが一気に明らかになるとして――それは一体どんな展開になるのか? これがねえ、なかなか難しいところで。本郷説で行くならば、義時は義村に毒殺されることになるんだけれど、それだとのえ役に菊地凛子をキャスティングした意味がない。また、伏線の回収という意味でもなかなかストーリーを転がしにくい。いずれにしたって、義村にすべてを白状させる必要があるわけだけれど……だったら、逆に義時が義村に迫る? 平六、オレが知らなかったとでも思っているのか……。確かに本作の北条義時は、義村の真意を見抜けないほどお人よしではない。女を見る目はなくとも、男を見る目はある。実際、言っていたわけだから、「平六を呼べ。あいつにやらせろ。こそこそと隠れて動いた罰だ」。だから、彼は知っていた。知っていて、素知らぬ顔を決め込んでいたのだ。しかし、遂に対決する時がやって来る――。この場合、攻勢に出ているのは義時の方。義時はすべてのカードを晒してこれまでの義村の所業を白日の下に晒し、その責任を取らせようとするのだけれど――その〝論告〟がいよいよハイライトにさしかかろうかという時、つと襖戸が開いて膳を持ったのえが入ってくる。暗い、火のような沈黙。そんな中、のえは艶然と微笑んで2人の間に膳を置くのだが――その刹那、義村とのえの視線が交わったたように見えたのは、気のせいか? 退出するのえ。義村、それを見届けて、膳の上の徳利を取って義時に差し出す。一瞬、躊躇する義時。が、のえを信じ込んでいる義時は、結局は盃を差し出す。そして、一気に飲み干して、話を続けようとしたその時、突如、苦しみ出す義時。それを平然と見つめながら、暗く笑うメフィラス星人、いやイアーゴー、いや義村……。



 なんで義村は公暁をあんなふうに(自ら問い詰められるように仕向けてまで!)煽ったんだろう? その先に成算なんてないことを義村ほどの男なら当然、わかっていたはずなのに……と考えていたら、ハタと思いついたんだけどね(実は「ハタと思いついた」として全く別のことも書いております。最初にあっちを思いついて、その後、こっちを思いついた。もし順番が逆だったらあっちはなかったかもなあ……?)、三浦義村は、イアーゴーというよりも、メフィストフェレスでは? 要するに「誘惑者」。公暁を煽ったのも、そういう彼の本性を発揮しただけのこと……。

 確かに三浦義村はさまざまな人物を「誘惑」してきた。比企能員然り。北条時政然り。和田義盛然り。皆、程度の差こそあれ、三浦義村に「誘惑」されて事を起こし、身を滅ぼした。そして、今また公暁が身を滅ぼそうとしている(これを書いているのは第44話「審判の日」の放送後、第45話「八幡宮の階段」の放送前であります)。その「結果」に義村が果たした「役割」を考えるなら、彼はメフィストフェレスそのものではないのか? と。そして、そうであるならば、彼は次は北条義時を「誘惑」することになるはず。そして、確かに彼は北条義時を「誘惑」した――。承久3年5月19日、後鳥羽上皇から北条義時追討の院宣が下されたことを伝える弟・胤義からの密書を受け取った彼は直ちに義時に届け出るとこう言ったという――「義村は弟の叛逆には同心せず、(義時の)味方として並びない忠節を尽くします」(五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』より)。これが彼の「誘惑」だった。どういうことか? つまりですね、彼はあえて弟ではなく義時に付くことによって義時を上皇との戦いへと「誘惑」し、その結果として、勝とうが負けようが上皇に刃向かった「逆賊」として、未来永劫、歴史という法廷の被告人でありつづける――。それは、ある意味、「身を滅ぼす」以上の責め苦には違いないだろうし。

 しかし、そうなると、三浦義村をメフィラス星人に見立てたのは当りだったわけだ、メフィラスの語源はメフィストフェレスだそうなので。やはり最後は苦しむ義時を平然と見つめながら暗く笑うことになるのか、メフィラス星人、いやメフィストフェレス、いや義村……。



 惜しかったな。義時が義村に迫る、というのは合っていた。しかし、毒杯(と見せかけたもの)を勧めるのが義時の方とは。そして、進退窮まった、と思い込んだ義村が「毒を食らわば皿まで」とばかりに毒杯(と見せかけたもの)を呷ってイアーゴーたるオノレの思いの丈をぶちまけるというね。まあ、その毒を用意したのは自分なんだから、速効性がないことは知っていたんだろう。そういう意味では、ああなってもまだ当人としては「詰み」とは思っていなかったのかも知れない。しかし、毒杯(と見せかけたもの)がただの酒だと明かされた瞬間に「オレの負けだ」。これまで義時を操ってきたつもりでいた彼としては逆に義時に操られたと覚った瞬間にそういう認識となるのは理解できる。ここは『刑事コロンボ』などでおなじみの知能犯ならではの往生際の良さだね。しかし、「本当だ、喋れる」は見事だな。あれでコントにならないんだから。なんでも三谷幸喜からは事前に「なんとかやってくれると信じています」とメールが来たそうだけれど(ソース)。あれをコントに終わらせなかったのは偏に山本耕史の個人技ですよ。誰が言ったか、「令和の名優」。その本領発揮の名演技(追記:12月23日付けでSponichi Annexで配信された記事がスゴイ。「僕は普段、台本に書き込みはしない人なんですけど、ここに限ってはペンを手に、どの辺から台詞を崩していこうか、演技プランを練りました」と明かした上で「もちろん、どの役者も自分を演出するんですけど、このシーンに限っては自分の想像だけでは無理。今回は計算式みたいに台本に書き込みをして、俳優の自分と演出家の自分が確実に分かれていましたね」。その結果としてのあの〝神芝居〟。いやー、スゴイ!)。

 あと、この際だ、そんな名演技の最後に飛び出した〝衝撃の告白〟についても少しばかり書いておこう。例の「女子は皆、キノコが好き」というのは、その昔、平六が小四郎に吹き込んだ「でまかせ」だったというやつね。これについてネットでは「きのこ…お前かぁ!そしてショック受けるの、そこかぁ!w」「キノコ!最高やこのエンディング!」など「視聴者の爆笑を誘った」とされている(ソース)。でも、これって笑うこと? だってキノコというのは毒のメタファーでもあるのだから。実際、毒キノコが暗殺の手段に使われた例は、歴史上、数知れず。しかも、多くの場合、犯人は女。例えば第4代ローマ皇帝クラウディウスは毒キノコの中毒で亡くなったとされているのだけれど、ただの食中たりではなく、第2夫人アグリッピナによる毒殺とするのが定説になっている。ここは澁澤龍彦著『毒薬の手帖』より引くなら――

……すなわち、順当に行けば皇帝とその第一夫人メッサリナの息子であるブリタニクスが継ぐべき帝位を、ネロに継がせようとして、ネロの母であり皇帝の第二夫人であったアグリッピナが、有名な毒薬使いロクスタの手引きで、皇帝を殺害したのである。
 クラウディウス帝はキノコが大好物であったので、アグリッピナは彼にキノコ料理をつくって進上した。一節によれば、毒味役の奴隷ハローツスがカピトリヌム丘での野外の宴会のとき、キノコを取って皇帝に差し出したという。
 さらに、タキツスの『年代記』によると、皇妃アグリッピナの恋人であり医者であった、コス島生れのクセノフォンという者が陰謀に一枚加わっている。すなわち、皇帝が毒に当って胸がむかむかしてきたとき、この医者が駈けつけてきて、吐かせてやるという口実で、皇帝の咽喉の奥に、速効性の毒を滲ませた鳥の羽根を突っこんだのである。
 ネロは大いに満足して、即位式の日、「キノコは神々の供御である」という、後世に残る名言を吐いた。

 どう? いろんなイメージが駆けめぐるんじゃない? この記載を踏まえて、義時をクラウディウス、のえをアグリッピナに比定することは至って容易だし、そうなるとのえに頼まれて毒を手に入れた義村はロクスタということになるのかな? もっとも、ロクスタは女なんだよね。澁澤龍彦が記すところによれば――「彼女はふだんは親衛隊長の管理する牢屋につながれていて、なにか陰謀の計画があるごとに、その身を自由にされて、秘密の相談を受けた」。だから、「私に頼まれ、毒を手に入れてくださったのは、あなたの無二の友、三浦平六殿ね」というのえの告白を真に受けるなら、もしかしたら義村はロクスタに相当する女毒薬使いを雑色かなにかとして飼っており(ちょうど義時がトウを飼っているようなもの)、その都度、女毒薬使いに命じて毒を手に入れていたのかも。その都度――とは、源頼朝を殺したのは三浦義村である、ということを前提にしているわけだけれど……。ともあれ、↑に引いたような史実を踏まえるならば、平六が吹き込んだ「女子は皆、キノコが好き」とは、ネロが即位式の日に言ったという「キノコは神々の供御である」にも匹敵する悪の箴言ではないのかと。ま、三谷幸喜がそこまで考えていたとは思えない、と言われればそうかも知れないけどね。でも、歴史に照らすならば、「女子は皆、キノコが好き」というのは、あながちでまかせとも言い切れない――と、第48話「報いの時」をリピート視聴しつつ、そんなことを考えてみたり……。