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鎌倉殿ノート⑦
〜実朝暗殺から承久の乱へ至る「一本の線」について〜

 いやー、オモシロイ。義時はてっきり始末したつもりでいた仲章がいよいよ拝殿の儀という時になって矢庭に横手から現われてトウがしくじったことを思い知らされた上に御剣役という名誉を横取りされてしまうわけだけれど、結果的にはそれで命拾いするわけだよね。ということは、彼はトウがしくじったおかげで助かったことになる。つまり、トウとは『吾妻鏡』に記された「白い犬」の化身……。

 ということで、本題です。11月20日放送の第44話「審判の日」を見て、いろいろ考えている内に(もうね、考えざるを得ないですよ、あんな複雑なストーリーを見せられた日には……)、これまで全く見落としていた(あのだら長い「鎌倉殿ノート⑤〜三谷版「実朝暗殺」へのオールタナティヴについて〜」でも全く言及していない)ある可能性が浮かんで。ことによると、三浦義村の真の狙いはこれではないのかと……。まずは、あの八幡宮別当房と思われる場所(公式の「あらすじ」では「鎌倉殿への野心に燃える公暁(寛一郎)は三浦義村(山本耕史)のもとを訪れ」とされているものの、セットの様子や最後に盛綱が「公暁殿は別当房にはいませんでした。これが残っていました」として拝殿を終えて階段を降りて来る時の配列を記した図面――泰時は「帰りの行列の並び」と言っていた――を見せているので、場所は別当房と思われる)でのやりとりを振り返ろう。それは、書き出すとこんなやりとりになる――

公暁 明日、実朝を討つ。右大臣の拝賀式。実朝が八幡宮で拝殿を終えた帰りを襲う。
義村 鎌倉殿の首を討てば謀反人。御家人たちの心が離れないようにすることが肝心かと。
公暁 事を成した後、集まった御家人たちの前でこれを読み上げる。北条がわが父を闇討ちしたこと。実朝がひどい謀略によって鎌倉殿になったことを知らしめる。本来、鎌倉殿になるべきは誰なのかを示す。
胤義 これならばきっと御家人たちの心をつかむことは間違いございませぬ。
義村 そこでわが三浦の兵がすかさず打倒北条を叫ぶことに致しましょう。他の御家人たちは必ずついてきます。
公暁 すべては、明日じゃ。

 これを読んで(聞いて)、義村が言っていることをすべて額面通り信じてもいいだろう、と思われる方はまずいないでしょう。ま、この場面では義村が襟を直すことはなかったのだけれど、だからって本気だとも言えないだろうし。第40話「罠と罠」で和田義盛を煽った時だって襟は直していなかった。むしろ、襟を直すというのは、ある意図を持ったブロックサインと見なした方がいいのでは? いずれにしても、三浦義村というのは「言葉と思いが別の時」がしょっちゅうある。そう思って↑のやりとりを味読するならば、最初の「鎌倉殿の首を討てば謀反人。御家人たちの心が離れないようにすることが肝心かと」。これは、反語ってやつじゃないの? つまり、本当に彼が言いたいのは「そんなことしたら御家人たちの心が離れてしまう」。だから、その先には成算はないよ、と。しかし、若い公暁(『吾妻鏡』によれば、事件当時、20歳。これは数え年なので、満だと18歳?)にはそんな言葉の裏を読みとれるだけの経験値はない。言葉通りに受けとって、そんなことは百も承知だとばかりに「事を成した後、集まった御家人たちの前でこれを読み上げる。北条がわが父を闇討ちしたこと。実朝がひどい謀略によって鎌倉殿になったことを知らしめる。本来、鎌倉殿になるべきは誰なのかを示す」。で、これがちょっと意外なんだけれど、この言葉を聞く限り公暁はまだ自分が鎌倉殿になれると思っているらしい。でも、もう実朝の後継は後鳥羽上皇の皇子である頼仁親王で決まっているんでしょ? 史実は別として、この『鎌倉殿の13人』というドラマの中では。なのに、なんでそんなふうに思えるの? うん、それはね、「実朝の後継は頼仁親王で決まっている」というのは史実ではないことを公暁は知っているからだよ……? ま、この際、そこんところはあまり詰めないでおきましょうか。それよりも、それに対する三浦義村のリアクション。ここは、録画されている方はその録画で、NHKプラスで視聴可能な方はそちらで再確認して欲しいのだけれど、この公暁から渡された〝声明文〟を読んでいる時の義村の横顔がねえ、ワタシには「渋面」てやつに見えるんだよね。なにをオメデタイことを言ってるんだ、こんなんで鎌倉の御家人たちが納得するはずないじゃないか……。確かにねえ、公暁にどんな言い分があろうとも、御家人たちからすれば主君である鎌倉殿がそれも右大臣昇任を祝う晴れの式典の最中に惨殺されてその犯人である公暁に従うはずがないですよ。嘉吉の乱を見ろってんだ。赤松満祐に討たれた第6代室町将軍・足利義教は「万人恐怖」という人口に膾炙したフレーズで象徴される恐怖政治を敷いた暴君で織田信長のプロトタイプとの評価もある人物。しかし、後世の人間がどう評価しようが、同時代の人間からすれば恐怖の独裁者以外の何ものでもなく、伏見宮貞成親王は『看聞御記』で義教の治世を評して「薄氷を踏むの時節(踏薄氷時節)」云々。そうした暴君を結城合戦の祝勝のための宴の席で討った赤松満祐は、しかし、山名持豊や細川持常など幕府重臣総出の攻撃の前になす術もなく、最期は切腹して果てた。それが世の理というものですよ。だからね、こんな〝青年の主張〟みたいなものでなにがどうなるってんだ……と、あの渋面に滲み出たものを読みとるならばね。一方、兄ほどの政治的リアリズムを持ち合わせてはいないように見受けられる弟の方はというと――「これならばきっと御家人たちの心をつかむことは間違いございませぬ」。なるほど、こういう男ならば藤原秀康から鎌倉攻略法を尋ねられて「一天ノ君ノ思召立セ給ハンニ、何條叶ハヌ樣ノ候ハンゾ、日本國重代ノ侍共仰ヲ承リテ、如何デカ背キ進ラセ候ベキ」と言うだろうな。それに引き換え、兄貴の方はとんだ食わせ物と言うしかなく。そんなことは露も思っていないくせに、言葉の上では「そこでわが三浦の兵がすかさず打倒北条を叫ぶことに致しましょう。他の御家人たちは必ずついてきます」――と話を合わせてみせるのだから。間違いない、三浦義村は兵を挙げるつもりなどさらさらないんだよ。

 ――と、こんなふうにこの場面の三浦義村の心中を読み解いた時、では義村の狙いとは何なのだろう? と。そもそも頼家の死の真相を明かし(そういうふうに問答が向うよう誘導し)、「北条を許してはなりませぬ。そして、北条に祭り上げられた源実朝もまた、真の鎌倉殿にあらず」と公暁を煽ったのは彼なんだから。その扇動に煽られて公暁が実朝と義時を討ったところで、御家人たちの支持は得られないことを承知しつつ。それどころか、おそらく公暁は謀反人として討たれることになるだろう――と、三浦義村ならばきっとそこまで見通していたはず(自分が討つことになるかどうかは別にして。まあ、さすがにそこまでは見通していなかったかな? そこだけは、義時にしてやられた?)。そして、そうなるともう鎌倉には次の鎌倉殿になりうる存在(源氏の嫡流)はいなくなってしまうわけだけれど。いや、厳密に言うと、まだ阿野全成の子である阿野時元がいる。だけど、まさか実衣と結んで時元の擁立を図るとも思えないし(だって、あんなにバシバシどつき合っている間柄なんだから。それに、阿野時元の「謀反」なるものに三浦義村が関っていたことをうかがわせる記載は『吾妻鏡』を含めて一切ないんだ。ただ、三谷幸喜がとんでもない奇手を繰り出してくる可能性は、ある、というか。ま、これは、現時点では保留かな)。そうなると、一体、義村の狙いってなんなんだろう……?

 と考えていたら、ハタと思いついたんだ。いや、もう1人、鎌倉殿の有資格者がいるじゃないか! と。それは、禅暁。源頼家のもう1人の遺児で公暁の異母弟に当たる。実朝暗殺事件があった建保7年当時は仁和寺で修業中の身。で、実は『鎌倉殿の13人』では義村は公暁の乳母夫だったとされているわけだけれど、本当は禅暁の乳母夫だったという説があるんだよね(高橋秀樹著『三浦一族の研究』第7章「三浦義村と中世国家」参照)。もしやもしや義村の真の狙いは禅暁の擁立? 禅暁ならば、全く手は汚れていないわけだし、後継将軍として提案されれば鎌倉の御家人たちが反対する理由は何もない――。これはまたとんだ隠し球があったもので……。

 この禅暁、史実では実朝暗殺事件から約1か月後の建保7年2月26日、北条政子の使者として上洛し院の当局と皇子(鎌倉側の要望は「雅成親王か頼仁親王を」。決して「頼仁親王を」ではない。それが史料で裏づけられる史実で、つまりまだ実朝の在世中に頼仁親王の鎌倉下向で話がついていたというのはウソ、ということ。詳しくは「鎌倉殿ノート⑥〜大江広元の「一世一代の大仕事」について〜」をお読み下さい)の下向について交渉に当たっていた二階堂行光に伴われて鎌倉に向け下向の途に就いたことが『光臺院御室傳』なる史料(こちらは同書の当該箇所を紹介する「大日本史料」の当該ページ)で裏づけられる――

二月廿六日、前信濃守行光入洛、閏二月五日、召具禪暁闍梨(故頼家卿息)下向、

 これ、どういうことだと思う? 考えられるのは、鎌倉側としては後継の鎌倉殿としては後鳥羽院の皇子を第一候補としつつも、それが実現しなかった場合の代替案として禅暁を擁立することも選択肢には入れていた――、そういうことじゃないだろうか? じゃなきゃ、このタイミングで頼家の遺児を鎌倉に呼び戻したりはしないでしょう。そして、現にこうして二階堂行光に召され、鎌倉に向け出立したということは、それを後押しする政治勢力が鎌倉にいたということであり、それこそはわれらが三浦イアーゴー義村である……。ただし、言うまでもないことだけれど、禅暁が実朝の後継の鎌倉殿になることはなかった。いや、それどころか、禅暁が二階堂行光に伴われて下向の途に就いたことも、鎌倉に入ったことも、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には記されていない。そして、どうやら禅暁は鎌倉に入ることはなかったようなのだ。というのも、禅暁が修業していた仁和寺の記録『仁和寺御日次記』の承久2年4月15日条(こちらは同書の当該箇所を紹介する「大日本史料」の当該ページ)にこう記されているので――

四月十五日、癸酉、今夜禪暁阿闍梨(故頼家卿息)、於東山邊誅之、

 なんと、京都の東山辺りで誅殺されたと……。二階堂行光に伴われて鎌倉に向けて下向の途に就いたはずの建保7年閏2月5日から亡くなる承久2年4月15日までの約1年2か月の間に一体何があったのかは一切不明とのこと(ウィキペディア情報)。ただし、事実として述べるならば、承久元年6月3日、九条道家と西園寺公経の娘(名は掄子とか。父は太政大臣、夫は左大臣なので、とんでもないセレブ、ということになる)の間に生まれた三寅(後の藤原頼経)は次期鎌倉殿として鎌倉に下向。当時、わずか2歳。後鳥羽は、結局、鎌倉側の求めに応じて皇子を下向させることは拒否したものの、三寅が源頼朝の同母妹(坊門姫)の曾孫に当たることから最終的に三寅の鎌倉下向で双方が手を打った――ということになる。そんなタフな政治交渉の過程ではあのトキューサが兵1000騎を率いて上洛し、力の誇示に訴えた、というような出来事もあって、そうした軋轢が遂には承久の乱となって爆発することになるわけだけれど――ともあれ、この承久元年6月の時点で禅暁が鎌倉殿になる芽は完全に摘まれた、ということになる。いや、そもそもそんな芽があったのか? また、そのために三浦義村が動いたのか? それも一切不明。

 ただ、『承久記』慈光寺本によれば、あの政治的リアリズムにはいささか疎いところもあるものの、その分、青年将校ばりの一途さがあるように見受けられる三浦胤義は藤原秀康から挙兵計画への参加を誘われた際、先祖伝来の地である三浦や鎌倉を振り捨て都で宮仕えしているのには何か訳があるのだろうと訊ねられるのだけれど、それに答えてこう述べている――

……如何ト申セバ、胤義ガ妻ヲバ誰カト思食。鎌倉一トハヤリシ一法執行ガ娘ゾカシ。故左衞門督殿ノ御臺所ニ參テ候シガ、若君一人出來サセ給テ候キ。督殿ハ遠江守時政ニ失ハレサセ給ヌ。若君ハ其子ノ權大夫義時ニ害セラレサセ給ヌ。胤義契ヲ結デ後、日夜ニ袖ヲ絞ルムザンニ候。男子ノ身也セバ、深山ニ遁世シテ念佛申メレ、後生ヲモ吊マヒラスベキニ、女人ノ身ノ口惜サヨト申シテ、流㆑淚ヲ見ニ付テモ、万ヅ哀ニ候也。三千大世界ノ中ニ、黄金ヲ積テ候共、命ニカヘバ物ナラジ。勝テ惜キハ人命也。ワリナキ宿世ニ逢ヌレバ、惜命モ惜カラズ。去バ胤義ガ都ニ上テ、院ニ召サレテマイリ、謀叛起、鎌倉ニ向テヨキ矢一射ヲ、夫妻ノ心ヲ慰メバヤト思ヒ候ツルニ、加樣ニ院宣ヲ蒙コソ面目ニ存候ヘ。

 自分の妻は二代将軍・源頼家の愛妾で若君(禅暁)を生んだが、頼家は北条時政に殺されてしまった。さらに若君もその子の義時に殺されてしまった。自分は先夫と子を北条氏によって殺されて嘆き悲しむ妻を憐れに思い、鎌倉に謀叛を起こそうと京に上った……。かいつまんで言えば、そういうことになる。なんと、三浦は禅暁の乳母夫どころか、養父だったというのだ。であるならば、三浦が禅暁の擁立を図ることは当然すぎるくらい当然の選択。しかし、それは、自らが鎌倉の支配者であろうとする北条義時にとっては受け入れがたい選択肢。かくて、禅暁の鎌倉入りは阻止され、承久2年4月15日、京都の東山辺りで謀殺された……。承久の乱はその1年後に起きている。そして、挙兵計画に中心メンバーとして参加することになった胤義は鎌倉の兄に宛てて1通の密書を届ける。そこには、こう記されていた――「是應勅諚。可右京兆。於勲功賞者。可請之由。被仰下之趣載之」。訓み下すならば「これ勅諚に応じ右京兆(北条義時)を誅す可し。勲功賞に於ては請に依る可しの由。仰せ下されしの趣これに載す」。――と、こんなふうに史実を跡付けるならば、そこには一本の線が通っているのが感じられないだろうか? 実朝暗殺から承久の乱へ至る一本の太い線……。



 ただ、結局、義村は蹶起しなかったわけだよね。『吾妻鏡』によれば、義村は胤義からの密書を携えた使者を追い返すと、その密書を持って北条邸に赴きこう言ったという――「義村は弟の叛逆には同心せず、(義時の)味方として並びない忠節を尽くします」(五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』より)。とはいえ、三浦義村というのは「言葉と思いが別の時」がしょっちゅうあるわけで。この時も何か別の思惑がなかったとは言い切れないよね。それにだ、『吾妻鏡』では使者には「返事をせずに」追い返したとされているのだけれど、『承久記』を読むとちょっとニュアンスが違うんだよね。『承久記』の諸本の中でも「もっとも成立が早い」(ウィキペディア情報)とされる慈光寺本によれば、義村は使者に向ってこう言ったというのだ――「駿河守重テ云ハレケルハ、關々ノキビシケレバ返事ハセヌゾ。平九郎ニハサ聞ツト許云ヘヨトテ、弟ノ使ヲ上ラル」。意訳すれば、関所の管理が厳重なので、あえて返書は認めない。平九郎(胤義)には「話はわかった」と伝えよ――、そう言って使者を京都に帰した……。ね、相当にニュアンスが違いますよね。

 ということで、かねてから温めていたシナリオがあるんだ。三浦義村が承久の乱当時、画策して未遂に終わった空前(ただし、絶後ではない――)の軍事クーデター計画があったという設定での――。まずは『現代語訳 吾妻鏡』承久3年5月22日の条を示そう――

二十二日 乙巳。曇り。小雨がずっと降っていた。卯の刻に武州(北条泰時)が京都に出発した。従う軍勢は十八騎である。すなわち、子息の武蔵太郎時氏、弟の陸奥六郎有時、また北条五郎(実義)、尾藤左近将監(景綱)〔平出弥三郎・綿貫次郎三郎が従う〕・関判官代(実忠)・平三郎兵衛尉(盛綱)・南条七郎(時員)・安東藤内左衛門尉・伊具太郎(盛重)・岡村次郎兵衛尉・佐久満太郎(家盛)・葛山小次郎(広重)・勅使河原小三郎(則直)・横溝五郎(資重)・安藤左近将監・塩河中務丞・内島三郎(忠俊)らである。京兆(北条義時)はこの者たちを呼んで皆に兵具を与えた。その後、相州(北条時房)・前武州(足利義氏)・駿河前司(三浦義村)・同次郎(泰村)以下が出発した。式部丞(北条朝時)は北陸道の大将軍として出発したという。

 この日、乾坤一擲の大勝負を懸けて鎌倉を発った軍勢の陣容が記されているわけだけど、主力部隊である東海道軍の第1陣を率いるのは北条泰時。以下、第2陣は北条時房、第3陣は足利義氏、第4陣は三浦義村――という陣立てだった。注目は三浦隊の配置。これを見る限りはいわゆる殿軍(しんがり)だったことになる。殿軍というのは、撤退戦の場合は非常に重要な(あるいは、難しい)役割となるわけだけれど、こういう場合はどうなんだろう? 最後尾に回された――ということは、(この陣立てをしたのが北条義時であるという前提で考えるなら)北条義時の三浦義村に対する微妙に冷めた視線も感じられるような。だって、三浦義村の実の弟である三浦胤義は上皇方に付いているわけだから。いや、それどころか、かの名高い北条政子の大演説では「今、逆臣の讒言によって道理に背いた綸旨が下された。名を惜しむ者は、速やかに(藤原)秀康・(三浦)胤義らを討ち取り、三代にわたる将軍の遺跡を守るように」。つまり、三浦胤義は京方の中心人物という位置づけだったわけですよ。その実の兄に冷めた視線が注がれるのは当然っちゃあ当然。ただ、三浦義村からするならば、この殿軍というのは逆に好都合。だって、いずれかの地点で馬首を翻して鎌倉に攻め入ろうとなった時、それを阻止するものは何もないわけだから。しかも、その時、鎌倉はほとんど戦力という戦力は出払った状態だった。『吾妻鏡』によれば、鎌倉の留守を守っていたのは北条義時以外では既に出家して覚阿と名乗っていた大江広元や同じく善信と名乗っていた三善康信らの文官、また武官組でもやはり出家して尊念と名乗っていた八田知家など、もう第一線を退いた連中ばかり。要するに、実力部隊はほぼゼロだったと見ていい(『吾妻鏡』承久3年5月23日の条には留守部隊として北条義時以下15人の名前が列挙されているのだけれど、その内、実に11人が「○○入道○○」と記載されている。ネロ・ウルフふうに言うならば『坊さんが多すぎる』?)。だから、もし三浦の大軍が襲ってくれば抵抗する術もなかっただろう。要するに、三浦軍は労せずして鎌倉を占領することができたと。そうなると、京都には弟の胤義がいるわけだから、西と東から北条軍を挟み撃ち、ということにもなる。しかもそれは「治天の君」の命に従った行為――となれば、誰からも後ろ指を指される筋合いのない〝義挙〟。必勝は約束されたようなもの……。

 このストーリー、喩えて言うならば、三浦義村は元弘の乱における足利高氏の役割を演じるわけですね。元弘3年(正慶2年)3月、北条高時は隠岐からの脱出に成功した後醍醐天皇が船上山の戦いも制し京都に迫っている――との六波羅からの早馬を受け、名越高家(あの「俺たちの北条朝時」の子孫に当たる)に出陣を命令。その麾下には20名の大名が配され、その1人に足利治部大輔高氏がいた。この局面、高氏としては、執権から命令された以上は否も応もなかったわけだけれど、その心中にはおよそ北条高時には想像もつかない複雑な感情が渦巻いていた。『太平記』巻9「足利殿御上洛事」が記すところによれば――「我父の喪に居て三月を過ざれば、非歎の涙未乾、又病気身を侵して負薪の憂未休処に、征罰の役に随へて、被相催事こそ遺恨なれ。時移り事変じて貴賎雖易位、彼は北条四郎時政が末孫也。人臣に下て年久し。我は源家累葉の族也。王氏を出て不遠。此理を知ならば、一度は君臣の儀をも可存に、是までの沙汰に及事、偏に身の不肖による故也。所詮重て尚上洛の催促を加る程ならば、一家を尽して上洛し、先帝の御方に参て六波羅を責落して、家の安否を可定者を」。この言葉の通り高氏は入京(『太平記』によれば4月16日)と同時に使者を船上山に遣わして帰順を乞い、5月2日には後醍醐天皇の勅命を賜るや以後は王事に勤める旨の願文を篠村八幡宮に奉納している。そして、播磨国の赤松円心や近江国の佐々木道誉らと連携して5月7日には一気に六波羅探題を攻め滅ぼした。もしこのままだったら足利高氏は日本史上、並ぶもののない英雄(忠臣)になっていたはずなんだけれど……。承久3年と元弘3年では状況が違う。承久3年当時、まだ六波羅探題は設置されていない。だから、義村が幕府に反旗を翻し、攻めかかるとするならばやはり鎌倉ということにはなる。その点では新田義貞の役割ということになるわけだけれど、時の執権の命を受けて出陣しながら、途中で反旗を翻す、という意味でやっぱり足利高氏でしょう。ちなみに、承久3年5月22日、三浦義村は幕府軍の第4陣として出陣したわけだけれど、第3陣を率いていた足利義氏こそは高氏の5代前の祖先。なんでも鎌倉では承久の乱の故事を嘉例として合戦では足利隊が先陣を務めることが恒例となっていたとか。事実、『太平記』には「足利殿御兄弟・吉良・上杉・仁木・細川・今河・荒河・以下の御一族三十二人、高家の一類四十三人、都合其勢三千余騎、元弘三年三月二十七日に鎌倉を立、大手の大将と被定、名越尾張守高家に三日先立て、四月十六日に京都に着給ふ」とあって、幕府軍の「大将軍」である名越高家に先立って、言うならば先鋒として足利隊が出陣していたことが裏付けられる。つまり、足利高氏には、馬首を翻して鎌倉に攻め込む、という選択肢はなかったことになる。もし名越高家率いる本隊が先に行っていたら、足利隊は鎌倉を攻めることになっていたのかなあ……? ともあれ、そういう違いもありつつも、承久3年、三浦義村は後に足利高氏が演じることになる役割を演じる――

 はずだった。しかし、この軍事クーデター計画は未遂に終わった――と話を運ぶ場合、ネックになるのは、それはなぜなのか? ということをちゃんと説得力のあるかたちで語れるかどうか。実はですね、語れるんですよ。『吾妻鏡』では三浦隊は第4陣(殿軍)だったとされているわけだけれど、『承久記』では違うんですよ。たとえば、元和4年(1618年)刊行とされる古活字本では――

一陣ハ相模守時房・二陣武蔵守泰時・三陣足利武蔵前司義氏・四陣三浦駿河守義村・五陣千葉介胤綱トゾ聞ヘシ。

 まず、泰時とトキューサの順番が逆になっている。もしかしたら『吾妻鏡』の方は泰時の勲功をより大きく見せるための「曲筆」で、こちらの方が正しいのかも知れない。年齢から言ったってトキューサの方が上なわけだしね。その上で、注目すべきは、殿軍のはずの三浦隊の後に千葉胤綱の隊が配置されていること。これだと千葉隊が殿軍ということになって、三浦隊が馬首を翻して鎌倉に攻め入ろうとなってもまずは千葉隊を蹴散らす必要がある。それは決して容易なこととは思われず、ヘタをすると背後を足利隊に衝かれて千葉隊と挟み撃ちということにも。これでは、機動部隊としての独立性は失われたも同然。ただ幕府軍に組み込まれて前へ進むのみ……。

 こうした巧妙な陣立ては、当然のことながら、三浦義村には二心があると睨んだ北条義時が念には念を入れて仕立てたもの――と考えよう(今は、あくまでもワタシがかねてから温めていたシナリオの話をしております。決して史実としての承久の乱の話ではないので、誤解のないように……)。しかも、この陣立てがよくできているのは、三浦隊の背後に付け馬よろしく配置されたのが千葉胤綱に率いられた隊だということだね。千葉胤綱というのは、あの「もうすぐ死にます。じいさんはやめておきましょう」の千葉常胤の曾孫。しかも、三浦義村とはそれだけではない深ーい因縁がある。そう、あの『古今著聞集』に記されたよく知られたエピソード――「鐮倉の右府將軍家に。正月朔日大名ども參りたるけるに。三浦の介義村もとよりさぶらひておほさぶらひの座上に候けり。其後千葉の介胤綱參りたりける。いまだ若者にて侍りけるに。多くの人をわけ過て。座上せめたる義村が猶上に居てけり。義村しかるべくも思はでいきどほりたる氣色にて。下總犬はふしどをしらぬぞよといひたりけるに。胤綱すこしも氣色かはらでとりあへず。三浦犬は友をくらふ也といひたりけり。和田左衞門が合戰の時の事を思ひていへるなり。ゆゝ敷とりあへずはいへりける」。口の悪い三浦義村に「下總犬はふしどをしらぬぞよ」と嫌味を言われて気色ばむかと思いきや、顔色ひとつ変えずに「三浦犬は友をくらふ也」と言い返したというね。北条義時は両者のそうした因縁も承知した上で千葉胤綱に三浦義村の監視を命じていた――。叛意を胸に鎌倉を出た三浦義村ではあったが、背後を「千葉の若造」に固められて、はたして「万事休す」と思ったのかどうか……? なお、このシナリオの結末はまだ考えておりません。三浦義村が承久の乱当時、画策して未遂に終わった空前(ただし、絶後ではない――)の軍事クーデター計画をめぐる未完のシナリオ(案)……。



 ところで、三浦胤義は後鳥羽院の近臣である藤原秀康に誘われて挙兵計画に参加することになるわけだけれど、その藤原秀康は三浦一門だった可能性がある――つーか、そういう説がある。なかなか込み入った話ですぐには頭に入ってこないと思うんだけれど――『尊卑分脈』によれば、藤原秀康の父は藤原秀宗で、この秀宗について注記として「實者和田三郎平宗妙子也」云々。つまり、和田三郎平宗妙なる人物の子だというんだね。しかし、この和田三郎平宗妙が秀宗の父の秀忠の外孫に当たるとかで藤原家(藤原秀郷の流れを汲む藤原北家秀郷流藤原家)を相続して藤原秀宗と名乗った――と、『尊卑分脈』に記されていることを解釈するならばそういうことになる。で、ここまではいいとしてだ、この和田三郎平宗妙についてあの和田義盛の弟で「和田合戦において和田一族の中でただ1人北条方に付き、従兄弟の朝比奈義秀に討たれた」(ウィキペディア)とされる和田宗実に比定する説がある。ウィキペディアが典拠として挙げているのは浅香年木著『治承・寿永内乱論序説』(法政大学出版局)で、この本、富山県立図書館の「とやまの本」(富山県関係の書籍を集めたコーナー)にも収められており、ワタシも読んだことがあるのだけれど、確かにそれに類したことは記されている。ただし、『尊卑分脈』のいずれかの写本に注記のさらに注記として「宗実カ」と書き込まれているとして、それを踏まえるかたちで――「注記を信頼すれば、東国の有力御家人和田一族の庶流の出身であったことになる」と書かれているだけ。なお、国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できる『本朝尊卑分脈』にはこの「宗実カ」という書き込みはない。もし浅香氏がテキストとしたのが前田家所蔵本だったとしたら(浅香年木は石川県金沢市生れで同書刊行時は石川工業高等専門学校教授)、それは前田家の誰かさんの書き込みということになる。それをどこまで信用していいものやら? 大体さ、藤原秀康からすれば祖父に当たる和田三郎平宗妙が和田義盛の弟の宗実だとしたら、義村・胤義兄弟からしたら秀康は従兄弟の孫になるわけで、えーと、従姪孫(いとこ大甥)? 正直、こんな言葉があることさえ知りませんでしたが、ウィキ先生によるとそういうことになるようです。ともあれ、和田義盛やその従兄弟である義村・胤義兄弟からは世代が3つも違うことになるわけだから、世代的に合わないんじゃないの? ということで、結局、この説は三浦氏研究の第一人者である高橋秀樹が『三浦一族の研究』(吉川弘文館)で否定している。もし仮に藤原秀康が三浦一門だったとしたら、なかなか面白いっちゃあ面白いんだけどね。そういえば、第4話「挙兵は慎重に」ではあんなことがあったなあ……。覚えている人、いますかねえ。頼朝がすったもんだの揚げ句に遂に(ようやく?)平氏打倒の兵を挙げるまでを描いた回だけれど、叔父の行家がもたらした以仁王の令旨にも応ぜず慎重居士を決め込んでいた頼朝が最終的に挙兵を決意することになった決め手は後白河法皇からの密旨を賜ったことだったとされていた。でね、その密旨は大番役から戻った三浦義澄がもたらしたことになっていた。その際の義澄と時政のやりとりが実にケッサクで――

義澄 これを見ろ、法皇様の密旨だ。
時政 法皇様⁉
義澄 都をたつ時に、福原に呼ばれた。
時政 法皇様がわしに……。
義澄 違う! 佐殿にだ。法皇様からじきじきに頼まれた。
時政 何で法皇様がお前に。
義澄 じきじきにというのは大げさだが、俺が伊豆に帰ることを法皇様がお耳にされて。
時政 法皇様に召し出されたのか。
義澄 召し出されたというか、お使いが見えて、これを渡された。
時政 本物なのか。
義澄 決っているだろ。ほら、いい匂いがする。
時政 本当だ。

 もっとも、時政はこの密旨を「多分、偽物です」と言って安達盛長に渡し、頼朝の目に触れるのは最後の最後になってからなんだけれど……。ともあれ、頼朝挙兵の大義名分となる後白河法皇の密旨は三浦義澄の手によってもたらされた――と第4話「挙兵は慎重に」では描かれていたわけですよ。で、ここで1つ注目すべきは、三浦義澄が後白河法皇の密旨をもたらした、なんてことを書いている史料なんてないこと。では、史料では頼朝に後白河法皇の密旨をもたらしたのは誰だとされているのか? それは、文覚だとされている。そう、あの市川猿之助が演じていた〝怪僧〟。『平家物語』巻第五「福原院宣」によれば「そもそも、頼朝勅勘を許りずしては、いかでか謀反をば起こすべき」と挙兵をためらう頼朝に「それやすいこと、やがて上つて申し許いて奉らん」と言って福原に上った文覚はわずか8日で戻ると「すは、院宣よ」。なんともインチキ臭い話ではあるんだけれど、頼朝は「院宣と聞くかたじけなさに、手水、漱をして、新しき烏帽子、浄衣着て、院宣を三度拝して、開かれたり」。で、第4話「挙兵は慎重に」にも文覚は出ていたわけだから、『平家物語』の記載通り、文覚によって院宣(密旨)がもたらされた――としてもよかったはず。しかし、なぜか三谷はその役を三浦義澄に振り替えた。当然、三谷なりの意図があってのことだろうけれど……もしかしたら、藤原秀康は三浦一門だったという説を採用した? で、↑に出てくる「お使い」とは藤原秀康のこと。そうなると、三浦は藤原秀康を通じて後鳥羽サイドと繋がっていた、ということになるわけで、もしやもしや、今後、描かれることになる阿野時元の「謀反」(『吾妻鏡』では「宣旨を賜って東国を支配しようと企てたもの」とされている)や承久の乱で後鳥羽上皇の意を体した三浦義村が三谷言うところの「ラスボス的存在」として暗躍する――と、そんなストーリーが展開されることになる? ま、ワタシ的には、あまり推したいシナリオではないんだけどねえ……。



 読めたぞ……。

 公式サイトの第47話「ある朝敵、ある演説」の「あらすじ」にこう書かれている――「幕府の後継者争いが発端となり、乱れる京。朝廷の象徴である内裏が焼け落ちると、後鳥羽上皇(尾上松也)は再建費用を日本中の武士から取り立てることを決める。しかし、北条義時(小栗旬)は政子(小池栄子)と大江広元(栗原英雄)の支持を得て、要求を先送りにすることを決断。泰時(坂口健太郎)をはじめ御家人たちが後鳥羽上皇との関係悪化を心配する中、三浦義村(山本耕史)は京で大番役を務める弟・胤義(岸田タツヤ)に……」。この最後の意味あり気なフレーズから読み取れるものは、義村が京の胤義に何らかの指示を出したということであり、その後の展開を考えるならその指示とは朝廷への働きかけ以外には考えられないでしょう。要するに三谷は義村は胤義を介して朝廷に働きかけ、義時追討の院宣を賜った、というストーリーを紡ごうとしているということ。もちろん、そんな史実はないわけだけれど、とはいえ三谷は第25話を終えた時点でのインタビューで三浦義村について語る中で――「これは僕のアイデアなんですけど、彼は最後の最後に大博打を打とうと考えているかもしれません」。だったら、これくらいのことはやってきたって全然おかしくない。で、そうなると、三谷幸喜はガチで三浦義村に足利高氏の役割を演じさせようとしているということになる。だって、このストーリーは高氏が使者を船上山に遣わして帰順を乞い、後醍醐天皇の勅命を賜ったのと完全に軌を一にするわけだから。ただ、その先はどうするつもりだ? 史実では三浦義村が足利高氏のように幕府に反旗を翻すことはなかったわけだけれど、そこも改変する? いや、史実は改変せずに、このアポリアを解決する方法が1つだけある。それは「一人二役」。三浦義村役の山本耕史に足利高氏も演じさせる……。早い話がですね、鎌倉を出撃した三浦義村をいずれかの地点で元弘3年の日本にタイムリープさせて六波羅探題を攻め落とさせるのだ。実は、これを裏づけるようなことを12月3日に放送された「土曜スタジオパーク『鎌倉殿の13人』特集in京都」で当の山本耕史が語っているのだ――「あと3回なんですけども、こっから大河ドラマが始まると言っても過言ではないくらいの、ちょっと衝撃的な……いや、スゴイですよ」。いいですか、もう残すところ3回だってのに「こっから大河ドラマが始まると言っても過言ではないくらい」ですよ。そりゃあ、ねえ、ここまで三浦義村を演じてきた山本耕史が新たに足利高氏も演じるってんだからそういうことにもなるでしょう(つーかね、冒頭で近藤春菜はこう言ってるんだよ――「ゲストの方をご紹介しましょう。あの策士が一人二役、上洛です。山本耕史さんでーす」。これ、完全なネタバレ発言じゃん……)。で、三浦義村が足利高氏に転生して六波羅探題を攻め落とすのなら、鎌倉を攻め落とすのは……畠山重忠から転生した新田義貞? 畠山重忠は武蔵、新田義貞は下野の武将なので、類似性はある。最後に北条氏を滅ぼすのが畠山重忠から転生した新田義貞ならば実に胸熱じゃないか! で、北条高時は小栗旬、北条泰家(高時の弟)は瀬戸康史、北条守時(最後の執権)は坂口健太郎。あと、当然のことながら、後醍醐天皇は尾上松也だね。えーい、悪乗りを承知でもう1コだけ書いておくなら、既に出番が終了しているにもかかわらずなぜか12月18日放送の最終回に合わせて開催される『大河ドラマ「鎌倉殿の13人」グランドフィナーレ』に出演することが発表され、最終回に登場するのでは? と憶測を呼んでいる宮沢りえには高氏の正室である登子に扮してもらおう。登子は高氏が室町幕府を開くや御台所として権勢を振るい、貞治2年には従二位に叙せられている。その身分は北条政子と並ぶものだったと言っていい。これならば彼女(りく)の野心も満たされるでしょう。そして、これでこそ宮沢りえが最終回のパブリックビューイングに登場する意味もあるというもの。そもそも三谷幸喜は10月9日に放送された「『鎌倉殿の13人』応援感謝!ウラ話トークSP~そしてクライマックスへ~」の中で公開されたインタビューでこんなことを語っている――「義時の人生を描くにあたって、最後、彼はどこに到達するんだろうか。それは、物語として最後に何を描くかと同じことなんですけども、僕が思った以上に、義時は結果ダークになっていくんですよね。色々な人の死に関わっていった彼が最後、幸せに亡くなっていいんだろうか、という思いが凄くあって。やっぱり、彼なりの最後というものをきちんと描くべきじゃないかという感じがしての最終回ですね。だから、あんまりない、大河ドラマではない、主人公のラストシーンになる……なった気がしますね」。これはなかなかに想像力を駆り立てるコメントではあるわけだけれど、いずれにしても三谷は最終回で彼なりの「北条義時の最期」を描くと言っているわけだね。その義時はと言えば大河ドラマ史上、前例がない「ダークヒーロー」で、ここまで散々「悪業」を積んできた。そして「あの米蔵で木簡を数えていた小四郎」(by和田義盛)をしてここまでダークならしめたものとは一言で言うならば「北条の世を安泰としたい」というこの思いでしょう。そして、それは成功しつつある。第46話「将軍になった女」でのえの父で十三人衆の1人でもある二階堂行政は「俺の見込みではこれから数百年は北条の天下だ」。しかし、二階堂行政の見込みに反して北条の世はそれから約110年後の元弘3年(1333年)には脆くも滅び去ってしまう。しかも北条高時ら幕府要人800余人が北条氏の菩提寺である東勝寺で集団自決を遂げるというこの上もなく凄惨なかたちで――。それは、義時以来、この一族が積んできた「悪業」が遂に耐えきれなくなって「パンケーキ・クラッシュ現象」(世界貿易センタービルのあの信じられないような崩壊の仕方を説明するとされる理論)を起こした結果――と見なしたとしてもあながち的外れとは言えないだろう。そうなると、本当の意味で「北条義時の最期」を描くとは「北条氏の最期」を描くことではないか? うーん、われながらこれは説得力があるというか(笑)。こうなると、この記事のタイトルも変えた方がいいかな、「鎌倉殿ノート⑦〜実朝暗殺から元弘の乱へ至る「一本の線」について〜」と……?



 ま、考えてみれば、大河ドラマでタイムリープはないわな。ただ、その代わりと言ってはなんだけれど、あそこまで傷だらけになって築いた「北条の世」がそれから109年後には世にも凄惨なかたちで終焉することになる、その因果律のようなものは物語のどこかに仕込んでおくべきではなかったか? そうしたものが読みとれなかったのはちょっと残念(多分、その役割を担うべきは運慶ではなかったか? 三谷幸喜のオルターエゴと見なしうる存在……)。あと胤義はどーなっちゃたわけ? いや、ワタシは知ってるよ。でも、予習をせずにドラマに臨んだ大多数の視聴者にとっては謎でしょう。それは「三浦の物語」であって「北条の物語」ではない、ということかもしれないけれど、ちょっと不親切。しかも、史実はこの上もなく痛ましいもので、当の胤義ばかりではなく子ともども西山の木嶋(現・京都市右京区太秦の木嶋坐天照御魂神社)で自害。しかもドラマでは義村は泰時の首を手土産に京に入ると言っていたわけだけれど、『吾妻鏡』によれば、話は逆で、義村は胤義の首を泰時に差し出している。曰く「廷尉(胤義)の郎従がその首を取り、太秦の宅に持って行くと、(三浦)義村はこれを探し出し、泰時の館に送ったという」(『現代語訳 吾妻鏡』承久3年6月15日条)。さらに『承久記』古活字本によれば、三浦の大矢部に残していた5人の幼子らも1人を除いて首を刎ねられた。同書に曰く「胤義其罪重シトテ、彼ノ子供皆可切ニ定メラル。叔父駿河守義村是ヲ奉テ、郎党小河十郎ニ申ケルハ、屋部ヘ参テ申サンズル様ハ、力不及」云々。要するに、義時に命じられた義村が家来に命じて幼い甥子らの首を刎ねたと。「力不及」ってんだから、彼なりに助命に尽力はしたんだろうけれど……。ドラマでは胤義は義村の意を体して動いていたことになっている。であるならば、こうした結果となった責任は偏に義村にあるということになる。それをどう受け止め、どう乗り越えてあの義時との対決の場に臨んでいたのか? 三谷幸喜はその一端なりとも語らせるべきではなかったか。あるいは、それもまた「三浦の物語」であって「北条の物語」ではない、ということか? それにしても、土曜スタジオパークでの近藤春菜の発言は何だったんだろう。ワタシの聞き間違いでなかったとしたら……番組プロデューサーに頼まれて(近藤春菜は事前の打ち合わせにはプロデューサーが同席していたことを明かしていた)世の「考察班」を惑わすミスディレクションに一役買っていたとか……?