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鎌倉殿ノート②
〜「俺たちの北条朝時」について〜

 三浦義村ふうに言うならば、そう来たか……。

 10月16日放送の第39話「穏やかな一日」からOPクレジットのトメが三浦義村役の山本耕史になったことは、ネット記事にもなっていた。記事を書いたものの意図としては、これで物語のラスボスが三浦義村であることがハッキリした、という点にあるのだろうけれど――そして、それも1つのシニフィエではあるけれど――山本耕史がトメを務めることについては、それとは少しばかり違った意味合いで受け取ったものも少なくないのでは? おそらく『鎌倉殿の13人』は大河ファンを公言する三谷幸喜の集大成となる作品。いかに彼が「希代のヒットメーカー」とはいえ、さすがに4度目はないだろうから。だから、第3作となる本作が三谷大河の集大成――、これはまず間違いないでしょう。で、そのトメを、しかも番組の最終盤になって務めるのが山本耕史であるというのは、一部の大河ファン――就中、三谷大河のファン――にしたら、ある種の感慨を抱かずにはいられない出来事。山本耕史という俳優は、三谷の大河初陣となった『新選組!』では土方歳三を演じていた。その12年後、三谷にとってはある種のリベンジ(『新選組!』は、一部では熱狂的な支持を得たものの、一般的な評価は必ずしも高いとは言えなかった)という意味合いもあっただろう『真田丸』では、石田三成を演じていた。そして、『真田丸』好評の余勢を駆って、わずか6年というインターバルで担当することとなった本作では三浦義村を演じているわけだけれど……気がついている人は、どれくらいいらっしゃいますかねえ。実は、この3人、すべて名前に「三」が入っている。偶然? いや、そんなはずはない。三谷幸喜の名前の一字でもある「三」が入った3人の武将を偶然にも1人の俳優が演じた――としてこの件をやり過ごせる人は、よほど人生を事務的に生きているに違いない。これはね、意図的ですって。名前に「三」が入った3人の武将とは、それらの作品における三谷幸喜の代理人なんですよ。あるいは、三谷幸喜が自らの思いを託す役柄――。その役柄を三谷幸喜は山本耕史という俳優に割り振ってきたわけだけれど、その山本耕史が遂に(しかも、番組の最終盤で)トメ俳優になったということは、単に『鎌倉殿の13人』に止まらず、三谷大河の大団円を飾るものとして、やはりある種の感慨を以て受け止めざるを得ないですよ。

 ただし、これによって物語のラスボスが三浦義村であることがハッキリした――というのも無視できないシニフィエではあるよね。無視できない、あるいは、含みのある……。三浦義村がラスボスだということは、ウラを返せば、本作のラスボスは後鳥羽上皇ではないということ。これはねえ、『鎌倉殿の13人』が北条義時を主人公とすることを考えるなら、相当の奇策。普通ならば、ラスボスは後鳥羽上皇ですよ。北条義時が生涯で相対した最大の敵が後鳥羽上皇だったのは間違いないのだから。ただし、それがなかなかに難しい問題を孕んでいることもまた事実。なにしろ、相手は太上天皇なのだから。主人公が太上天皇と戦って、負けるならまだしも、勝って相手を島流しにするというドラマを作れるものかどうか。就中、公共放送であるNHKがね。それはいかにも難易度が高そう。とはいえ、北条義時を主人公にしながら承久の乱を描かない、というのもあり得ない選択だろうし。ホントにさあ、一体どうするつもりなんだろう………と、『鎌倉殿の13人』の製作が発表された時点から思っていた。そんな難題に三谷幸喜とNHKが出した答が、ラスボスを後鳥羽上皇とするのではなく、三浦義村とする奇策――。実はね、そこまで具体的ではないんだけれど、こうした方向性みたいなものだけは第15話「足固めの儀式」を見た時点でなんとなく。第15話では、「最も頼りになる者は、最も恐ろしい」という実に勝手なリクツをつけて上総広常が誅殺されることになるわけだけれど、三谷幸喜が(部分的に)典拠とした『愚管抄』では上総広常が誅殺された理由はそういうことじゃないんだ。上総広常が「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ。タゞ坂東ニカクテアランニ誰カハ引ハタラカサン」、要するに、朝廷が何を言ってこようが、オレたちゃオレたちで坂東でやっていこうぜ――と、朝廷を蔑ろにするようなことを言ったというのだ。それを朝廷に対する謀叛の志と捉えて、「力ゝル者ヲ郞從ニモチテ候ハゞ。賴朝マデ冥加候ハジト思ヒテ。ウシナイ候ニキトコソ申ケレ」――というのが、『愚管抄』に記された上総広常誅殺の理由。三谷はそれを堂々と改変して見せたわけだけれど、当時、ワタシはその心中を忖度して、結局、三谷としては、『鎌倉殿の13人』という物語から、極力、「朝廷対武家」というモチーフを排除したいんだろう、と。『鎌倉殿の13人』というドラマのハイライトとなるであろう承久の乱を展望した時、そのようなモチーフが仮初めにも物語に持ち込まれた場合、逃げられなくなってしまう。だから、徹底してその種のモチーフは排除してかかる――、それが三谷幸喜ならびに制作スタッフの判断なのではないか――とね。「そして、それは、正解なのかもしれない。こんな難しい時代(令和)にこんな難しい時代(鎌倉)を描くためには、「曲筆」もまた必要である」……と、そんなことを当時は書いたりしたわけですが(詳しくは「「元暦延元」の故事を論ず。〜浪の屋島にデ・ファクトの王朝はあり〜」の追記部分を参照)、それは間違いではなかったなと。そして、いよいよ物語は「北条義時対後鳥羽上皇」というクライマックスへ――ではなく、「北条義時対三浦義村」というクライマックスへ向けて突き進んでいく――と、第39話「穏やかな一日」のクレジットは、そうワレワレに告げていた――と、まずはそういうことを書いておいて――

 第39話「穏やかな一日」で初お目見えとなったのが、北条義時の次男、朝時。これがどうしようもないクズ野郎として描かれていたことについては(も)ネット記事になっていた。で、どうやらドラマで描かれたようなことは実際にあった(それを裏付ける史料がある)らしいんだけれど、北陸道の住民としては、なんとも複雑というか……。北条朝時は、承久の乱における北陸道ルートでの戦い(承久の乱というのは、鎌倉方が東海道、東山道、北陸道という3つのルートで京に攻め上るという一大オペレーションを敢行したというのが最大の特徴で、そのスケール感は関ヶ原の戦いを超えており、日本史上、匹敵するのは戊辰戦争だけでしょう。ちなみに、戊辰戦争は同じルートを逆に辿るかたちで行われており、当然のことながら、京都で采配を振るっていた面々はこのことを意識していたはず。つまりだ、京方は約650年の時を経て承久の乱のリベンジを果たしたのだ。また、三谷幸喜は、『新選組!』で戊辰戦争を描き、『鎌倉殿の13人』で承久の乱を描く――ということは、18年を費やしてこの650年を遡った、ということになる。こんな大河作家、後にも先にも彼一人……)の鎌倉側の「大将軍」だった人物。どうせならねえ、もう少しパリッとした若武者であってくれたらと。もっとも、『鎌倉殿の13人』で北陸道ルートでの戦いが描かれることはまずないだろうから、坂口健太郎だろうがアレだろうが、変りはないっちゃあないんだけどね。ただ、もしかしたら、という気がしないでもないんだ。というのも、北条朝時というのは、どうやら北陸道ルートでの戦いでも相当のクズだったらしいので。だから、三谷幸喜のことだから、その辺をいじってくる可能性はあるかも……ということで、こっからは北条朝時の北陸道ルートでの戦いぶりについて少しばかり。

 まず、承久3年5月30日に越後・越中の国境である蒲原なる地で繰り広げられた「蒲原の戦い」について『承久記』古活字本はどう記しているかというと――

式部丞朝時ハ、五月晦日越後國府中ニ著テ勢汰アリ、枝七郞武者、加地入道父子三人・大胡太郞左衞門尉・小出四郞左衞門尉・五十嵐黨ヲ具シテゾ向ケル。越中・越後ノ堺ニ蒲原ト云(難)所アリ。一方ハ岸高クシテ人馬更ニ難通、一方荒磯ニテ、風烈キ時〔ハ〕船路心ニ不任、岸ニ添タル岩閒ノ道ヲ傳フテトメ行バ、馬ノ鼻五騎・十騎雙ベテトオルルニ不能、僅ニ一騎計通ル道也。市振淨土ト云フ所ニ、逆茂木ヲ引テ宮崎左衞門堅メタリ。上ノ山ニハ石弓張立テ、敵寄バ弛シ懸ント同意シタリ。人々如何カ可爲トテ、各區ノ議ヲ申ケル所ニ、式部丞ノ謀ニ、濱ニ幾等モ有ケル牛ヲ捕ヘテ、角先ニ續松ヲ結付テ、七八十匹追續ケタリ。牛續松ニ恐レテ走リ突ト下ケルヲ、上ノ山ヨリ是ヲ見テ、アハヤ敵ノ寄(來)ルハトテ、石弓ノ有限外シ懸タレバ、多ノ牛被打テ死ヌ。去程ニ石弓ノ所ハ無事故打過て、夜モ曙ニ成ケルニ、逆茂木近押寄テ見レバ、折節海面ナギタリケレバ、〔賤木尻吹ノ〕早雄ノ若者共汀ニ添テ、馬强ナル者ハ海ヲ渡シテ向ケリ。又足輕共手々ニ逆茂木取除サセテ通ル人モアリ、逆茂木ノ內ニハ、人ノ郞從ト覺シキ者二三十人カヾリ燒テ有ケルガ、矢少々射懸ルトイヘドモ、大勢ノ向ヲ見テ、〔皆〕打捨テ山ヘ逃上ル、其閒ニ無事故通リヌ。

 これを読んで、まず思うのは、え、「角先ニ續松ヲ結付テ」? ということは、「火牛の計」? ということだろうと思うのだけれど……この『承久記』古活字本、成立は元和年間で、要するに江戸時代に書かれたもの。従って、史料的価値はきわめて限定的。有り体に言えば、小説に近い。当然、この「火牛の計」を彷彿させる戦法も舞台が同じ北陸道であることからインスパイアされて(ものは言い様デス……)『源平盛衰記』から拝借したものと考えていい。である以上、それが「式部丞ノ謀」であるというのは、ほぼほぼ作り事だと見なして間違いない。つーかさ、そもそも「蒲原の戦い」なるものは「大将軍」たる北条朝時の到着を待たずに始められているのだ。実は、それを明確に裏付ける史料があるのだ。鎌倉の北条義時から北陸道軍の現地指揮官である市河六郎刑部(なんでも信濃国の住人で、同国下高井郡市河村の地頭だとか。北条義時は信濃国の守護でもあったので、義時に直接、仕える立場にあった)に宛てた承久3年6月6日付け御教書がそれ。その中で、義時はこう書いているのだ――

五月卅日ねのときに申されたる御ふみ、けふ六月六日、さるのときにたうらい、五月つこもりの日、かんはらをせめおとして、おなしきさるのときに、みやさきをゝいおとされたるよしきこしめし候ぬ、𛁈きふのせうをあひまたす、さきさまにさやうにたゝかひして、かたきおひおとしたるよし申されたる、返々しむへうに候、又にしなの二らうむかひたりとも、三百きはかりのせいにて候なれは、なにことかは候へき、又しきふとのも、いま𛂞おひつかせ給候ぬらん

 ね、「𛁈きふのせうをあひまたす、さきさまにさやうにたゝかひして」と。さらには「又しきふとのも、いま𛂞おひつかせ給候ぬらん」と。ここに「𛁈きふのせう」「しきふとの」とあるのが「俺たちの北条朝時」の官名である「式部丞」を指すことは言うまでもない。「蒲原の戦い」は、その「式部丞」の到着を待つことなく始められ、「式部丞」の采配に拠ることもなく「かたき」を追い落としてしまったというのだ。ちなみに、この時、蒲原で幕府軍を迎え撃ったのが越中宮崎城主・宮崎定範で、大正6年に正五位を追贈されたことを記念して当時の宮崎村が刊行した『宮崎定範事歴』なる小冊子では、この時の模様をこう記している――「五月晦日拂曉、賊軍の先進別隊、信濃國の住人下高井郡市川村等の地頭市川六郞刑部等來攻せしかば、定範衆を勵まし、山上より弩を放ち應戰奮鬭したり、既にして天明け、折しも風波靜まり海上穩になりければ、賊兵心安く波打つ磯を渡り、山上山下潮の如く一時に大擧し來る、是を見たる定範、難關遂に敵の破る所となるあな殘念なり、と腕を扼し齒を䫴み、國境に退却し境川にて防止せんとしたりしが、寡兵如何でか衆兵に敵すべき、勝ち誇りたる賊軍の追擊益々急にして再び敗北し、同日午後四時頃本據地たる宮崎城をも支ふること能はず、敵の累破する所となり陷落の悲境を見るに至りしは、洵に凄慘の極なりき」。こういう史実がねえ、今では完全に忘れ去られてしまっている。宮崎定範が城主を務めた宮崎城は、現在、宮崎城跡として県の指定史跡にもなっているのだけれど、現地に設置された案内板には宮崎定範の名前すら記されていない。こういうことでいいんだろうか? という観点で記したのが「ある郷土愛者の超主体的「史跡」考②〜みやさきをゝいおとされたるよしきこしめし候ぬ。〜」。本稿をお読みいただいた誼でこちらの方もご一読いただければ幸いです……。

 ということで、北条朝時は、北陸道ルートにおける最初の大規模な合戦である「蒲原の戦い」には参加していない(間に合わなかった)。ただ、北陸道ルートにおける最大の戦いは6月9日に戦われた「礪波山の戦い」で、こちらでは朝時も「大将軍」らしい働きを見せた――はず。もっとも、『承久記』の記載からは、朝時が具体的にどんな働きを見せたのかは読みとれないんだけどね。

越中ト加賀ノ堺ニ砥並山云所有。黑坂・志保トテ二ノ道アリ。砥並山ヘハ仁科次郞・宮崎左衞門(尉)向ケリ、志保ヘハ糟屋有名左衞門・伊王左衞門向ケリ、加賀國ノ住人、林・富樫・井上・津旗、越中國住人野尻・河上・石黑ノ者共、少々都ノ御方人申テ防戰フ、志保ノ軍破ケレバ、京方皆落行ケリ。其中ニ手負ノ法師武者一人傍ラニ臥タリケルガ、大勢ノ通ルヲ見テ、是ハ九郞判官義經ノ一腹ノ弟、糟屋有名左衞門尉ガ兄弟、刑喜坊現覺ト申者也、能敵ゾ打テ高名セバヤト名乘ケレバ、誰トハ不知、敵一人寄合、刑部坊ガ首ヲ取。式部丞、砥並山・黑坂・志保打破テ加賀國に亂入、次第ニ責上程ニ、山法師美濃竪者觀賢、水尾坂ヲ堀切テ逆茂木引テ持懸タリ。

 軍記物語ってのは、本当に手の焼けるシロモノで……。この中の「是ハ九郞判官義經ノ一腹ノ弟、糟屋有名左衞門尉ガ兄弟、刑喜坊現覺ト申者也」というのが、ほぼ意味不明で。「義経ノ一腹ノ弟」ということは、母は常盤御前ということになるのだけれど、そういう存在がいたということは一般には知られていない。また、そのモノが「糟屋有名左衛門尉ガ兄弟」というのがなお意味不明で。だったら、その糟屋有名左衛門尉も義経とは兄弟ということになるわけだけれど……牛山佳幸「「市河文書」註釈稿(二)」(『信州大学教育学部紀要』第78巻)によれば、この「糟屋有名左衛門尉」は「糟屋有石左衛門尉」の誤記とかで、「糟屋氏はもともと相模国大住郡糟屋荘を本領とした東国後家人」であるとしている。とするならば、どう考えたって源義経の弟にはならんでしょう。あるいはだ、左衛門尉の父・有季は「文治2年(1186年)、失脚して都落ちした義経探索のため、比企朝宗の手勢に属して上洛し、義経の郎党佐藤忠信、堀景光を捕らえている」(ウィキペディア)。さらには奥州合戦にも鎌倉側で参戦しているというから、その際、有光は義経の幼い弟を保護、密かにわが子(左衛門尉の義弟)として育てた……というような、これはそんな伝奇小説まがいの話? ま、この件は、判断保留としておくしかないなあ……。それよりも、北条朝時だ。↑の記載からは朝時が北陸道戦線最大の戦いである「礪波山の戦い」でどんな働きを見せたのかはとんとうかがい知れない(よね?)。ただ、戦いそのものは幕府軍側の大勝利――だったようなので(少なくとも、苦戦だった様子は読みとれない)、「大将軍」としてその戦いを指揮した朝時にとっても胸を張っていい結果だった――はず。ただ、本当のところはどうだったのだろう? というのも、「礪波山の戦い」が繰り広げられたのは6月9日なのだけれど、その後、朝時軍が入京を果たしたのは、『承久記』慈光寺本では6月17日、『百練抄』では20日、『武家年代記』では24日。いずれの説を採るにしても、既にその時点では幕府軍の本隊は入京を果たしており(幕府軍本隊である東海道軍が入京を果たしたのは6月15日)、朝時軍が入京した時点では、既に戦いの帰趨は決していたのだ。つまり、北条朝時は「遅参」したということになる。この事実をワタシに教えてくれたのは、既に紹介した『宮崎定範事歴』で、その中ではこの経緯をこう記している――「朝時が、事穏になりて漸く北陸道を経て京都に入りしは、定範の忠勤に胚胎す。大敵を恐れず殊死して奮闘せし至忠の精神其気魄、実に後世忠臣の鑑にして、英雄骨朽ちて遺烈赫々天下をして欣仰せしむ」。だから、ねえ、どうしてそんな「忠臣」の名前が案内板には一切記されていないのかと。朝日町というのは、例の「皇族芸人」を講師として招こうとしたくらいには「尊王の志」の篤い町なんじゃないの……? ともあれ、こうなると、どうしたって関ヶ原の戦いにおける徳川秀忠の「遅参」と結びつけて考えたくなるところで、実は朝廷軍は真田一族ばりの縦横無尽なゲリラ戦で幕府軍を翻弄し、それがために大決戦への「遅参」という事態が惹起せしめられたのでは? とね。そして、それは、北条朝時というクズ野郎には実にお似合いだという気もするのだけれど……ただ、そもそもこの朝時軍の「遅参」は義時の命令に従った結果で「遅参」には当たらない、というのが本当のところらしい。というのも、既に紹介した市河六郎刑部宛て御教書で義時はこんな指示をしているのだ――

……ほくろくたうのてにむかひたるよしきこえ候𛂞、みやさきのさゑもん、にしなの二郎、かすやのありいしさゑもん、くわさのゐんのとうさゑもん、又しなのけんし一人候ときゝ候、いかにもして一人ももらさすうたるへく候也、山なとへおひいれられて候𛂞ゝ、山ふみをもせさせて、めしとらるへく候也、さやうにおひおとすほとならは、ゑ中、かゝ、のと、ゑちぜんのものなとも、しかしなから御かたへこそまいらむする事なれ𛂞、大凡山のあんないをもしりて候らん、たしかにやまふみをして、めしとらるへく候、おひおとしたれはとて、うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす

 朝廷軍の指揮官の名を一人ずつ列挙して、「いかにもして一人ももらさすうたるへく候也、山なとへおひいれられて候𛂞ゝ、山ふみをもせさせて、めしとらるへく候也」。さらに「おひおとしたれはとて、うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす」――と、徹底した落ち武者狩りを指示しており、それを疎かにして京へ急ぎ上るようなことは罷りならん――と念押しまでしているわけで、朝時軍はその命令を忠実に実行しただけ、というのが本当のところなんでしょう。それを裏づけるように、戦後、朝時が「遅参」を理由として譴責を受けたというようなことは『吾妻鏡』にも記されていない。ただ、ねえ。そもそも朝時は「蒲原の戦い」には「遅参」しているわけですよ。これはハッキリしている。また、義時は、「礪波山の戦い」の戦後処理の方針を「大将軍」たる朝時に対してではなく、一介の現地指揮官にすぎない市河六郎刑部に伝えているわけですよ。義時が、いかに朝時をアテにしていなかったかは、これらの事実からも明らかではないだろうか? で、三谷はこうした事実も踏まえて北条朝時という男をあんなクズ野郎に設定したとするならば、もしかしたらこの承久の乱におけるどうしようもないクズぶりもネタにはされるかな? と、北陸道の住民としては、そういうことも期待しつつ、今後は西本たける演じる北条朝時の動向も生暖かく見守っていこうかなと……。



 いやー、オドロイタ。よもや「俺たちの北条朝時」が古代ローマ軍の歩兵戦術である「テストゥド」のわが国における創始者として描かれることになろうとは!


ヴェンツェスラウス・ホラー画「テストゥド」

 ね、10月30日放送の第41話「義盛、お前に罪はない」で描かれた板戸戦法(?)とそっくりでしょ? ということは、出典は『ガリア戦記』ということになるわけだけど、ググったらこんなんが出てきましたよ――

Id ex itinere magno impetu Belgae oppugnare coeperunt.
その町を、行軍からたいへんな勢いでベルガエ人が攻囲を始めた。

Aegre eo die sustentatum est.
辛うじてその日は持ちこたえられた。

Gallorum eadem atque Belgarum oppugnatio est haec:
(狭義の)ガッリア人と同じく、ベルガエ人の攻囲というものは以下のものである。

ubi circumiecta multitudine hominum totis moenibus undique in murum lapides iaci coepti sunt murusque defensoribus nudatus est,
全防壁が多勢の人間で取り囲まれ、至る所から城壁に石が投げ始められ、城壁が守備兵たちから無防備にされるや否や、

testudine facta portas succendunt murumque subruunt.
テストゥド(亀甲)が作られて、城門を焼き、城壁を倒壊させる。

――『ガリア戦記 第2巻』より

 ま、「義盛、お前に罪はない」で描かれたのとは、攻守が逆だけどね。しかし、オドロクよなあ。確かに『吾妻鏡』には「各切挟板。以其隙。為矢石之路攻戦。」とは記されているわけだけれど。でも、たったこれだけだからね。それが三谷幸喜の手にかかるとあんな『ガリア戦記』ばりのスペクタクルなシーンに生まれ変わるわけですよ。こうなると、今後、描かれることになる承久の乱だってどうなるかわからんぞ。なにしろ『承久記』にはハッキリと「式部丞ノ謀ニ、濱ニ幾等モ有ケル牛ヲ捕ヘテ、角先ニ續松ヲ結付テ、七八十匹追續ケタリ」と記されているわけだから。これでいよいよ西本たける演じる北条朝時から目が離せなくなった……と言いたいところではあるんだけれど、本当に板戸戦法を編み出したのは泰時だから。矢に当たったふりをしてサボタージュを決め込んでいるようなクズ野郎にふさわしい役回りは……戦後も世の中が穏やかになってから『承久記』に記されたような戦法を自ら実行して見せたと周囲に吹聴して回ること? なんか、そういう姿なら目に浮かぶんだけれど……。



 史実がどーのなんて不粋もいいところだけれど、一応、書いておくならば(北条朝時に関心を持って駄文を草している、なんて物好きはそういるもんじゃないだろうし。で、書いた以上は、それなりの責任はあるだろうし)、宇治川渡河作戦が敢行されたのは6月14日。一方、北条朝時率いる北陸道軍が入京したのは、本文にも記したとおり、『承久記』慈光寺本では6月17日、『百練抄』では20日、『武家年代記』では24日。いずれの説を採るにしても、6月14日に敢行された宇治川渡河作戦をめぐる軍議の場に北条朝時がいる、なんてことはありえないわけですよ。ましてや、三浦義村に向って「訳分かんねえんだよ、じじい」と悪態を吐くとかね。ただ、あの場で誰とも知れない若造から三浦義村をじじい呼ばわりするヤジが飛ぶ、というのはあってもよかったとは思う。その場合、その役柄を誰に割り振るかとなれば、これはもう千葉胤綱の一択でしょう。千葉胤綱というのは、そう、あの「もうすぐ死にます。じいさんはやめておきましょう」の千葉常胤の曾孫。『承久記』古活字本によれば、東海道軍の第5陣として出陣していたことが裏付けられる。ちなみに、その1つ前の第4陣を率いていたのが三浦義村。で、面白さから言えば、断然、三浦義村と「千葉のじいさん」の曾孫の応酬の方なんだけれど、それをあえて北条朝時に振ったのは……三谷幸喜の優しさだろうなあ、演者に対するね。なんでも西本たけるは自らがスカウトして北条朝時役に起用したとか。であるならば、なおさら見せ場は用意してやらないと。結果、SNSでは「裏MVP」の声も挙がったとかで(ソース)。もうね、何をやっても褒められるようになっている。こういうのを「ゾーンに入る」と言うのかな? で、それはそれでメデタイことではあるんだけれど、史実の北条朝時は、その頃、礪波山の山中で命がけの山狩りをやっていたのだ。恐かったと思うよ。なにしろ、全く土地勘のない北陸道の山の中での掃討作戦なんだから。「北条の次男坊」としては、それまで経験したことのない〝地獄の戦場〟だったろう……と北陸道の住民としては書いておく……。