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「元暦延元」の故事を論ず。
〜浪の屋島にデ・ファクトの王朝はあり〜

 それにしても、あっさりと言ってくれたもんだよなあ。それによって引き起こされた事態の重大性をわかってるのかねえ……?

 4月10日放送の『鎌倉殿の13人』第14話「都の義仲」で繰り出された丹後局(高階栄子)の台詞「尻を叩いてやりましょう。新たな帝が立たれた今、何より大事なのは、三種の神器を取り戻すこと」ならびに長澤まさみのナレーション「法皇は平家に連れ去られた安徳天皇を諦め、別の孫を即位させている。後鳥羽天皇。この時、わずか4歳。皇位継承の証、三種の神器なき即位である」――に頭を抱えていて。いささか嫌味な言い方になるかもしれないけれど、こんな説明でこの件をやりすごせる神経がうらやましい。ワタシだったら、逸る気持と(ハッキリ言って、大好物であります)、これはNHKの番組なんだという大人の判断の板挟みになって、さて、最終的にどんな文言をひねりだしたものやら……。しかし、いずれにしたって、この「新帝践祚」によって2人の天皇が併存する事態が生来したことは言わなければならない。さらに、そうした事態は(「正史」の上では)前例がなく、わが国が初めて経験する事態だったことも。要するにだ、それは日本開闢以来の一大事だったのだ。2人の天皇が併存するというのは、それほどの事態。あるいは、ここは少しばかり言い方を変えて――「平家にあらずんば人にあらず」という人口に膾炙したフレーズによって物語られるモノホンの独裁政権が崩壊する時っていうのはやはりそれに見合うだけの大事を引き起こすものなんですよ。この寿永2年に引き起こされた事態というのは、つまりはそういうこと。このことは絶対に言わなければならない。それは、マスト。ところが、現にワタシが耳にしたのは「尻を叩いてやりましょう。新たな帝が立たれた今、何より大事なのは、三種の神器を取り戻すこと」――だの「法皇は平家に連れ去られた安徳天皇を諦め、別の孫を即位させている。後鳥羽天皇。この時、わずか4歳。皇位継承の証、三種の神器なき即位である」――だの。そこに日本開闢以来の一大事が生起したというオノノキは全く感じられない。正直、これは驚きです。最終的には承久の乱を描くことになる(んだよね?)ドラマの歴史に対するスタンスがこういうものであるとは……。ワタシはさ、「河原の暗殺者・善児」について記した「善児について」の最後をこう締めくくってるんだよね――「なんでも世間には例の「首ちょんぱ」などの台詞を論って『鎌倉殿の13人』を「軽すぎる」と批判する向きもあるようだけれど、とんでもない、「下人善児」が暗躍するこの大河ドラマ第61作は、ワタシにとっては「重すぎる」……」。その評価が、今、揺らぎはじめている……。

 ――ということで、この際だ、この寿永2年に引き起こされた事態について、少しばかり思うところを。まずは1868年8月20日、時の駐日アメリカ公使、ロバート・ブルース・ヴァン・ヴァルケンバーグが本国の国務長官、ウィリアム・スワードに宛てた至急報告第85号を拙訳で紹介することにしよう。奥羽越列藩同盟が「上野の宮様」こと輪王寺宮公現法親王を「新しいミカド」に擁立したことを伝えるもので、出典はアメリカの外交文書の集成であるForeign relations of the United States(FRUS)。その1869年版(対象は1867年12月から1868年11月まで)に収録されているアメリカ政府の歴とした公式文書であります――

 拝啓 今月13日付けの至急報告第80号にひきつづき本シリーズの至急報告第61号ならびに第68号でご報告した宮様に関する情報が、本日、これまでのところは信頼に足ると証明されている情報源から再びもたらされたことを報告します。この高僧は正式にミカドの職務を遂行しはじめたとされ、羽黒山の寺が御所兼廟堂として使用されているとのことです。
 ミカドの職務は常に人々やその求めるところに従って神々と交渉することであり、最高行政権であるこの国の政権は将軍もしくは大君という称号で世襲的に徳川家に与えられてきました。最高立法権は存在せず、永久に権現様の法で十分と受け止められており、ミカドが助言を求められるのはきわめて稀な場合に限られてきました。
 京都のミカドは大君の職を廃止しこの国の政権を自ら手中に収めることで古からの伝統に反して行動したように見え、多くの社会的地位のある日本人ばかりでなく、宮中の役人の大多数の見解でも行政・立法の二つの最高権限の簒奪と見なされています。こうした中、宮様もしくは新しいミカドが自らミカドの座に就くという重大な一歩を踏み出したのは緊急のやむをえざる措置として法的にも正当化されると判断したからかもしれません。
 農村地帯や沿岸地帯の下層階級はすこぶる迷信的で、自分たちは神から見捨てられてはいないという基本的信仰の裏付けとなる精神的な長が北部では絶対的に必要でした。神から見捨てられることは彼らにとっては大いなる災厄であり、今まさに迫りつつある一大決戦において彼らの首領から求められている役割を担うのに支障を来すであろうことは想像に難くありませんでした。
 蚕種の収量がいいと桑の葉や蚕ばかりではなくコメも豊作となる有望な兆候と見なされます。
 北部の蚕種の収穫は今年は例年になく良好でした。そのためコメの収穫量の見通しも上々で、宮様もしくは新しいミカドは、おそらくは時節に耐え、今、力と慈悲の大いなる威光をもって彼の職務に就いたのです。
 彼の北部への遷座は徳川の諸将の一部に絶妙な効果を発揮したようです。彼の存在が北部大名連合を強固にし、人々の迷信的恐怖を鎮めてその力を倍以上にしたのです。
 日本の歴史には2人のミカドが並存した前例が2度あります。2度目はほぼ90年間続きました。しかし約260年前に世襲的将軍職が確立され精神的権力と世俗的権力が分離されたことにより、精神的権力におけるこうした分裂は永遠になくなったと考えられていました。それゆえ宮様が上述したような重大な一歩を踏み出すことになったのは、そうせざるをえない絶対的必然性と国を思うやむにやまれぬ気持ちに促されたからと見るのが適当でしょう。現在の内戦がはじまって以来、彼は前大君の側に立って積極的な役割を演じてきました。彼は常に大君とは最も友好的な態度で接して来たのです。
 今や日本には1人の大君の代りに2人のミカドがいます。京都のミカドは自ら政治を行うと宣言する一方、北の新しいミカドは、私が得た情報によれば、その顰みに倣うことはないだろうということです。そしてもし彼のその決意が揺らぐことがないならば、この自己否定によってこそ彼は多くの支持者を獲得し、影響力を高め、重要性を増して行くことになると見ることは十分根拠のあることです。

 この最後の段落(なお、↑に紹介したのはまだまだ続く長文の報告書の冒頭部分。一応、美味しいところだけをかい摘んで紹介したとご理解いただければ……)に出てくる「今や日本には1人の大君の代りに2人のミカドがいます(Instead of one Tycoon Japan now has two Mikados)」――というのが、まあ、パンチラインとでも言うのかな。もし「東武皇帝」即位説をめぐる映画なりドラマなりが作られることになるなら、このフレーズを最大限にフィーチャーすることが考えられる……。で、今、ここでこの至急報告を紹介したのは、他でもない、ワタシが寿永2年に引き起こされた事態の重大性に気がついたのが、実はこの至急報告なのだ。そう、ヴァン・ヴァルケンバーグはおそらくは情報提供者(が誰なのかというのも「東武皇帝」即位説にまつわる大きな謎の1つで。ワタシが突き止めたその人物とは……? まあ、これについては『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』をお読みいただくこととして。最終的な結論については絶対的な自信を持っております――ということで……)から受けたブリーフィング(?)を踏まえるかたちで「日本の歴史には2人のミカドが並存した前例が2度あります」と記しているわけだけれど、2度目が南北朝時代を指すのは疑問の余地がない。でも、1度目は? これが、当時、わかんなくってねえ。正直なことを言うと、寿永2年の事態がそれに相当するとはついぞ思い至らなかった。で、いろいろ調べたところ、いわゆる「辛亥の変」に関連して継体天皇の没後、安閑―宣化系と欽明系に皇統が分裂したとする喜田貞吉が提唱した説などもあって、日本史の複雑怪奇さに恐れおののいたりもしたわけだけれど(なお、喜田貞吉説は、説自体が昭和になって提唱されたものであることを考えればこのケースで想定されていたとは考えにくいという判断)、そんな中、会津藩の藩校・日新館の教授などを務めた小笠原午橋という人物が明治8年に著した『続國史略』なる書で会津藩もその当事者であるところの輪王寺宮にまつわる様々な憶測に関連して(有り体に言うならばそれを否定する流れの中で)「而奉輪王寺宮亦大損國體昔元曆延元旣啓僭亂今可再行之乎」と記していることを発見。この中の「元曆延元」という記載が決め手となって1度目は後白河法皇が高倉天皇の四ノ宮(後鳥羽天皇)を践祚させた寿永2年8月20日から安徳天皇が壇ノ浦の海に消えた元暦2年3月24日までの約1年半を指すものと判断するに至った――という経緯がある。そういう意味ではワタシも大きなことは言えないわけですよ。だから、冒頭の「頭を抱えていて」はいささか言い過ぎだったかな。ともあれ、こうしてヴァン・ヴァルケンバーグは奥羽越列藩同盟による新帝擁立という情報を本国に報告しているわけだけれど、こうして誕生した(と考えられている)デ・ファクトの政権(王朝)について瀧川政次郎は1950年に刊行した『日本歴史解禁』で「東北朝」と呼んでいる。また瀧川政次郎は延元元年10月、後醍醐天皇の第5皇子である恒良親王らによって越前の金ヶ崎で開かれた(と考えられている)デ・ファクトの政権(王朝)についても取り上げ、こちらについては「北陸朝」と呼んでいる。一方で後醍醐天皇は12月には吉野に入り「吉野朝(南朝)」を開くことになるわけで、瀧川政次郎によれば「一時は南朝・北朝・北陸朝の三朝が国内に鼎立していたのである」――ということになる。両朝並立でも一大事だっていうのに、鼎立とは……もうカオスですよ。でも『太平記』にも「但朕京都へ出なば、義貞却て朝敵の名を得つと覚る間、春宮に天子の位を譲て、同北国へ下し奉べし。天下の事小大となく、義貞が成敗として、朕に不替此君を取立進すべし」――とちゃんと書かれているしね。もっとも、瀧川政次郎によれば「「金甌無缺の国体」を護持せんとした明治の歴史家達は、この事実を否定せんとして太平記の措信すべからざるをことを強調した」。同じことは「東北朝」についても言えることで、戦前は論ずること自体がタブーとされており、絶対天皇制の軛から解放された戦後になってようやく「解禁」された研究課題。ただし、それでは戦後、この2つの政権(王朝)に関する研究が活発化したかというと、決してそうはなっていない。実態としては、依然として論ずること自体がタブー視されている、というのが本当のところ。特に「東北朝」については、その舞台背景である戊辰戦争が大河ドラマでも繰り返し描かれる人気コンテンツであるにもかかわらず、輪王寺宮が登場したことはただの1度もない。会津を舞台とした『八重の桜』では輪王寺宮の奥州潜行はそっくりストーリーから省かれていた。また徳川家の依頼を受けてなされた駿府での有栖川宮への嘆願というような、それだけならば特に差し障りがあるとは思われない事実でさえも描かれたことはついぞない(『篤姫』では篤姫付きの老女・幾島、『西郷どん』では精鋭隊歩兵頭格・山岡鉄太郎による嘆願は描かれた。しかし、いずれも徳川家から正式な依頼を受けてなされた輪王寺宮の嘆願についてはスルー)。そして『青天を衝け』では彰義隊結成メンバーの渋沢成一郎が準主役でありながら……。だからね、これは「銅像と赤い塗料〜ジェームズ・D・ブロックの予言〜」でも書いたことだけれど、本当の意味で歴史はまだ「解禁」されていないと言うべきなのかもしれない。あるいは、状況は瀧川政次郎が『日本歴史解禁』を書いた当時よりも悪くなっているのかもなあ……。

 ――と、「北陸朝」と「東北朝」という、瀧川政次郎が『日本歴史解禁』で提示した2つのデ・ファクトの政権(王朝)をめぐる状況は大体そんなところなんだけれど、ここで是が非でも読者に関心を持っていただきたい論点がある。いずれにしたって日本の歴史には2人(場合によっては3人)の天皇が併存するというイレギュラーな事態が生じたことが何度かある。ヴァン・ヴァルケンバーグもしくは彼に情報を持ち込んだものの認識に従えば、それは3度ということになるわけだけれど、その1度目こそは寿永2年に引き起こされた事態。では、この時、平家によって樹立されたデ・ファクトの政権(王朝)のことを何と呼ぶ? 2度目については「吉野朝」(鼎立説を採るならば、それに加えて「北陸朝」)、3度目については「東北朝」という呼び名がある。ならば、1度目についても呼び名があっておかしくないのだけれど……これが、ないんだ。少なくとも、広く知られた呼び名は。これがなんとも不可解で。当時、間違いなく日本には2人の天皇がいたわけですよ。長澤まさみは「法皇は平家に連れ去られた安徳天皇を諦め、別の孫を即位させている」と言ったんだけれど、「安徳天皇を諦め」ってのは全く以て後白河側の勝手な言い分で、時の今上帝は依然として坐した。京都からはいなくなったよ。でも、坐した、福原に。太宰府に。そして、屋島に。特に屋島では御所も作られたとされている。これについては『平家物語』でも――「重能が沙汰として、四国の内を催して、讃岐の屋島に形のやうなる板屋の内裏や御所をぞ造らせける」。で、この時、造られた御所(内裏)跡については、昭和39年刊行の『新修高松市史』では「高松市屋島東町にある」としか記していない。しかし、昭和11年刊行の『史蹟名勝天然記念物調査報告』(香川県史蹟名勝天然記念物調査会)ではその場所を「屋島山東麓壇の浦の安德天皇祠及び其の附近なるべしとする事を以て確實なる妥當性を有するものと思考す」としており、さらにその根拠として「源平屋島合戰戰蹟の平氏陣營の中央に位置し、海上防備と陸上の防備の中間にあり。最も安全なる地にして戰蹟考察上皇居阯に當るものなり。次に地形上一構をなし平坦なり。境內に鐮倉時代のものと推定せらるゝ五輪塔數基あり老樹欝蒼として創立の古きを偲ばしむ。其の四周には平家の陣屋跡と推定せらるべきもの多く又附近に能登守敎經の從者菊王丸の墓あり義經の臣にして內裏に火を放つ任に當りし佐藤次信の墓も附近にあり」――と〝状況証拠〟を列挙。ただ、『新修高松市史』では安徳天皇祠(安徳天皇社)については「天皇ゆいしょの地に、神霊をお祭りしたもので、このふきんに、石塔が数十基ある。多くは、平家将兵の塔であろうか、堆積して昔をしのばせている」と記すに止めており、この場所をピンポイントで御所跡とするには決め手に欠けるのかもしれない。しかし、同書が言う「高松市屋島東町」(Google Mapでその範囲を示すと結構な広さであることがわかる。目を引くのは「屋嶋城跡」という文字だけれど、これは白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷が日本防衛のために築いた城跡という。屋島というのはそういう歴史を有する土地なんだねえ。これは勉強になりました……)のどこかに安徳天皇の行在所が造られたことだけは間違いない。そして、平家はこの地を拠点に約1年半に渡って京都の後白河政権と対峙し続けた(ただし、その間、一度、福原に遷っているので、実質的にはもう少し短い。また、屋島に御所が造られるまでは対岸の牟礼に今も現存する六萬寺を仮御所にしたともされので、この間を差し引くとさらに短くなる)。1年半というのは決して短い期間とは言えない。確かに「吉野朝」と比べればはるかに短い。でも、「北陸朝」や「東北朝」に比べれば十分に長いし、政権(王朝)としての実態も伴っている。なにしろ、正統性の担保となる三種の神器はこちら側にあったのだから。そんな政権(王朝)の呼び名が存在しない、というのはなんとしてでも腑に落ちない。多分、このことが、丹後局の台詞や長澤まさみのナレーションに見られるようなコトの重大性を軽視する心理的バックグラウンドを成しているに違いない。だからね、ちゃんと呼ぶべきだと思うんだよ、このデ・ファクトの政権(王朝)を、「四国朝」ないしは「屋島朝」と。それが、日本開闢以来、初めて2人の天皇が併存することになった歴史的事実に対する正しい向き合い方だとワタシは思うんだけどなあ……。



 ↓はわが富山の五箇山に伝わる「麦屋節」の実演。越中五箇山は平家の落人伝説で知られており、「麦屋節」はその五箇山地方に伝わる古い民謡。歌詞に曰く「浪の屋島を遠くのがれ来て/薪(たきぎ)こるてふ深山辺(みやまべ)に」。つまり彼らは「屋島朝」の末裔たちということに……?




 いやー、マイッタ。あんな凄いものを見せられては、もう金輪際、三谷幸喜をディスるなんてありえない……。

 本稿でワタシは『鎌倉殿の13人』というドラマの歴史に対するスタンスに疑問を呈し、作品に対する評価も「揺らぎはじめている」としたのだけれど、撤回します。第15話「足固めの儀式」を見た今となっては、そうせざるを得ないでしょう。ハッキリ言って、上総広常を誅殺した理由は得心の行くものではないし(上総広常が誅殺されなければならない理由なんて1ミクロンもないんだ。それを「最も頼りになる者は、最も恐ろしい」などと自分勝手なリクツをつけて討ったのだから、頼朝という男、マフィアのボスよりも性質が悪い)、史料典拠という意味でも部分的には『愚管抄』に拠りつつ、その最も重要な部分ではフリーハンドを決め込んでいるというなかなかの厚かましさ(三谷幸喜は御丁寧にも『愚管抄』の記載を改変している。これは三谷大河のルールを逸脱していると言わざるをえない。三谷大河のルール――つまり、史料を踏まえつつ、その欠落部分では最大限、自由にふるまう、というね。で、その伝で行けば、上総広常に「この乱世に坂東に閉じこもるなんざ臆病者のすることだ」なんて言わせてはいけないはずなんですよ。『愚管抄』には全く逆の言葉が記されているわけだから。すなわち――「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ。タゞ坂東ニカクテアランニ誰カハ引ハタラカサン」。要するに、朝廷が何を言ってこようが、オレたちゃオレたちで坂東でやっていこうぜ――と、そう上総広常は言ったというのだ。それを朝廷に対する謀叛の志と捉えて、「力ゝル者ヲ郞從ニモチテ候ハゞ。賴朝マデ冥加候ハジト思ヒテ。ウシナイ候ニキトコソ申ケレ」――というのが、『愚管抄』に記された上総広常誅殺の〝真相〟。それを堂々と改変して見せた)。ただ、『鎌倉殿の13人』という物語にあっては上総広常はああいうかたちで葬るしかなかったんだろう――「朝家」云々という理由はこの物語では採用しないのならば(結局、三谷幸喜は、『鎌倉殿の13人』という物語から、極力、「朝廷対武家」というモチーフを排除したいんでしょう。『鎌倉殿の13人』というドラマのハイライトとなるであろう承久の乱を展望した時、そのようなモチーフが仮初めにも物語に持ち込まれた場合、逃げられなくなってしまう。だから、徹底してその種のモチーフは排除してかかる――、それが三谷幸喜ならびに制作スタッフの判断なんだろう。そして、それは、正解なのかもしれない。こんな難しい時代(令和)にこんな難しい時代(鎌倉)を描くためには、「曲筆」もまた必要であると。ま、ワタシとしましては、この件についてはそういうことで了解することとしました……)。そして、この一点を除けば、あとは見事に合致していると言えるんだよね、史料を踏まえつつ、その欠落部分では最大限、自由にふるまうという三谷大河のルールに。おそらくはその極北を究めた1編ということになるだろう。ことによると、後世、三谷幸喜という〝ミステリー作家〟を振り返るに当たって代表作として取り沙汰されるのが「足固めの儀式」ということも……?