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鎌倉殿ノート③
〜りく曰く「まだ私の中の火は消えてない」について〜

 10月26日付けで告知された『大河ドラマ「鎌倉殿の13人」グランドフィナーレ』の出演者に宮沢りえの名前があって、ええ⤴ NHKオンラインのイベント・インフォメーションではこのイベントについて「大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の最終回にあわせ、ドラマの出演者を招いたトークショーと、最終回のパブリックビューイングを行います」。だから、それに宮沢りえが出演するということは、つまりは12月18日放送の最終回に出演するということですよ。 これはサプライズもサプライズ。今、チマタでは、最終回、就中、北条義時の最期をめぐって侃々諤々の様相を呈しているわけですが(かく言うワタシも「鎌倉殿ノート①〜三谷幸喜が三浦義村に割り振った「役割」について〜」で本郷和人説の修正版とでも言うべき私案を提示しております。本稿と併せてお読みいただければ幸いです……)、もう全部リセットする必要があるかもね。最終回に宮沢りえ(りく)が登場する――しかも、PVにも出演する以上、相当に重要な役回りで――ということは、北条義時の最期に関っている可能性も大いにあり得るわけで、それを織り込んだ「考察」でないと何の意味もない、ということになる。いやー、ヤラレタ。それにしても、このヴィジュアルはどうよ。もう三浦義村とりくが組んで何かをやったとしか思えないじゃないか! 思えば、第38話「時を継ぐ者」でりくは義時に「もうあなたの父を焚きつけたりはしない」と言いつつ、同時に「まだ私の中の火は消えてない」とも言っていた。ということは、時政以外の誰かと組む、ということで、その候補は義村以外にはいないのでは? その義村はといえば「(伊豆まで)会いに行きますよ」。だから、(ドラマで描かれるかどうかは別にして)義村とりくは会っていたんだろう。そして、密かに機会をうかがっていた……。

 ただ、ねえ。三谷大河のルールというのがあるわけですよ。ワタシの理解では、それは「基本的には史料を踏まえつつ、史料の空白部分では相当に自由な創作も可とする」。で、義時の最期をめぐっては、伊賀の方(ドラマでは「のえ」とされている人物)による毒殺説は史料にもある(『明月記』安貞元年6月11日条)。もちろん、その信憑性の問題はあるわけだけれど、研究者の中にも信憑性ありとする意見は少なくない。ここでは、はじめて『明月記』の記載に注目した(というのは、鎌倉歴史文化交流館学芸員の山本みなみ氏が「北条義時の死と前後の政情」で書いておられることの受け売りです。まあ、こんなことをワタシが知っていたらおかしいわけで。ただし、毒殺説に一定の信憑性を認めているという石井進や上横手雅敬も先行研究として取り上げていないとかで。そりゃあ、ねえ。ウィキペディアによれば「国体護持のための歴史を生涯にわたって説き続けたことから、代表的な皇国史観の歴史家といわれて」いるそうなので、なかなか……)平泉澄が『建武中興の本義』に記すところを引くなら――

 而して義時死去の眞因は如何。之を語るものは尊長である。明月記によれば安貞元年六月、尊長捕へらるゝ時、敵を斬り、又自害して、しかも死にきれず、六波羅へ引立てられた時、彼は時氏時盛の前に於いて、
「只早頸をきれ、若不然は、又義時か妻か義時にくれけむ藥、われに是くはせ早ころせ。」
といひ、「衆中頗驚此詞」とある。これ義時の死因をあばくものである。
 義時卒去の後、間もなく後室伊賀氏の陰謀あらはれ、伊賀氏、及び伊賀光宗は流されたのであつたが、その時、彼等の擁立して將軍としようとしたものは、その女婿參議從三位右近中將藤原實雅(引用者注:一般には一条実雅として知られる)であつた。而してこの實雅は實に尊長の弟であつたが故に、尊長はこの伊賀氏の密謀に祕密のうちに參加し連絡をとつてゐたのであらう。連絡がなければあの語は出ない筈である。又その連絡ありと思はるゝ事は、この事件によつて實雅は越前へ流されたが、越前に在る事五年、安貞二年四月一日、河に投じて死んだ。(時に三十三歲)これは恐らくその前年に尊長が捕へられて殺された爲に、全く絕望したのであらう。

 で、この平泉澄が言うところの「伊賀氏の陰謀」説を採用した上で、そこにさらに義時と伊賀の方の子で伊賀の方が義時の後継にしようとした(とされる。一応、「伊賀氏の変」なるものは北条政子によるでっち上げとする見方もあるようなので)政村の烏帽子親である義村を絡める、というのも十分にルールに適っている(実際、伊賀氏の変では、義村は関与を疑われている)。でも、義時の死に牧の方(ドラマでは「りく」とされている人物)が関っていたとする史料は、読物の類いにまで広げたってないんですよ。そもそも牧の方は時政の死後、公家の藤原国通に再嫁した娘(名称不詳。あの平賀朝雅の正室だった女性)を頼って京都に戻り、娘夫妻の元で「贅沢に暮らしていた」(ウィキペディア)とされている。それをムリクリで北条義時の最期に関らせる――というのは、どう見たって三谷大河のルールに反していると言わざるを得ないでしょう。そんなことをやったら、せっかくの三谷大河の大団円が台無しになりかねない。

 ということで、ちょっと冷静になった方がいいかなと。冷静になって、改めてフラットな目で宮沢りえが『大河ドラマ「鎌倉殿の13人」グランドフィナーレ』に出演する意味を考えてみよう。まず、同イベントでは最終回のパブリックビューイングも行われる以上(つーか、それがメインのイベント)、その出演者である宮沢りえが最終回に登場しないということは考えにくい。しかし、りくを北条義時の最期に関らせるのは、どう見たって三谷大河のルールに反している(三谷幸喜は、最後までこのルールを貫き通すでしょう。それが、大河初陣である『新選組!』で「史実無視のコメディ大河」と批判されたことに対する彼なりの意地の張り方であるとワタシは信じます)。とするならば、りくは、最終回、義時殺しの黒幕という以外の役回りでドラマに再登場する、ということになる。じゃあ、どういう役回りで? そもそも、京都にいたはずの彼女が鎌倉に姿を現わす必然性って? まずはそこをクリアする必要があるわけだけれど……

 さあ、こっからだ。こんな時、ウィキペディアは本当に役に立つ……。ウィキペディアの「藤原国通」の「人物・逸話」にこんなことが記されている――「当時の朝廷にあって、滋野井実宣と並んで北条時政の娘を妻に迎えており、元久2年(1205年)の牧氏の変で時政と共に伊豆国に流された妻の母牧の方は建保3年(1215年)の時政の死後、京都の娘夫妻の元に身を寄せ、贅沢に暮らしていたという。嘉禄3年(1227年)には牧の方によって国通の有栖川亭で時政の十三回忌が盛大に執り行われている。また国通は寛元2年(1244年)には北条泰時の娘の富士姫君を猶子に迎えている。藤原定家は両者の婚姻を用いた栄達に否定的な見解を示しつつ、家勢のためにもその姿勢を見習おうとしている。自らも嫡男為家の妻に北条氏の血を引く娘を迎えた定家とは交流があり、嘉禄元年(1225年)に妻が伊豆に帰ったきり帰京しないことについて相談を持ち掛けている」。この最後の「嘉禄元年(1225年)に妻が伊豆に帰ったきり帰京しない」というのが実に気になるではないか。嘉禄元年といえば、義時が亡くなった翌年。また、北条政子が亡くなった年でもある。さらに言えば、この年の12月にいわゆる「評定衆」と呼ばれる幕府としての意思決定機関が設置され、ここに以後約100年に渡って続く鎌倉幕府の統治システムが最終的に定まった記念すべき年でもある。ちなみに「評定衆」の人数は11人。これに北条泰時&時房の「両執権」を加えた13人が鎌倉殿を支えるというのがその統治システムの骨格で――つまりは「鎌倉殿の13人」。もしかしたら、番組タイトルの『鎌倉殿の13人』とは、このことを指しているのでは? というのが、かねてからのワタシの読みで。というのも、三谷幸喜が言うところの「ひかわなにおほほはあみあみ」が揃った第27話のタイトルが「鎌倉殿十三人」だったので。これは、つまり、番組タイトルの13人とはこの13人のことではないよ、という示唆なんだと、そう受け取ったわけですが……。ともあれ、嘉禄元年というのはそんなエポックメイキングな年で、奇しくもその年、北条時政とりく(牧の方)の娘が「伊豆に帰ったきり帰京しない」と……。

 まずは、ウラを取ろう。ウィキペディアの記事で典拠として示されているのは『大日本史料 第五編』第3巻35-36頁(こちらになります)。そこに示されている『明月記』嘉禄元年6月29日条がそれらしい。といっても、原文のままではほとんど意味を読みとれないので(一応、漢文は得意なんですけどねえ……)、ここは今川文雄訳『訓読明月記』より引くなら――

廿九日。天晴る。坊城相公消息に云ふ、西郊の持仏堂、八月の比開眼せんと欲するの処、女房俄に遠行を企てんと欲するの間、明日形の如くに之を遂げ、馳せ下らんと欲す。聴聞するかと。六十日の病悩の上、近日又腹病相加はる。論勿きの由之を答ふ。中将に於ては行き向ふべきの由、書状を以て示し送る。腹病の気に依り、不定の由を申す。構へて向ふべき由示し送る。

 どうやら、この当時、国通は西郊(西岡)に持仏堂を建立していたらしい。で、その開眼法要が8月にもできそうだというのに「女房俄に遠行を企てんと欲する」。で、明日、「形の如くに」開眼法要をやってしまい、自分も坂東に「馳せ下らん」と思うのだけれど、どうか? というんだね。で、定家は「中将に於ては行き向ふべきの由、書状を以て示し送る」。つまりは行ってこいと。うーん、持つべきものは友か……。で、この事実を踏まえ、改めてウィキペディアの記事を読み直すと、「略歴」にこうあるではないか――「嘉禄元年(1225年)、幕府の推挙を得て権中納言に昇進」。藤原国通の妻(牧の方の娘)が伊豆に帰ったのが嘉禄元年であり、その年、国通が「幕府の推挙を得て」権中納言に昇進したとするならば、妻の帰郷はそのための工作(陳情、根回し、働きかけ……。ま、言い方は何でもいい。とにかく、幕府高官に対する政治工作)が目的だった可能性もあるのでは? つーか、ハッキリと、ここは、それが目的だったと断定しよう(もちろん、父・時政の墓参とか、そういう表向きの理由はあったでしょうが。嘉禄元年といえば、時政が亡くなった建保3年からはちょうど10年の節目となる)。さあ、そうなった時、そのミッションに当たったのが、藤原国通の妻一人だったかどうか? 「鎌倉とのパイプ役」ということで言うならば、むしろ義母の方。しかも、その義母はといえば、欲の固まりのような女性で、のえ言うところの「欲が着物着て歩いているようなもの」とは、正しくりくのことでもある。そして、当人曰く「まだ私の中の火は消えてない」。だから、娘婿の出世のために――つーか、それに合わせて京都の公家社会における自分自身の身分が上昇することを第一目的に――りくがこの遠行に同行していたとしても筋書き的にはムリがない。いや、それどころか、りくが娘や娘婿を焚きつけて、この遠行を実現したとしたって――。そして、鎌倉では今や御家人ナンバーワンの実力者に上り詰めた三浦義村にも会っただろうし、北条政子にも会っただろう。もしかしたら、義村には、「あんた、やったわね」とか言って、ウインクしてみたり? それに対し、義村は「何のことだ?」。そうとぼけつつ、不敵にニヤリと笑ってみせたり。

 そして、もしかしたら、番組の最後を飾るのは、りくと政子と実衣(実衣こと阿波局役の宮澤エマもPVに出演する。ちなみに、政子と実衣には義時殺しの動機は、ある……)、番組でしばしば描かれてきたこの3人による〝女子会〟だったりして? 政子が亡くなったのはまさにこの年の7月であるわけだし(7月11日)。ドラマツルギー的にはこの3人が再会する必然性はある。万感の思いを込めて安元元年以来の出来事(公式HPの第1話「大いなる小競り合い」の解説によって物語の始まりが安元元年(1175年)であったことが確認できる)を振り返る3人にテーマ音楽が重なって――という最後は、りくが義時殺しの黒幕だった、というまさかまさかの最後よりもずっとステキな「グランドフィナーレ」かも? と書いておく……。



 本文では伊賀の方による毒殺説の裏付け史料を『明月記』安貞元年6月11日条としましたが、この条文、1912年刊行の国書刊行会版『明月記』には安貞元年4月11日条として記載されている。これがねえ、謎だったんですよ。この条文については山本みなみ氏も「北条義時の死と前後の政情」で紹介しており、そこではハッキリと「すなわち、『明月記』安貞元年(一二二七)六月十一日条によれば」とお書きになっておられます。しかし、現に国書刊行会版には安貞元年4月11日条として記載されているわけだから、もしかして山本氏の誤記(ないしは誤植)? そう思ったりもしたわけだけれど、一方でこの尊長逮捕に関するニュースは『吾妻鏡』にも安貞元年6月14日状として記されており、そこでは「去る七日の辰の刻に」と日付まで記されている。だから、山本氏がお書きになっている「すなわち、『明月記』安貞元年(一二二七)六月十一日条によれば」で間違いないように思えるんだ。ということは、国書刊行会版『明月記』の方が間違ってる? と、そういうことになるわけだけれど……この謎、解けました。実はね、2018年刊行の朝日新聞社版『冷泉家時雨亭叢書 別巻四:翻刻明月記三』では、この条文、安貞元年(嘉禄3年)6月11日条として記載されているのだ。これは、念のためということで、富山県立図書館の司書さんに国書刊行会版以外に『明月記』の翻刻本がないかお尋ねしたところ、朝日新聞社版を見つけて下さり、確認すると、件の条文が安貞元年(嘉禄3年)6月11日条として記載。さらに「注」として「東京国立博物館蔵「嘉禄三年四月記」は12紙からなる巻子装一巻。同年四月から六月にかけてと嘉禄元年の記事からなるが、嘉禄三年四月の連続した一巻に見えるように改装されている。年月日の比定は五味文彦『明月記の史料学』(青史出版 二〇〇〇年)にしたがう」。これを読んで、なるほど! やっぱり「答」てあるもんだなあ……。

 ということで、せっかくだからその安貞元年(嘉禄3年)6月11日条の尊長逮捕に関する下りをこれも今川文雄訳『訓読明月記』より引いておこう(なお、同書でもこの条文は安貞元年4月11日条とされていることを明記しておきます)――

(略)申の時に及び、心寂房来談するの次でに云ふ、去る八日午の時許りに、菅十郎左衛門の許に罷り向ふ。其の辰の時許り、法印終命の日なり。武士委しく其の間の事を談ず。年来、熊野・又洛中・鎮西等を経廻る。此の三年許り京に在り。茂盛の子兵衛入道尋ね逢ひ、友となすの間、件の法師従父兄弟・山伯耆房又知音の間、兵衛入道忽ち弐心を挟み、以て此の事を告ぐ。身を扶くる計をなすべき由、支度を成し、使者を以て武州に触る。武州悦を成し、書状を以て、搦め取るべきの由、河東に示し送る。状五日に到来。忽ち其の事を議す。伯耆房法師の許に向ふ(早旦)。我が身に敵(あだ)するを恐れ、門を出づるの時入るべき由、兼ねて武士と約して行き向ふ。武士避暑の由を称し、二条大宮の泉に行き向ふ(菅十郎・小笠原)、甲冑を車に入れ之を運ぶ。又車四両に乗り、馬に引かしめ、彼の近き辺りに行くの間、伯耆河東の武士群を成すの由之を聞き、罷り向ひ見て帰り来たるべき由を称す。門を出で武士を麾(さしまね)き、奔り去るの間、菅十郎の手先押し寄す。法印剣を取り、一間に入る所(他人の説の如し)、先づ奔り入る男突かれ(三疵)、帰り出づ。次で、入る者又突かる(浅手)。次で自害するの後、車に入れて河東に向ひ、車乍ら門の内に入る。法師問ひて云ふ、あの男は誰ぞと。人云ふ、修理亮殿武蔵太郎ござれ、又あの男は掃部助殿、これは見きと。次で云ふ、只早く頭をきれ。若し然らざれば、又義時が妻が義時にくれけむ薬されこゐてくはせて早くころせと(衆中頗る此の詞に驚く)。

 で、正直に言いますと、↑に記されていることの8割方はワタシの理解の範疇外。辛うじて理解可能なのは、本当に最後の下りだけ。ただ、この最後の一文の重大性はワタシにもハッキリと理解できる。それこそ「衆中頗る此の詞に驚く」ですよ。ただ、その信憑性だよね。これについては本文でも触れた石井進は中央公論社版『日本の歴史7』で「かなりの蓋然性がありそうである」。うん、ワタシ自身の感触としてもそんなところかなあ。ただ、山本氏は否定的。その理由はいろいろあるのだけれど、ワタシ自身がいちばん関心を引かれ、なるほどと思ったのは尊長と一条実雅の関係かな? 実は尊長と実雅は確かに実の兄弟ではあるのだけれど、実雅が関東に下向し、義時の娘を嫁に迎えるなど、ガチガチの北条派だったのに対し、尊長は承久の乱では京方に立ち、戦後は〝戦犯〟として追及を受けていたような人物。「よって、兄弟関係は疎遠といわざるを得ず、乱後、実雅が謀反人の尊長と手を結ぶのか甚だ疑問である」というのが山本氏の見方。それを踏まえて問題の尊長の供述についてはこうその信憑性を否定しておられる――「このことから考えても、捕まれば死刑を免れないことはわかっていたはずである。よって、六波羅に連行された際には、精神的にもかなり追い詰められた状態にあったと察せられる。(略)尊長が自暴自棄に陷り、最後に伊賀一族や北条氏に一矢報いようと虚言を吐いたとて何ら不思議ではないのである」。まあ、「何ら不思議ではない」と言われるとツッコミの1つも入れたくなるところだけれど――ただ、その主張の背景については理解はいたします。確かに尊長と一条実雅(ならびに伊賀一族)との関係がそのようなものだったとしたらねえ……。

 でね、この問題についての考え方なんだけれど、尊長の供述をストレートに受け止めた上でその信憑性を云々するというのも1つ。でも、もう1つのスタンスというものもありうると思うんだ。実はですね、↑の下りを読んで、パッとワタシのアタマに浮かんだのは、1909年10月26日、ハルビン駅構内で伊藤博文を暗殺した安重根が予審で検察官・溝渕孝雄に動機を尋ねられた際に列挙したという15の理由の14番目――「今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス」。つまり、安重根は、伊藤博文の罪状の1つとして孝明天皇暗殺を挙げて見せたわけだけれど――多分、これって、〝虚言〟などではなく、本当に彼はそう信じていたんだろうと思うんだ。実際、孝明天皇の崩御をめぐってはいろいろ言われているわけだから。これはね、ウィキペディアでも「崩御にまつわる疑惑と論争」として記事になっているくらいで、否定すべくもない。それを安重根は素直に信じていた……。で、もしかしたら、尊長が言った「又義時が妻が義時にくれけむ薬」云々というのも、この孝明天皇の崩御にまつわる風説のようなものなのではないかと。というのも、『吾妻鏡』を読んでも義時の死の前後の状況というのはちょっと普通じゃないことがわかる。たとえば、当時、六波羅探題北方として京にいた泰時は16日に父の死の一報を受け取り、17日に出京。しかし、鎌倉に入ったのは、なんと27日になってから。実は前日の26日には到着していたものの、その日は由比ヶ浜で野営している。ただちに鎌倉に入るのは躊躇われた、ということ。当然、不測の事態を予期してのことで、有り体に言うならば、鎌倉にいた異母弟の政村を警戒したということですよ。で、泰時がそういう慎重な行動を取ったのは賢明な判断で、客観的な情勢は確かにそうした事態を想定させるものだったと言っていい。むしろ、当時の状況では、義時が自然死だったと考えることの方が難しかっただろう。である以上、当時、義時の死因をめぐって(毒殺説ばかりではなく、『保暦間記』に記された近習による刺殺説というあやふやなものも含めて)さまざまな風説が世に流布していたとしても「何ら不思議ではない」。いや、そうでなかったとしたら、その方が不思議なくらいですよ。この尊長の供述というのはそういうものとして受け取るべきではないかと思うんだけれど……ただ、一条実雅の実の兄の口からそのことが語られたことに意味があるというか。要するに、皆漠然と考えていたことに改めて目を向けさせる契機にはなっただろうと。そして、そういう目で義時の死の前後の状況を見つめると、やはりおかしいんだよ。たとえば『吾妻鏡』の元仁元年6月12日条にはこんなことが記されているのだけれど――「辰剋、前奥州義時病悩。日者御心神雖違乱、又無殊事。而今度已及危急」。いいですか? 「日者御心神雖違乱」ですよ。つまり、義時はこの時点で精神に異常を来していたのだ。もしやもしや、亡霊でも見るようになっていたとか? そして、その翌日、北条義時は死んだ――というのだから、どう穏当に見積ったって、それは「狂死」であり「変死」でしょう。それ以上(「毒殺」「刺殺」)はあり得てもそれ以下(「病死」「自然死」)はない――それが「北条義時の最期」……。



 えーと、本文では『明月記』の記載等を根拠に京都にいたはずのりく(牧の方)が鎌倉に姿を現わす必然性をシャカリキになって導き出したわけだけれど……なんと、「そういえば、向こうで懐かしい人に会いましたよ」。ま、「努力」とは、ほとんどの場合、報われないものと相場は決っていて……。しかし、宮沢りえの出演があんな最終回に彩りを添える程度のものであるならばわざわざパブリックビューイングにお出ましいただくほどのこともなかったのでは? どう遇したところで、イベントの主役にはなりえないのだから、天下の大女優(とワタシは思っております――てゆーか、大ファンであります、ハイ……)に対して失礼ではないか……とも思うのだけれど、NHK側もそんなの重々承知のはずで、承知の上であえて宮沢りえに出演をオファーした――と考えるならば、その狙いは世の「考察班」を惑わすミスディレクションにあった、と考えるのはむしろ常識的な「考察」というものか? 実際、ワタシもこうして「鎌倉殿ノート③〜りく曰く「まだ私の中の火は消えてない」について〜」なんて愚にもつかない記事を草したくらいなのだから(朝日新聞デジタルも12月17日付けで配信された「義時は無事に死ねるか 「鎌倉殿の13人」最終回、七つの見どころ」と題する記事で「りくの再登場」を注目ポイントの1つに挙げていた)。そういう意味では狙いはまんまと当たったということだね。『鎌倉殿の13人』というのは、こんなふうに、ネット世論を手玉に取る(良い意味で言っております、念の為)ことに非常に長けたTVプロジェクトだった――と、ここはそう総括しておきましょうか。そして、TVはますますそういう傾向を強めて行く――、それが「オワコン」と称されたこのメディアが生き残るための当面考えられる唯一の術と信じて……(ま、そんなことを特に考えているわけではないんだけれど、この記事はあくまでも「ノート」なので。こんなこともちょっと考えた、ということのほんのリマインダーとして)。