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鎌倉殿ノート⑧
〜北条政子は犬神松子である可能性について〜

 それにしても、見事なカマクラン・ノワールだった。あの廊下での小四郎と平六の対決には痺れましたよ。何よりも「襟」の伏線がね。皆、第44話を踏まえて、過去のエピソードに遡って平六の「襟」に思いを遊ばせたんじゃないかと思うんだけれど、違ったんだよ。あれはこの第45話への伏線だったんだよ。この第45話で視聴者の目を平六の「襟」に引き寄せるための――。そして、その「襟」ひとつで三谷は見事に平六の「嘘」を表現した……。あと、ひょっとしたらトウは政子に取り立てられて、以後は「女房駿河局」として仕えることになるのかも。『吾妻鏡』を読んでいたら、そんな可能性が見えてきて。三谷幸喜の用意周到さは、こんなところまで……?

 さて、11月24日付けでSponichi Annexにアップされた「『鎌倉殿の13人』北条政子役・小池栄子インタビュー」によれば、やっぱり最終回はすごいらしいな。だって、「最終回の台本を頂いた時は衝撃のあまり言葉が出ず、放心状態になってしまいました」だもん。この感じだと、ワタシが「鎌倉殿ノート①〜三谷幸喜が三浦義村に割り振った「役割」について〜」で書いたのなんて、全然、メじゃないかもね。それと、「ラストに向けて賛否が巻き起こるような流れになっていくと思います」という発言も気になる。確かにねえ、承久の乱だから。「賛否が巻き起こる」のも不思議はない。なにしろ、相手は太上天皇だもの。主人公が太上天皇と戦って、負けるならまだしも、勝って島流しにするってんだから。どういう描き方になるにせよ、「賛否が巻き起こる」ことになるのは避けられないでしょう。ただ、小池栄子が言っているのはそういうことなのかどうか。どうもそういうこととは違うような気もするんだよね。これはあくまでもワタシの見立てなんだけれど、もうドラマの焦点はこれ以上黒くなれないくらい真っ黒になってしまった北条義時に誰がどうやって引導を渡すのか? という一点に絞り込まれてきているような気がするんだ。だから、ハッキリ言えば、承久の乱はどうでもいい――、そんな気分にさえなっている。そして、実際のドラマの進行もそんなワタシの気分に沿ったものとなる予感も。理由は、OPクレジットですよ。OPクレジットのトメが、第39話以降、三浦義村役の山本耕史になっている。後鳥羽上皇役の尾上松也ではなく、三浦義村役の山本耕史がトメ――というのは、このドラマが最終的にどこへ向おうとしているのかを象徴的に物語っているとは言えないか? そもそも北条義時は承久の乱には参加していない。彼は大江広元や三善康信らとともに鎌倉で留守を守っていた。だから、残すところあと3回となった『鎌倉殿の13人』において承久の乱が『真田丸』における関ヶ原の戦いのような処理(「超高速関ヶ原」)をされたとしても少しも不思議はない(だから、11月21日付けでデイリースポーツ onlineが書いた「尺足りなくない?」というようなことは問題にはならないということです)。それよりも、北条義時の行く末をじっくりと描き込んで欲しい――、それが、この1月以来、北条小四郎という若者の成長と変貌を見つめてきた1人の視聴者としての率直な思いであります。

 でね、そう言うんならば、静かに見守っていればいいものを、そうできないのがワタシというニンゲンでありまして。そりゃあ、ねえ、「衝撃のあまり言葉が出ず」だの「賛否が巻き起こるような流れになっていく」だの。そこまで言われたら、勝手にアタマがモウソウを始めちゃいますよ。で、北条政子役の小池栄子が「最終回の台本を頂いた時は衝撃のあまり言葉が出ず、放心状態になってしまいました」ってんだから、彼女が何らかのかたちで「北条義時の最期」に関っているのは間違いないでしょう。確かに彼女は2人の息子(頼家と実朝)と3人の孫(一幡と公暁。これに『鎌倉殿の13人』には登場するかどうか現時点では不明な禅暁を加えて3人。ま、現時点でアナウンスされていないということはスルーされるのかな?)を北条義時に殺されている。「動機」としては十分すぎるほど。また『鎌倉殿の13人』を一編のミステリーと見立てた場合、北条政子のような存在というのはいるわけで、その最もわかりやすい例は『犬神家の一族』における犬神松子。言うならば、「家母長制(matriarchy)」的世界に家長として君臨する存在。そんな彼女が最後に身内の不始末にケリをつける、というのはドラマツルギー的にも納得ができる。そして、最終回がそんな内容だったとしたら「台本を頂いた時は衝撃のあまり言葉が出ず、放心状態になってしまいました」というのも不思議はない、よね?

 で、そういう前提で考えた時、義時死後の処理も全てを背負った「家母長」としての覚悟が滲み出たものと言えるんじゃないかな? 義時の死後、鎌倉は、義時の後継をめぐる思惑が入り乱れる猜疑と疑念の坩堝と化す。やれ泰時は異母弟である政村(生母は「のえ」こと伊賀の方。どうやら次回「将軍になった女」から登場するようだけれど、あの「悪妻」からよくぞこんないい子が? というような若武者。ただし、目付きとかはどっちかと言うと実の父親よりも烏帽子親に似ているんじゃないの? その烏帽子親とは……三浦義村)を討つために京都から下向しただの、その政村の母である伊賀の方は伊賀の方で兄の伊賀光宗と共謀して娘婿の一条実雅を将軍に擁立し、政村をその後見役(執権)にしようと目論んでいるだの。ここは五味文彦・本郷和人・西田知広編『現代語訳 吾妻鏡』貞応3年6月28日の条より――

前奥州禅室(北条義時)が死去した後、世上のうわさはさまざまであった。泰時が弟らを討ち滅ぼすため京都を出て(鎌倉に)下向したと、かねてからうわさがあり、四郎(北条)政村の周辺は落ち着かず、伊賀式部丞光宗兄弟は政村主の外戚の家ということで執権の事を憤り、伊賀守(藤原)朝光の娘である義時の後室(伊賀氏)もまた、聟の宰相中将(一条)実雅卿を関東の将軍に立て子息の政村をその御後見として武家の成敗を光宗兄弟に任せようと密かに思い企てており、すでに賛同した者もあり、この時にあたり、人々の思いは分れていたという。

 正に疑心暗鬼。ただ、泰時に関する噂はともかく、伊賀氏(伊賀の方)に関してはワレワレがここまで見てきたその人品骨柄からしていかにもありそうな話という気も……。ただし、コトを謀っているのが伊賀の方やその兄弟だけならば大したことにはならないはず。しかし、そこにこの男が絡んでくるとなると話は違ってくる。今度は7月5日の条より――

鎌倉中が騒動した。(伊賀)光宗兄弟が何度も駿河前司(三浦)義村のもとを往還した。これは相談することがあるのだろうと人は怪しんだ。夜になって光宗兄弟は奥州(北条義時)の御旧跡〔後室(伊賀氏)の住居〕に集まり、この事で心変わりはしないとそれぞれ誓った。ある女房が密かにこれを聞いて、密談の始めからは知らなかったが、様子が不審であると武州(北条泰時)に告げた。泰時は全く動揺する気配が無く、「光宗兄弟らが心変わりはしないと契ったのはまことに神妙である。」と仰ったという。

 さあ、出てきました、われらが三浦メフィストフェレス義村の名前が(笑)。これはコトですぜ……。それにしても、この泰時の態度はどうなんだろう? 泰然自若? それとも、単に危機感が希薄なだけ? もし前者ならば、彼はいずれかの時点で変ったということだろう。だって、少なくとも和田合戦の頃までは懸けられた期待の大きさから逃れるべく酒にすがっていたような状態だったのだから。彼が変わった(化けた)タイミングはいつだったのだろう? あるいは、第45話「八幡宮の階段」で父に挑戦状を突きつけた瞬間がそうだったのか……? ともあれ、ここで三浦義村が一枚噛んできたとなると、コトは容易ではない。しかも、伊賀兄弟が三浦邸に出入りしていることは瞬く間に人々の知るところとなったらしい。そして、7月17日には騒動の匂いを嗅ぎつけた武者たちが集まり、家々を占拠して、鎌倉は合戦前夜の様相を呈することとなった。そんな中、政子が動いた。今度はその7月17日の条より――

近国の者が競って(鎌倉)に集まり、家々に居を占め、今日の夕方はたいそう騒がしかった。子の刻に二位家(政子)は、女房駿河局のみを御供として潜かに駿河前司(三浦)義村の宅に出かけられた。義村が特に恐縮すると、政子が仰った。「奥州(北条義時)の死去により武州(北条泰時)が(鎌倉に)下向した後、人が多く集まり世が静まらない。陸奥四郎(北条)政村と式部丞(伊賀)光宗らが頻りに義村のもとに出入りして密談をする事があるとのうわさがある。これは何事か、理解し難い。あるいは泰時を滅ぼして意のままに事を行おうというのか。去る承久の乱の時、関東の運命が治まったのは天命であるとはいえ、半ばは武州の功績であろう。およそ奥州は数度の混乱を収めて戦いを鎮めてきた。その跡を継いで関東の棟梁となるべきは武州である。武州がいなければ諸人はどうやって運命を久しくできようか。政村と義村は親子のようなものであり、どうして談合の疑いが無いことがあろうか。両人が無事である様に諌言すべきである」。義村は知らないと申したが、政子はなお納得せず「政村を支えて世を乱す企てがあるのか否か、和平の計略を廻らすか否か、はっきりと申せ。」と重ねて仰った。義村が申した。「政村は全く逆心は無いでしょう。光宗らには考えていることがあります」。強く制止を加えると(義村が)誓ったので(政子は)帰られたという。

 スゴイよね。これは、事実上、義村が政子に恭順を誓ったということですよ。あの三浦義村がね。さしずめ、政子の気魄に圧倒されたということか? そして、側に控える駿河局が放つ殺気に……? ただ、それでも鎌倉を蔽う不穏な影は晴れなかった。7月30日には再び御家人らが甲冑を着て走り回るような事態に。そして、明くる閏7月1日、再び政子が動く。今度は義村を泰時邸に呼び出した。義村が赴くと、政子は三寅を抱いており(あ、例の『清須会議』で羽柴秀吉が三法師を抱いて宿老たちの前に現われたのはこのパクリ?)、こう言ったという――「私は今、若君を抱いて相州(北条時房)・武州と同じ所にいる。義村も別にいてはならない。同じくこの場所に祇候するように」。それに対する義村の返答は記されていないものの、『吾妻鏡』には「義村不辭申」とあって、これは事実上、監禁されたということでしょう。『吾妻鏡』には一切記載はないものの、おそらくは武装した兵らも配備されていたに違いない。その上で政子は葛西清重、中条家長、小山朝政、結城朝光以下の宿老を招集。そして、今度はこう言ったという――「上(三寅。のちの頼経)は幼少なので、臣下の反逆を押さえ難い。私は無理に老いた命を生かしており、たいそう役にも立たないが、それぞれはどうして故将軍(源頼朝)の記憶を思わないのか。そうすれば、命令に従って同心すれば何者が蜂起するであろうか」。話はここで終わっているのだけれど、おそらく宿老たちはその場で平伏して泰時への忠誠を誓ったということだろう。そうした結果をもたらしたのは偏に北条政子の行動であことは明らかであり、その一連のふるまいからは北条家の「家母長」としての尋常ならざる「覚悟」が見て取れよう。その姿はどこかわが子・佐清に犬神家を継がせようとした犬神松子に似ているような……? ともあれ、こうして義時から泰時への代替わりを確実なものとした政子は伊賀兄弟らに対する処断も主導し、一条実雅は京都へ送還、伊賀の方は伊豆、光宗は信濃国へ配流となった。ここに義時の急死を受けた鎌倉の動揺はようやく沈静化を見ることとなった。

 そして、こうした北条家の代替わりに関る諸懸案の処理に全身全霊で当たったわれらが「家母長」は、明くる嘉禄元年(1225年)7月11日、69歳でその生涯を閉じた。『吾妻鏡』はその死を病死としているものの、それが全ての責任を背負った上での覚悟の自死だったことを知るものはいない。わずかに三浦義村が過ぐる年に相見えた政子の尋常ならざる「覚悟」を思い起こして、ふとその可能性を思ってみるのみだった……と行きたいんだけどね(今はあくまでも『鎌倉殿の13人』というドラマにおける北条義時ならびに政子の最期についての「考察」を行っております。決して史実についての「考証」ではないので、誤解のないように……)、実は最後はちょっと苦しいんだよ。というのも、『吾妻鏡』によれば、政子は亡くなる1か月半も前の5月29日には既に病の床に臥しているので。突然死ではない以上、それを自殺と言いくるめのはなかなか至難の技で……。ここで『吾妻鏡』が記す政子の死に至るまでの経過をザッと紹介すると、5月29日に病に倒れ、6月2日からは泰時の沙汰で御祈祷が行われている。その甲斐あってか、3日にはやや恢復の兆しも見みられた(「御不例聊御滅」)ものの、10日には大江広元が死去。これは不吉ですよ。「不幸は続く」とも言うし、「死者は招く」とも言うし。そして、案の定。12日になって「二位家御不例。自去七日御增氣」。そして、16日、一時、政子は危篤状態に陥る。『吾妻鏡』には「辰刻二品御絶入。諸人成群」とあるので、親族が呼び集められたということだろうね。幸いにもこの時は持ち直したものの、その後も病状は恢復に向かうことはなく、7月6日には前権侍医・和気定基の治療を受けたことも記されている。しかし、8日には「御違例既危急」。そして、7月11日、遂に亡くなった――と粗々こんな感じ。でね、この一連の記録を読んで不思議なのは、政子の病状については「御不例」だの「御惱」だのと記すばかりで具体的な症状への言及がほとんどないこと。そのため、どんな病気だったのかを推測する手がかりもない、ということになる。ただ、病に臥してからは何度か意識不明の状態に陥っていることはわかる。またその際は親族が集められたことも。そうなるとね、ワタシの祖母が亡くなった時に実によく似ているんですよ。ワタシの祖母は夏の盛りに食中たりで寝込んで見る間に体力を消耗し、何度か危ない状態になって、その都度、電話で呼ばれて、その都度、不思議と持ち直して、でも見た目にも死期が迫っていることは明らかで、今度、呼ばれた時は危ないな、と覚悟していたら、8月31日になって「すぐに来い」と。で、駆けつけてからものの30分もしない内に息を引き取った。それが、ワタシが人の死に立ち合った最初だった。その時、ワタシは17歳だった。『月刊シナリオ』と『キネマ旬報』を購読する田舎の高校生で、いずれはこの夏の経験を元に「夏の家族」というシナリオを書こうと思いつつ、遂に書くことはなかったけれど、まだ舗装される前の炎天下の道に従兄が黙々と防塵剤を散布していた姿は今でも映画の一場面のように……。あの埃っぽいデコボコの道こそは、あの夏、家族が歩いた道……とそんなことを思い出したりもするわけだけれど、とするならば政子も食中たりかねえ。発熱とか、特徴的な症状がないということは、食中たりで寝込んで徐々に体力を消耗して、というのが最もありがちなケースという気もするのだけれど……でも、食中たり? 食べものに中たった?

 食べものに毒を入れれば食中たりにはなる。他人が毒を入れれば、それは、他殺。自分が毒を入れれば、それは、自殺。貞応3年(1224年)6月、政子は、義時に毒を盛り、翌年、今度は自分に毒を盛った。北条家の「家母長」として全てを自分の手で清算すべく……?



 北条家の犬神松子たる政子には義時を殺害する動機もそうすべき使命感みたいなものも備わっている――、↑に記したことを要約するならばそういうことになると思うんだけれど、動機だけならば北条家の犬神竹子たる実衣にも十分に備わっている。というのも、実衣は阿野全成の忘れ形見である時元を義時に殺されているので。どうやら次回「将軍になった女」でこの悲劇が描かれるようですが(予告編では義時の「息子時元を鎌倉殿にしようと画策した」という声と政子の「実衣をどうするつもりですか」という声。それに対し、まっくろくろすけの義時は「首を刎ねる」と……)、ここは『現代語訳 吾妻鏡』建保7年2月の条より関連の記述を引くなら――

十五日、壬子。未の刻に二品(政子)の御帳台に鳥が飛び込んで来た。申の刻に駿河国の飛脚が(鎌倉に)参って申した。「阿野冠者時元〔法橋(阿野)全成の子。母は遠江守(北条)時政の娘(阿波局)〕が去る十一日に多勢を率いて城郭を奥深い山に構えました。これは、宣旨を賜って東国を支配しようと企てたものです」。
十九日、丙辰。禅定二品(政子)のご命令により、右京兆(北条義時)が金窪兵衛尉行親以下の御家人らを駿河国に差し遣わされた。これは阿野冠者(時元)を誅殺するためである。
二十二日、己未。派遣された勇士が駿河国安野郡に到着し、安野次郎・同三郎入道を攻めたところ、防御の側が劣勢となり、(阿野)時元と一味は全て敗北した。
二十三日、庚申。酉の刻に駿河国の飛脚が(鎌倉に)到着し、阿野(時元)が自殺したと申した。

 禅定二品のご命令により――というのは、到底、信じられないなあ……。ともあれ、最愛のわが子を殺されて鬼にならない母などいない。北条家の犬神竹子たる実衣も鬼になって兄の義時を食い殺した――という可能性は十分にありうるでしょう。しかも、その可能性というのは、単に『鎌倉殿の13人』という物語の上に止まるものではなく、史実の上でもね。というのも、実衣(史料では「阿波局」)は時元の「謀叛」に関る↑の記載を最後に鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』からその存在を消すのだ。唯一、残されているのは、その死を伝える安貞元年11月4日のごく短い記載のみで、これは尋常ではない。「謀叛」に加担したとして何らかの御咎めを受けたのか、あるいは……。1つだけ言えることがある、それは、鎌倉幕府にとってその存在が好ましからざるものであったこと。そして、その理由は――時元の「謀叛」に加担したことなどではなく、それを恨みに兄・義時を弑逆したという「大罪」……?



 公暁ふうに言うならば、騙されるものか……。

 第47話「ある朝敵、ある演説」で披露された北条政子の「演説」をめぐってはネットでは凄まじいことになっていて、曰く「義時もネットも嗚咽 政子“魂の大演説”4分「鎌倉殿一の神回」小池栄子熱演に絶賛続々」、曰く「圧巻で鳥肌ものの“3分22秒” 名演説は政子が自らの言葉で! 脚本・三谷幸喜に称賛集まる」。まったく、もう、空恐ろしくなるような賛辞のオンパレードで、ふと第98代内閣総理大臣の退任表明演説を受けた当時のネット世論を思い出してみたり……。いや、ワタシも北条政子の言ったことの8割方は賛同できるんだよ。でも、北条義時のふるまいをめぐって「すべてこの鎌倉を守るため。一度たりとも私欲に走ったことはありません」というのはねえ……。北条義時がやってきたことは「鎌倉のため」というよりも「北条のため」であり、北条という一家族の権勢を高めんとする「私欲」からのふるまい以外の何ものでもない。いや、彼の行動の根底にあるものを「北条のため」と言い表すのも本当はどうか? だって、第46話「将軍になった女」で阿野時元を討った時はこう言ったんだぞ――「鎌倉は誰にも渡さん」。でも、阿野時元の母は実衣なんだから。つまりは北条一門。義時はそんな時元にさえ「渡さん」と――。つまり、義時の言う「誰にも渡さん」とは「オレ以外の誰にも渡さん」ということ。早い話が義時は鎌倉を自分のものだと思ってるんだよ。そんなニンゲンが「一度たりとも私欲に走ったことはありません」? 一体どこをどう突いたらそんな言葉が出てくるんだ……。それに「三代に渡る源氏の遺跡を守りぬく」というのもねえ……。あのさ、その内の二代までは実質的には義時に討たれたようなもんじゃないの? それで「三代に渡る源氏の遺跡を守りぬく」って、北条がそんなこと言える立場かよ、と。ただ、まあ、これは『吾妻鏡』に書かれているとおりだから、よしとしますか。とにかく、「すべてこの鎌倉を守るため。一度たりとも私欲に走ったことはありません」ですよ。これはね、あくまでもワタシがこう感じたということでしかないんだけれど、この北条政子の一言が出た瞬間に覚えた違和感というのは実朝が「これ以上、血は流したくない」と言った瞬間に公暁(あるいは、公暁役の寛一郎)が覚えた違和感に匹敵するものだと(第44話「審判の日」の実朝と公暁の対面シーンにおける公暁の心理――というか、その撮影に臨む際の寛一郎の演技プランについてはこちらの記事が詳しい。驚くべきは、実際の演技がその演技プラン通りに行われていたことで、それはなかなか容易なことではないと思うんだけれど……。この人にはこれから要注目だね)。要するに、それまで高まっていたものを一瞬にして冷めさせる一言――。だからね、仮にあの場にワタシが心の底で北条義時への恨みを募らせる一人の御家人としていたとするならば、声に出して言うかどうかは別にして、自分が発するべき言葉は、騙されるものか、だったろうなあ、と。で、もしその言葉を聞きとがめられて、周囲の視線が自分に集中することになったら――その時こそ、始めればいい、「もう一つの演説」を――。三谷も「ある演説」と言っているんだから、当然、それとは別の「もう一つの演説」がありうるということで――騙されるものか! 北条義時がやってきたことはただオノレの権勢を高めんがためのもので、一度たりとも私欲に走ったことはないなんて、一体どこをどう突いたらそんな言葉が出てくるんだ! そんな言葉はな、死んで行った畠山重忠や和田義盛のためにこそ言え! あと「三代に渡る源氏の遺跡を守る」? よく言うぜ。その内の二代までは義時に討たれたようなもんじゃないか。それで「三代に渡る源氏の遺跡を守りぬく」って、北条がそんなこと言える立場かよ! それを言っていいのは、オレたちだ。そして、正に「三代に渡る源氏の遺跡を守りぬく」ためにも、北条義時を討つべきなのだ。違うか⁉ 鎌倉殿を蔑ろにし、オレたち御家人を蔑ろにしてきた北条義時という独裁者を討ち、鎌倉を真の「坂東武者の都」にするために今こそ立ち上がろうぞ!

 ま、あんな「感動的な」演説の後にこんな冷水をぶっ掛けるような演説をするなんて、KYもここに極まれり、だけどね。ただ、繰り返しになるけれど、三谷も「ある演説」と言っているわけだから。そうタイトルを付けている時点で異論を認めているってことですよ。むしろ、三谷としては、どんどん言って欲しいんじゃないのかな? あの演説はおかしいって。ワタシはそう思うけどなあ……。

 あと、第47話のタイトルとして掲げられたもう一つのキーワードである「ある朝敵」についても少しばかり書いておこう(しかし、「ある朝敵、ある演説」というのは、なかなかのタイトルですよ。なかなか含みのある。あるいは、なかなか感性による消費を許さない、思弁性に富んだ……)。まず、ワタシは謝罪しなければならないかも知れないな、三谷幸喜と制作スタッフに。というのも、これまでワタシは2度ほどこんなことを書いているんだよね――「結局、三谷としては、『鎌倉殿の13人』という物語から、極力、「朝廷対武家」というモチーフを排除したいんだろう。『鎌倉殿の13人』というドラマのハイライトとなるであろう承久の乱を展望した時、そのようなモチーフが仮初めにも物語に持ち込まれた場合、逃げられなくなってしまう。だから、徹底してその種のモチーフは排除してかかる――、それが三谷幸喜ならびに制作スタッフの判断なのではないか」――。しかし、三谷は第47話で堂々とタイトルに「朝敵」と打ってきた。逃げるどころか、逆に、勝負に出てきた、と言ってもいいかも知れない。しかも、「ある朝敵」と。言うまでもなく「ある(或る)」とは「一つの、一人の」を意味する接頭辞なので、朝敵(とされたもの)は他にもいる、という認識が前提としてある、ということになる。そして、日本史上には確かにそういう存在というのはいるわけで、三谷が『新選組!』で描いた新選組や会津がまさにそうだよね。で、ワタシは見ていないんだけれど、日刊スポーツによれば、12月10日に放送された『情報7daysニュースキャスター』で東京・日野の土方歳三資料館の長期休業について取り上げられた際、同番組のコメンテーターである三谷幸喜はこうコメントしたという――「新選組はいまだにテロリスト集団だと思われているところがあって、本当はテロリストたちを取り締まる側だったんだけど、そのテロリストたちが明治政府をつくることになっちゃったから、立場が逆になったんですよね」。このね、言ってしまうならば実に単純明快なそれでいて必ずしも広く受け入れられているとは言い難い真実がこのタイミングで三谷幸喜の口から吐き出された――というのは、ただの偶然ではないのかも知れない。つまりですね、三谷の歴史ドラマに対するスタンスの核にはいわゆる「官軍/賊軍」史観への強烈な「否」が息づいているのでは? と。それが彼をして『新選組!』を書かしめたのだということをこの発言で再確認できるとともに、なんで彼が大河3作目にしておそらくは彼にとっての「最後の大河」となるであろう本作で北条義時を取り上げたのかもこの発言で確信的に理解できるというもの。要するに彼は『新選組!』で新選組や会津を「官軍/賊軍」史観から解放したように北条義時を「官軍/賊軍」史観から解放したいんだよ。「官軍/賊軍」史観に囚われる限り、見えるはずのものも見えなくなってしまう――、そのことを彼はよーく知っているのだ。ただし、新選組や会津と違って、北条義時の場合、「官軍/賊軍」史観から解放した(された)ところで希代の悪人であることは動かない。ハッキリ言って、日本史上、稀に見るヴィランですよ。多分、この人物に匹敵するのは足利義教くらいじゃないかなあ(足利義教は後醍醐流の宮家を「根絶やし」にした。『看聞御記』永享6年8月20日条に曰く「凡南方御一流。於干今可被断絶云々」。これに対し、北条義時は源氏の嫡流を「根絶やし」にした――頼家、一幡、実朝、公暁、時元、禅暁……。朝松健が言うように足利義教が織田信長の「プロトタイプ」だったとしたら、その足利義教の「プロトタイプ」こそは北条義時……)。そして、それだけにこの上もなく魅力的な存在――。もうね、ワタシなんか、絞め殺したいくらい愛おしい(そう言えば、政子が言っていたなあ、「顔を見るとなぜか絞めたくなるの」と。あれは……?)。そして、ここが重要なんだけれど、こうしたことは第46話までに既に描き尽くされているということ。要するに、承久の乱は関係ないんですよ。多分、三谷が最も声を大にして言いたいのはここなんじゃないかな? かく言うワタシも北条義時は朝廷に抗ったから史上まれに見る悪人として歴史にその名を刻んでいるのだ――と、そう思い込んできた。そして、そのことばかりにこだわってきたのだけれど、そうではないのだ、ということを、三谷は『鎌倉殿の13人』で見事に描ききった。「官軍/賊軍」史観に邪魔されて見えなかったことを、見事に。

 さて、そんな『鎌倉殿の13人』もいよいよ最終回を迎えるわけだけれど、第47話「ある朝敵、ある演説」を見た限りでは、北条政子が犬神松子である可能性はないな。「一度たりとも私欲に走ったことはありません」と言っておいて、殺すなんて辻褄が合わん。となると、やっぱり三浦義村かねえ。あのマスヒステリアの中、独り渋面を押し通していた男。言葉には嘘はあっても表情には嘘はない。あの渋面のウラにはきっと重大な覚悟が隠されているに違いない……?



 ワタシもてっきり政子も承知していたものと思い込んでいたのだけれど、NHKオンデマンドで第33話「修禅寺」を見直したところ、確かに政子は蚊帳の外だね。しかし、あまりにも多くの悲劇があったため――そして、そのほとんどは公然の事実であるため――義時もワタシ(あるいは、視聴者)も、頼家殺しについても、当然、政子は承知しているものと勘違いしてしまっていた。そして、うっかり北条によって害された13人の1人として頼家の名を挙げてしまった。しかし、それは、政子にとっては青天の霹靂だった。自ら腹を痛めた子をわが弟に殺されたというあり得ない事実を突きつける青天の霹靂――。「ダメよ、嘘つきは自分の吐いた嘘を覚えていないと」――とは、その衝撃の中で彼女が弟に示したせめてもの思いやり。自分がいかに残酷な一言を口にしまったかを思い知って血の凍る思いでいる実の弟に姉が示したせめてもの思いやり――。この期に及んでも吐くのは毒ではなく、思いやりであるという悲しさ。その悲しさ(慈悲)こそは、弟に引導を渡す力――。

 やっぱり、最後は政子だった。のえと義村の関与はあったものの、最期の引導を渡したのは政子だった。それを当てられただけで、ワタシは満足です。そして、この素晴らしいドラマを作ってくれたすべての人たちに最大級の賛辞を捧げたい――ご苦労様でした……。