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私はミーシャに目で合図した。さあ、はいってこい!
〜五木寛之と「非行少年小説」という論点〜

 五木寛之の初期作品を読み始めて、かれこれ1か月経ったのかな? 最初はミステリー仕立ての作品限定といういことで始めたのだけれど、いつしかそんな縛りも解けて。とにかく、読みまくっている。まあ、それだけ面白いってことですよ。で、この作家をめぐってはまだまだ論じられるべき論点があるのではと。その1つがハードボイルドだったわけだけれど、次はこれかな? ということで「さらばモスクワ愚連隊」以下の一連の非行少年ものに目を付けた。しかし、これがなかなか……。

 まず、1940年代から50年代にかけてアメリカで一大ブームを巻き起こした「ドロップアウト小説」とも「非行少年小説」とも呼ばれる大衆小説のジャンルがある。ここは尾崎俊介著『紙表紙の誘惑:アメリカン・ペーパーバック・ラビリンス』より引くなら――「この時代のアメリカ大衆文学の世界では若年層の非行を描いた「ドロップアウト小説」も絶大な人気を博していた。代表的な作品としてはアーヴィング・シャルマンの『アムボーイ・デュークス』(The Amboy Dukes, 1948)、ドロップアウト小説の権威ハル・エルスンの『お転婆(Tomboy, 1951)』、“fuck”という言葉をそのまま載せたことでも悪名高いイヴァン・ハンターの『暴力教室』(The Blackbord Jungle, 1955)、あるいはバド・クリフトンの『ふは不良のふ』(D for Delinquent, 1958)などを挙げることができるが、一九五〇年代にはこれらを含め三〇〇を優に越すドロップアウト小説が巷に溢れたのであった」。この第2次世界大戦の落とし子のような特異な小説群が当時、日本でどの程度読まれたのかは、正直、よくわからない。ただ、尾崎氏が「ドロップアウト小説の権威」と評するハル・エルスンあたりはかの「世界最高のハードボイルド専門誌」である『マンハント』でも結構紹介されているようで(こちらがそのリストとなります)、それなりに読まれていたんじゃないのかなあ? で、最初、ワタシは、五木寛之の一連の非行少年ものとはその日本版と言えるのでは? と。五木寛之は、早稲田大学文学部露文科中退という学歴の割には英米のエンターテイメント小説も相当に読み込んでいたようで、生島治郎との対談(『生島治郎の誘導訊問:眠れる意識を狙撃せよ』所収)ではチャンドラーはもとよりイアン・フレミングやギャビン・ライアルを挙げて滔々とその魅力を語ってみせたり(曰く「イアン・フレミングの、マイアミのどこかのホテルに入って、主人公がワイシャツを脱いで、「さてなにを飲もうか」といって、マティニから始まって、飲んだり食ったりする、あの描写というものはあれは一種のドキュメンタリズムです」。曰く「ギャビン・ライアルが小説の中での、古くさい、時代おくれのダグラスの輸送機、ダコタっていうんだけど、それに対する愛着は、エンジンのこの辺に水が入って、オイルに水が入っちゃったからキャブレターの調子が悪い、点火栓も取りかえなきゃダメだとか、それなんか、彼が自分で飛行機操縦してたからというだけじゃない別のものがあるんだ、そこに」。五木寛之にこんな一面があったなんてあまり知られてないんじゃないかなあ……?)。だから、ハル・エルスンあたりを読んでいたとしても少しも不思議はない。そして、彼はその移植を試みた……。ま、考え方としては、ハードボイルドというアメリカ生まれの乾いた文学を日本に移植しようとする試みがあったように、やはりアメリカ生まれの〝戦後文学〟であるところの「非行少年小説」を日本に移植しようとする試みがあって、その成果物こそは「さらばモスクワ愚連隊」以下の一連の非行少年ものである――とかなんとかね。ただ、その線で検討を始めて、ほどなく、これはダメだなと。というのも、この分野の先駆者として河野典生がいることに気がついたんだよね。そうか、河野典生がいたかあ……。

 実は五木寛之と河野典生にはいささかの曰くがある。有り体に言うならば、あまり関係がよろしくないのだ。つーか、実態としては、河野典生が一方的に五木寛之に敵愾心を燃やしていた、そういう関係だったと言っていいと思うんだけれど――1973年に自身初の文庫本として刊行された角川文庫版『陽光の下、若者は死ぬ』巻末に収められた「年譜風あとがき」で「そのころ野坂昭如氏に続き、五木寛之氏が登場。五木氏には、どこか共通の体臭を嗅いだが、「メロドラマチックな構成、ステロタイプの文体などを(言いたいことをいうための)手段として採用する」という一文を読んで、かなり異和感を持った」云々。いや、持ってもいいんだけれど、それをここで書くかなあと。この「年譜風あとがき」というのは、言うならば「ぼく自身のための広告」みたいなもので、河野典生という作家を知ってもらうためのものでしょ。だったら、自分のことを書くべきで、ここに五木寛之が出てくること自体がね。あるいは、それほどため込んでいたっていうこと? そう言えば「被支配者あるいは弱者が、支配者や強者に対してため込んでいる憎悪やねたみ」(スーパー大辞林)という意味の「ルサンチマン」ていう語があって……。で、どうも河野典生という人はハードボイルドを書いていた割には存外にウエットなところがあったようで、こんな同業者に対するあてこすりめいたことをしょっちゅう書いていた。1963年に『宝石』が「日本にハードボイルドは育つか否か」と銘打って特集を組んだ際も「ハードボイルドの商標で僕の感覚的に受け入れることの出来ない某氏の作品が大量にあふれている」云々。名指しはしていないものの、誰が読んだって大藪春彦のことだとわかるような書き振りで、なんでそんなに人のことを言い立てるんだろうなあ。「ゴウイング・マイ・ウェイ」ってわけには行かないのかねえ……? ま、そんな感じで、ワタシ自身がこの作家に対して一言物申さなければいられない塩梅ではあるんだけれど(だから、人のことを言えた立場ではないんです、ハイ。もっとも、ワタシは自覚があるんだけどね、自分がとってもウエットな人間であると。そりゃあ、雪国の生まれだもの……)、ただこの人が書いた特に初期の作品には感嘆させられるものが少なくない。蔵原惟繕監督によって映画化もされた「狂熱のデュエット」なんてまずミステリーとして一級品だし、その上ですこぶるエッヂの立った「非行少年小説」でもあるというね。で、それと比較すると、五木寛之が書いた「非行少年小説」はなあ……。

 ハッキリ言って、五木寛之の描く非行少年には灰汁がない。「さらばモスクワ愚連隊」のミーシャにしたって「海を見ていたジョニー」の淳一にしたって根は純情なのに社会の体制や家庭の事情でグレている――、そんな感じ。だから、きっかけさえあれば意外と簡単に心を開いてみせる。そのきっかけというのが両作の場合はジャズということになるわけだけれど、このジャズを媒介とした世界の転換がいささか白々しいというか。そんなにうまく行くはずがないだろうと。「さらばモスクワ愚連隊」の場合だと、当の非行少年ばかりではなく、そのお目付け役で「冷酷な監督官」であるべき兄までが心のガードを解いてしまうのだ――

 私はミーシャに目で合図した。さあ、はいってこい! 少年は唇をかんで首を振った。私はうなずいた。そうだとも。それでいいんだ。
 混雑した、だが力のこもった最後のコーラス。そして地面に吸いこまれるようなエンディング。大した演奏ではなかった。だが、フィーリングのある暖かいブルースだった。
 一瞬、しんと静まり返った店内が、どっと沸いた。ミーシャが私のところへやってきて、頰っぺたにキスをすると、また、どっときた。バンドの連中や客たちが、グラスと壜を抱えて集ってきた。目を真赤にして、ライラックの花束を投げつけた娘もいた。見おぼえのある大きな灰色の目が近づいてきた。エルザだった。彼女は私の唇に柔かいキスをし、子供のように歯を見せてほほえんだ。
「とても素晴らしい演奏でしたよ!」
 と意外な人物が客をかきわけてきて声をかけた。青年共産同盟のユーリイだった。「青年共産同盟主催のジャズ・フェスティバルに出てもらいたい位です」
「ミーシャに好きな事をやらせなさい。それがあの子のために一番いいんです」
 と私は言った。彼はうなずいて呟いた。
「さっき音楽を聞きながら考えたんです。ぼくは本当にミーシャの事を愛しているんだろうか、とね。今わかりました。ぼくは家族から非行者を出して、ぼくの将来に影響があることを恐れてたんです。そうなんです」
「おい、もういっちょうやろうぜ」
 と横からビルが調子のいい声で催促した。
 私は、みみずの闇屋に抱きつかれている白瀬を呼んで、ミーシャと並ばせ、〈君去りし後〉をぐっと陽気に弾きだした。
 アンコールにこたえて、〈ベイズン・ストリート・ブルース〉を私がソロで弾き、最後を思いきりアップ・テンポの〈モスクワ郊外の夕べ〉で陽気にしめくくった。

 もちろん、こんな希望に満ちたトーンのまま物語が終わるわけではなく、最後には当時のソビエト社会の現実に見合った厳しい結末が待ち受けている。だから、それほど単純な物語ではないのだけれど、ジャズを媒介とするだけで非行少年がこんなに簡単に心を開いてしまうというのがなんとも……。これを「狂熱のデュエット」と比較すると、どうか? 「狂熱のデュエット」でもジャズが思いっきりフィーチャーされている。しかし、ジャズが非行少年の更生に資する、などというファンタジーの小道具としてではなく、映画(『狂熱の季節』)でもそうだったように、無軌道な行動を繰り返す少年たちの伴奏曲の役目を果たしている(「おれたちはしばらく見つめあったまま、アート・ブレイキーの強烈なドラムさばきを聞いていた」「しばらく、おれはソニー・ロリンズの熱っぽいテナーサックスを聞き心を落ちつけた。やがて、おれは口をひらいた」)。だからね、どっちかと言うと無軌道な行動を繰り返す彼らの背中を押しているんですよ。そして、その「彼ら」というのが本当のワルなのだ――

 後部坐席で勝が叫び声をあげた。インディアンの真似だ。おれは江ノ島に入って三台目の追い越しをやった。勝はユキの膝に頭を乗せ、両足を窓から突き出していた。
「交番だぜ」とおれ。「おとなしくしてろ」
「ざまあみろ」とユキ。
「しかしな」と勝。「明さんの腕にはほれぼれするぜ」
「いただけない車はないね」とおれは言った。
 警察から帰され、気分直しにおれたちは葉山へ行った。そこでいただいたシボレーだった。あけっぱなしの三角窓から手を入れ、ドアロックをもどして中に入ると、もうおれのものだ。後はスイッチをぶちこわし、直結すればいい。もっともエンジンはかけっぱなしだが。
「どうするよ」と勝。「泳ぐか?」
「泳ぎてえな。しかしやばいぜ」
 そのとき、ユキが叫んだ。
「あいつだわ!」
「え?」
 おれはスピードを落す。
「ほら、あのアヴェックさ」
 たしかに〈デュエット〉にいた男女だった。二人は水着にコートをはおり、前方の喫茶店から、道路を横断しようとするところだ。
「よし」
おれは二人の直前に、一瞬車を停める。ドアをひらく。女の腕を引きスタートする。悲鳴をあげる女を勝が引きずりこむ。おれはアクセルを踏む。バックミラーの中で、男は走りかかり、立ちどまり、あわててまわりを見まわす。そして、それはみるみる遠去かった。
「輪姦(まわ)してやろうぜ。まわしてやろうぜ」
 アクセルをふかし続けおれはどなる。
 身を乗り出し、女をシートに押しつけながら勝が笑い続ける。

 これがね、本当の「非行少年小説」ですよ(本場アメリカの「非行少年小説」については小鷹さんが『マンハント』の連載「行動派ミステリィ作法」で紹介してくれている。「小鷹信光PBスクラップブック」で閲覧可能なので参考にしていただければ)。しかも、これが書かれたのは1960年なのだ(「狂熱のデュエット」は『宝石』1960年5月号に掲載された後、同年刊行の第1作品集『陽光の下、若者は死ぬ』に収録された。なお、角川文庫版『陽光の下、若者は死ぬ』は書名は同じながら、収録作品が異っており、実態としては全く別の作品集なので要注意。角川文庫で本作を読むなら『狂熱のデュエット』をお求めあれ)。つまり、五木寛之よりも全然早いわけですよ(ちなみに、アメリカの影響ということは別にして非行少年をモチーフとした小説ということで言えば、藤原審爾の「泥だらけの純情」があるし、十代の性を赤裸々に描いたことで知られる富島健夫の「ジュニア小説」なんかにもそういうものがあるはず。『おさな妻』なんて、当時、センセーションを巻き起こしたものですよ……。しかし、「泥だらけの純情」が書かれたのは1962年。また富島健夫研究会を主宰する荒川佳洋氏のブログ記事「富島健夫評伝の試み」によれば、富島健夫が初めて十代の性を描いた「青春前夜祭」を書いたのも1962年だとかで、河野典生は彼らよりも早い、ということになる)。だからね、1940年代から50年代にかけてアメリカで一大ブームを巻き起こした「非行少年小説」を日本に移植した作家がいるとすれば、それは河野典生である、ということになるはず。それを無視して五木寛之の名を挙げようものなら、それこそ冥界の河野典生が何を言い出すかわかったものではない……。

 ということで、この文脈で「さらばモスクワ愚連隊」以下の一連の非行少年ものを論ずる、というのはなかなかムリがあるなと。そうなると、あとはどういう文脈がありうるかなんだけれど……これが、なかなかねえ。五木寛之は富島健夫みたいに十代の性を赤裸々に描いたわけでもないし、河野典生みたいに本物のワルを描いているわけでもない――となると、そもそも五木寛之の初期作品からことさら非行少年を描いたものを取り出して、それをあたかも特別なものであるかのように論ずるなんてやれるの? やったところで、意味ががあるの? と。ただ、だからと言ってこの件はなしにする、という選択肢はワタシの中にはないんだ。なんていうのかなあ……今やワタシの中には五木寛之の初期作品に対するaffectionが胚胎しているとでもいうか。実は五木寛之が非行少年を描いたのは初期作品においてだけなんだよね。「さらばモスクワ愚連隊」(1967年)から始まって「海を見ていたジョニー」(1967年)、「四月の海賊たち」(1971年)、「ヘアピン・サーカス」(1971年)と来て、多分、「わが憎しみのイカロス」(1972年)が最後。これ以降、五木寛之は非行少年を描かなくなる。そうか、だったら、論点はこれか……。

 結局ですね、五木寛之は変わったということですよ。「その男は、三時ちょっと前にやってきた。〜五木寛之と「ハードボイルド」との知られざる関係〜」で書いたように、五木寛之はデビュー直後に1度変わっている。それは、1971年のこと。そして、それを上書きするかたちでもう1度変わったのだ(なお、五木寛之はさらにもう1度変わることになる。それは「NHK人間大学」で蓮如について講義した1993年のこと……)。第1回目の休筆宣言から復帰して『凍河』(1974年)や『戒厳令の夜』(1976年)を書いていた頃はまだそうでもなかった。しかし、その後、五木寛之は自ら進んでコマーシャリズムと歩調を合わせて行ったようなところがある。それは、書かれた作品に表れている。『燃える秋』(1978年)とか『水中花』(1979年)とか『四季・奈津子』(1979年)とか。これらはいずれもドラマ化や映画化されていますが、最初からそれを前提に広告代理店が一枚噛むかたちで書かれた、というのが実態だったんじゃないのかな? もっとも、裏付けとなる資料を持っているわけではなく、こんなことをウィキペディアで書こうものなら速攻で「要出典」とやられちゃうところだけどね。でも、同時代を生きたものの皮膚感覚を侮ってはならない。当時、五木寛之とは、そういう作家だったんですよ(ちなみに、五木寛之が1985年に国鉄のキャンペーン「エキゾチックジャパン」をプロデュースしたことはウィキペディアにも書かれていますが、これなんか五木寛之の創作活動に広告代理店が一枚噛んだんじゃない。広告代理店の業務に五木寛之が一枚噛んだんだ。で、この際、ちょっとした〝事件〟があった。五木寛之が中吊り広告のために書いた一文に誤字があったのだ。「千利休」と書くべきところを、五木寛之は「利及」と書いていた。で、本来ならばこんなのは校正に引っかかるはずなんだけれど、どういうわけかすり抜けてしまったようで、そのまま印刷されてしまった。で、印刷された後に誰かが気付いた。いいですか、印刷された後に誰かが気付いたんですよ。さあ、大変だ。それをそのまま出してしまったんでは五木さんに恥をかかせてしまう。ということで、国鉄は――あるいは、キャンペーンを担当した広告代理店は――訂正シールを貼ることにした――一枚一枚に。「エキゾチックジャパン」は国鉄が全国展開したキャンペーンだったので、刷られた中吊り広告の枚数はウン万という単位だったでしょう。その一枚一枚に訂正シールを貼るという作業を夜を徹してやったとか……。ま、そんなことが、当時、あったんですが、これなんかもウィキペディアに書けない、出典として示せるものがないので。でも、現にワタシはその訂正シールを貼られた中吊り広告を見ているんですわ。で、なるほどなあ、と。ともあれ、当時、五木寛之はそういう作家だったということで)。で、こう考えた時、非行少年をモチーフにするなんて、若い頃、グレていた御曹司が親の会社を継いでバリバリ働きはじめた頃になってまたぞろ昔の遊びに手を出すようなもので、それはそれで「覚悟ができていない」ということにもなる。だから、五木寛之が非行少年ものを書かなくなったのは、むしろ評価に値するかと。ま、ワタシ自身はそういう人生を歩んでいないのでその辺の機微はよくわからないんだけどね。でも、ここはそんなふうに理解しておきましょう。まあ、どっちにしたって、もう非行少年をモチーフとする小説を書くような作家じゃなくなっていたんですよ、五木寛之というのは、年齢的にもキャリア的にもね。そう理解した上で、改めて「さらばモスクワ愚連隊」だとか「海を見ていたジョニー」だとか「四月の海賊たち」だとか「ヘアピン・サーカス」だとか「わが憎しみのイカロス」だとかについて考えるならば、何とも言えぬ哀惜の念みたいなものを覚えるではないか。これらは、一人の作家がある特定の時期だけに書くことができるものであるのだ。一人の作家が、デビューして、まだ自分以外のものを背負うこともなく、自分の書きたいものだけを書くことができる幸福な時期に――。たとえそこに描かれた少年たちが非行少年というには善良すぎるにしても、それらは間違いなく彼が書きたくて書いたものなのだ。そんなことを考えながら改めてそれらの「非行少年小説」を読むならば、ミーシャも淳一も優子も美樹も譲治もなんと瑞々しいことよ……。