かねてから一筋縄では行かない作家であるとは思ってはいたのだけれど、これほどまでとは……。
1972年――だから、ちょうど『木枯し紋次郎』の放送が始まった年だね。またこの年は『影狩り』『御用牙』『子連れ狼』など、ハードボイルドタッチの暴力描写で人気を博した劇画が相次いで映画化されており、これらを総称して「ハードボイルド時代劇」と呼ぶならば、さしずめ1972年とは「ハードボイルド時代劇」がエンタメのてっぺんに立った年と言えるかも知れないなあ。つーかさ、そんな時代があったわけですよ。「若者の時代劇離れ」なんてことが言われ始めて久しいわけですが、かつて「ハードボイルド時代劇」が若者の好奇心を鷲掴みにした時代が確かにあった。もしかしたら、時代劇復興のヒントはこのあたりに隠されているのかも知れないよ。要するに、いつまでも藤沢周平じゃないだろうよ、と……。えーと、少しばかり話が逸れた。とにかく、世が「ハードボイルド時代劇」に沸き立っていた1972年、わが国ハードボイルドの代名詞と言ってもいい作家がまだ創刊して間もない実業之日本社発行の週刊文芸誌『週刊小説』(ちなみに、同誌は日本初の週刊文芸誌だったそうです。ソースはこちら)に時代小説を連載した。その作家こそは、生島治郎であり、その時代小説こそは、『さすらいの狼』。連載したのは3月24日号から6月30日号までなので、約3か月の連載。これが月刊誌ならば「短期集中連載」ということになるのだろうけれど、週刊誌なのでね、その辺はどういうことになるのかな? でも、大変だったろうと思うよ。というのも『さすらいの狼』は連載終了と同時に実業之日本社から第1部が「十文字の竜」、第2部が「竜を狙った罠」、第3部が「さすらいの旅は終った」として刊行。その後、1975年に東京文藝社から再刊されるに当たり1冊にまとめられたのだけれど(こちらです。晴れて入手に成功いたしました。ま、なにが「晴れて」なのかはわかりませんが……)、もともとは3分冊で刊行されていたほどの長編。それをわずか3か月で書き上げたのかと思うとね。さらに、もう1つ、この連載が大変だったろうと思わせる理由があって、実は『さすらいの狼』はテレビドラマ化されているのだけれど、その放映期間が1972年4月5日から9月27日までなのだ。つまり、まだ連載中に放映が始まっているということ。このことから『さすらいの狼』は最初からテレビドラマ化を前提に書かれたものである可能性がうかがえる。当時はこいういうことがよくあったとされるものの(1970年に読売テレビ系列で放映された『男たちのブルース』もこのパターンだった。なんでも執筆に行き詰まった生島の尻を叩いたのは連載誌の編集者ではなくテレビ局のスタッフだったとかで、当人が実録小説『星になれるか』に記すところによれば――「それでようやくストーリイもまとまったのだが、例によって、越路の筆が遅くなった。/脚本にしなければならないので、原作はどうなったかと、テレビ局から矢のような催促が舞いこむ」)、それにしたって連載開始から放映開始まで間がなさ過ぎる。わずか10日あまりだもん。ヘタすりゃ、ドラマが原作に追いつくということにだってなりかねない。小説執筆の現場も大変だったろうけれど、ドラマ制作の現場も大変だったろう。しかし、そうまでしてこのドラマを作りたかった理由があったとすれば、やはり当時の「ハードボイルド時代劇」をめぐるブームとも言えるような現象に乗っかりたかったということに尽きるだろう。なにしろ、原作者はわが国ハードボイルドの代名詞と言ってもいい作家なんだから。そんな作家が始めて書いた時代小説こそは『さすらいの狼』であり、それを原作とするテレビドラマが制作されれば当時の「ハードボイルド時代劇」のブームの只中にあってもとりわけ注目を集めることになるのは必至――と、そんなふうな思考にはなるよね。で、相当にムリなスケジュールにもかかわらず、テレビドラマは制作された。ただ、それから50年という時を経て、冷静にことの経緯を見つめるならば、どこかでボタンの掛け違いがあったと言わざるをえない。というのも『さすらいの狼』はハードボイルド小説ではないのだ。いや、帯などでは「ハードボイルド時代長篇」(東京文藝社版)「ハードボイルドタッチで描く異色時代小説」(集英社文庫版)と謳われており、そういうかたちでこの小説がマーケティングされていたのは否定すべくもない。しかし、実際に読んで見ると(読んだのは、今回、初めて。ずーっと読みたいと思っていたのだけれど、機会がなかった。しかし、「あっしには関りのないことでござんす〜生島ハードボイルドと笹沢股旅小説をめぐるパズラー〜」を書いた今がその時だろうと。それにしても、50年か。『さすらいの狼』が書かれてからも、50年。ワタシが生島治郎を読みはじめてからも、50年。「人間五十年、下天のうちを比べれば夢幻の如くなり」……)これはハードボイルドではないだろうよと。だってさ、ハードボイルドタッチと言える描写なんてどこにもないもの。そういう空気感がない。これは1人のハードボイルド読みとして自信を持って断言できる。つーかさ、そもそも生島治郎は『さすらいの狼』をハードボイルド小説としては書いていないと思うよ。むしろ冒険小説として書いたのではないかな? 残念ながら生島治郎が『さすらいの狼』に言及した文章を見つけることができなかったのでエビデンスを示して言い切ることはできないのだけれど、『黄土の奔流』を読んだことがある人なら『さすらいの狼』の主役である十文字の竜(速水竜之進)に『黄土の奔流』の準主役・葉村宗明が重なって見えた瞬間があるはず。十文字の竜はかつては勤皇倒幕の志に燃える武士で同じ志を持つ仲間と1つの組織を作った。その組織の最終目的は「京にのぼり、朝廷を守護し、幕府を倒すということ」。そのため、脱藩まで決意していたものの、全く自分の与り知らない理由で裏切り者の烙印を捺され、真冬の山岳ベースで凄惨なリンチを受けることになる――
人気のない山中の樵小屋の中で凄惨なリンチがはじまった。
竜之進はそれでも、むらがり襲いかかってくる男たちの三、四人はどうにかたたきふせたが、そのうちに背後にまわった一人に羽交い締めにされて腕の自由をうばわれてからは、容赦なくめった打ちにされた。彼らは刀こそふるわなかったが、薪や鍬の柄で頭といわず、顔といわず、全身のあらゆる部分を殴りつけた。
口から血があふれ、眼が腫れふさがり、意識が次第に遠去かるのを竜之進は感じた。彼はよろめきながら、ようやく立っていた。かつては同志と思っていた男たちに対する怒り――特に、加納紀三郎に対するはげしい怒りだけが、辛うじて彼の気力をふるいたたせ、意識を失わせなかった。
よろよろ足をふみしめ、腫れふさがって充血した眼で、彼は加納をじっと見つめた。
「どうだ、少しはこたえたか?」
冷笑を浮かべながら、加納は竜之進に近づいてきて、息のかかるのがわかるほど、顔を寄せ、ささやいた。
両腕を二人の男に押さえられている竜之進は、そんな加納に手だしできなかった。腕をふりほどこうにも、もうそんな力は残っていない。
「殺せ」
と竜之進はうめくようにつぶやいた。
「加納紀三郎、いま、おれを殺しておかないと、きっと後悔するぞ。生きているかぎり、おれはきさまを探しだし、いずれ、この手で思い知らせてやる」
「殺すのは、もっとゆっくり痛めつけてからだ」
加納は小刀をぬきはなち、その切尖をなぶるように竜之進の眼尻から唇もとにかけて走らせた。浅傷ではあったが、その傷から血がにじみだし、竜之進の半顔を染める。
「こういうぐあいに、じわじわとなぶり殺しにするのさ」
竜之進はそう憎々しげに言いはなつ加納の顔に向かって、血のまじった唾を吹きかけた。
加納は顔色をかえ、いきなり竜之進の腹をはげしくけりあげた。
「うっ」
うなり声をあげて、竜之進は前かがみに膝を折った。
「腕を放してやれ」
小刀を鞘におさめると、加納が腕を押さえていた二人の男に命じた。二人が腕を放すと、今のひと蹴りで、もはや自分の力を失っていた竜之進は前のめりに床の上に倒れた。
「ざまはないな」
冷笑をふくんだ、加納の声が頭上から降ってくるのが聞こえた。
しかも、これほどのリンチを受けた上で竜之進は両手両脚を縛られた状態で屋外に放り出されることになる、「この寒さだ、一晩、雪の中に放りだしておけば、明日の朝には仏になっているだろう」と言って……。これが、まあ、この小説が書かれたのが1972年であることの1つの証左ということになるかな。ともあれ、こうして竜之進は凄惨なリンチを受けることになるわけだけれど、森恒夫は――じゃなかった、加納紀三郎はこのリンチの過程でもう1つ、非常に残酷なことを竜之進にしている。それは「きさまが裏切り者であるという烙印をつけてやろう」と焼けた鉄棒の先端で竜之進の胸に十文字の焼き印をつけたのだ――「加納はさらにもう一度、焼けた鉄棒の先端を竜之進の胸に押しつけた。その火傷のあとは十文字の形となって竜之進の左乳のななめ上に、永久に消えることのない傷痕として残った」。この人物造形が葉村宗明に実によく似ていると言っていい。葉村宗明は揚子江流域を縄張りとする秘密結社(ないしは相互扶助組織)「紅幇」の元メンバーで、その頭領になるはずだった人物。そして、孫文を尊敬し、辛亥革命にも参加した(史実でも「紅幇」は辛亥革命に協力している)。しかし、革命は成功したものの、孫文は軍閥に利用されただけだったとわかって絶望し、幇からも離脱を図る。しかし、幇の頭領である自分の父に見つかり、酷い罰を受けることになる。その有様を葉村の許嫁者だったという現在の幇のリーダー林朱芳は次のように紅真吾に物語る――「顔を、火であぶられたの。とても美しい青年だったけど、顔半面がひどい火傷になってしまって、それからの彼はあたしを避けるようになったわ。そして、しまいには、誰にも見つからずに姿を消してしまった。幇からも、あたしからも」……。さらに、こんな人物造形の類似ばかりではなく、小説としての成り立ちも『黄土の奔流』と『さすらいの狼』には似ているところがある。『黄土の奔流』は第1次大戦後の中国を舞台に100万元(作中では「現在の邦貨に直せば、約十億になろう」と説明されている)の大金(ただし、現金ではなく、公金銀行が信用保証した信用状)を持って内陸部の重慶まで豚毛を買い付けに行く話ですが、その過程では揚子江沿岸に群雄割拠する土匪や軍閥との死闘が繰り広げられることになる。一方、『さすらいの狼』は文久2年の北関東を舞台に武士の身分を捨て、一介の渡世人・一文字の竜となった速水竜之進が自らを陥れた加納紀三郎を追って関八州(武蔵、相模、上野、下野、上総、下総、安房、常陸)をさすらう話ですが、その過程では土地土地のヤクザや竜を御用金を強奪した凶状持ちとして追う関八州取締出役・藤田直人、剣の師でやはり竜之進を御用金を強奪した犯人として追う冬木郷右衛門、さらには加納紀三郎が放った刺客らとの死闘が繰り広げられることになる。いずれの物語も遠大なる冒険の旅という縦串とその過程で繰り広げられる死闘という団子(エピソード)で構成されていると見ることが可能で、かつ1つ1つのエピソードに必ずしも繋がりがなく、いわば串団子のようなかたちになっている、という点でも両作は共通していると言うことができる。それを長所と見るか短所と見るかはなかなか微妙なところではあるのだけれど、ともあれこうして小説としての成り立ちにも両作には共通点があるということ。こうしたことどもを踏まえるならば『さすらいの狼』は冒険小説と見なすのが適当で、これはね、生島治郎のファンという立場で言わせてもらうならばですよ、さすがは生島治郎だと。だってさ、彼には当時の「ハードボイルド時代劇」ブームに乗っかるというテだってあったわけですよ。つーか、中村錦之助が期待したのはそういうことだったはず(本作は1972年6月に歌舞伎座の1か月興行「中村錦之助特別公演」の出し物の1つとしても上演されており、中村錦之助にとっては相当に思い入れのある演目だったことがうかがえる。本作が最初からテレビドラマ化や舞台化を前提に書かれたものであると仮定して言うならば、生島治郎に執筆を依頼したのは他ならぬ中村錦之助だった可能性もある。当時、中村錦之助は中村プロダクション代表でもあり、製作にもタッチする立場だった。なお、「中村錦之助特別公演」に関連してもう1つ付け加えておくならば、この公演の出し物の1つに川口松太郎作「人情馬鹿物語」があった。実は生島治郎と川口松太郎にはいささかの因縁がある。生島治郎が『追いつめる』で直木賞を受賞した際の選考委員の1人が川口松太郎だったのだ。その選評は↑でも紹介した実録小説『星になれるか』で読めるのだけれど、「自分は今回は受賞作なしを主張したが、『追いつめる』が僅少差で入賞した。作品審査に当っても人それぞれの好みは否定出来ず、意見の分れる事も已むを得ない。入選者の幸運を喜び、いい作家になってくれる日を待つ」と記すなど、至って否定的な評価だった。本作で生島治郎はその川口松太郎と肩を並べたことになる……?)。しかし、あえて彼はハードボイルド小説としてではなく、冒険小説として『さすらいの狼』を書いたんだよ――当時の「ハードボイルド時代劇」ブームに背を向けて。これをタフと言わずしてなんと言う……。
でね、これだけでも生島治郎が一筋縄では行かない作家であるというワタシの感想に賛同いただけるのではないかと思うのだけれど、さらにもう1つ、『さすらいの狼』にはその感を強くせざるを得ない顕著な特徴があるのだ。それは竜之進を陥れた真の黒幕が誰であるかが明かされないまま物語が終っていること。つまり、謎が解き明かされないまま終っているということであって、その点でいわゆる「リドル・ストーリー(riddle story)」の一種と見なしてもいいかも知れない。で、この点について磯貝勝太郎は集英社文庫版の解説で次のように述べているのだけれど――「この作品の面白さのひとつは、すべてを計画した下手人がいるという加納紀三郎のナゾの言葉をのこしたままで、物語が終っていることである。その下手人が誰であるかについては、作者は明らかにしていない。だが、天明塾の木沢天明の娘おえんをめぐる竜之進と郷右衛門の長子、数馬との関係について、さりげなくふれているくだりに、作者のストーリーテラーとしてのうまさを感得できる」。この解説を読む限り磯貝勝太郎は冬木数馬を真の下手人(黒幕)と見ているということになる。確かにその可能性はあると思う。じゃなけりゃ、おえんをめぐって竜之進と数馬の間に鞘当てめいたことがあったことが物語前半でさりげなく(行数にして8行ほど)記されている、その意味がなくなってしまうので。また、既に触れたごとく『さすらいの狼』はドラマ化されているのだけれど、どうやらこちらでも数馬が黒幕(ないしは共犯者)とされていたらしいのだ。ワタシはドラマを見ていないので確たることは言えないのだけれど、ウィキペディアの「さすらいの狼」(なお、この記事には今日付けでワタシの手が入っております。同じ年に放映されたドラマでありながら「木枯し紋次郎」とは比べようもないくらいに貧弱な記事で、いくらなんでも、ということで、ワタシが書ける範囲で加筆しました。それにしても、『木枯し紋次郎』と『さすらいの狼』、何がこれほどの違いをもたらしたのか……?)の「テレビドラマ版」のセクションを見ると芦田伸介が演じた冬木郷右衛門の役柄の説明として「竜之進の師にあたる人物で剣客。竜之進の父・速水左近を殺して御用金を奪った真犯人として竜之進を追う。最終回で事件に関与していた息子・数馬(宮口二郎)を討ち果たし自害する」。だからね、冬木数馬を真の下手人(黒幕)と見立てる磯貝説で決りのようにも思えるんだ。ただ、どうもねえ、腑に落ちないというか。もし冬木数馬が事件の黒幕だとしたら、事の発端はおえんをめぐる2人の武士の恋の鞘当てにあったということになって、いかにもスケールが小さ過ぎる。物語前半で、倒幕だの、M作戦(とは書かれていないけれど、倒幕資金調達のためとして御用金の強奪が組織の方針として決定される。正にM作戦そのものですよ)だの、真冬の山岳ベースでのリンチだのといった〝過激〟この上もないエピソードが綴られていた割にはね。つーかさ、冬木数馬が黒幕だっていうんなら、なにもリドル・ストーリーにする必要なんてないんじゃないの? 普通に書いて終りにした方がずっといい。しかし、生島治郎はわざわざリドル・ストーリーにしたわけで、その心中を忖度するならば……これはですね、事件の背後にはもっと大きな謎が隠されている――と、そう示唆するためだとしか思えないんですよ。ワタシの永年の探小読みとしての経験に照らすならばね。で、そういう前提で物語をあっちから眺めたり、こっちから眺めたり、いろいろやったわけだけれど、やっぱりポイントはここだよなあ……ということで、速水竜之進の養父(とは知らされておらず、竜之進は実父だと思い込んでいた。そして、長子でありながら家督が相続されないことに不満を募らせていた。竜之進が倒幕運動に身を投じたのもそれが理由の1つだった)である速水左近が今際の際に竜之進に語ったところを引くならば――「おまえにいい遺しておきたいことがあった。おまえがわしの実の子ではなく、先君の御落胤だということだ。おまえの母は江戸の町家の娘で、先君が江戸参勤の折り、みそめられて側室に迎えられた。しかし、すでにおまえが出生したあとに、正室さまにご男子が出生あそばされ、のちにそれがお家騒動の因になることを怖れた重臣どものはからいもあって、このままでは、かえって、おまえも御側室も不幸になると考えあそばした先君は、わしにおまえをあずけ、おまえの母御は江戸の実家へ送り返された。わしがおまえに家督を継がせなかったのは、万一、黒田藩を継ぐべき血すじが絶えた場合のことをかんがえてのことだったのだ。しかし、こうなってはもう、その証拠の品をおまえにゆずることもかなわぬ……。せめて、竜之進、おまえは……」と、「そこまで言って、速水左近は絶息してしまった」ということになるわけだけれど、なかなかだよね。なかなかに……香ばしい(笑)。ただ、それはそれとして、ここに「重臣ども」というのが出てくるよね。これが何らかの示唆をするものではないのか? というのが1つ。それと「黒田藩」。これが何とも言えない違和感を抱かせるというか。というのも、普通、黒田藩と聞いて思い浮かべるのは、かの黒田長政を藩祖とする筑前福岡藩であるはず。念のため、ここはウィキペディアが記すところを引くならば――「福岡藩(ふくおかはん)は、江戸時代に筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある」。ただ、『さすらいの狼』に出てくるのは筑前の黒田藩ではなく、下野の黒田藩。物語前半でおえんとの因縁をさりげなく記したくだりでも――「まだその時は、下野の黒田藩士であった竜――速水竜之進は、天明塾を開いていた木沢天明の娘、おえんと傘を並べて歩いていた。領外にあるおえんの家、天明塾まで送っていくところだったのである」。しかし、下野に黒田藩なんて藩はないわけですよ。だから、この黒田藩とは架空の藩だと考えていいんだけれど……にしても、なんで黒田藩なんて名前にしたんだろう? と。そんなさ、現に存在した藩の俗称と同じ藩名に……と考えていたら、あっ、とばかりに思い当たった。下野に黒田藩という藩はないけれど、よく似た名前の藩ならばあると。それが、黒羽藩。これもウィキペディアが記すところを引くならば――「黒羽藩(くろばねはん)は、下野国那須郡に存在した藩の一つ。藩庁は黒羽陣屋(現在の栃木県大田原市前田)に置かれた」。だから、黒田藩のモデルは黒羽藩と見ていいでしょう。で、この事実に気がついた瞬間、ワタシの〝灰色の脳細胞〟が一気にチンジャラチンジャラ(?)と。実はワタシは『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』を書く過程でこの黒羽藩について調べたことがあるんだ。というのも、ワタシを「あてどないペーパー・ディテクティヴ」に誘うきっかけとなったデイリー・アルタ・カリフォルニアの1868年9月20日付け記事(はこちらで閲覧可能です)には「北部大名連合」による新帝擁立という驚愕の情報に続いてこんなことが記されていたので――
In most of the provinces forming the Kuanto, or belonging to Mito, Kanga and Echizen, the people are decidedly hostile to the South. Large numbers of volunteers join the Northern army daily, and even women are said to take an active part in the strife. About seventy or righty women, widows of officers fallen in the war against the South, left Yedo some time ago, and joined Sendai's army. They are under the command of the widow of Oseki Higo no Kami, formerly vice Minister of the Tycoon's navy, and well known to many persons in Yokohama. Our informant assures us that similar instances of women taking up arms and becoming ronins have occurred very often in Japanese history.
関東を構成するほとんどの州や水戸、加賀、越前に所属する人々は決然として南部と対峙している。多くの志願兵が日々北軍に加わっており、女性さえ積極的に戦闘に参加していると言われている。少し前、約70人から80人の女性が南軍との戦いで亡くなった夫の敵を討つため江戸を出て仙台の軍に加わった。彼女らは前海軍奉行で横浜でもよく知られている大関肥後守の未亡人の指揮下にある。われわれの情報提供者によれば、女性が武器を取って浪人になることは日本の歴史ではよくあることだという。
ここに出てくる「大関肥後守」こそは黒羽藩第15代藩主・大関増裕のことで、その未亡人とは於待の方(待子)を指す。で、記事ではその於待の方が仙台で女性軍を指揮している――としているわけだけれど、こんなことは『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』でも重要な典拠史料とした『仙台戊辰史』にも記されていない。おそらく日本語文献でこの件に言及しているものは皆無でしょう(なお、ウィキペディアの「大関増裕」に「大関増裕の死と於待の方」としてこの件が記されておりますが、このセクションを加筆したのはこのワタシであります。加筆したのは2021年7月ですが、よくぞこれまで削除もされず、「独自研究」テンプレートを貼り付けられることもなかったものだ。ハッキリ言って「独自研究」以外の何ものでもないんですがねえ……)。その点で信憑性は? そもそも「われわれの情報提供者によれば、女性が武器を取って浪人になることは日本の歴史ではよくあることだという」というのがね、もう相当に香ばしいというか。で、ことは記事の信憑性に関わる事柄でもあるので、当時、相当に調べた。すると、於待の方は「夫婦して江戸町々を乗りあるき異国の真似する馬鹿の大関」と当時の落首にも謳われる烈女として知られる女性であったことや、夫の大関増裕のいささか謎めいた死(慶応3年12月9日、狩猟中に猟銃暴発事故で死亡したとされている。つーか、黒羽藩がそういうことにして幕府に届け出た)をめぐって他殺説がまことしやかに囁かれていることなど、いろいろ匂わせるような事実が明らかになってきたのだ。大関増裕は外様でありながら若年寄に取り立てられた恩義から徳川家への忠誠心はことのほか篤かったとされる一方、家臣団は新政府への傾斜を強めており、両者の関係は必ずしもうまく行っていなかったとされる。その背景には大関増裕が藩生え抜きではなく横須賀藩から入った養子だったことも関係していた。そうしたことなどから、家臣団によって謀殺された――という憶測が取り沙汰されることになるわけだけれど、とはいえ事件性を疑わせるような確かな証拠があるわけではなく、すべては噂の域を出ない。しかし、もし仮に↑に紹介した記事の内容が事実とするならば、於待の方には「南軍」に対しリベンジすべき理由があったということになり、俄然、他殺説が有力になってくる……と『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』ではこの件に関する記述を締め括ったのだけれど――『さすらいの狼』は文久2年の物語。従って、その当時の黒羽藩の藩主が正に大関増裕、ということになる。で、十文字の竜こと速水竜之進は「先君の御落胤」とされているわけだから(黒田藩=黒羽藩として考えるならば)実父は黒羽藩第14代藩主・大関増徳ということになる。で、増裕が家臣団との関係が必ずしもうまく行っていなかったように、増徳も家臣団との関係はうまく行っていなかった――つーか、「うまく行っていなかった」どころの話ではなく、なんと文久元年には家老益子右近・滝田典膳・村上左太夫・風野五兵衛らにより、座敷牢に監禁され(これを「主君押込」と呼ぶ由)、無理矢理、家督を養子の増裕に相続させられた。もう尋常ならざる話ですよ。しかし、そんな尋常ならざる「主君押込」が現に行われたわけで、その背景を探ると増徳も黒羽藩生え抜きではなく、丹波国篠山藩主・青山家から末期養子として大関家に入った〝養子藩主〟だったことがあるようなんだ。家老らからすれば、他家から養子として入った藩主などというのは忠義の対象にはなりえず、いつでも必要とあれば交換が可能な存在だったのだろう。そして、現に増徳も増裕も家老らによって〝交換〟された……。『さすらいの狼』は、黒羽藩でこんなことがあった翌年の物語なのだから、黒羽藩第14代藩主・大関増徳の御落胤という出自を持つ速水竜之進が本人が全く与り知らない理由で陥れられたとするならば、それは前年に起きた出来事と無関係のはずはない。当然、父・増徳を座敷牢に押し込めた家老益子右近・滝田典膳・村上左太夫・風野五兵衛らが竜之進の一件にも関わっている……。
うん、これなら、物語前半に綴られた、倒幕だの、M作戦だの、真冬の山岳ベースでのリンチだのといった〝過激〟この上もないエピソードとも十分に釣り合いが取れる。だから、これが正解じゃね? と、ワタシとしては言いたいところではあるのだけれど――ただ、ドラマでは冬木数馬が黒幕であったような結末になっているわけだよね。で、『さすらいの狼』が最後、真の黒幕が明かされないまま終っているとしても、ドラマではそうなっているとするならば、それが生島治郎の真意だったという考え方もできる(『さすらいの狼』が最初からドラマ化を前提に書かれたものであると仮定するならば、事前にざっくりとしたストーリーは伝えられていたはず。じゃなきゃ、脚本の書きようがない)。だから、この藩重臣黒幕説は全くの空理空論……かといえば、案外、そうではないのでは? というのはですね、やっぱり、なぜ『さすらいの狼』がリドル・ストーリーになっているのか? ということなんですよ。元『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』編集長がわざわざリドル・ストーリーにした意味というものを突きつめるならば……もしかしたら彼は2つの案を用意してテレビドラマの制作陣に提示したのでは? 1つは冬木数馬を黒幕とする案。もう1つは藩重臣らを黒幕とする案。そして小説ではそのどっちでも行けるようにあえて黒幕を明かさないリドル・ストーリーにした。このオドロキの提案にテレビドラマの制作陣が選んだのは冬木数馬を黒幕とする案だった……と、こんな妄想に読者を誘うくらいには生島治郎という作家は一筋縄では行かない……。