旧大映の倒産後、大映京都撮影所に所属していたスタッフらで設立されたのが「映像京都」。大映京都撮影所が徳間傘下で貸しスタジオとして再建された後も引き続き同撮影所(名称は「大映映画京都撮影所」と変更)内に事務所を置き、旧大映のスピリットを伝える映画・テレビドラマの製作会社として数多くの時代劇を生み出してきた、というようなことはかねてから知ってはいた。ただ、その「映像京都」が1986年に大映映画京都撮影所が閉鎖されて以降は松竹系の京都映画撮影所(現在の松竹京都撮影所)に間借りしていた、という事実については今回、初めて知った(そういう趣旨のことがウィキペディアに記されている)。そうかあ、旧大映の残党が松竹に間借りしてまでも大映の灯を守り通そうとしていたのかあ……。ま、そんな感慨にも浸りつつ、ただそうなるとワタシの認識は少しばかり修正が必要かなと。実は1989年に製作され1990年に公開された『浪人街』という映画がある。言うまでもなく1928年に製作された『浪人街』のリメイクで、総監修としてマキノ雅広(マキノ正博→雅弘→雅裕と改名を重ね、この作品から雅広)の名前も冠された由緒正しいチャンバラ映画――であるはずの映画。この映画に「京都映画」と「映像京都」が仲よく「製作協力」として参加しているんですよ。で、ワタシとしては、松竹系の「京都映画」と旧大映の流れを汲む「映像京都」が手を携えて参加しているなんてよほどのことに違いないと。そこは、やっぱり「日本映画の父 牧野省三追悼六十周年記念作品」(とタイトルに続いて表示される)ということなんだろうなあ……と考えていたわけだけれど、なんのことはない、既に「映像京都」は「京都映画」に間借りを始めていたわけだから。そして『浪人街』はその「京都映画」の撮影所で撮影されたわけだから。もし「映像京都」がその製作に協力していなかったとしたら、その方が事件……。

ということで、『浪人街』である。今頃、『浪人街』について記そうというのは、他でもない(というほどの理由も必要ないんだけどね。ずーっと昔の小説や映画のことばかり書いているわけだから。五木寛之の『狼のブルース』から始まって『ヘアピン・サーカス』『夕映えに明日は消えた』『木枯し紋次郎』『さすらいの狼』『赤い手裏剣』そして『浪人街』。そういう流れなんだと言えば事足りる話……)、「市川雷蔵と回転式拳銃と〜1965年製作の「スキヤキ・ウェスタン」を見て悩んだ件〜」の冒頭で、ちょうど『赤い手裏剣』の公開中に原作者である大藪春彦が拳銃不法所持で逮捕されて、よくぞ上映打ち切りにならなかったものだ、まだまだ時代が大らかだった? そんなことも考えさせられる……的なことを書いたわけだけれど、そういえば勝新が一芝居打って辛うじてお蔵入りを免れたというケースがあったんだよなあ、と思い出して。それが『浪人街』なんだよね。『浪人街』が公開されたのは1990年8月18日(手元の公式パンフレットにも発行日としてこの日付が記されている)。しかし、本来ならばもっと早く公開されるはずだった。これは『キネマ旬報』1990年2月上旬号で『浪人街』が特集されていることからも明か(ちなみに、同号掲載の「1990年ラインナップ」では「今春公開」とされている)。そういえば、この年の日テレの正月番組に原田芳雄が出演していたんだよ。そういう記憶がある。目的は映画の告知(でしょう。じゃなきゃ、原田芳雄がテレビの正月番組に出演するはずないもの)。ま、それだけ力が入ってたってことだろうね、原田芳雄も日テレも(日本テレビ放送網は『浪人街』の製作会社の1つ)。しかし、こんなふうに「今春公開」に向けて機運が高まりつつあった映画はやむを得ざる事情で8月18日に公開が繰り延べとなった。というのも、公開を目前とした1月17日、思いもかけない事態が勃発したのだ。なんと赤牛弥五右衛門役で『浪人街』に出演していた勝新太郎がハワイのホノルル国際空港で下着の中に大麻とコカインを隠し持っていたとして現行犯逮捕されたのだ。そう、例の「パンツ事件」である。パンツの中に大麻9.57グラムとコカイン1.75グラムが入った小さな袋が「入っていた」(「入れていた」ではない、「入っていた」)というやつね。これねえ、もう30年も前の出来事になるわけだけれど、今でも鮮明に覚えていて(なにしろ、当時のワイドショーはこの話題で持ちきりだった)、なんで大麻だのコカインだのがパンツの中に「入っていた」のかと。そんなの言い逃れにすぎないと誰もが思うわけで、映画ならいざ知らず(いや、映画でも?)、現実社会で通用するはずがない。しかし、勝新はそういう通用するはずもない言い逃れを続けたわけですよ。で、逮捕から2か月後の3月には国外退去の審判が下されるものの、不服を申し立て、引き続きハワイに滞在しつづけた。こんな不可解な行動に出るには、当然、理由があるはずで、この点について勝新の伝記などでは――「日本に帰ってくれば、麻薬を持ち出した容疑で取り調べられる。それを避けるためだと言われていた」(田崎健太著『偶然完全:勝新太郎伝』313p)。いや、そうなんだけれど、いずれは国外退去処分となるのはわかりきったことで、そんなムダなことをなぜするの? ということのはずで……。これについてワタシは当時から確信していて。『浪人街』のお蔵入りを避けるための猿芝居だろうと。というのも、勝新は何だかんだと言って容疑を認めず、ハワイで定宿にしていたホノルルのコンドミニアムに〝籠城〟しつづけ、帰国を果たしたのは翌年の5月になってから。実に1年以上もハワイに留まりつづけたわけだけれど、彼が考えていたのは、ただ1つ。なんとしてでも『浪人街』のお蔵入りは避けなければならない。なにしろ『浪人街』は「日本映画の父 牧野省三追悼六十周年記念作品」として作られた映画なのだから。そのためには、時間稼ぎが必要であると。事件のほとぼりが冷め、映画の公開が可能となるに十分な時間が。それまでは言を左右にして容疑を認めず、ハワイに留まりつづける……。その甲斐あってか『浪人街』は当初の予定から半年遅れの8月18日になってなんとか公開に漕ぎ着けた。残念ながら「日本映画の父 牧野省三追悼六十周年記念作品」として作られた映画にしてはそれに見合う十分なパブリシティも展開されず淋しい公開とはなったものの(当時のワタシの印象です)、お蔵入りという最悪の事態だけは避けられた。製作に携わった面々は胸をなで下ろしたんじゃないかな? そして、映画の公開もつつがなく終了した1991年5月21日に勝新太郎こと奥村利夫は大麻不法所持で逮捕された――と一連の経緯を振り返るならば、勝新がこの件にまつわって披露した珍妙な言動の数々が何を意図したものだったかは明かでは? すべては『浪人街』のために。ただそのためだけに彼は一世一代の大芝居を打ったのだ、さながら彼が演じた赤牛弥五右衛門のごとく……と、こんなことはどの勝新の伝記にも記されていないけどね。でも、間違いない。信じるか信じないかはアナタ次第……。
それにしても、『浪人街』かあ……。経緯はともあれ、こうして『浪人街』について書くことになったわけだから、映画の内容にも触れておこうと思うんだけれど、これがねえ、なかなか難しいというか……。内容が難しいのではない、評価が難しい。決して出来の悪い映画ではないんだけどね。それは、今回、30年ぶりに見直してみて、再確認できた。むしろ、よくできてる方じゃないかなあ。殺陣はすばらしいし、ほとばしる熱気みたいなものも感じられる。いささか原田芳雄演じる荒牧源内が汚すぎるという嫌いがないではないのだけれど、マキノ雅弘によればあの浪人たちというのは当時(とは天保年間ということになるわけだけれど、より具体的に言えば「この日から三十二年後に明治国家が成立して、武士社会は消滅した」ってんだから天保7年ということになる。ということは、大藪春彦の『孤剣』と全く同じ時代じゃないか! なんということか……)のルンペン・プロレタリアートだって言うんだよ。曰く「つまりアホの世界を、合点承知で馬鹿になっている場所を知らない人間、ところを得ない人間を描くこと、言葉をかえればルンペン・プロレタリアートです、世はまさに失業時代だった」(竹中労著『日本映画縦断3 山上伊太郎の世界』34p)。だったら、あのホームレス然とした風体でちょうどいい、ということになる。ただし、この映画が撮られた1989年というのは正にバブルの真っ只中で、そうした人物造形に共感が得られる必然性があったかといえば……。これは1928年版との大きな違いで、当時はマキノ雅弘も言うように大失業時代で世に言う「昭和恐慌」の真っ只中だった。だから「江戸の裏町に巣喰うごろん棒たち」(公式パンフレット)というキャラクター設定にはヒリヒリするようなリアリティがあった。ちなみに、ワタシが見た動画配信サイトではマキノ雅弘がセルフリメイクした1957年版も配信されていたので見てみたのだけれど、近衛十四郎演じる荒牧源内はなんとも小ざっぱりした出で立ちで、これには面喰らうというか。昭和3年ならいざ知らず、昭和32年にルンペン・プロレタリアートを主人公とした映画なんて作れなかった、ということかねえ(追記:実は山上伊太郎のオリジナル脚本でも荒牧源内については「身なりはリュウとしてる」とされている。要するに荒牧源内というのはジゴロだから。そういうこと、なんですかねえ……?)。しかし、そうなると、バブルの真っ只中に作られた1990年版における原田芳雄のあの異様な扮装はなんなんだ? ということになるわけだけれど……映画屋さんたちというのはいつの時代だろうが常に変わらずごろん棒みたいなもので、そんなごろん棒たちがあの表面だけきらきらした時代に思いっきり異議申し立てをした、その表れなのかも知れないなあ。ま、そういうふうに考えることにしよう……。ともあれ、黒木和雄監督による1990年版は決して出来の悪い映画ではない。それは、マキノ雅弘監督による1957年版と比較してみても明かですよ。残念ながら、1957年版は「死んでいる」。しかし、1990年版は「生きている」。それは、見れば、わかる。ただ、それでいながら1990年版を手放しでは推せない理由があって。それは1990年版が「日本映画の父 牧野省三追悼六十周年記念作品」として作らていること。はたして1990年版がそのタイトルに値する映画なのか? ということはどうしたって考えざるを得ない。で、これは、値する、とは言えないんですよ。どこがどうだからそうだとはなかなか言いにくいんだけれど、そもそも論としてね、この映画、「チャンバラ映画」なの? と。全然別のジャンルの映画なんじゃないの? と。これについては、キャスティングにしてからがそうで、原田芳雄が(この人が『週刊現代』が言うところの「映画に取り憑かれた男」であることを認めた上で)やれ「時代劇の復興」だの「剣戟時代映画の復権」だの(どちらも公式パンフレットに記されている文言)といったミッションを託されるべき俳優なのかというね。1928年版で演じた谷崎十郎という人をワタシは全然知らないのでこの人については措いておきますが、1939年版では月形竜之介が演じ1957年版では近衛十四郎が演じた役を原田芳雄が演じる? それは根本的に間違っているとしか言いようがない。で、結局、これは、なぜ「日本映画の父 牧野省三追悼六十周年記念作品」と銘打たれた映画の監督が黒木和雄なのか? というところに行き着くんですよ。監督が黒木和雄だから主演が原田芳雄になるわけだから。だから、なんで「日本映画の父 牧野省三追悼六十周年記念作品」の監督を岩波映画出身の監督が務めることになったのか? そこに問題の根っこがあるはずで……。
で、まずですね、公式パンフレットの「解説」では、この映画が製作されることになった前段の話としてこんなことが記されている――「昭和63年、ファン・関係者の熱い期待を受けて、“マキノ監督で再度、トーキー・カラーのリメイクを…”という話が持ち上がったが、健康上の理由でやむなく断念された」。だから、もともとはマキノ雅広によるセルフリメイクとして企画されたものだったことがわかる。そうすると、黒木和雄はマキノ雅広の代役、ということになるわけだけれど、それにしたってなんで黒木和雄だったのか? もっと適任者はいたのでは? パッと思い浮かぶだけでも、工藤栄一とか、五社英雄とか。『浪人街』の最大の見せ場がラストの集団殺陣であることは異論がないところだろうと思うんだけれど、どちらの監督も得意中の得意でしょう。工藤栄一の『十三人の刺客』なんて、今でも語り草になっているくらいで……。あるいは、『浪人街』をめぐっては、1970年代にもリメイク構想が持ち上がったことがあって、企画したのは深作欣二。実際、深作・中島貞夫・笠原和夫によるシナリオ「浪人街・ぎんぎら決闘録」が『キネマ旬報』に掲載されたこともある(『キネマ旬報』1976年11月上旬号)。で、この構想、もともとは竹中労が『キネマ旬報』の連載「日本映画縦断」でマキノ雅弘にインタビューするなど、『浪人街』と山中伊太郎にフォーカスを当てたパッションあふれる言論活動を繰り広げたことがきっかけで、その熱に当てられたように深作欣二が自らの手で『浪人街』をリメイクしたいと、そう竹中労に持ちかけた。で、竹中労もその意気やよしとして、深作欣二をマキノ雅弘に引き合わせるなど、構想を積極的に後押しした。ところが――竹中労の言い分によるとだよ、「けっきょく、諸君は資本に媚びたのである、ケツをかましたのである、「ぎんぎら決闘録」一読了然、岡田東映社長のいわゆる見世物路線ではないか! そのシナリオのどこに、毅然たる「時代映画再興」の志があるのだ?」(『キネマ旬報』1976年10月下旬号)。さらに竹中労はこうも書き殴った――「支援を呼びかけておいて、事態がこうなると、そんなはずじゃなかった、俺は単にちょいとした異色作を、資本の枠の中でつくってみたかっただけだ、などという弁明は通らない。裏切るか、それとも表返るか、正念場でケツの穴のしまらぬ奴は、クソッ糞ったれ糞して寝ちまえ、もはや出番はないのである」。正に書き殴ったとしか言いようがない。その上で竹中労は自ら『浪人街』製作を宣言、独自のシナリオ「浪人街・天明餓鬼草紙」を書き上げ、『キネマ旬報』に発表した(『キネマ旬報』1976年11月下旬号〜12下旬号)。ここに「浪人街」の名を冠した全く内容の異る2つのシナリオが出揃うことになったわけだけれど、結局、どちらも映画化されることはなかった。深作欣二の方は自ら降りたにしても、竹中労の方は? 実は、この騒動、最終的にはお座敷を貸した『キネマ旬報』の編集長解任へと発展したのだ。それほどの騒動だったということ。当然、「日本映画縦断」の連載も打ち切り。竹中労がライフワークとまで公言する力の入った仕事だったにもかかわらず。しかし、こうした仕打ちにあの竹中労が大人しく従うはずもなく、その名も『浪人街通信』なるミニコミ誌を発行して抵抗することになったのだけれど……最終的にあれはどういうかたちで終息することになったのかなあ。残念ながらワタシはその最後を見届けていないのでこれ以上のことは書けないんだけれど、まあ、1970年代を彩った1つのfrenzyではあったね。で、あの当時のことを考えるならば、当然、深作欣二という選択肢もあったわけだけれど、どういうわけか白羽の矢が立ったのは岩波映画出身の黒木和雄だったと。これがねえ、当時から謎で。確かに黒木和雄は『竜馬暗殺』を撮ってはいるけれど、あれは現代劇だから。あくまでも現代劇をやる、というのが黒木和雄の真意だったとされる。事実、作中では刀をゲバ棒のように振りかざした乱闘シーンにつづいて「侍たちの内ゲバ日常茶飯事ナリ」と表示されるなど、当時の学生運動に重ね合わせた描写もある(ちなみに、これとそっくり同じフレーズがウィキペディアの「竜馬暗殺」に記されておりますが、この下りを書いたのはワタシなので。コピペはコピペでも、セルフコピペとでもいうか……)。そういうことも含めて、あれは完全に1970年代の映画で、決して時代劇ではないわけですよ。ところが、そういうことを知ってか知らずか、製作サイドがマキノ雅広の代役として白羽の矢を立てたのは黒木和雄だった……。
この点について、今回、わかったことがあって。実は当の黒木和雄が2002年に行われたインタビューで『浪人街』の監督をすることになった経緯を語っているのだ。それによると「鍋島さんが『TOMORROW/明日』やって、よかったということで持ってきたのが、『浪人街』なんですね」。ここに出てくる「鍋島さん」とは現在も映画プロデューサーとして活躍中の鍋島壽夫氏のことで、『TOMORROW/明日』は鍋島壽夫氏のプロデュースで黒木和雄が1988年に撮った映画。その『TOMORROW/明日』が「よかったということで持ってきた」のが『浪人街』だというのだ。ちなみに、鍋島壽夫氏についてググったところ、こんなPDFファイルが見つかった。2014年に行われたインタビュー記事で、ここでも『TOMORROW/明日』を「一番印象に残る作品」として挙げている。それだけに黒木和雄に対する信頼は厚かったんだろう。で、マキノ雅広の代役として白羽の矢を立てた……。ただ、繰り返しになるけれど、『浪人街』は「日本映画の父 牧野省三追悼六十周年記念作品」として作られたものなんですよ。その監督として黒木和雄がふさわしいのか? というのは、依然、疑問として残るわけだけれど……実は、黒木和雄こそがふさわしい、というのがマキノ雅広の考えだったらしいのだ。というのも、黒木和雄は件のインタビューでこんなことも語っているんだよね――「マキノさんは僕の映画を見ていまして、『あるマラソンランナーの記録』が大好きなんですよ。「あの監督だったら、『浪人街』撮れるよ」って、どこで「だったら」なのかわかりませんけども(笑)」。『あるマラソンランナーの記録』というのは黒木和雄が1964年に撮った記録映画――てゆーか、PR映画だね、富士フイルムの。「富士フイルムの創立記念でオリンピックで富士フイルムが多く使われるような意図で、オリンピックを賛歌する映画を作ってほしいという注文」で作られた。で、黒木和雄は東京オリンピックのマラソン日本代表だった君原健二を追いかけた。円谷幸吉ではなく君原健二だったのは「僕の好きだった市川雷蔵にそっくり」だったからという。このあたりに黒木和雄という映画人のセンスがうかがわれるんだけれど――ただ、編集は大変だったらしいよ。というのも、黒木和雄は映像に語らせようとするのだけれど、スポンサーは言葉で説明してくれと。要するに、ナレーションを入れろってんだね。しかし、黒木和雄は、入れたくない、そんな説明台詞みたいなものはね。で、〝勝負〟が繰り広げられることになる――「ダビングが始まったんですが、製作部長っていうのが、とにかく暴力的なんですね。柔道何段の奴で、ダビング中、僕の後ろに居ては壁を蹴るんですよ(笑)。ちょっとでもナレーションが減ったりなんかすると恐喝するんですよ。そういうので、30、40時間、監視付きで一睡もしないで。何かちょっと、変わったことやるとすぐストップされて、会社側の首脳部が話し合うんですね。このときに、永久に、2度と短編の仕事は無いなとそのときに感じましたけど。ダビングが終わって、早朝だったですが、出たら「青の会」の連中がみんな拍手して迎えるという(笑)、感じだったですね。その代わり、タイトルは永久に入れさせないと。だから未だ、『あるマラソンランナーの記録』にはスタッフタイトルが一切ありません」。しかし、こうして出来上がった『あるマラソンランナーの記録』はなかなかに前衛的な記録映画だったようで(なお、ワタシは見ておりません。なんとか見る方法はないものですかねえ……?→ありました! NPO法人「科学映像館を支える会」が運営する「科学映像館」のHPで無償で配信されている……! ワタシがこの事実を知ったのは『撮影術:映画キャメラマン大津幸四郎の全仕事』という本によって。大津幸四郎は岩波映画で黒木和雄の後輩に当たるキャメラマンで、主に小川紳介や土本典昭などのドキュメンタリー作品の撮影を担当。しかし、数は少ないながら劇映画の撮影も手がけており、黒木和雄の1983年の作品『泪橋』もその1つ。なんでも『とべない沈黙』にも鈴木達夫の助手として参加していたとか。そんな人物なので相当、事情に通じたところがあり、『あるマラソンランナーの記録』をめぐるトラブルについても詳しく語っている。その流れの中で同作が「科学映像館」のHPで配信されていることも付記されているんだけれど……いやー、読んでよかったわ。『泪橋』の製作過程も大分わかったしね。それにしても、今や『あるマラソンランナーの記録』をインターネットで見られるのかあ。世の中、進んでいないように見えて意外にススンデイルのかな? そんな印象を持った出来事でした)、そんな映画を撮った監督「だったら」『浪人街』を撮れると――。これね、なかなかの発言だと思うんだよね。なかなかの、重要発言。マキノ雅広が『浪人街』をどういう映画だと考えていたのかを推測する材料として――。実はですね、ワタシはこの記事を書くために公式パンフレットに白井佳夫が寄稿した一文だとか竹中労の『日本映画縦断3 山上伊太郎の世界』だとかを読み直してみたんだけれど、その結果、『浪人街』という映画について認識を新たにするところがあった。というのはですね、『浪人街』は当時のニュー・シネマだったんですよ。たとえば白井佳夫はこう書いている――「日活はフルネームでいうと、日本活動写真株式会社で、日本最古の映画会社である。創始の頃のその会社の、大監督であり大プロデューサーだった人物が、日本映画の父と呼ばれるマキノ(牧野)省三である。そしてその長男であるマキノ雅広(当時は正博)監督が、20才の時に作った時代劇の革新的ニュー・シネマだったのが、最初のサイレント時代劇「浪人街」であったのである」。また『日本映画縦断3 山上伊太郎の世界』からは深作らに向けたこんな〝檄文〟の一節を紹介しよう――「すなわち、マキノ省三・光雄の故智にならえ、昭和三年、ルーキー山上伊太郎を軸として、長男の正博を監督にすえ、三木稔カメラマンと、二十代トリオを組ませて『浪人街』をつくり、坂東妻三郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎去ってスターなきマキノ・プロダクションに、一丸の火球のごとき熱気を、彼・マキノ省三はもたらした」。ちなみに、『浪人街』制作当時、マキノ雅広(当時はマキノ正博)は20歳、山上伊太郎は25歳、三木稔は26歳だった。そんな「二十代トリオ」が作った『浪人街』1928年版は既存の「チャンバラ映画」に革命をもたらした当時のニュー・シネマだったと、そういうことになる。その上でマキノ雅広は黒木和雄が『あるマラソンランナーの記録』の監督だとして「あの監督だったら、『浪人街』撮れるよ」って言ったっていうのは、だから、言葉として重い。もしかしたらマキノ雅広が実に4度目となる『浪人街』のリメイクに当ってスタッフに託そうとしたものとは、公式パンフレットに記されているようなやれ「時代劇の復興」だの「剣戟時代映画の復権」だのといったカビの生えたようなお題目(ミッション)ではなく、『浪人街』がニュー・シネマであった原点に戻すこと。そのための選択肢が黒木和雄だった――。「日本映画の父 牧野省三追悼六十周年記念作品」の監督が工藤栄一でも五社英雄でも深作欣二でもなく、黒木和雄だったのはそういう理由……?
もしかしたら、黒木和雄が『浪人街』の監督をすることになったのはある種の必然だったのかも……。『浪人街』という昭和3年に作られた無声映画をワタシを含めた当時の映画青年の誰もが知っている(もちろん、「知っている」であって「見ている」ではないないわけですが……)曰く付きの〝名画〟に仕立て上げたのが竹中労であることは論を俟たないだろう。竹中労が『キネマ旬報』の連載「日本映画縦断」で読者も巻きこむ大運動を繰り広げたからこその『浪人街』のプレスティージという一面は間違いなくある。で、その竹中労と黒木和雄には接点があった。1969年の作品『キューバの恋人』の製作に竹中労が一枚噛んでいたのだ。ここは本文でも紹介したインタビューで黒木和雄が語っているところを紹介するならば――「かろうじて『とべない沈黙』はATGで公開されたんですが、短編の仕事はこないし、何の仕事もないんですね。全く無収入で。ほとんど生涯、無収入に近いんですけど。無収入で路頭に迷っておりましたら、キューバはアメリカ映画が上映禁止なんですね。日本映画をまとめて、特に『座頭市』が買いたいものですから、安い作品を『座頭市』に合わせるわけですね。全部まとめて買ってもらう(笑)。東宝が『とべない沈黙』もそれで入れたんじゃないでしょうかね。それでキューバの映画大学の連中が、『とべない沈黙』を見て、大変な評判になったんです。その時に日本キューバ友好協会会長の山本満喜子さんと竹中労さん…。後でわかったんですが、竹中労は加賀まりこファンで、ものすごく『とべない沈黙』が好きだったんです。それで、合作映画の話しが起きたんですね。向こうが指名したんです」。ちなみに、国立映画アーカイブの作品情報では企画協力として「田中労」とあって、多分、これが竹中労のこと。「日本で唯一の国立映画専門機関」のこれが実力である……。あと『キューバの恋人』で主演を務めたのは津川雅彦なんだけれど、この人、普く知られているところとは思うんだけれど、牧野省三を祖父に、マキノ智子(マキノ雅弘の姉)を母に持つマキノ一族の一員。そんな津川雅彦が『キューバの恋人』で主演を務めることになった経緯については黒木和雄も語っているものの、そのさらに裏話みたいなことをマキノ雅弘が語っていて――「いやいや、あれは竹中さんの名前が出ていたものだから、面白かろうというんで、役者(津川雅彦)をタダで世話したまでのことです。金なんぞないこと、最初からわかっています、一応あるかとは聞くけれど(笑)」(『日本映画縦断3 山上伊太郎の世界』48p)。これに黒木和雄が語ったことを掛け合わせるならば「(津川雅彦は)当時旬の俳優だったんですがね、全然聞いたこともない監督が海外で撮るっていうんで、非常に逡巡した」、その背中を押したのがマキノ雅弘だったということになる。そしてその理由というのが「竹中さんの名前が出ていたものだから」。つまり、同作の製作に企画協力として「田中労」が一枚噛んでいた結果として禄にカネもない映画ながら「当時旬の俳優だった」津川雅彦の出演が実現したと。多分、こういう経緯までは黒木和雄も承知していなかったのでは? でだ、竹中労は、1976年、『キネマ旬報』で『浪人街』リメイクをめぐって読者も巻きこむ大運動を繰り広げたわけだけれど、その結果として東映は『浪人街』のリメイクを認めたのだ。ただし、独立プロ方式で――「かなり強引ではあったが〝結論〟はついに出た。独立プロのシステムで製作する条件ならば、リメークはOK、東映が配給をひきうけると、岡田社長は確約した」(同170p)。ただ、問題はその「独立プロのシステム」ですよ。実際問題として「深作欣二プロダクション」なんてないわけだから。東映という大資本(ですよねえ、一応は)の中で仕事をしてきた深作欣二が自らリスクを取ってプロダクションを立ち上げ、自分が作りたい映画作りに突き進む、その決断はあるか? と、竹中労の矛先は深作らにも向けられることになるわけだけれど、実はこの流れの中で黒木和雄の名前が出てくるのだ――「だが大島渚はそうしてきた、黒木和雄もである、口憚ったいが私もまた、『アジア懺悔行』を骨の軋む困窮の中で完成した(宗教団体のスポンサード・シネマではないのだ)、資本の最後の壁と私がいったのは、つまりこのことなのである」(同171p)。その後、いろいろあって(プロダクションについては中島貞夫を代表とする「『浪人街』プロダクション」を立ち上げることで決着した。問題は、脚本。深作は映画を東映の番線にかけることにこだわったようで、そのためか書き上げた脚本は山上伊太郎の原作とは似ても似つかぬものとなった。それを竹中労が激しく批判したことは本文にも記したとおり。このことが深作欣二のメンタルにどのような影響を及ぼしたのかは明かではないけれど……)、深作欣二らが製作を目ざした「浪人街・ぎんぎら決闘録」は製作されることはなかった。また竹中労が製作を宣言した「浪人街・天明餓鬼草紙」も製作されることはなかった。そして、「幾時代かがありまして」、『浪人街』は全く別のプロセスを経て製作されることになった。その監督を務めることになったのが黒木和雄だった――というのは、だから、ある種の必然だったのかも知れないなあ、と……。