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天保15年のコンチネンタル・オプ
〜桑山圭助と「大利根河原の決闘」をめぐる謎〜

 イーロン・マスクって、ただのバカなんじゃないのかね。全く以てそう思う今日この頃であります。願わくばウィキペディアがイーロン・マスクのようなバカの手に落ちることがないように……。

 ということで、「山上伊太郎は日本のダシール・ハメットである。〜暴力を以て物語るブラッディ・ユーモレスク〜」からのつづき。ホント、われながらいささか驚いているところではあるんだけれど……と、そう前置きしなければならないほど意想外なコトのなりゆきでウィキペディアの「平手造酒」の記事をほぼ全面的に書き直すことになったわけだけれど(その揚げ句は、もしかしたら本当の自分に気がついたかも知れない? とんだバタフライエフェクトだ……)、アレを読んだものが最も驚き、最も困惑させられるのが「決闘当日の行動」だろうね。だって、もし「心得書」に記されたことが事実だとしたら『天保水滸伝』なんて物語は成り立たなくなりますよ。いわゆる「平手の駆け付け」ってのは『天保水滸伝』という物語の最大の見せ場の1つであって、止める妙貞(尼法師)を振り切って「千里一時虎の小走り、須賀山村を指して一里八町の道をば、飛ぶが如くに乗り込んで」十一屋(繁蔵一味がアジトにしている商人宿)に駆け付けてみれば、はたして繁蔵は飯岡勢に囲まれながらも必死の応戦中――

 造「おおッ、親分御無事であったか」というかと思えば洲の崎の政吉の後ろへ近づくが否や、造「エイッ」叫ぶ声もろ共、抜討の一刀、斬り手は北辰一刀流の大達人、得物は一文字宗則、哀れや洲の崎の政吉胴切となってドウと倒れる。飯岡の身内これを見ると、○「ソレッ、やってしまえ」と突ッかけて来る奴を「エイッ、ヤッ」気合いがかったと思うと三、四人をそのことろへ斬倒した。○「ヤア敵わねえ敵わねえ」と残った者は蜘蛛の子を散らすが如くに三方へドッと逃げて行く。ビューッ、則宗の血震いをした平手造酒。
 造「親分、御無事でござったか」繁「おお先生、お前さんに来て下さいと、繁蔵手紙を上げたのじゃアねえのに、よくマアその身体で来ておくんなすった、有難うございました、お陰で危ういところを遁れましたが、そのお身体じゃアどうすることも出来ねえ、先生深入りをしておくんなさいますなよ」造「イヤ師の許を勘当をされ、親分の許に長い間の御厄介、仮令病気であればとて罷り越さずにはおられぬ。しかしこの造酒が無事の身体であれば、助五郎の首は今晩取って差し上げるが、この身体でが思うような働きが出来ぬ、目指すは助五郎只一人、親分、他の者に目を掛けなさるな、助五郎は確かに川端の土手にいると承知いたす、あれへ乗り込んで、助をお討ちなさい、他の者に目をお掛けなさるな」繁「ヘエ、有難うございます、私もそう思っているんでございます。ただ先生、決して深入りをしておくんなさるなよ」造「いかにも承知いたした」
 その儘繁蔵は大村加卜の一刀を下げて、助五郎を討とうと川端を差して乗り込んで行く。
神田伯山「天保水滸伝」(講談社版『定本講談名作全集』第4巻)より

 ――と、講談だとこうなるわけだけれど、これがナシになっちゃうわけだから。ハッキリ言って、『天保水滸伝』という物語の存立に関わるような重大事ですよ。それはなにも物語から最大の見せ場が消えてなくなるからというだけではない。ご承知のように『天保水滸伝』という物語世界では笹川繁蔵が「善」、飯岡助五郎が「悪」として描かれているわけだけれど、この基本設定が成り立たなくなるわけだから。だってさ、三亀は繁蔵から飯岡方の間者だったと疑われ、両刀を取り上げられて、おそらくは軟禁状態に置かれていたんじゃないかと思うんだけれど、それでも喧嘩場に駆け付けたわけですよ――有り合わせの「ヤクザ脇差」を押し取って。そして、全身に11か所もの刀傷を負って闘死した。もし三亀が本当に飯岡方の間者だったのならこんなことをするはずがない。しかも「大利根河原の決闘」をめぐっては子母沢寛が昭和3年に現地で聞き取り調査を行っているのだけれど、その聞き取り対象には、事件当時、7つか8つの子供だったという人物も含まれていて、その人物――林甚右衛門翁によれば、三亀の最期の言葉は「繁蔵親分の前途を見ずに死ぬのは残念だ」――だったというのだ。それを何度も何度も言ったとか――「どうも、からだ中に火がついたように真ッ赤でござんして、腸(はらわた)が、脇腹の傷から、だらりと出ていました。何にしろ繁蔵一家はみんな逃げて誰もいませんし、おまけに医者と言っても甚だ怪しいもので、この腸に困ったということを、後でみんなから聞きました。それでも流石は武士で、気は最後までしっかりしていまして、介抱され乍ら、みんな酒でも飲んでいてくれと言ったそうで、息を引取る時には、繁蔵親分の前途を見ずに死ぬのは残念だ、と何度も何度も言ったそうです」(『子母沢寛全集』第10巻156p)。だからね、三亀には二心なんてなかったんですよ。しかし、そんな三亀を繁蔵は疑った。いや、ただ疑っただけではない、彼は事件後、三亀を見捨てて下総からトンズラを決め込んでおり(これを博徒の世界では「国を売る」と言う)、三亀の介抱に当たったのは町代の指示を受けた村の若い者だったっていうんだ。なんて薄情な野郎なんだ、笹川繁蔵ってのは……。こんな「平田三亀の最期」をめぐるファクトを踏まえるならば、笹川繁蔵を「善」として描くなんてできるわけがない。『天保水滸伝』という物語はその存立すらも危ぶまれる危殆に瀕していると言っていい……。

 それにしても、なんで繁蔵は三亀を飯岡方の間者と疑ったんだんだろう? 考えられるのは、何ものかが讒言した、ということだけれど、これについて『「天保水滸伝」平田三亀の謎』の著者である辻淳氏は小川戸留五郎を疑っておられる。小川戸留五郎というのは講談などでは「荒生の留吉」として描かれている人物で、決闘当日、事前に飯岡方の動きを笹川方に内通した人物として描かれている。で、史実でもこの人物が笹川方に飯岡方の動きを伝えているようなんだよね。ここは1981年に刊行された『飯岡町史 付篇』の記載内容に従って記すならば、助五郎らは当日、繁蔵の「召捕り」のためにまず銚子の留五郎の元に向かった。そういう情報があったんですよ。しかし、案に相違して繁蔵はいなかった。そこで、やっぱり笹川だということになって、銚子から船を仕立ててまず忍村に向かい、そこで夜半まで仮眠をとり(なんでも、当時、ほとんどの捕り物は明け方に行われていたとかで、この仮眠も、そのためのもの、ということになるのかな?)、夜半、(当日は6日なので、残念ながら、講談などで描かれているような十三夜ではない。しかし、9月13日って、作りすぎだよなあ。でも、9月13日じゃなきゃ「大利根月夜」もないわけで……)、笹川を目ざした――というのが当日の飯岡側の動き、だったらしい。ただ、夜半まで仮眠を取ったことで、情報の方が先に笹川に届いてしまった。曰く「これより先、繁蔵の許には銚子の留五郎から、助五郎が召捕りに向ったという知らせがあり、本槍、竹槍等をそろえこれを迎え撃つ態勢を整えていた」。で、確かにこういうかたちで小川戸留五郎から笹川繁蔵に〝捜査情報〟の提供はあったらしいんだけれど――それは6日のことなんだよ。しかし、「心得書」によれば「一体此者ヲ繁蔵儀、飯岡方之間者ト疑惑し一両日前ニ両刀ハ取上ケ置候由」ってんだから、繁蔵が三亀を飯岡側の間者と疑うに足るなんらかの讒言なり密告なりがあったとするならば、それは決闘の「一両日前」でなければならない。実際、それを裏づけるように、決闘前日の5日未明、繁蔵一味は助五郎宅に夜襲をかけているのだ。ここは『飯岡町史 付篇』が紹介する「御見分書之写」の文面をそのまま記すならば――

御用状去ル三日着、太田村ヨリ四日ニ請取申シ候、然ル処其ノ夜九ツ半時、笹川繁蔵、万歳村勢力弐人外、面体知ラズモノ四・五人拙宅ヘ押シ込ミ申候(以下略)

 要するに、この時点で繁蔵らは飯岡方の動きを察知していたのだ。そして、先手を打って助五郎宅に夜襲をかけたということになる。だから、平田三亀に関するなんらかのネガティブ情報が繁蔵にもたらされたのも4日の時点と考えるのが妥当。実際、この5日未明の助五郎宅襲撃に三亀が加わっていたことは↑の文面からはうかがえない(もし加わっていたのなら「弐人外、面体知ラズ」という記載にはならないでしょう)。おそらく襲撃は繁蔵と一部の側近たちのみで行われた。そして、そのメンバーに三亀は含まれていなかった――とするならば、この時点で三亀は既に両刀を取り上げられ、軟禁状態に置かれていたと考えていいのでは? そう考えた上で、さて、この天保15年8月4日という時点で繁三側にもたらされた情報の出所だ。それを史料を元に突き止めることは(現時点では)できない。しかし、この件を一編のミステリー小説として読んだ上で推理することならばできる。しかも、その推理の材料を提供してくれている人物がいて、その人物もまた推理作家であるというね。ということで、こっからは1981年に日本放送協会から刊行された『歴史への招待⑮』に収められた「実録・天保水滸伝」をテキストにすることになるんだけれど、正直、この記事、今読むと赤を入れなければならない部分も多々認められる。たとえば「そしてこの血闘は六年後の嘉永三年(一八五〇)、江戸の講釈師宝井琴凌によって初めて講談としてまとめられ」(95p)としている部分とか。実は、この種の言説、かなり広まっているようで、ウィキペディアの「笹川繁蔵」の記事でも「天保水滸伝遺品館パンフレット」を典拠にするかたちで同様の趣旨のことが記されているんだけれど、それはありえない話なんですよ。というのも、シッカリとした証言があるので。証言しているのは、四代目宝井馬琴。初代宝井琴凌の長男に当たる人物で、その宝井馬琴が昭和3年に『都新聞』で語ったところによれば、宝井琴凌が新たな講談の材料を得るべく北関東に下向したのが安政元年。現地で侠客らの実話を採集して江戸に戻ったのが安政3年。だから、どんなに早く見積もっても琴凌版『天保水滸伝』が成立したのは安政3年以降ということになる(この点についてはぜひウィキペディアの「天保水滸伝」をお読み下さい。従来、ウィキペディアで「天保水滸伝」で検索すると「笹川繁蔵」にリダイレクトされるようになっていましたが、「平手造酒」を全面的に書き直したのと同じ4月24日付けで「天保水滸伝」として記事化しました。ま、「平手造酒」を全面的に書き直した、その行きがけの駄賃ということですかね)。では、「嘉永三戌年陽月」と自序に記された陽泉主人尾卦伝述『天保水滸伝』とは何かと言えば、これは小説なんですよ。実録体小説。そういうものが、当時、流行っていた。確かに書いたのは講談関係者なのかも知れないけれど(近世文学研究者・中村幸彦の見解。ただ、ワタシ自身は記載内容の類似を根拠に『近世侠義傳』の著者・山々亭有人の線を疑っているんですが……)、その人物が宝井琴凌であることを裏付けるものは何もない。つーか、なんで陽泉主人尾卦伝述と記載のある嘉永版『天保水滸伝』の作者が宝井琴凌であるとする誤説がここまで広まっているのか、それが不思議で……。ま、そんな感じで、この「実録・天保水滸伝」を無条件でありがたがる気はワタシとしてもさらさらないんだけれど、大いに示唆に富んだものであるのも事実で、たとえば司会者(鈴木健二?)に尋ねられるかたちで笹沢佐保はこんなことを語っている――

 ―― 助五郎が悪役になる条件としては、物語上のキャラクター、性格のほかに、何か事実としてありますか。
 笹沢 それは要するに権力と結び付いていた実力者、まあ二足わらじ、十手持ちですね。助五郎がどうしても好感を持たれなかったのは、やはり十手持ち、つまり二足わらじだったということがいちばんの原因でしょうね。しかしこの物語のおもしろさはもちろんとして、これは実はほんとうにあった事件です。この事件の裏側には、権力の行使あるいは犯罪対策、これに何かからくりみたいなものがあったのではないかなという読みをしてみるのも、たいへん興味深いことではないかと思うんですけどね。
 ―― そうすると、助五郎も繁蔵も何かの権力の手に乗せられていたという部分がどこかにあるのでしょうか。
 笹沢 そうですね。あの事件を追ってみると、矛盾を矛盾にしなくするには、どうしてもそういう見方をしたくなるわけですね。

 では、その「からくり」とは何か? ということになるわけだけれど――ここに登場するのが関八州取締出役・桑山圭助ということになる。実は↑でも紹介した「御見分書之写」(「平手造酒」の記事の「実名」で紹介した「御見分書」と同じもので、正確には「助五郎笹川事件ニ付御出役御見分書之写」)とは事件のあった下総国海上郡須賀山村の名主らが桑山圭助に提出したもの。また、そもそも「大利根河原の決闘」というのは、その呼称に反して「決闘」ではないんですよ。飯岡助五郎というのは御上から十手捕繩を預った幕府警察機構の一員で、侠客でありながら幕府権力の一翼を担う「二足のわらじ」を履く存在。この時も御上の意を体して繁蔵らを捕縛すべく笹川に向かったわけで、その証拠に繁蔵一味のアジト(十一屋)に踏み込む際は口々に「御上意、御上意」「御用、御用」と連呼していたとされる。だから、本来ならばこの件は「決闘」などと呼ばれる性質のものではないんですよ。ただ、まあ、ワイアット・アープ(言わずと知れたアメリカ西部開拓時代の保安官)らがクラントン兄弟(ワイアット・アープが保安官を務めていたアリゾナ州トゥームストーンのカウボーイ)らと撃ち合いとなった史上、名高い事件も「OK牧場の決闘」として世に喧伝されているわけだから、これもそういうものとして理解しておくべきなのかな? ともあれ、助五郎側は口々に「御上意、御上意」「御用、御用」と叫びつつ繁蔵一味のアジトを襲撃したわけで、この際、彼らはそれが御上の御用であることを裏付ける一通の公文書を得ていた。それが「御見分書之写」にも出てくる「御用状」なんだけれど、この「御用状」を発行したのが他ならぬ桑山圭助なのだ。で、この桑山圭助をめぐって笹沢佐保ともう1人の出席者である森安彦(現・国文学研究資料館名誉教授。1980年当時の肩書きは信州大学助教授)が語るところがなんとも意味深で――

 ―― この桑山圭助の行動をどう見ますか。
 笹沢 皮肉な見方なんですけども、まず八州廻りというのは、自分はお出ましにならない。もちろんいろいろ理由はあるでしょうけれども、何かうしろで自分はこちょこちょ動いて、あっちとこっちをぶつからせるとかやらせるとかいう、そういういわゆる演出家の立場をとったか、どうも桑山という人は何かたくらんでいたのではないかと思いたくなるのです。
 ―― とにかく、佐原で見ているわけですよね。たぶん助五郎は行くだろう、この日だろう、自分はそばで見ていようと。
 笹沢 これは十中八九なんてものじゃない、百パーセント助五郎が繁蔵逮捕に直接行動を起こすということを、当然桑山圭助は知っていますよね。ああいう地方のひとつの命令系統みたいなものは、だいたい決まってしまっていますから、ほかの道案内を連れて来ることはありえない。助五郎しかないだろうということは、これはわかりますよね。
  要するに幕府は博徒を分断するんですね。そして助五郎をいわば権力の手先に使うわけです。助五郎は一応、さっきもお話にありましたように、百姓助五郎で網元をやっている。要するに正業の表看板があるわけです。ところが繁蔵の方は、これはまったくの無頼漢そのものですね。要するに権力の手先、体制に組み込む博徒と、あくまでもつぶす博徒というように分離しているわけです。これには一つのパターンがあります。例えば、幕末の甲州の黒駒の勝蔵と清水の次郎長の対決というのも、結局清水の次郎長の方には十手捕り繩があったり、幕府がくっ付いているのですね。博徒同士の対立を利用し、分断し壊滅させてゆくという方法です。

 博徒同士の対立を利用し、分断し壊滅させてゆくという方法です――。ハードボイルド通ならば、この最後の下りを読んでダシール・ハメットの『血の収穫』を想起しないはずはないでしょう。それほど『血の収穫』で描かれたコンチネンタル・オプのやり口と似ている。で、桑山圭助こそは天保15年のコンチネンタル・オプだったとするならば――。さて、こっからは純粋にワタシの推理ということになるのだけれど――天保15年8月4日、飯岡側に笹川急襲の動きがあることを笹川側に伝えたのは、十中八九、桑山圭助と考えて間違いないでしょう。桑山としては、飯岡助五郎一家と笹川繁蔵一家の両方にダメージを与えることが目的で、たとえこの捕物で笹川繁蔵一家が一網打尽になったとしても飯岡助五郎一家が無傷で残ったのでは何の意味もない。ことによると、助五郎の力が今まで以上に肥大化することにだってなりかねない。それじゃあ、藪を突いて蛇を出すようなもの。だから、どうしても飯岡側にも一定のダメージが及ぶよう図る必要があった。そのためには、事前に捜査情報を繁三側にリークして応戦の準備をさせる。そうすれば、結果がどうあろうとも、双方とも甚大な被害に見舞われるのは必定。実際、8月6日の決闘で飯岡側は8人の死傷者(死亡4人、負傷4人)を出した。死者の中には助五郎の一の子分だったとされる洲崎の政吉(最初に紹介した神田伯山版「天保水滸伝」では平手造酒に斬られたことになっている。さて、真相は……?)も含まれていたというから大変な痛手ですよ。しかもだ、事件後、助五郎はコトの取り計らいに不行き届きがあったとして、なんとなんと、銚子の飯沼陣屋に入牢させられてしまうのだ――「右助五郎、取リ計イ方、不行届ノ趣ヲ以テ、今般吟味中、飯沼御役所ヘ借牢仰付ラレ」云々。もっとも、その期間は10日余りだったそうだけれど、とはいえ「御差免になった助五郎は、村預けの身になった」(『飯岡町史 付篇』87p)てんだから、さぞや肩身の狭い思いではあったでしょう。一方、繁蔵の方はといえば、6日の内には「国を売って」、神田伯山版「天保水滸伝」によれば「江戸へ出て、東海道を上って、伊勢神宮に参拝して、志州の鳥羽へ出て、それから大坂へと落ちて行くことになりました」。つまりだ、事件の結果として、一時的ではあるけれど、それまで下総で覇を競っていた2人の親分が2人ともいなくなってしまったのだ。この結果を見るならば、桑山圭助こそは天保15年のコンチネンタル・オプだった、というのはこじつけでもなんでもなく、至って穏当な見方ですよ。で、こうした一連の出来事の中で笹川繁蔵が平田三亀を飯岡方の間者と疑い、両刀を取り上げて、おそらくは軟禁状態に置くという変事が起きていたわけだけれど、それが桑山圭助の仕業ではない、なんてことがどうしてありうるだろう。間違いない、これもまた桑山圭助の仕業。要するに桑山圭助は飯岡助五郎と笹川繁蔵の分断を図った上に笹川繁蔵と平田三亀の分断も図ったんですよ。その結果として、下総国からは飯岡助五郎(入牢)も笹川繁蔵(逃亡)も平田三亀(死亡)もいなくなった。恐るべし、天保15年のコンチネンタル・オプ――なんて結論に達するあたりは、オレもまだ十分に「ハードボイルド」だなあ……?