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拳銃二題
〜国定忠治と清水定吉〜

 これは以前にも書いたことがあるんだけれど(書いたのはこちらです。ワタシが『天保水滸伝』について初めて言及した記念すべき記事でもあります……)、ワタシはハードボイルド読みを自認している割には銃についてはとんと疎くて、たとえば「いま、このあたりでみかける短銃は旧式で、とても短銃なんていえる代物じゃありゃしねえ。ところが、こいつは江戸にだって――いや、国中どこを探したって手に入りっこない新式の短銃ですぜ。異国人でなければ持ってねえって珍しいものなんだ。いまその辺にある火縄銃なんてこいつにくらべりゃあ、子供だましみたいなもんでね。第一、火縄銃は一発しきゃ射てないが、こいつだと、つづけて六発の弾丸が発射できる。ま、あなた方はご存知ねえでしょうが、これはメリケン製のコルト・パターソンという短銃なんですよ」――なんて台詞を読まされても、へえ、そうなんだと。ただそう思うだけで、特段、その言い草に疑問を覚えるということもなかった。しかし、たまたま生島治郎の『さすらいの狼』と大藪春彦の『孤剣』をつづけて読む、なんてことをやったがために両ハードボイルド派の巨頭の銃に対する認識の懸隔みたいなことに気がつくとともに、なるほど、銃から見えてくるものもあるんだなあ、と、そんなことに今さらながら気がついて、なんとなんと、今、ワタシの手元には床井雅美著『世界の銃器①ピストル』(ゴマブックス)と佐山二郎著『小銃・拳銃・機関銃入門 日本の小火器徹底研究』(光人社NF文庫)という銃の専門書が2冊も。要するにだ、今やワタシの銃に対する感度は以前とは比べものにならないくらい上っている(エヘン)。むしろ、銃に関しては一家言有しているとでもいうか。まあ、いますよね、この手のタイプの「にわか」って。ええ、あれなんですよ。そういうふうに受け取ってもらっても全然結構で……。

 ――ということで、今回は「拳銃二題」と題して、そんなにわかガンマニアであるワタシが綴る銃にまつわるウンチク話を2つ。2つに直接の関係はあるようなないようなあるような……?



 子母澤寛の『游侠奇談』を読んでいたら、こんな下りに遭遇して、えっ?

 赤城へ歸るや、乾兒の重立つたものもまた踵をついで山に集まり、忠治は先づ第一に、民五郞の悲報を耳にした。もとよりこんなことには、寸刻をも許さぬ忠治の氣性である。直ちに乾兒の中から腕の利くもの十八人を選び、みんな西洋製の短銃をもたせてそれツといふと、一齊に山を降つた。

 なんと、国定忠治が「西洋製の短銃」を所持していたと。雁が鳴いて南の空へ飛んで往かあ、の、あの国定忠治が……。このあまりのミスマッチにしばし絶句したワタシではありますが、すぐに冷静さを取り戻して、多分、これは「忠次遺愛の拳銃」のことだろうと。実は日本放送協会編『歴史への招待⑨』でそういうものが写真付きで紹介されているのだ。曰く「「忠次遺愛の拳銃」というのが伊勢崎市に残っている。これは火縄式の短銃で(口絵参照)、この地の名主大島儀右衛門宅に保存されていた。忠次のものである証拠には、丸に「忠次」という焼印がある。このピストルがあったため、赤城山にこもった忠次を召し捕りに行った捕り方が、なかなか踏み込めなかったのだともいわれている」。まあ、火縄式の短銃ならね、国定忠治ほどの大親分だ、持っていたとしても不思議はないか。もっとも、それでも国定忠治のイメージからは相当にかけ離れているけどね。だって、国定忠治といえば、例の「名月赤城山」の別れの場面で加賀の国の住人・小松五郎義兼が鍛えた業物という一刀を月光にかざして「俺にゃあ、生涯手めえという強い味方があったのだ」。これは、日本刀だから絵になるわけで、火縄銃じゃあねえ……。ただ、国定忠治が火縄銃まで持って武装していたとなると、それはそれで面白い、とも言える。朝倉喬司は『走れ国定忠治』というケッタイなタイトルの本(多分、ジョン・アップダイクの『走れウサギ』から来ているんだろうけれど、でもなんで『走れウサギ』? 確か「ウサギ」ってのは「小市民」のメタファーとされていたはずで……)で赤城山を毛沢東にとっての井崗山、フィデル・カストロにとってのシェラマエストラに準えてみせており、いよいよそんな感じが強くなってきたような。国定忠治というのは、言うならば、山岳ゲリラだったのだ……?

 ――と、そんな妄想はひとまず措いといて、ここでは子母澤寛が繰り出した「西洋製の短銃」というワーディングをモンダイにしたい。だってさ、普通、「西洋製の短銃」と聞いて(読んで)連想するのは、それこそコルト・パターソンとかスミス&ウェッソンのような回転式拳銃ですよ(ね?)。しかも、「生島治郎の『さすらいの狼』を読む〜この一筋縄では行かない小説世界に浸って〜」に書いたように、そういう方向へと思考を誘うバックグラウンドみたいなものが存在するわけで――大藪春彦は天保7年を舞台とした自身唯一の時代小説『孤剣』で主人公の伊吹勘之助にコルト・パターソンを持たせている。このコルト・パターソン、同作中での説明では「天保六年というから、清水の次郎長が十六歳の少年であった頃に、米国で発明されたコルト・パタスン五連発の輪胴式。まだ用心鉄も考案されてなく、撃鉄を起こすと、隠れている引金が前にとびだすという物騒な短銃だ。金属薬莢を使用する後世の銃とちがって、こいつの弾倉の薬室は尻がふさがっていて、撃鉄が弾倉の上に五つ開いた火門を叩くことになっている」(こちらではちゃんと「五連発の輪胴式」となっている。まあ、大藪春彦からしたら、こんなのは初歩中の初歩、ということになんでしょうが……。ちなみに、生島治郎は大藪春彦が亡くなった際、読売新聞に追悼文(1996年3月4日付け夕刊「大藪春彦氏をいたむ 〝戦友〟の死に暗然…」)を寄稿している。その中で「銃について不確かな点があると、大藪さんに電話して、教えを乞うたことがあるが、そういうとき、実に親切にわかり易く説明してくれてありがたかった」。このあたり、ちょっと空海と最澄の関係に似ているような……?)。そんな最新式の回転式拳銃がその翌年にはもう日本に入ってきていたというのがこの時代小説の世界線で、当然のことながらと言うべきか、この時代小説を原作に作られた市川雷蔵主演の1965年の大映作品『赤い手裏剣』でも(ワタシが見た限りではコルト・パターソンには見えないんだけれど)やはり回転式拳銃が(一瞬だけ)登場。また、この『赤い手裏剣』に先立つこと4年前の1961年に制作された黒澤明監督の『用心棒』では仲代達矢演じる卯之助がやはり回転式拳銃を持って登場しており、これはコルト・パターソンよりもさらに最新式のスミス&ウェッソンのモデル2であるとされている。そんな世界線をわが国のエンタメ作家たちは作り出してくれているわけだけれど……もしかして、それって単なるエンタメ作家たちの妄想ではなかったの? と、そういうことにもなりますよ(実際にワタシも一瞬だけれどそういう錯覚に囚われた)。結局、それは「西洋製の短銃」というワーディングの問題に尽きるんだろうと思うんだけれど、一体なんで子母澤寛はこんな誤解を抱かせるような書き方をしたんだろう? と思っていろいろやっていたら、出典があることがわかった。それは、天保年間、関東代官として国定村も管轄する立場にあった羽倉簡堂(ちなみに、ワタシにとってこの人は羽倉綱三郎の養父という認識で。羽倉綱三郎は慶応4年6月、輪王寺宮公現法親王を奉じて奥州に渡り、宮の帰順後は雲井龍雄らと行動を共にし、現在の群馬県利根郡片品村で戦死した。榎本武揚が戊辰戦争当時のことを語った「榎本子談話」でも「羽倉外記の子」として言及されており、この羽倉外記ってナニモノ? と思って調べたところ、それが羽倉簡堂だったという経緯。そんな羽倉簡堂と、ここでねえ……)が著した「赤城録」(一名「劇盗忠二小伝」)。この書、『歴史への招待⑨』でも「劇盗忠二小伝」として写真入りで紹介されていますが、「赤城録」として翻刻されたものが『簡堂遺文』(吉川弘文館)に掲載されていることがわかり、読んでみたところ、なるほどと。原文は漢文体ですが、ここは訓み下したかたちで紹介すると――

明年正月、忠(治)赤城ニ還リ、主馬ノ爲ス所ニ憤ル。及(すなわ)チ民五ノ義子ヲ遣シ復讐ス。又主馬黨與多キヲ慮リ義子十八名ヲ擇ビ、各洋制短銃ヲ持チ、倶ニ往(ゆ)ク。

 ね、子母澤寛がこの一文を典拠に『游侠奇談』の件の下りを書いたのは明らかですよね。しかし、そうなると、今度はなんで羽倉簡堂はこんな誤解を抱かせるような書き方をしたんだろう? ということになってくるわけだけれど……もしかしたら、漢詩で言う「対句」というやつなのかもしれない。というのも、「赤城録」にはこんな下りもあるんだ――

明年(丙申)ノ春、義弟茅場兆平、信濃ノ波羅七ノ殺ス所ト爲(な)ル。忠治、復讐ノ爲、乾兒二十名ヲ率イ、火鎗刀矛ヲ持チ、關ヲ越エ、信(濃)ニ如(ゆ)ク。

 天保7年、忠治の義弟・茅場の兆平が信濃の原七に殺された。激怒した忠治は子分20人を率いて関所を破り、信濃に殴り込みをかけた――と、そういう経緯を記している一節なんだけれど、ここに出てくる「火鎗刀矛ヲ持チ」の解釈が1つ問題としてあって。「火鎗刀矛」を「火・鎗・刀・矛」とするか「火鎗・刀矛」とするか。前者の場合、「火」は火縄銃を意味すると思われますが、どうも後者じゃないのかなあ。というのも、「火鎗」も「刀矛」も単語として存在するので。しかも、それぞれ中国で昔使われた武器の名前なんだよね。「火鎗」についてはウィキペディアにも記事がある。また「刀矛」もこちらで画像入りで紹介されている。で、「赤城録」が全文、漢文体で綴られていることを考えるならば、やはりここは「火鎗・刀矛」と解釈すべきではないか? で、そうなると、そんなものを忠治が持っていたとは到底考えられないわけだけれど、漢文にはリアリズムよりも語句としての〝映え〟を重んずる独特の修辞法があって。いわゆる「白髪三千丈」の類いですね。この「火鎗刀矛」もそのようなものと捉えるならば、これは「昔ながらの武具」くらいに理解しておくのが適当では? で、この出来事があってから6年後、忠治は再び大がかりな出入りを仕かけることになるわけだけれど、今度は6年前には所持していなかった火縄式の短銃を用いた。羽倉簡堂がそれを表現するに当たってあえて「洋制短銃」という四文字を用いたのは6年前の「火鎗刀矛」との対句的な効果を狙って――というのは、高校時代には漢文を得意科目としていたとはいえ(これはホント)、たかだか元ペーパーバック屋の言うことなのであまりアテにはしないように……(汗)。



 加太こうじの『国定忠治・猿飛佐助・鞍馬天狗』を読んでいたら、こんな下りに遭遇して、え?

 明治初年、ピストル強盗清水定吉が東京をさわがせて非常に人気を得た。泥棒物流行のゆえではあろうが、清水定吉を主人公にした作品は今では具体的なものはなにも残っていない。落語研究家でロマンチストであった故正岡容が、酔うと〽人のやらない浪花節、ピストル強盗清水定吉――。などと歌ったそうだが、正岡好みのロマンチックなかくれた人生を清水定吉はおくった。初期の映画で清水定吉は映画化されたが、今ではその主役が横山運平であったらしい、というくらいしかわからない。

 正岡容が木村重正が歌う(あるいは、唸る)「ピストル強盗清水定吉」を「襟を正して」聴いていたことは正岡が浪曲への「溺愛」を綴った『雲右衛門以後』にも記されている――「その本格の日の彼の姿が、最後まで「ピストル强盜、淸水定吉」にはのこってゐた。だから、襟を正して、此は聽けた」。ただ、まさか自分でも「〽人のやらない浪花節、ピストル強盗清水定吉」などと歌っていたとは。正岡容って、そういうタイプの人じゃないような気がしてたんだけどなあ……。しかし、加太こうじに言わせれば「正岡好みのロマンチックなかくれた人生を清水定吉はおくった」。確かに『りべらる』1952年5月号に綴られた『天保水滸伝』ゆかりの地への〝センチメンタル・ジャーニー〟からはその種の「濡れ」が感じられたわけだけれど……。

 ただ、とりあえずそういうことはここでは措いといて――「ピストル強盗清水定吉」ってくらいなんだから、清水定吉はピストルを携行していたわけだよね。そのピストルって、何? と、にわかガンマニアであるワタシの関心はそこに向かう(笑)。でね、これが一筋縄ではいかない。本当にもう、オレじゃなかったら途中で諦めているよなあ……。まずね、清水定吉の事件というのは明治初年の東京をさわがせた事件なので、国立国会図書館サーチで検索しても関係する文献はたくさん見つかる。その中には三代目市川猿之助が編集した『猿翁』なんて本も。実は初代市川猿翁こと二代目市川猿之助は歌舞伎で清水定吉を演じたことがあるんだよね。そんなことがこの本で確認できる。これはなかなかの……。快楽亭ブラックも言っていますが、澤瀉屋というのは昔からフツーじゃないんだよね。フツーだったら、やりませんよ、歌舞伎で「ピストル強盗清水定吉」なんて。それこそ、〽人のやらない歌舞伎、ピストル強盗清水定吉……。ま、そんなこんなで、文献は豊富なんだけれど、今のワタシの関心の方向性から言っても信憑性の点から言ってもまず最初にアプローチすべきは警視庁史編纂委員会編『警視庁史 明治編』だろうね。すると、第4節「警視庁再設置の頃」で「ピストル強盗清水定吉」として――

 明治十五年から明治十九年の末にかけて四年間、警察の必死の捜査をしりめに、各所を荒しまわつたピストル強盗があつた。
 この賊は、出没がすこぶる巧妙で、凶行も既に八十余件にのぼり、このうち五人までが殺害された。
 当時警視庁では、管下各警察署の警察官を動員して、それこそ日夜寝食を忘れ八方捜査に奔走していたが、ようとして行方はわからず、逮捕することができなかつた。
 捜査当局の焦慮はもとより、世論は警察無能を強く非難した。

 ま、そうでしょうねえ。そういうことになりますよ。で、加藤武みたいな警視庁の幹部(ちなみに、当時の警視副総監は綿貫吉直という人物だったそうですが、この綿貫副総監から直接、清水定吉の取調べを命じられた人物がいる。それは武東晴一という刑事で、この経緯については明治41年発行の『日本警察新聞』に掲載された刑事学校での講演録「探偵講話「ピストル」强盜淸水定吉探偵實歷談」に詳しく記されている。でね、この武東晴一がなんとモト冬樹の父方の曽祖父とかで、ウィキペディアに曰く「父方の曽祖父、武東晴一は周防国(山口県)岩国高森出身で、数々の凶悪事件や迷宮入り事件を解決した警視庁の刑事であり、当時の新聞のニュースやコラムなどで度々取り上げられ「鬼武東」と呼ばれていた」。多分ね、『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』みたいな感じで、テレビドラマになりますよ。なんなら、モト冬樹が清水定吉を演じるのもオモシロイ……)がもうカリカリして……。で、その後も縷々記載があって、事件のディテールというものはほぼ摑めるのだけれど、肝心要の銃の種類についての記載がない。これがなんとも不思議で。だって、犯罪行為に使われた「凶器」なんだから。その特定は犯罪捜査には必須でしょう。しかも、こんなユルイことも記されていて――

 明治十五年のある日、日本橋浜町で、実弾五十九発とともにピストルを拾い、以来これを利用して、強盗に押し入つたと述べている。

 それを真に受けたの? で、それ以上、入手ルートについては追及しなかった? なんと手ぬるい……。ただ、これは警視庁の〝正史〟に記されていることなのだ。ここはそのようなものとして(as it is)受け取っておくよりほかはないだろう。それよりも銃の種類(モデル)ですよ。これが記されていないというのはなんとも面妖で。羽倉簡堂でさえ「洋制短銃」と書いているのに。ま、そのために、後世、あらぬ誤解を招くことにはなったわけだけれど……とにかくだ、その清水定吉が日本橋浜町で拾ったという拳銃の種類が知りたい。それ次第でもしかしたらこの事件に関する意外な〝真相〟が明らかになってくるかも……ということで、次にワタシが当たったのは明治26年に金松堂から刊行された『探偵實話・淸水定吉』。著者のクレジットはなく、ただ「無名氏編」とだけ記されている。今ふうに言えば「アノニマス」ですね。そんななんとも香ばしい〝読物〟なんだけれど……まあ、正史に当ってダメだったんなら稗史に当れと。そんな教えがあるかどうかは知りませんが……。でね、本当に香ばしいんだ。たとえば、清水定吉が銃を入手した経緯だけれど、なんと清水定吉が追い剥ぎに遭うんだよ、ピストルを持った「偽武士」に。で、清水定吉は「御武家様命だけはお助けなさつて下さいまし」とかなんとか言って紙入れを差し出すんだけれど、一瞬の隙を突いて反撃に出てピストルを奪い取ってしまうんだ。で、「此ピストルこそ定吉が今後二十年間に用ひたる兇器の一にてピストル強盗の名を残すその始めなり」。で、それはいいんだけどね、この出来事があったのが「慶応四年八月三日の夜の事なり」とされているんだよね。いいですか、清水定吉がピストル強盗として東京をさわがせたのは「明治十五年から明治十九年の末にかけて」。これは史実としてハッキリしている。しかし、この世界線では清水定吉はそれより15年も早い慶応4年には既にピストルを入手していて、さらにだ、この後、彼は牛込矢来町の鉄砲師から銃の手入れの仕方や弾丸の製造法まで学んで、以後、弾丸を自製するまでになるんだよ。まるで『孤剣』の伊吹勘之助ではないか! と、正直、このあたりでもうこの本はいいかなあ、とも思ったのだけれど……諦めないでよかった。というのも、ずーっと読んで行くと(相当の飛ばし読みだけどね)、342ページに至って、なんと、定吉が逮捕された際の押収品のリストなるものが。ここは国立国会図書館のデジタルコレクションからダウンロードした画像でご覧いただくと――


清水定吉「ピストル強盗」事件捜査資料A

 いの一番に「二番形ピストル銃」なるものが挙げられている。この「二番形ピストル銃」とは何かというと、当時の日本軍の制式拳銃である「二番形拳銃」のことで、(さあ、行きますよ)床井雅美著『世界の銃器①ピストル』によれば(出た!)「一八七〇年代の日本には、国産の拳銃はなく、制式の金属薬莢式リボルバーとして、アメリカの中折れ式スミス&ウェッソンが選ばれた。このスミス&ウェッソンには、ロシアで制式に採用されたナンバー3ニューモデルと、アメリカンモデルがあり、それぞれ一番形拳銃、二番形拳銃と呼ばれていた」(これと同種の記載は佐山二郎著『小銃・拳銃・機関銃入門 日本の小火器徹底研究』にもありますが、こちらでは「二番形拳銃」のモデル名について「S & W MODEL NO.3. 44CAL. SINGLE ACTION (NEW MODEL)」と記載。うーん、実に細かい……)。で、これでなんとなく得心が行ったというか。『警視庁史 明治編』にも記されているように、ピストル強盗なるものが東京をさわがすようになるのは明治15年から。それに対し、日本軍がスミス&ウェッソンのナンバー3を制式拳銃として採用したのは明治10年。だから、明治15年というタイミングで突如として東京にピストル強盗なるものが現れることになる、その因果関係みたいなものはこれで説明がつく、ということになる。その一方で「無名氏」が語っているような「慶応四年八月三日の夜の事なり」なんてのは絶対にあり得ないということになるわけだけれど……そう考えた場合、その歴史資料としての信憑性をどう捉えればいいものか? 全く信ずるに足らない、ということになると、この押収品リストも、信ずるに足らない、ということになってしまうわけだけれど……。ただ、これほど具体的なリストが全くの作られたもの、ということがありうるのかなあ……。実はね、『探偵實話・淸水定吉』には清水定吉の戸籍の写しなんてものも紹介されているのだ(こちらです)。これを捏造されたものとはなかなか考えにくい。で、これは1つの仮説なんだけどね、もしかしたらこの『探偵實話・淸水定吉』というのは読物ではあるんだけれど相当にウラのある読物ではないのか? ズバリ言うならば、執筆には然るべき機関からのリーク情報が使われている――。これは、なぜ作者が「無名氏」とされているのか? ということの1つの説明にはなるだろうし、(問題の押収品リストが本物であるという前提で言うならば)なぜ警視庁史編纂委員会が編纂した警視庁の正史である『警視庁史 明治編』には清水定吉が犯行に使用したピストルの種類(モデル)が記されていないのか? という謎にも1つの答を提示するものとはなるだろう。つまりだ、清水定吉が犯行に使用した拳銃が日本軍の制式拳銃だったということは、それが軍から流出したものである可能性を強く示唆する、とは言えるはず。少なくとも警視庁はその可能性も視野に軍に対し銃器の管理状況等の捜査は行わなければならない。しかし、それは彼我の力関係からなかなか難しい――となった時、この国の官僚機構がどういう対応を取るかというのはワレワレはこれまでいやというくらいに見せつけられていて……『警視庁史 明治編』では拳銃の種類については一切言及せず、その入手ルートについても「明治十五年のある日、日本橋浜町で、実弾五十九発とともにピストルを拾い、以来これを利用して、強盗に押し入つたと述べている」――ということにして封印するという、そんな〝処理〟が図られた。しかし、それをよしとしないものが当時の警視庁内部にいて「無名氏」に押収品リストを含む捜査資料を漏洩した……と、こんな仮説をぶっ込んだプレミアドラマ『刑事一代 武東晴一の明治事件史』は、多分、作られることはない……。