で、国定忠治である。実は国定忠治って今や完全にオワコンなんだよね、そのことに気がついている人がどれほどいるかは知りませんが。でも、完全にオワコン。たとえば、キネマ旬報社が運営するKINENOTEで確認すると、国定忠治が主人公の映画って1960年に作られた『浪曲国定忠治 赤城の子守唄 血煙り信州路』が最後なんだよね。ワタシなんかの理解では、国定忠治というのは、少なくとも侠客物の分野では清水次郎長と並ぶ2大スターのはずで、である以上、映画だってもっと作られていていいはず。ちなみに、清水次郎長の場合は、ごく最近と言ってもいいであろう2008年にマキノ雅彦(津川雅彦)監督による『次郎長三国志』が作られている。あと2000年以降に限ってもテレビドラマが何本か作られているようだし。要するに清水次郎長の方はエンタメのコンテンツとしてまだまだ商品価値が認められている、ということでしょう。それに引き換え国定忠治の方は……ということになるわけだけれど、この点について静岡県生まれの歴史学者・高橋敏は『国定忠治』(岩波新書)の「はじめに」で「博徒がお上の手先となって十手をあずかる〝二足草鞋〟を嫌悪し、お上に徹底抗戦した忠治は、豊かさを追い求め、ぬくぬくと一億総中流の幻想に酔った五〇年、歓迎されざる、思い起したくない人物となった。激動の幕末をやりすごし、お上との調和に努め、ハッピーエンドの生涯をまっとうした博徒、清水次郎長こと山本長五郎が受け入れられたのとは対照的である」。要するに〝体制派〟の清水次郎長と違って国定忠治は危険すぎる、だから敬遠された――と、そういうことを言いたいのだろうけれど……でもね、それだとあの過激な上にも過激な1970年代にも国定忠治を主人公とする映画が作られなかった理由としては不十分。あの時代、東映では『仁義なき戦い』が作られ、日活では『四畳半襖の裏張り』が作られ、ATGでは『聖母観音大菩薩』(数あるATG映画の中であえてこの映画を挙げた理由は、後にトレンディ女優として脚光を浴びることになる浅野温子のあられもない姿が拝める……からではなく、石橋蓮司演じるコマンド――と呼んでくれと、そう自分で――が、あれは高浜原発なのかな? の爆破を計画しているという……。そんな映画、今、作れるわけがない)が作られ……。そんな時代に国定忠治が「危険すぎる」という理由で敬遠されたとはとてもじゃないけれど。でね、そもそもの話として、高橋敏が描き出す「博徒がお上の手先となって十手をあずかる〝二足草鞋〟を嫌悪し、お上に徹底抗戦した忠治」というような忠治像ってそれほど一般的なものだろうか? これね、自分自身にも問いかけてみているんだけれど、やっぱり国定忠治といえばあの「赤城の山も今夜を限り……」なんだよね。この名台詞、今の若い人が知っているとは思えないけれど、少なくともワタシの世代くらいまでは、実際に見たことがあるかないかには関わりなく、みんな知っていた――、そう言っていい。でね、そもそもの話として、この行友李風作の『國定忠治』と高橋敏が描き出す国定忠治像の間には相当の懸隔があると言わざるをえないんですよ。行友李風作の『國定忠治』っていうのは、有り体に言うならば、「義理と人情」のショーケース。全編これ日本的情緒のてんこ盛りと言ってよく、中でも見せ場となっているのが赤城山での別れの場面――
忠 治 鉄――。巌 鉄 へい。忠 治 定八。定 八 なんです、親分。忠 治 赤城の山も今夜を限り、生れ故郷の國定の村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分の手めえ達とも、別れ別れになる首途(かどで)だ。定 八 そう云ゃなんだか嫌に寂しい気がしやすぜ。
雁の声。
巌 鉄 あゝ、雁が鳴いて南の空へ飛んで往かあ。忠 治 月も西山に傾くようだ。定 八 俺ぁ明日ぁどっちへ行こう?忠 治 心の向くまま足の向くまま、当ても果てしもねえ旅へ立つのだ。巌 鉄 親分!
笛の音、聞ゆ。
定 八 あゝ円蔵兄哥が……。忠 治 あいつも矢っ張り、故郷の空が恋しいんだろう。
忠治、一刀を抜いて溜池の水に洗い、刃を月光にかざし――
忠 治 加賀の国の住人小松五郎義兼が鍛えた業物、万年溜の雪水に浄めて、俺にゃあ、生涯手めえという強い味方があったのだ。
定八、刀を拭う。「極付 國定忠治」(演劇出版社版『行友李風戯曲集』)より
国定忠治といえば、これですよね(もちろん、世代限定ではあるけどね。ま、そもそもナントカ世代の人はこんな記事、見向きもしないだろうから、いちいち断る必要もないんだけどね。しかし、Zもいろいろだよなあ。ワタシの世代だとコスタ=ガヴラス監督の映画のタイトルなんだけれど、一方でロシアのウクライナ侵略のシンボルでもあって……)。これに対し、高橋敏が描き出す国定忠治はというと――ここは、あえてこんな一節を紹介することにしましょう――
……十九世紀半ば、開拓の国アメリカではコルトの改良によってピストルの普及をみた。その西部劇の時代を忠治が共有していたと想像すると、同時代史としての世界史のひろがりをまた実感することができよう。
これ、例の「洋制短銃」を踏まえた「想像」なんだけれど――この件については既に「拳銃二題〜国定忠治と清水定吉〜」に書きました。だから、ここでは繰り返しません。ただ、高橋氏は高橋氏でこういう「想像」を膨らませたということで――どっちにしたってそれは行友李風が『國定忠治』で描いた忠治像とは大いに異なっている。でね、ワタシが考えるにはだ、もし仮に国定忠治が今やエンタメのコンテンツとしてオワコン化しているとするならば、行友李風が作り出した「国定忠治」だと思うんだよ。そりゃあ、ねえ、今の時代に「赤城の山も今夜を限り……」なんてやったところで……。一方で高橋敏が描き出すような「国定忠治」というのはまだ人々の認知するところにもなっていないのでは? 要するに、終るもなにも、まだ始まってもいないのだ。そういうボタンの掛け違いみたいなものがこの議論にはあると思う。でね、これはあくまでもワタシの印象なんだけれど、もし仮に国定忠治像が高橋敏が描き出すような内容で再構築されることがあったとしたら、十分にエンタメのコンテンツとして復活することは可能だろうと。あるいは、ここは高橋敏が指し示すような方向で――と言い改めるべきか? 要するに、高橋敏だけじゃないってことですよ、国定忠治に関して一般には認知されていない像を描き出して見せているのは。その1人が「拳銃二題〜国定忠治と清水定吉〜」でもちょっと紹介した朝倉喬司で、1996年の著書『走れ国定忠治:血笑、狂詩、芸能民俗紀行』(現代書館)では「国定忠治紀行」と題して国定忠治ゆかりの地を訪ねつつ、必然的に足は赤城山へ向かうことになるわけだけれど――
車は、赤城山へ向かっている。私たちはその晩、赤城山中腹の、瀧沢温泉で一泊することにしていたのだった。
車が山道にさしかかると、白いものがフロントガラスにしきりに降りかかるようになり、ほどなく辺りは一面の雪景色。スノータイヤの準備などしていないタクシーの速度は極端に落ちた。おずおずと、地雷原を歩く新米兵士のような〝足どり〟で山道を登っていく。
赤城山と忠治の縁の深さについて、いまさら云々するまでもないだろう。
ロビンフッドにはシャーウッドの森、国定忠治には赤城山。もう二つ三つ付け加えれば毛沢東には井崗山、フィデル・カストロにはシェラマエストラ、ステンカラージンにはボルガ河、はたまた酒呑童子には大江山とかいった次第で、世を騒がせ、時には国家をもひっくりかえしてしまうロマン派好みの英雄には、高くそびえ立った山だとか、悠々と流れる大河だとか、深く神秘な森。そういった、おたがいの象徴性を映し出し合う鏡としてしつらえられたような、自然の領域が、なにかとつきものなのである。
地雷原を歩く新米兵士のよう――とか、メタファーがミリタリー調になっている時点で朝倉喬司が思い描く「国定忠治」が何色に彩られているかがよくわかる……。ともあれ、ロビンフッドにはシャーウッドの森、国定忠治には赤城山。んでもって、毛沢東には井崗山、フィデル・カストロにはシェラマエストラ、ステンカラージンにはボルガ河、ときたもんだ。もうこれだけでも血が沸き立ってくる(笑)。さらにですね、今度はその朝倉喬司が紹介しているものなんだけれど、かの「異端」の芸術家・武智鉄二が1976年に上梓した『無頼の歌:日本やくざ列伝』(立風書房)の中で国定忠治について論じていて、なんとこんなことを書いているんだよね――
赤城山の濶葉樹林帯は、秋になると寒気が強く、また木々も落葉して、身をかくすに適当ではない。赤軍派ゲリラが、冬に向けて、迦葉山から妙義、浅間へと、転々と居を移したのも、そのためであろう。地もとの忠治は、赤軍派とちがって、そのようなことをよく知っていた。夏のあいだの深いジャングルも、秋にはかくれ家の役には立たぬ。
名月に冴える笛の音、鳴き渡る雁――こういった芝居情緒豊かな赤城山の秋の到来も、ゲリラ隊長の忠治には、死の宣告にも等しく映ったことであろう。
(略)
人民の裏切り者である主馬や勘助を殺した忠治は、政治取引きで一揆を売った問屋から奪った軍資金をふところに、歩武堂堂、冬枯れの赤城をあとに、大戸の関所を押し破って、信州へと去ったのであった。そのときの様子を、奉行所の宣告文は、
子分の者ども数多引連れ、槍鉄砲等携えと記している。歩武堂堂と、書いたが、これはまさにゲリラ軍団の所業ではないか。そうして、こうした自信ある行動は、民衆の支持のないところでは、とうてい生まれ出ることのできるものではない。
いやー、今度は「ゲリラ隊長の忠治」ですよ。そして、「歩武堂堂、冬枯れの赤城をあとに、大戸の関所を押し破って、信州へと去った」……。行友李風が作り出した「国定忠治」はここに完全に吹っ飛んでしまったと言っていい。それほどラディカルな国定忠治像の提示――。ただ、ちょっとラディカルすぎるかなあ。それに、これだと今の人の関心から外れすぎていて別の意味でオワコン化しかねない……ということで、ここはもう少しマトリックスの中心寄りに狙いを定めることにして……実はね、国定忠治をある海外の著名な社会学者が提示した社会モデルに当てはめることができるんですよ。その社会モデルとは、イギリスの社会学者エリック・ホブズボームが1969年に刊行したBandits(Penguin Books)の中で提示した「社会的匪賊(social bandit)」というモデルで。もっとも、邦訳(斎藤三郎訳『匪賊の社会史:ロビン・フッドからガン・マンまで』)では「社会的匪賊」という訳語では「甚だ熟さない」として「敢えて「義賊」と訳しておいた」とされている。まあ、そんなふうな意訳が許されるんなら、ワタシ的には「国定忠治」と訳したいくらいなんだけどねえ……。ともあれ、エリック・ホブズボームが語る「社会的匪賊」の要点とは(下記の引用文中に見える「義賊」はすべて原文では「社会的匪賊(social bandit)」です。そう読み替えてお読みいただければ)――
義賊(ソーシャル・バンディット)についての要点はこうである。彼らは領主と国家によって犯罪者とみなされている農民無法者(アウトロー)ではあるが、農民社会の中にとどまり、人びとによって英雄、あるいはチャンピオン、あるいは復讐者、あるいは正義のために闘う人、あるいはおそらく解放の指導者とさえ考えられており、いずれのばあいにせよ、賞讃され援助され支持されるべき人びとと考えられていたことである。普通の農民と叛徒・無法者・強盗とのこうした関係が義賊をして興味ありかつ意義深いものたらしめているのである。(略)
この種の義賊団(ソーシャル・バンディットリ)は歴史上、きわめて普遍的に認められる社会現象の一つであり、しかも面白いことにどれも、ある共通の型を示している。実際上、それらはすべて二つまたは三つの明らかに関連のある型に属しており、その中での偏差は割合に表面だけのことである。さらに、この斉一性はある文化が伝播したため生じたものではなく、農民社会――それが中国であれ、ペルー、シシリー、ウクライナ、インドネシア、等々であろうと――の内部における類似した状況の反映なのである。地理的にみれば、義賊はアメリカ、ヨーロッパ、イスラム世界、南アジア、東アジアのいたるところで、またオーストラリアにすら見出される。社会関係からいうと、それは種族組織と血族組織の発達した段階から近代資本主義社会に至るまでの中間にある――ただし、血族社会の解体期と資本制農業への移行期を含む――あらゆるタイプの社会に発生しているようである。
さあ、なんともスケールの大きな話になってまいりました。(忠治一家のような?)「社会的匪賊団(social banditry)」は「歴史上、きわめて普遍的に認められる社会現象の一つであり、地理的にみれば、アメリカ、ヨーロッパ、イスラム世界、南アジア、東アジアのいたるところで、またオーストラリアにすら見出される」……。まあ、問題は忠治一家ないしは忠治その人がここに言われているような「社会的匪賊」に当たるかどうかなのだけれど……当たるでしょう。「彼らは領主と国家によって犯罪者とみなされている農民無法者(アウトロー)であるが、農民社会の中にとどまり、人びとによって英雄、あるいはチャンピオン、あるいは復讐者、あるいは正義のために闘う人、あるいはおそらく解放の指導者とさえ考えられており、いずれのばあいにせよ、賞讃され援助され支持されるべき人びとと考えられていた」――というのは、羽倉簡堂が「赤城録」(一名「劇盗忠二小伝」。吉川弘文館版『簡堂遺文』所収)に描いた国定忠治像そのものですよ。たとえば、関東一帯が旱魃に見舞われた天保7〜8年当時の記載として――「是歳久シク旱キ、関左大ニ饉エル。忠(治)資ヲ罄(つく)シテ賑救ス。故ニ以テ赤城近地ニ餓莩(がひょう)無シ。維時、予緑野郡ヲ宰ス。郡赤城ニ隣ス。而シテ管内餓莩無キニ非ズ。忠(治)ノ事ヲ聞クニ及ビ、報然、面ハ熱ク背ハ汗ス。地ニ縫イ入ル可キ無キヲ恨ム矣。明年丁酉ノ春、大ニ博場ヲ田部井ニ開キ、博税ヲ以テ邑中ノ磯沼ヲ浚フ。邑ハ國定ニ隣ス。國定ハ忠(治)ノ梓里(しり)ニ而テ下流ニ在リ。故ニ以テ國定亦旱災無キニ至ル也」。元幕府官僚をしてここまでその行動を賞讃せしめた男――、それはまさに「賞讃され援助され支持されるべき人びと」そのものであり、エリック・ホブズボームが言うところの「社会的匪賊」の見本のよう……。
国定忠治像が大正8年に行友李風が作り出したそれに留まっている限りはエンタメのコンテンツとして復活することは金輪際あり得ない。しかし、国定忠治ならびに忠治一家をエリック・ホブズボームが言うところの「社会的匪賊(social bandit)」と見なし、それを世界史的なマトリックスの中に置いた時、その物語を受容する下地はこの近代資本主義社会の崩壊期を生きるワレワレのココロの奥底に間違いなく存在する。要するにだ、今こそ「国定忠治」は復活すべきなのだ、歩武堂堂、冬枯れの赤城をあとに、大戸の関所を押し破って……。