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元治元年、その男は池田屋にいた
〜初代富山県知事と近藤勇の甲冑をめぐるメモ〜

 いやー、参った。ウィキペディアの「行友李風」からリンクをたどるかたちで「月形半平太」にアクセスしたところ、いろいろ妙なことが書かれていて。それをいちいちここに書き出すことはしませんが、なによりもかによりも、これですよ――「月形半平太の人物像として福岡藩士月形洗蔵(1828年 - 1865年、37歳没)と土佐藩士武市半平太こと武市瑞山(1829年 - 1865年、35歳没)をモデルにした説や、月形半平太の変名を用いた國重正文であるとの説 (西坊家口伝集続々8頁) がある」。これ、ええ⤴ ですよ。國重正文ってのは、あーた、初代富山県知事を務めた御仁で、明治16年の富山県新置とともに富山県令として当地に赴任し、19年に県令に代って県知事が置かれると引き続き富山県知事を務め、結局、内務省社寺局長に転身する21年まで5年の永きに渡って当地を治めた、まあ、ここは「大恩人」ということにしておきましょうか、実際に功績もいろいろあるようだし。とにもかくにも、そんな人物でありまして、その國重正文が「月形半平太の変名を用いた」? つまり、國重正文こそは月形半平太のモデルだと? あの「月様、雨が…」「春雨じゃ、濡れて行こう」(これにも問題があるんだけれど……これについては割愛)の、あの月形半平太の……?

 こうなるとジッとはしていられないのがワタシの性分で、早速、典拠文献として挙げられている『西坊家口伝集続々』なるものを見に富山県立図書館まで行ってきたのだけれど……おいおい、違うよ、國重正文は、じゃないよ。桂小五郎は、幕府の追手より逃れる為に月形半平太と変名していた、だよ。一体、どんだけ資料をナナメ読みしてんだ。ナナメ読みの達人も驚くよ……。

 ま、そんな感じで、とんだ無駄足だったわけだけれど……いや、必ずしもそうとは言い切れない? というのも、『西坊家口伝集続々』にはこんなことも記されているので――「由里の兄である長州藩士國重正文は、京都の池田屋事件の時には新選組より逃れた一人である」。この『西坊家口伝集続々』は滋賀県大津市の円満院門跡坊官西坊家の当代・西坊義信氏が「先祖より聞き及んだ文言」を書き綴ったもので、その西坊家の第8代当主暹胤の後室が由里という人でここではその兄が國重正文であるとしているわけだけれど、一方で國重正文は第9代当主七造の実父であるともされており……まあ、要するにだ、國重正文というのは西坊家にとってはそんな何かとつなががりのある人物であると。その國重正文について「京都の池田屋事件の時には新選組より逃れた一人である」という口伝が同家には伝わっている、ということになる。これね、信憑性の問題はありますよ。ただ、同じように記された「國重正文は、明治維新の頃には桂小五郎と一緒に行動していた」というのは『木戸孝允文書』(日本史籍協会叢書)等で裏付けられるんだよね(木戸孝允こと桂小五郎の日記や書翰に國重正文こと國重徳次郎という名前が頻繁に登場する)。だから、この口伝も結構信憑性があるんじゃないかなあ、と。で、そうなった時に、1つ検討すべき可能性が出てきたというか。実はね、もしアナタが新選組ファンならおそらくはご存知だと思うのだけれど、昨年4月、富山県高岡市にある禅宗の古刹・国泰寺で近藤勇着用の甲冑とされるものが発見された。これね、当地の代表紙である北日本新聞では、当時、1面トップで報じられたんですよ。これにはおったまげたもんですよ、朝、新聞を開いた時にね。既に記事は北日本新聞社のウェブサイト「webun」からは消えていますが、新聞は取ってあるので、この際だから全国の新選組ファンにも読んでいただくこととして――

新選組 近藤勇の甲冑か
高岡 国泰寺で発見
山岡鉄舟 寄進と記録

 高岡市太田の国泰寺で、幕末の倒幕運動の鎮圧に刀を振るった新選組の局長、近藤勇(1834〜68年)が身に着けたと伝わる甲冑が見つかった。新選組の前身「浪士組」の創設に深く関わった幕臣、山岡鉄舟(36〜88年)が寄進したとの記録が残る。同寺の依頼で調査した射水市新湊博物館は、江戸幕府のために力を尽くした近藤の遺品が、徳川家と関係が深かった同寺に寄せられたとみる。

 甲冑は、2020年10月に国泰寺で行われた所蔵文化財の調査で見つかった。かぶとは縦横各34㌢、高さ35㌢で、蛇の目紋の前立てがある。よろいは縦横各55㌢、高さ50㌢で、黒漆を塗った鉄の小札を紺色の糸で結んでいる。室町時代の部品を使い、江戸時代に作られたとみられる。
 同寺の宝物台帳には「新撰組隊長近藤勇ノ著セシモノニテ、鉄舟居士寄進ノモノ」と記されている(引用者注:ただし、実際に紙面に掲載されている写真を見ると「新撰組」ではなく「新選組」と書かれている。記事の見出しも「新選組 近藤勇の甲冑か」となっているのに、なぜここで「新撰組」と書き換えているのかは不明。そもそも「撰」は新聞常用漢字表には含まれていないはずなんですけどねえ……)。
 幕臣だった山岡鉄舟は、上洛する14代将軍・家茂を警護するために浪士組を結成し、近藤勇らが名を連ねた。上洛後に浪士組は解散したが、近藤らは京都に残って治安維持などを担い、新選組と名を変えた。鳥羽・伏見の戦い後に新選組は散り散りになり、近藤は新政府軍に捕まり処刑された。山岡は明治政府に取り立てられ、要職に就いた。
 甲冑を調査し、国泰寺の歴史にも詳しい射水市新湊博物館の松山充宏主査学芸員は「山岡が徳川家ゆかりの国泰寺に、近藤をしのんで奉納したのではないか」と推測する。
 国泰寺は江戸時代、将軍にあいさつできるほど高い格式を持ち、徳川家に近い存在だった。山岡は明治天皇巡幸の供奉員として北陸を訪れたのを機に、国泰寺の復興に尽力。倒幕に関連する戦いで亡くなった幕臣の供養に力を入れていたこともあり、近藤の甲冑を同寺に寄進した可能性がある。
(後略)

 で、注目すべきは最後の部分だよね。つまり、甲冑が国泰寺に寄進された経緯。特に「山岡は明治天皇巡幸の供奉員として北陸を訪れたのを機に、国泰寺の復興に尽力」という部分。山岡が「国泰寺の復興に尽力」したということは、つまり国泰寺は当時、衰退していたということだよね。理由は? 言うまでもなく、明治初年の日本列島に吹き荒れた排仏毀釈の嵐の影響、ということになる。で、見るに見かねた山岡がその「復興に尽力」したとしてだ、なんでそれで近藤勇着用の甲冑の寄進ということになるのか? ということが、まず1つの謎としてある。さらに、寄進された甲冑は展示されることもなく寺の倉庫(?)にしまわれていたわけだから、寄進した意味をなしていない。一体どういうことなんだろう? と、まあ、これは第2の謎としておきましょうか。ともあれ、そんな感じで、この近藤勇着用の甲冑が見つかったというニュースは世の新選組ファンに大いなる謎を提示したと言っていいと思うんだけれど……もしかしたら『西坊家口伝集続々』に記された「由里の兄である長州藩士國重正文は、京都の池田屋事件の時には新選組より逃れた一人である」という口伝はこの謎――特に、その2つ目――に1つの解答案を示すものでは? そりゃあ、ねえ、よりによって富山県知事として赴任してきた人物が、元治元年6月5日、池田屋にいて、新選組に命を狙われた一人である――となれば(そういうことが情報として国泰寺側に伝われば)とてもじゃないけれど近藤勇ゆかりの品を寺の宝として陳列・展示するなんてことは。こっそりと倉庫の奥深くしまい込んで素知らぬ顔を決め込む、ということになるでしょう。で、國重正文の在任期間が長引くにつれ(実際、5年というのは人の出入りが激しかった当時としては異例の〝長期政権〟だったと言っていい。もしかしたら、その背景には、当時、富山県が治めるのが難しい「難治県」と見なされていたことがあったのかも知れない。当時、富山県が「難治県」と見なされていたことについては宮武外骨の『府藩県制史』などに記載がある)寺側は倉庫にそういうものがしまい込まれていることも忘れてしまった(あるいは、もう少しありがちな状況としては、倉庫の管理担当者の交替などの際に適切な引き継ぎが行われなかった)――と、そんなようなストーリーを思い描くことは比較的容易ですよね? ワタシとしては、ぜひともこの線で行きたい(どこへ?)と思うんだけれど……さて、そうなった場合にだ、自ずと第1の謎にもそれなりのアプローチ方法が見えてくるような。要するに、あの時代において「近藤勇ゆかりの品」を所持することには特別な意味があったということですよ。特にこの場合は国泰寺という寺院が舞台であるわけだけれど、当時、国泰寺に限らず、全国の仏教寺院は明治初年の日本列島に吹き荒れた排仏毀釈の嵐で存亡の危機にさらされていた。今となってはちょっと信じられない話ではあるんだけれど、仏教寺院としては立ち行かず、神社へ衣替えをしたケースも少なくないというから驚き。かつてワタシは浄土真宗の僧侶からキリスト教の牧師へとコンバートした亀谷凌雲という人物のことを書いたことがあるんだけれど(こちらです)、それは個人の信仰の問題だから。寺ごと神道に〝宗旨替えする〟というのは、そんなのとは次元が違う。寺というものの成り立ちから言ったって、本来ならばあってはならない話ですよ。しかし、そういうあってはならない決断を迫られるほどの状況だったということであり、そういう状況に追いやられた彼ら(仏教者)の心中を慮るならば、それが彼らにとっての「明治維新」であり、彼らからするならば「倒幕」とはすなわち「廃仏」のことだった……。

 で、そう考えた場合にだ、骨の髄まで佐幕派だった近藤勇は彼らからするならばある種の守護神のような存在――となるのでは? 山岡鉄舟から国泰寺に近藤勇着用の甲冑が寄進されたのも、国泰寺側がそれを受け入れたのも、そういう含意があった上でのこと――と、滋賀県大津市の円満院門跡坊官西坊家に伝わる口伝はワタシにこんなことを考えさせた……。



 あと、その新撰組なんだけどね、この際だからちょっと書いておこうと思うんだけれど、実は本稿のきっかけとなった行友李風が『新撰組』というホンを書いているんだよ。もとよりこんなこと、ワタシは初めて知ったわけですが……『行友李風戯曲集』の「行友李風新国劇脚本初演年譜」によれば初演は大正12年8月とのこと。ということは、関東大震災の本当にもう直前だね。当時の芝居は1か月興行が一般的だったようなので『新撰組』も8月いっぱいの興行だったと仮定するならば、晴れて千秋楽を迎えたその翌日、新国劇の面々はまだ打ち上げの酒も抜けきらない内に天地を揺るがす激震に見舞われた――ということだろうか? しかし、それは『新撰組』というホンのなんとも暗鬱な最後に見合っているという気も――

廊下の口より伊藤、鈴木が抜刀して忍び出て。

鈴 木 奸賊!

双方より斬って掛る。近藤両人を仰向けに倒し、重ねて上から一刀田楽刺しに突通す。下手より土方、大夫の裲襠を抱えて出て来り。

土 方 隊長、殺ったな?
近 藤 血を見てやっと、胸の痞えが下ったようだ!

上手より惣踊りの舞子が踊りながら出て来る。両人愕き裲襠を死骸に冠せる。舞子は輪になって踊る。近藤刀を隠し踊りの中に入り、酔うた振りをして無器用に踊り狂う。唯一杯に賑やかな鳴物にて。

 ね、暗鬱でしょ? まるで「死の舞踏(dance of death)」ですよ。やがて訪れるカタストロフを予感するかのように。もとより行友李風にそんな予感があったとは思えないのだけれど……。

 あとね、行友李風作『新撰組』の初演が大正12年8月であったことについては別の意味での驚きもある。ワタシが知る限りでは、タイトルに「新撰組」の3文字を冠した小説って白井喬二の『新撰組』が嚆矢のはずなんだよ。で、こちらは『サンデー毎日』に大正13年6月から連載されたもの(河出書房版『大衆文学代表作全集12 白井喬二集』の大佛次郎「解説」より)。ということは、そう、行友李風作『新撰組』の方が早いわけだよ。こんなことがこれまで指摘されたことがあったかどうか……? しかし、白井喬二作『新撰組』の前に『新撰組』というタイトルを冠したエンターテインメント作品があったということはいろんな意味で興味深い。まずね、その白井喬二作『新撰組』なんだけれど、これ、変な小説なんだよね。『新撰組』というタイトルなのに主人公は近藤勇でもなければ土方歳三でもなく、それどころか新撰組の隊士ですらない。但馬流独楽師・織之助と金門流独楽師・紋兵衛。この2人が流派の名誉だとか男の意地だとかを賭けて秘術の限りを尽くした独楽対決を繰り広げる――と、まあ、そんなまとめでいいでしょう。そんな話だから、新撰組なんて全然出てこない。で、どーなってんだ? と思っていたら、舞台が京都に移った後半になってようやくね。で、出てきた瞬間、すべてを攫って行く――かというと、そんな感じでもない。これでなんで『新撰組』? と、読んだ人は10人が10人、そう思うはず。で、もしかしたらだよ、前年の新国劇公演『新撰組』が人気で、それにあやかろうという意図からだったのではないか? 新国劇公演『新撰組』が人気を博したということは文献的には裏付けられないのだけれど(いろいろやったんだけれど、見つけられなかった。そもそもこの公演についての情報が見つからない。多分、この辺は、関東大震災が影響しているんじゃないかなあ……。なお、行友李風作『新撰組』は戦後になって再演されたことがあるそうで、その際は『極付 新撰組』と題して島田正吾が近藤勇を、緒形拳が土方歳三を演じたそうです。ソースはこちらです)、白井喬二作『新撰組』はその翌年に連載されたものだった――ということを最大限に重視するならば、そういう因果関係を想定してもあながち無理筋とは言えないのでは? で、そう仮定するならば、昭和3年に子母澤寛の『新選組始末記』という名著が世に現れることになるのもその延長線上、ということになる。そもそもだ、中公文庫版の尾崎秀樹「解説」によれば『新選組始末記』は「発売と同寺に評判をよび、二カ月ほどのうちに十版をかさねた」というんだけれど、世にそういう反応を引き起こす下地がないことには起こりようがないはず。その下地を作ったのが大正12年8月の新国劇公演『新撰組』だった――と、なかなか立証するのが困難なことを仮定に仮定を重ねつつ……。