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「なりしもの」と「ならざりしもの」
〜基督信徒転向譚〜

 へーーー、と思った。へーーー、そんなことがあったのかと。しかし、そのオドロキの先にあるべきものが見つからないばっかりに、思考はあらぬ方向へと転がることに……。

 富山市西新庄がかつて上杉謙信と一向一揆軍が死闘を繰り広げた古戦場跡であることを伝える薄地蔵(ただし、この伝承は全くの誤伝だった。詳しくは「尻たれ坂とびや橋と〜自宅から10分の古戦場と典拠の問題〜」をお読み下さい)。この薄地蔵は正願寺という浄土真宗大谷派の寺の前にあるのだけれど、なんでもこの寺は蓮如の4男・蓮誓を初代住職とする由緒ある寺だとかで、元々は立山山麓の亀谷にあったという。その後、富山城下に移転するも安政の大地震に伴って引き起こされた大規模な土石流に呑み込まれて消失。現在地で再建を果したのは第17代住職の時代――というようなことが、同寺の第18代住職だった亀谷凌雲の著書に記されている。で、その亀谷凌雲の著書というのが――『仏教からキリストへ あふるる恩寵の記』(亀谷凌雲先生図書保存会)。

 実は亀谷凌雲は正願寺の第18代住職にして日本キリスト教団新庄教会の初代牧師でもあるという人物なのだ。もちろん、住職の座と牧師の座を兼任していたはわけではない(そんなことができるはずがない)。真宗寺院に生れて、一旦はその住職に就きながら、キリスト教への思いやみがたく、遂には全てを投げ捨ててキリスト教にコンバートしたというのだ。しかも、単に全てを投げ捨ててキリスト教にコンバートしたというだけではなく、かつて自分が住職を務めた寺の目と鼻の先に自前の教会を建ててキリスト教の伝道を始めたというのだから、腹が据わっているというか。下手をすれば、血が流れますよ。実際、そういうことが繰り返されてきた「歴史」があるわけだから……。ともあれ、亀谷凌雲は全てを投げ捨ててキリスト教にコンバートし、自前の教会を建ててキリスト教の伝道を始めた。この事実をワタシが知ったのは本当につい最近で、「尻垂坂の合戦」についての歴史考証の一環で正願寺について調べていて、たまたまあるウェブサイトで知って、へーーー。なにしろ、蓮如の息子を初代住職とする寺の18代目がキリスト教にコンバートしたというのだ。その衝撃たるや『二代目はクリスチャン』(昔の角川映画。ヤクザの跡取と結婚したシスターが死んだダンナの代りに二代目を襲名する、というコメディ)どころの騒ぎではない(当り前です)。しかも亀谷凌雲が建てたという教会はそれこそわが家からも目と鼻の先で、え、あの教会がそうなの? という、なんというか、わが家の目と鼻の先にもう1つの古戦場を発見したとでもいうのか。とにかく、相当なサプライズ。で、これは読んでみるしかないだろうと。実はワタシ、かの内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』も読んでおりまして、かつてはキリスト教に心を奪われた時期もある。今さらキリスト教に入信することは金輪際ないけれど、何がさて「回心」のドラマというのは心を打つものだ。例の「六条河原の疾風」の回心(って、なに? と思われた方はぜひ「ナムアミダ仏ともうす心は〜真継伸彦の『鮫』を読む〜」をお読み下さい。本稿はこの記事以降の流れによってもたらされたものです)にだって心を打たれるものはあった。蓮如の4男・蓮誓を初代住職とする寺の18代目がキリスト教にコンバートしたという、その「回心」のドラマに心を打たれないはずはない。

 ――と思ったのだけれど……どうもね。どうも亀谷凌雲が仏教を捨て、キリスト教にコンバートしなければならなかった決定的な理由が見えてこないというか。一応、この辺りが亀谷凌雲版「回心」のドラマの肝なのかなあ、という気はするのだけれど――

 私の求めていたのは真の如来である。真如の世界はわからないが、まよいの世界にあるわれらの間にきたって、それを示し、われらを救ってくださる、すなわちその名のごとく真実に真如より私どものところまできたり生まれてくださる如来にあいたかったのだ。釈迦牟尼如来・大日如来・阿弥陀如来、みな如来ではある。救い主として私どものところまできてくださった方ではある。ところがキリストは、真理の実体にして真理そのものであらせられる天地の創造者、天地の主にて在す父のみもとから、この暗き地上にきたり、真実に罪深き者、苦しめる者、死にゆく者にきたって、その父をあらわし、真理を真実にもたらしてきてくださったのであった。


それ人の子の来たれるは、失せたる者を尋ねて救わん為なり。(ルカ伝一九ノ一〇)
我は光として世に来たれり。(ヨハネ伝一二ノ四六)
われ父より出でて世に来たれり。(ヨハネ伝一六ノ二八)

しかもキリストは如来中の如来、この世の最低のところまできてくださったのであった。その最初からまず、きたない暗い馬小屋に生まれきたもうたのだ。続いて異邦の熱きさびしきところに、幼少にしてナザレの大工部屋に、いよいよ世に出でたもうては悪魔のたける荒野に、天刑者の病床に、取税人・罪人の食卓に、あれくるう海に、花匂う山上に、雲の峰に、畑に、宮に、ひなに、都に、森に、海辺に、丘に、群衆の前に、個人のもとに足跡至らざるなく、ついにどくろ山上、惨忍のきわみなる十字架上にまで下がって、その最期をとげたもうたのである。

 かくも真実に苦悩の人間そのものの間にきたって、大小すべての救いを実践し、まっとうした方は、どこにあったろうか、あろうか。実に仏心の極地に徹底し、理想を事実に示し、如来の真実の姿を顕明したもうたのは、げにこのキリストであったことをだれが否定し得ようか。私はキリストに来たって、久しく求めに求めていた真実の如来に見(まみ)えまつり得たのであった。

 キリストに「真実の如来」を見た――というのは、いかにも仏教者らしいとは言える。でも、決して亀谷凌雲はキリストを「見た」わけではないんだよね。そういうことが書かれている本(『聖書』)を読んだというだけ。何かしら彼がキリストの実在を確信するに至る「奇跡」に類する出来事があったわけではないんだ(『仏教からキリストへ』を読んだ限りではね)。それで「久しく求めに求めていた真実の如来に見えまつり得た」と言い切りますかねえ。所詮は「本」に書かれていることでしかないのに……。そもそも彼は『仏教からキリストへ』でキリスト教について語るに当って『聖書』についてしか述べていない。このことが著しく説得力を失わせているとワタシには思える。『聖書』の言葉が優れていることは認めますよ。文学作品としての『聖書』は人類史上の最高傑作と言っていいかもしれない。しかし、あえて言わせてもらうならば、『聖書』でキリスト教の一体何がわかるというのか。むしろ現実のキリスト教(あるいはキリスト教団)が『聖書』に記された言葉を裏切るような蛮行を行ってきたという「歴史」こそはキリスト教がいかなる宗教であるかを雄弁に物語っていると言うべきでは? ということで、以下、筆者の思考はあらぬ方向へと転がることになります。たまたま「亀谷凌雲」や「新庄教会」という検索語で本稿にたどりついたという方は、ここでおやめになることをお薦めします……。

 キリスト教団は数次に渡って十字軍を編成してイスラム教に対し宗教戦争をしかけた。第1回十字軍はローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけに応じるかたちで1096年に編成され、参加人数は推定で3万人から4万人に上ったと言われている(ウィキペディアの「第1回十字軍」に関する記事のレファレンス参照)。これだけの数の〝ボランティア〟がヨーロッパ各地からエルサレムに向かって進軍。ニカイア、ドリュラエウム、エデッサ、アンティオキアで〝聖戦〟を繰り広げた上でエルサレムに到着したのは1099年6月7日のことだった。苦難の旅路の果て(彼らの主観ではね)に遂に聖都を見た兵士たちの感動はさだめし大きかったに違いない。その後、繰り広げられた攻城戦は難航を極めたものの、7月15日朝、遂に城内への侵入に成功。作者不詳の従軍記「フランク人および他のエルサレムへの巡礼者の事績」(丑田弘忍訳『フランク人の事績 第1回十字軍遠征記』所収)によれば、一番乗りを果したのはリトール(Lethold)という名の騎士だったという。そして、「大虐殺」が繰り広げられることになる。その凄惨さは想像を絶するもので、「フランク兵はかれらをソロモンの神殿まで追撃して殺害したり、切り付けたりした。そこでの殺戮は、フランク兵たちが踝まで敵の血のなかに浸かるほどのものであった」。またフーシェ・ド・シャルトルというフランス人司祭の従軍記「エルサレムへの巡礼者の物語」(同)はさらに詳細にこの惨劇の模様を報告している――

 その後フランク兵たちは金曜日の正午に市内に侵入した。角笛の音の下、すべての者は鬨の声をあげ、勇ましく突進し、「神よ、助け給え」と叫び、ただちに城壁の上に軍旗を一竿立てた。異教徒たちのすべては恐れをなし、町の小路を通って、すばやく逃げ出すことに一心不乱であった。すばやく逃れた者は、すばやく追跡された。サン・ジル伯は他の側から攻撃していたので、かれもかれの部下たちも、サラセン人たちが城壁の上から飛びおりるのを、見るまで事情がわからなかった。かれらはこれを見て、歓喜して町のなかに向かって突進し、不信心な敵どもを追跡し、殺害した。サラセン人のある者たち、アラブ人とエティオピア人はダビデの塔に逃げこんだ。他の者たちは、ソロモンの神殿に閉じこもった。神殿の広間でかれらに対する攻撃が激しくなされた。かれらがフランク兵から逃れる余地はなかった。逃れてソロモンの神殿の屋根に上った者の多くは、弓で射られて、死に至らしめられ下に落ちた。その神殿で約一万人が首を切られた。もしあなたたちがそこに居合わせていたならば、あなたたちの足は大腿部まで殺害された者たちの血のなかに浸かったであろう。これ以上何を語ったらよいか。

 はたして1万人という数がどれほど信憑性のあるものかはわからない。ただ、イブン・アル=アシールというアラブの歴史家が1231年頃に編纂したとされる歴史書『完史』の中ではもっと大きな数字も挙げられていて――「聖都の住民は血祭りにあげられ、フランクは一週間にわたってムスリムを虐殺した。彼らはアル=アクサ寺院で七万人以上を殺した」(引用はアミン・マアルーフ著『アラブが見た十字軍』より)。犠牲者の数をめぐって論争することにはほとんど意味はない。問題は、あったのかなかったのか。この点に関してはキリスト教徒側(↑の史料の記載に従うなら「フランク兵」側。「十字軍」はキリスト教徒側の呼称であり、イスラム教徒側では「フランクとの戦争」「フランクの侵略」などと呼んでいる)の史料でも、あった、ということになっているわけだから、虐殺はあったんだよ、厳然として。

 また、世界史においてキリスト教徒、ないしはキリスト教団が関った蛮行ということならば、こちらについても書いておかなければならない。それはインカ帝国を滅ぼすに当って彼らが果たした役割。そもそもスペインによるメソアメリカの征服事業は「ローマの法王庁からキリスト教の布教を条件に承諾されていた」(山瀬暢士著『インカ帝国崩壊 ペルー古代文明の破滅の歴史』)。これだけでもキリスト教団の責任は大と言わざるをえない。さらに1532年11月16日、フランシスコ・ピサロが第13代インカ皇帝アタワルパ(アタバリパ)を人質に取った上で行った「カハマルカの虐殺」において決定的な役割を演じたのがドミニコ会の修道士、ビセンテ・デ・バルベルデ(Vincente de Valverde)。ここは「無名征服者によるペルー征服記」(増田義郎訳/岩波書店版『大航海時代叢書』第4巻所収)より引くなら――

 そして、ひとりのドミニコ会の僧が、手に一本の十字架をたずさえ、神の御事どもを説こうとして、アタバリパに話しに出かけて行き、キリスト教徒は友達であり、総督はあなたをいたく愛しているから、会見するためにその宿所に出向いたらどうか、とすすめた。領主は、キリスト教徒がこの国中から奪い取ったものすべてを返すまでは、一歩も前に進まない。返してのちに、自分は心の欲するところにしたがって自発的に行動するだろう、と答えた。僧は、その言葉を聞流し、手にした聖書をかかげて、神の御事どもを、相手にふさわしい内容で説き聞かせたが、彼はまったく耳を傾けなかった。そして、聖書を貸せというので、僧は、それに接吻したいのだろうと思い、手渡すと、相手は手に取るなり、従者の頭の上にそれをポンと放り投げた。僧の言葉を伝えていた通訳の若者は、急ぎ足で行って聖書を拾いあげ、僧に返した。僧は戻りながら大声で言った。キリスト教徒よ、出て来なさい、出て来なさい、神の御事を軽んずるこの敵の犬めらを襲うのだ、領主はわれらの聖なる戒めの書を地面に投げつけたのだ、と。

 なんと「カハマルカの虐殺」の口火を切ったのは1人の修道士の「神の御事を軽んずるこの敵の犬めらを襲うのだ」という一声だったのだ。その後、繰り広げられた惨劇はエルサレム攻城戦のそれにも劣らない凄惨なもので、「その日戦場に残されたインディオの死者は、六、七千で、そのほかに腕を切られたり傷ついたりした者も多かった」。これほどの惨劇が1人の修道士の号令一下、行われた――。それがはたして聖職者たるもののすることなのか? と思う反面、ドミニコ会というのはこういう集団なのだろう、という気も。ドミニコ会は異端審問の審問官に任命されることが多かったとされ、トマス・デ・トルケマダなどは在職18年間に約8000人を焚刑に処したという。もう悪魔だね。ビセンテ・デ・バルベルデはそんなドミニコ会所属の修道士だったのだから、↑に記されたようなふるまいをしたというのは全く不思議でもなんでもない、ということになるのかもしれない。

 ここでいささかの妄想を記すことをお許しいただくなら――史実のバルベルデは1541年にプナ島の原住民に嬲り殺しにされたそうなのだけど、ここはぜがひでも難を逃れ、そして来日して欲しかった。そして魔王・織田信長とタッグを組んで欲しかった(バルベルデは1499年生れとされるので、織田信長の生前に来日することは生物学的には可能)。長島攻めをする信長の傍らにバルベルデを配するならばきっとこれ以上ないくらいにダークな絵柄ができあがるに違いない。バルベルデがそっと信長に耳打ちするんだよ。信長様、決してあの者たちを憐れんではいけません。あの者たちは神を軽んずる犬めらでございます。信長はその囁きにうむと首肯いて……。信長が伊勢長島や越前で演じた狂気の沙汰がなぜか大目に見られてまるで近世の扉を開いた革命児だったかのように語られ続ける奇怪な状況(信長が近世の扉を開いた革命児だなんて、とんでもない。彼こそは「暗黒の中世」そのものだよ。織田信長やトマス・デ・トルケマダやビセンテ・デ・バルベルデといった化け物が生きていた時代を「中世」と言うのだよ)に一石を投ずるという意味でもこんな歴史改変SFが妄想されたっていいんじゃないですかね。織田信長が伊勢長島や越前でやったことは、十字軍がエルサレムでやったことやフランシスコ・ピサロがインカでやったことに勝るとも劣らない蛮行。そういうことを織田信長の信奉者に悟らせる必要がある……。

 ――と、こんな妄想を抱かせるくらいにはキリスト教の歴史にはおぞましいエピソードが詰まっている。亀谷凌雲はこうしたキリスト教の血塗られた歴史に向き合った上で、それをよしとしたのだろうか? かつて信長からエルサレムの民やインカの民と同じような仕打ちを受けた〝異教徒〟の末裔として当然、言うべき言葉があるはずだと思うのだけど……。『仏教からキリストへ』を読めば、亀谷凌雲が『聖書』に心酔し、その魅力をあの手この手で読者に伝えようとしていることは了解できる。しかし、その『聖書』を聖典として戴くキリスト教という宗教、ないしはその伝道集団であるキリスト教団のことは何もわからない。十字軍によるイスラム世界への攻撃やメソアメリカ文明の破壊に手を貸したという血塗られた過去から浮かび上がるキリスト教の非寛容で攻撃的な本質(ちなみに、かつて『裁くのは俺だ』と宣言してみせた私立探偵がいた。その名はマイク・ハマー。ファーストネームのマイクは「大天使聖ミカエル」、セカンドネームのハマーは「鉄槌」を意味する。つまり、マイク・ハマーとは「大天使聖ミカエルの鉄槌」という意味。〝キリスト教的正義〟が孕む病理が極限まで増幅されたかたちでそこには描かれていた……)と彼はどう向き合い、どう乗り越えたのか? それが語られない限り、どんな「如来」も見えてこない……と、気がついてみれば、アレだな、ワタシがつらつら書き連ねてきたのって、『余は如何にして基督信徒とならざりし乎』……?