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それは下衆の勘ぐりというものです、井上さん。
〜井上ひさしの「幻の新選組小説」を読む②〜

 もう少し『熱風至る』について書きたい。まず『同時代批評』のインタビューでインタビュアー(岡庭昇&高橋敏夫)がこんなことを言っている――「近藤が幕府へ出兵するときに弾左衛門から兵として多くの人間を借りますね。井上さんの小説の中では、それは、つまりおなじ被差別民としての共同体意識から志願したんだ、と描かれている……。あれは何の資料ですか」。この「近藤が幕府へ出兵するとき」というのがよくわからない。それは、浪士組に参加するとき? でも、その際、近藤が弾左衛門から兵を借りたという事実はないんですよ。そういう事実があるのはいわゆる「甲陽鎮撫隊」(なお、この隊名については疑問がある。初出は明治32年発行の『旧幕府』第3巻第7号に掲載された「柏尾の戦」ですが、これがいろいろと内容に問題があって……。ただ、新選組の後援者で甲州勝沼の戦いにも「春日隊」を組織して参加した佐藤彦五郎が記した「佐藤彦五郎日記」に「鎮撫隊」と記されている他、永倉新八が明治8年頃に記したとされる「浪士文久報国記事」にも「慎〔ママ〕撫隊」と記されており、少なくとも「鎮撫隊」と名乗っていたことは裏付けられるので、本稿では慣例に従って「甲陽鎮撫隊」とします。もっとも、後述するような理由で若干の躊躇を覚えないわけではなく……)を組織して甲府に出兵した際。このときは確かに弾左衛門から兵を借りた。だから、このときのことを言っているのだろう――と、このインタビューを読んだときには思ったんだけれど、今回、念願かなって『熱風至る』を読むことができて、物語がそのはるか前で終了(中断)となっていることがわかって、あれ? だったら「近藤が幕府へ出兵するとき」って、いつのこと? そして、「被差別民としての共同体意識から志願した」って、何のことを言っているの……?

 これについては、正直、なんとも言いようがない。もしかしたらインタビュアーの単純な勘違いかもしれない。インタビュアーが1974年1月から1975年12月まで全102回に渡って連載された小説を通読していたとは限らないので。そうだとすると、ずいぶんいい加減な話ではある。ちなみに、井上ひさしの答は――「江戸時代の日本橋で晒し者になったりなんかする人たちにちょっと興味がありまして、そっちでぶつかった資料なんです」。ちょっと質問と答が噛み合っていないような。まあ、ねえ、書いてもいないことを取り上げて「あれは何の資料ですか」と問われてもなかなか答えにくいでしょう……。ただ、そう思う一方で、もし『熱風至る』の連載が中断されることがなく、1976年1月以降も続行されていたとしたら、いずれは甲州勝沼の戦いに話が及んでいたことは確実で、小説が近藤勇と弾左衛門の関係性に最大の力点を置いて書かれている以上、甲州勝沼の戦いがハイライトとなっていた可能性は大。その場合、近藤と弾左衛門が「同じ階級の出身だった」という小説の基本設定を踏まえるなら、弾左衛門が「被差別民としての共同体意識から(甲陽鎮撫隊に)志願した」という描写になっていた可能性もやはり相当に大きいと見ていいでしょう。もしかしたらインタビュアーはその「可能性」を「事実」と勘違いしちゃったのかもしれないなあ……? まあ、とりあえずこの件はそういうことにしておきましょうか。その上で、こっからはその甲陽鎮撫隊について。おそらくは井上ひさしが(連載が中断されることさえなかったら)相当の熱量を注ぎ込んで書いていたであろう甲陽鎮撫隊について――。実はね、甲陽鎮撫隊というのは、新選組を題材とした小説などでもほとんどまともに描かれたことがないんですよ。子母澤寛の『新選組始末記』にしてもそうだし、司馬遼太郎の『燃えよ剣』にしてもそう。どこか奥歯に物が挟まったような感じで。その理由は、ただ1つ、甲陽鎮撫隊には弾左衛門配下の被差別民が兵卒として動員されているからだよね。このような場合、この国ではどうしても禁忌の力が働く。子母澤寛の『新選組始末記』なんてその典型でしょう。で、永年、ワタシが『熱風至る』を読みたいと思っていたのは、そんなタブーとして敬遠されがちが甲陽鎮撫隊について真っ正面から描いているに違いない――と、そう思ったからで。結果的にこの期待は空振りに終ったわけだけれど、今回、こういうかたちで『熱風至る』を読んだことは、ワタシなりに甲陽鎮撫隊に向き合うきっかけとしては十分。『熱風至る』というのはそういう小説ではありますよ。そういう、非常な企みに満ちたね……。

 ということで、こっからはワタシが『熱風至る』という小説に触発されて甲陽鎮撫隊に向き合った結果報告というのかな。ま、ワタシなりに調べたり考えたりしたことを整理するという意味も込めてね。まずは『熱風至る』下巻に収録されている「参考文献一覧(抄)――井上ひさし旧蔵書より」で「近藤勇の基本設定はこの本に拠る。特に弾左衛門との関係等に傍線」とされている八切止夫著『新選組意外史』(番町書房)からこんな一節を紹介しよう。井上ひさしが近藤勇の基本設定を同書に拠っている(というのは、あくまでも井上恒氏の見立てですが、それぞれの本の記載内容を突き合わせれば、そういう見立てには十分な合理性がある)以上、これはまた井上ひさしの見解であると見なしてもさほど筋違いとは言えないと思うのだけれど――

 のち、近藤勇が弾左衛門家の協力により、
「甲陽鎮撫隊」をつくって甲府へ攻めこみ、大敗して引きあげてきたのを、この間の昔からの繋がりがこれまで解明されていなかった為に、
「近藤勇ともあろう者が、窮余の一策とはいえ非人などと組んだのが失敗のもとだった」と史家はとくが、先祖代々近藤勇の生家や腹心井上弥三郎〔ママ〕の家は弾左衛門家支配である。

 この内の「先祖代々近藤勇の生家……は弾左衛門家支配である」というのは何の根拠もないことは「ぞわっとして、頭は湖のなかほどまで飛んでいった。〜井上ひさしの「幻の新選組小説」を読む①〜」に書いたので繰り返しません。ここでの注目は、その前。「近藤勇ともあろう者が、窮余の一策とはいえ非人などと組んだのが失敗のもとだった」という下り。これがどこぞの史家が言ったり書いたりしたことの引用なのかどうは判然としませんが、そういう見方をする向きもないではないでしょう。ただ、八切止夫が書くのとは別の意味で、そういう見方は間違っているのだ。というのも、弾左衛門が配下を出兵させたのは甲州勝沼の戦いが初めてではないのだから。ここは原田伴彦著『被差別部落の歴史』(朝日新聞社)(ちなみに「参考文献一覧(抄)」にもこの書はリストアップされており、井上恒氏による「弾左衛門の動き、剣客の出身に関する記述等にチェックが入っている」というコメントが付されている。「剣客の出身に関する記述」というのはおそらく147ページから148ページにかけての部分だと思いますが、ざっとこんな感じ――「たとえば幕末の名高い剣客といわれるものをみると、そのおもなものは庶民の出身です。斎藤弥九郎は越中の百姓の子であり、千葉周作は陸南の田舎医者の家からでています。周作の師匠である浅利義信は下総の浅蜊売りの漁民です。三千石とりの男谷清一郎は浅草の金持の座頭の家の出でした。勝海舟の父も米山検校という盲人の子でした。近藤勇や土方歳三はいずれも武州多摩郡の百姓の小倅でした」。近藤・土方を「百姓の小倅」とするこの記述を井上ひさしはどう読んだのだろうか……?)より引くならば――

 征長戦争で、幕府は、江戸の弾左衛門の配下のものを軍夫として利用しようとしました。弾左衛門もこの機会をとらえて幕府に恩を売ることによって、その地位を上昇させ、身分解放を実現しようとしました。そこで慶応二年には幕府の征長軍に五百人の軍夫をさしだして大阪へ送りました。
 このとき九月ころ、弾左衛門みずからもひそかに上阪した形跡があります。彼は大阪の渡辺村を通じて、摂津、河内、播磨一帯の部落民を、歩兵人足、鉄砲組に編成し、長州行き人足に動員しようと工作しました。ただしこのことは摂津などの部落の反対にあって実現しませんでした。

 弾左衛門が自ら上阪した形跡があるってんだから、その意気込みたるやハンパではない。それもそのはずで、この慶応2年の征長戦争(いわゆる「第二次長州征伐」)というのは幕府として敢行したオペレーションなんだから。それに参加するということは、とりもなおさず、幕府の戦争に参加するということ。「穢多」として、永年、四民の外に置かれてきた彼らが、軍夫としてとはいえ、〝晴れの舞台〟への参加を認められたわけで、それはやる気にもなるでしょう。そして、実際に弾左衛門は(直接的な理由としては)この征長戦争への協力を賞され、慶応4年1月29日、平人(平民)へと引き上げられている(従来、ウィキペディアでは、この日付については1月16日とされておりましたが、東京大学史料編纂所の「維新資料綱要データベース」では「旧幕府、長吏弾左衛門を編して平人と為す。弾左衛門、乃ち内記と改名す。」として1月29日の出来事としているので、ワタシの責任で修正しておきました)。だから、部落解放の歴史を振り返った時、この慶応2年の征長戦争への参加というのは間違いなく1つのマイルストーンをなすものと言っていいでしょう。で、甲陽鎮撫隊への参加というのは、その延長上にあるものなのだから、当然のことながら、その意義も「第二次長州征伐」への参加の延長で捉えるべき。要するに、それは被差別民の「身分解放」に向けた戦いの一環だったと。それが全く以て正当な見方のはずで、「近藤勇ともあろう者が、窮余の一策とはいえ非人などと組んだのが失敗のもとだった」なんて、一体どこを突いたら出てくる台詞なのかと。もしどうしてもっていうんなら「徳川家茂ともあろう者が、窮余の一策とはいえ非人などと組んだのが失敗のもとだった」ということだって言わなければならないでしょう、「第二次長州征伐」当時、将軍として大坂城で陣頭指揮を執っていたのは他ならぬ徳川家茂なのだから。さらに言えば「毛利敬親ともあろう者が、窮余の一策とはいえ非人などと組んだのが失敗のもとだった」ということだってね。というのも、慶応2年の征長戦争(長州側の史観では「四境戦争」)では長州側も被差別民を戦力として利用しているので。やはり『被差別部落の歴史』より引くなら――

 長州藩では、幕府に対抗し、百姓、町人の勢力をも結集した「奇兵隊」を中心とする諸隊を編成して戦いました。この諸隊は力士・僧侶・漁夫・猟師も参加しますが、藩ではさらに進んで部落民をも動員しました。
 奇兵隊はこの数年前の文久三年(一八六三)、英・米・仏・蘭の四カ国艦隊の下関砲撃事件という長州藩の危局にあたり、高杉晋作らが階級身分をこえて編成したものです。このときかねてから部落民の諸隊編成に着目していた吉田稔麿の献策で、同年七月に部落民の軍事登用令がだされました。それは部落の志願者のうち、強壮のもの、勇気のあるもの、早道のもの、才気あるものをえらび、一村およそ百軒に五人という割合で、「えたの名目」をのぞき、帯刀と胴服着用をゆるすものでした。

 ちなみに『熱風至る』の「参考文献一覧(抄)」には奈良本辰也編『明治維新人物辞典 幕末編』(至誠堂)もリストアップされており、井上恒氏による「吉田稔麿が未解放部落民の軍隊編入を建議した頁を折り込んでいる」というコメントが付されている。井上ひさしがこうした長州側の動きにも注目していたことを裏付ける事実と言っていいでしょう。ともあれ、被差別民を戦力として利用しようという動きは、幕府側にもあったし、長州側にもあった。近藤勇が甲府に出兵するに当たって弾左衛門配下の約200人(人数については諸説あり。200人というのは『新選組始末記』に書かれている数で、文末には(永倉翁遺談)とあるので、永倉新八の証言ということになるんだけれど、ただその永倉新八が大正2年に『小樽新聞』のインタビューで語ったところによると、弾左衛門の配下でフランス式の調練を受けたのは子母澤寛が書いているような200人ではなく100人。また勝沼に着いた時点で総員を点呼したところ「馬丁をあわせてわずかに百二十一人、この小勢をもって雲霞のようにおしよせる官軍に対抗すべくもあらぬ」云々。また永倉新八のインタビューと並ぶ重要史料である『島田魁日記』には江戸出発時点での陣容として「近藤勇隊長、土方歳三副長同士凡百有余人ヲ以テ甲府城ニ向フ」と書かれており、どうやら総勢でも200人に足らなかったというのが本当のところらしい。しかし、子母澤寛の影響力はそれほど大きいということか、新選組発祥の地である調布市発行の『調布市史』でも「急遽集めた二百名の兵を引き連れて」と書かれていて、200人というのがほぼ定説化している)を兵卒として従えたのは、もう完全にその延長上の出来事なんですよ。だから、それが「窮余の一策」だったと卑下することも間違っているなら近藤家と弾家の特別な関係を裏付けるものであるかのように拡大解釈するのも間違っている――と、そういうことをまずは押さえておきたい。

 その上で――つーか、にもかかわらずかな?――この件が今ひとつスッキリしない印象を与えるのは、弾左衛門の配下が甲陽鎮撫隊に参加することになった経緯を裏付ける史料がほとんど存在しないことなんですよ。これは、たとえば「四境戦争」において長州が被差別民を軍事登用したケースとの大きな違いで、こちらの場合はあらかた史料も残っている。また、部落解放の研究分野ではこれもまた(あるいは、これこそは?)部落解放の歴史における重要なマイルストーンという受け止めのようで、いくつかの興味深い論文も書かれている。ここではその1つである前田朋章「幕末における長州藩部落民諸隊の活躍」(『部落解放研究所紀要』40号)に即して記すこととするなら、発端は↑の引用部分にも記されているように吉田稔麿の建策(ただし、建策時点ではまだ吉田稔麿とは名乗っておらず、初名の吉田栄太郎のまま。吉田稔麿と名乗るようになるのはこの建策が採用され「屠勇取立方」に任ぜられて以降。それにしても、なんで「稔麿」? 「屠勇取立方」というお役目と「稔麿」というお公家さん然とした名前の間にはなにか非常に複雑な心理的ファクターが横たわっているような気も……?)。その意見書は現在、残っていないそうだけれど、その概要を示す書簡が残っており、これを読むとなかなかでね。なかなかの……ボリューム(この「ボリューム」とは、当時の吉田栄太郎の熱量に見合ったものでありましょうから、ここは「ボリューム」を「熱量」と読み替えていただいても結構で……)。その全文を紹介するのは骨が折れるので、その冒頭部分のみをここに書き出すなら――

先日蕪稚の草稿一冊、九市迄差出候処、豈不図執事之内密差出申候由、汗顔の至奉存候、乍去主意におゐて毫も相違仕候無之、偏に兵数を増候儀に御座候、愚存に八方今兵数定額巨多候得共、精選候時ハ実ニ言甲斐もなき有様に御座候、依て早々沙汰被為成、実用に適し候様御配慮肝要奉存候、され共其弊に至りてハ農時を奪ひ重ね候気方には参り兼可申と存候、右の場合ニ候得は農は減少スベカラズして、兵亦益々増加すべし、左候に依て浮食の徒を沙汰するより外ニ方策無之、浮食大抵軟弱不可用ニ候、僧侶山伏虚無僧陰陽師卜巫等之類ハ、政教厳明漸を以民心に徹底候様取計、気長く御導き候ハゝ、無難に本ニ反り御役ニ相立可申候、先日御覧の書中に申上候穢多生之儀ハ、是迄良民ニ不歯、多年欝屈罷在、宦(官か)の御用も候ハゝと、相待ち願居内情推察すへき儀奉存候、追々農兵御取立顔ニ御世話被為在候得共、農民等ハ大ニふはづみにて難儀ニ心得居候哉ニ風評も有之由候、依て農兵員数被為減、穢多抔兵ニ被取立、右兵粮少々充農より被為取候ハゝ一挙両利之御計ひと奉存候……

 もうね、昔の日本語ってなんでこんなに難解なのかと。これを一発で現代日本語に変換してくれるAIがあればなあ……。ただ、そんなことも言ってられないので、ここは頑張って解釈するならば、先日の草稿、入江九市に差し出したところ、思いがけず内密(藩上層部?)に上程されたようで、汗顔の至りに候。さりながら、わが意に違うところは1つもなく、思うのは偏に兵数の増員についてである。藩では今、八方手を尽くして兵を召集し、数だけは相当なものとなっているが、精選すれば使いものになるのはどれほどもいないだろう。そこで早々に何らかの手を打つ必要があるが、農民を無理に取り立てれば農業に差し障りが出ることにもなりかねず、農業に弊害が出ないよう兵を増員するとなると浮食の徒を沙汰するよりほかはなく、大抵は軟弱で使いものにならない。僧侶・山伏・虚無僧・陰陽師・卜巫などは政教分離を厳格にし、時間をかけて鍛えればそれなりに役には立つだろうが、即応性に欠ける。先日、ご覧いただいた書中にも記したように、穢多はこれまで良民に屈従を強いられ、多年の鬱屈が溜まっており、御用となれば喜んで応ずるはずだ。藩では既に農兵を取り立て、訓練されていることは承知しているが、農民らはふはづみ(ふまじめ?)で難儀されているとの風評もある。そこで農兵の数は減らし、代りに穢多を取り立て、農民からは兵粮を取り立てれば一挙両得となるのではないか……。まあ、こんなところだと思います。ポイントは、「穢多生之儀ハ、是迄良民ニ不歯、多年欝屈罷在」という部分だろうね。実は吉田は同じ書状の中で「穢多非人を永久屈服セント欲セバ、今ノ時に当リ速ニ兵卒ニ御仕立アルニ若クハナシ」とも書いており、被差別階級に鬱積したエネルギーみたいなものを脅威に感じていたこともうかがわせている。そして、そのエネルギーを押さえ込むのではなく、むしろ利用すべきである――というのが、この建策のキモ、ということになるのかもしれない。それは、なかなかだと思うんだよ、そんなふうに被差別階級に鬱積したエネルギーが胎動することを感じとっていたというのはね。そして、そうした彼の見込みは相当程度、当たっていたんだよね。それは、この建策が採用されて実際に組織された部落民部隊の戦いぶりから見てとることができる。長州藩が藩内の被差別部落に対し兵士登用を初めて布達したのは文久3年7月10日だそうですが、そうして結成された部落民部隊の1つに「維新団」というのがある(なお、従来、長州で組織された部落民部隊は「屠勇隊」という名称で語られてきたそうですが、『防長回天史』などにも「屠勇」という言葉は出てくるものの「屠勇隊」という名称は出てこないそうです。長州で組織された部落民部隊の名称として確認できるのは「茶筅中」「維新団」「一新組」などだそうです。こういうことをちゃんとしておくというのはとても重要だと思います。そういう意味では「甲陽鎮撫隊」も史料で確認できる「鎮撫隊」と呼ぶべきなのかもしれないなあ……?)。この「維新団」が「四境戦争」の芸州口戦線で実に勇猛果敢な戦いぶりを披露したことが同戦線の長州側の指揮官だった河瀬安四郎の6月19日付け報告書に記されている。ここは末松謙澄著『修訂防長回天史』より引くなら――

……且又維新團之働驚眼事に御座候右に付小銃大砲にて打留候事は幾十人と云ふ事不知乍倂死人之多少は閣責入候て不遂候故戰ひ先つは五分々々とも可申歟

 なお、念のためということで書き添えておくならば、かくも特筆すべき活躍を見せた「維新団」の生みの親とも言ういうべき吉田稔麿は、この「四境戦争」があった慶応2年の時点ではもうこの世にはいない。元治元年6月5日の池田屋事件で自刃したとも討ち死にしたとも言われている。『明治維新人物辞典 幕末編』の吉田稔麿の頁を折り込んでいたという井上ひさしはこの吉田の死をどのように描くつもりだったのだろう……? ともあれ、こうして長州が被差別民を軍事登用した経緯はその狙いまで含めて相当程度、明らかになっていると言っていいのだけれど、一方の徳川方はというと、これが全然と言っていいくらいで。慶応2年の征長戦争のケースについては「維新資料綱要データベース」でもヒットしない。慶応4年のケースについても同様で、多分、裏付けとなる公的な史料なんて存在しないんじゃないのかなあ。ひいてはこのことが甲陽鎮撫隊をめぐってあらぬ憶測を生む理由となっているとワタシは思うんだけれど、とはいえ一応は当事者の証言というのはあって、それが永倉新八が大正2年に『小樽新聞』のインタビューで語った内容、ということになる。このインタビュー、『小樽新聞』に全70回に渡って連載されたものですが、昭和2年、永倉新八の13回忌を記念して子息の杉村義太郎氏によってまとめられ『新撰組永倉新八』(私家版)として刊行されている。ここではその復刻版である『新撰組顚末記』(新人物往来社)をテキストとしますが、ただ『小樽新聞』に連載されたオリジナルと照合すると相当の「改竄」が認められるらしい。2013年に刊行された『新選組奮戦記』(PHPエディターズ・グループ)の「はじめに」で編者の菊地明氏がそうお書きになっています。『新選組奮戦記』はそうした「改竄」が施される前のオリジナルで、本来ならばこちらをテキストとすべきなんだろうけれど、あえて『新撰組顚末記』をテキストとするのは、こちらは『熱風至る』の「参考文献一覧(抄)」にもリストアップされているため。つまり、井上ひさしが読んでいるわけですよ。井上ひさしがどうこの件を理解したのかということを探る上でもあえて不完全な『新撰組顚末記』をテキストとする次第ですが――さて、永倉新八は『小樽新聞』のインタビューでどう甲陽鎮撫隊の結成経緯を語ったかというと――

 ここに江戸浅草の新町に団(弾)左衛門あらため矢島(野)内記とて特殊部落の大頭目とたてられる世間のほかの一大勢力家があった。かれが一言はじつに全国にわたる部落の十万人をたたしめにたるものがある。そこで薩州ではかれを侍にとりたてるとの評判があったので、幕臣の松本順が機先を制し、「旗本に推薦する」といっててなずけた。内記はおおいに喜んで、「このうえはいかなることがあっても幕府のご用をうけたまわる」と約したので、松本はただちに手続きのうえ御目見得以上にめしいだされ御書院組に列せられて時服拝領までおおせつけられ、破格の待遇をうける身となったので、内記からはおん礼として金一万両を献ずる。ついで同人は乾児百人をえらんでフランス式の調練をうけしめた。そこで松本はこの歩兵を新撰組に付属せしめようと近藤勇にはかった。
 しかるに近藤は甲州城を自分の力で手にいれここに慶喜を移そうとする計画をたてていたので、一兵でもほしいときであったからさっそくこれを承諾した。そしてこの計画は慶喜の内諾をうけてあるので近藤は一日新撰組の役付すなわち副長土方、副長助勤の沖田、永倉、原田、斎藤、尾形、調役の大石、川村等を呼びあつめて右の計画をうち明け、首尾よく甲州城百万石が手にはいらば、隊長は十万石、副長は五万石、副長助勤は三万石、調役は一万石ずつ配分しよう。ただしこの一事は隊の運命のつながるところであるから、隊長一存では決しかねるので各位の意見をうけたまわりたいというと、一座は無条件で賛成した。

 これを読む限り、弾左衛門の配下を兵卒として動員するというのは松本良順(引用文中にある「松本順」とは明治4年に従五位に叙せられた後に名乗った名前。一般的には――つーか、ワタシなんかには松本良順の方がしっくり来る。「東武皇帝」即位説の真相をめぐる〝ペーパー・ディテクティヴ〟を繰り広げた際もこの人の昔語りにはずいぶんお世話になったものですよ……)のアイデアだったことになる。しかも、ここで語られていることには一定の信憑性があることは他の文献によって裏付けられるんだよね。というのも、当の松本良順が『蘭疇自伝』で概ね↑の証言内容に沿ったことを書いているのだ。いささか長くなるので、ここは松本良順が薩州の機先を制して弾左衛門に働きかけたという下りのみを紹介するなら――

……干時(ときに)浅草山谷町の町医に富士三哲と云う者あり。常に弾左衛門(穢多が頭)が家に出入す。一日来たり告げて曰く、薩邸に潜匿集合せる浪人等、近来弾左衛門が家に来たり説いて曰く、汝が祖先は鎌倉右府の遺子にして、由比ヶ浜の長吏たり。然るに何ぞ、江戸幕府の下に屈従し、禽獣視せられ、甘んじて公衆の軽蔑を受け居るや。方今我が薩州侯、大将として外国人を鏖殺し、幕府を顚覆し、上天子を奉戴し、下万民を撫育し、日本の神国たる稜威を海外に輝かさんとす。速やかに我儕に従い、共に尊王の義挙を扶けよと。これを口実とし脅迫して黄金を貪らんとす。初めはこれらの言をさのみ意とする者もなかりしが、近来配下の中にややその義に同じ、事を共にせんとする者あるが如し、と。予これを聞くや、怫然憤慨に堪えず、将軍膝下の地、奴輩をして跳梁に任かすとは何事ぞや、と。すでにしてまた謂(おも)えらく、世に穢多の臭名を付し、これを四民の外に置くことはすこぶる天理に背けり。ひとしく人なり。何ぞこれを人外視するの理あらんや。これ畢竟奴輩をして藉りてかくの如き言をなさしめる所以にして、幕府の失なり。恥辱を云わざるべからず。好し、我これを当局者に説き、その臭名を除き、彼らの脅迫を免れしめん、と。

 その後、松本良順は当時、老中格の要職にあった立花出雲守を介して弾左衛門の願書を徳川慶喜に提出するのだけれど、時あたかも幕末の風雲の只中で願書は店晒しとなったらしい。そして、鳥羽・伏見の戦いがあって、徳川慶喜は夜逃げ同然に江戸に逃げ帰るということになるわけだけれど、この段階で松本良順は密かに登城して徳川慶喜に謁見し、この件を言上したというんだね。で、こっからがね、徳川慶喜という人がタダモノではないと思わせるところで――「公曰く、在京中多事なるを以てこれを裁するの時なかりし、遅延今日に至れるは敢て怠るにはあらず、願書は今誰が手中にありやと問わる。予、立花出雲の関するところなりと答えければ、直ちに出雲を召され、明日これを許可すべしと命ぜらる。すなわち町奉行河内守より弾左衛門父子を召喚ありて、弾およびその臣の鎌倉以来従いし者六名、みな穢多の称を除き士籍に列せらるの命を伝う」。つまり、即断即決、その場で弾左衛門の嘆願を聞き入れたというのだ。これには弾左衛門は大喜びで――「弾左衛門等あたかも暗黒界より出でて天日を見るの思いあり、その喜び知るべきなり。拝命の帰途我が家に来たり、大いに謝して去りたり」。だからね、永倉新八の証言内容の少なくとも前半部分は十分に裏付けられると言っていいんだよね。ただ、弾左衛門が「このうえはいかなることがあっても幕府のご用をうけたまわる」と約し、乾児百人を選んでフランス式調練も受けさせ、それを見た松本良順が「この歩兵を新撰組に付属せしめようと近藤勇にはかった」という部分に関しては、それを裏づける記載は『蘭疇自伝』には認められない。その一方で松本良順はまだ弾左衛門の嘆願が聞き入れられる前の1月の段階で、一度、近藤勇を伴って弾家を訪れたことを明かしていて――「あたかも良し、近藤勇銃創を負うて治療のため我が家に寓せり(勇の銃創は、伏見にある日、敵、民家の楼上より狙撃し、右側の鎖骨上より上斜脊椎の傍に貫穿したる者なり。この時すでに半治癒に至れり)。共に日暮より弾の家に至り、古文書を一覧せしめ、その醜名を除去するの話をなしたり」云々。この際、弾左衛門は「従前より幕府の奸吏等、醜名を除くを名として黄金を奪いしこと数回なりしが、一も成功することなく、みな奇貨として欺かれたるのみなりし」といささか疑心暗鬼に陥っている様子をうかがわせるのだけれど「予笑って曰く、予は只一片の義心君が家のために計らんとす、何ぞ黄金を要せん、君決して心を労することなかれ、と。勇もまた側より予が為人を語り、疑惧の念なからしむ」。多分、子母澤寛が『新選組始末記』で「この団左衛門一件に端なくも近藤勇が関係し」と書いているのはこの部分を踏まえてでしょう。しかし、そうならそうとハッキリ書くべきで、「此際はその詳細を語るを避ける事とする」などと言葉を濁すものだから、あたら無用な憶測を招く結果に……。ともあれ、こうしたモロモロの記載を含めた全体的な印象としては、永倉新八が『小樽新聞』のインタビューで語ったことは、まずまず信頼できるかなと。少なくとも、その証言内容を積極的に否定しなければならない理由は何もないと言っていい。否定すべき理由が何もないのならば、信用するのが道理というものですよ。

 ――となった場合、甲陽鎮撫隊に弾左衛門の配下が兵卒として動員されたのは元幕府御典医・松本良順の進言によるものだった――ということになる。『新撰組顚末記』から読みとれるのはそういう可能性であり、それ以上の憶測(「先祖代々近藤勇の生家……は弾左衛門家支配である」という類いの。あるいは『熱風至る』から引くなら「それは勝太さんも土方さんも、それぞれのご先祖が弾家と或る関わりがあったからです」という類いの)は下衆の勘ぐりというもので――と、ここはあえて強めの言葉で井上ひさしに異議申し立てをして……。