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亡霊は甦る。
〜中浜哲、100年目の高笑い〜

 なんかね、前の記事に「何かやっていないとどうにかなってしまいそうだ。〜母恋いアナーキストのアナーキー日本映画選〜」なんてタイトルを冠した手前、それらしいことも書かなければならないという心境になっていて……中島貞夫の1969年の作品『日本暗殺秘録』で高橋長英が古田大次郎を演じている。古田大次郎、ご存知ですかねえ。一般には「ギロチン社」(他にも「反逆社クラブ」とか「東方詩人社」とかさまざまな名前が掲げられたものの、それらは単なる表看板で秘密結社としての本当の名前は「分黒党」だったという話もある。ただ、一般には「ギロチン社」で通っているので、本稿でもこの名前で押し通すこととします。確かになかなかにキャッチーではある)として知られるアナーキスト・グループの一員で、グループには他にも中浜哲(司法当局からはグループの首領と目されていた)や倉地啓司(メンバーの中では最年長で1960年まで生きて貴重な証言を残した)などがいた。このギロチン社ないしはそれを模したグルーブが登場する映画は『映画秘宝EX 鮮烈!アナーキー日本映画史1959~1979』の100選に限れば『日本暗殺秘録』だけなんだけれど(多分)、対象を100選以外に広げればもっとあって、たとえば牧口雄二の1975年の作品『玉割り人ゆき』にはギロチン社を模したと思われるアナーキスト・グルーブが登場して大杉栄の遺影の前で「せめて陸軍連隊の一つもぶっ飛ばさにゃ殺された大杉さんの恨みは晴れないぜ」(なお、その部屋は三色で飾られている。これ、ギロチン社がアジトにした家が「三色の家」と呼ばれていたことに因むんだけれど、本当の「三色の家」は藍、赤、緑。こちらはこんな感じ)。また神代辰巳の1974年の作品『宵待草』には「ダムダム団」なるアナーキスト・グルーブが登場して、交番を襲撃したり、財界の大立者の孫娘の誘拐を謀ったり。この「ダムダム団」にも実在したアナーキスト・グループであるギロチン社の影を見ることができる(ただし、1924年、アナーキスト詩人・萩原恭次郎らによって同人詩誌『ダムダム』が創刊されているので、名称はこちらに由来するものと思われる。発行母体の名称は「ダムダム会」。ちなみに、脚本の長谷川和彦は「ゴジ」というニックネームで知られているわけだけれど、沖山秀子の小説『直射日光』には長谷川和彦をモデルにしたと思われる人物が出て来て、こちらでのニックネームは「ゴジ」ではなく「ダダ」。『ダムダム』はダダイズムの雑誌でもあったので、このあたり、妙につじつまが合っているというか……。長谷川和彦はダダイストだった⁉)。さらには鈴木清順もギロチン社には強い思い入れを持っていた。鈴木清順は1967年に日活を解雇されて以降、1977年に『悲愁物語』を撮るまで、丸10年間、映画の世界から遠ざかることにわけだけれど、この間は著述で糊口をしのいでいたようなところがあって、本も何冊か出している。その内の1冊が『夢と祈禱師』(北冬書房)。1975年の刊行だから、当時、ワタシは高校生か。田舎で悶々としながら『夢と祈禱師』を読んでいた高校生……、泣けてくるな。ともあれ、そんな『夢と祈禱師』に「九月は革命の月」なる一文が収められている。なかなかのタイトルで、読む方としては身構えてしまうところですが――これがねえ、前半と後半では同じ文章なのかというくらいにトーンが異なっており、前半部分はグダグダ。ただただ、当時、鈴木清順が抱えていたのであろうクッタクの深さを思い知らされるのみ。ところが、後半は一転。さる集会で1時間23分に及ぶ大演説をぶったという話になって、その集会というのが同年9月16日に開催された大杉栄・伊藤野枝の虐殺50周年を記念した追悼集会。で、こっからが滔々というか。1時間23分に及ぶ大演説になったというのも頷ける雄弁さで。だったら最初からこの調子でやってくれよ……。しかし、なんで鈴木清順が大杉栄・伊藤野枝の追悼集会で話すことになったのか? 鈴木清順というと『けんかえれじい』に北一輝を登場させたことで知られていて、どっちかと言うとそっちの方の人という印象もあるんだけれど、あるいはこれぞ竹中労言うところの「左右を弁別すべからざる」というやつか? 彼はギロチン社にも強い思い入れを持っていた。その思いの丈をぶちまけたのがこの演説でありこの一文。いささか長くなりますが、途中でぶった切ることもならず、話に込められた熱量を知っていただくという意味であえて長めの引用をご寛恕いただくこととして――

(略)むかし私が未だ本来の仕事をしていた頃、やくざやギャングのねたに尽きて、世の無頼派を探しているうち見つけたのがアナキストからテロリストに変っていったギロチン社の連中だった。みんな二十歳前後の若者で、ギロチン社の看板をかけた家のなかは、青、赤、緑の三色の襖で仕切り、そもそも私が気に入ったのはこれで、一ぺんに彼らのロマンが分って了ったような気がしたのだが、彼らはそこで年がら年中、リヤク(ゆすり、たかり)をし、金のある間は何もしないでぶらぶらし、何時かはきっと或る要人を殺さなければならない使命感をぎらつかせていた。その頃は天皇を殺そうと話をし、成りもせぬ計画をしていた丈で大逆罪をでっち上げられ忽ち死刑であるから、余程すね者でないとテロリストにもアナキストにもなれはしなかった。そして連中の人格が今の連合赤軍の人格に見られるような画一的でないところが又面白く、一生不犯で初恋の女を想い続けて死刑になった者や、最下級の女郎に火のような恋を燃やし終身刑になった梅毒者や、母を想う歌を書き続け涙を流しながらテロを敢行した若者等々全てが特異な心情の持主なのである。勿論彼等とてアナキストになるのにはそれ相応の理由もあれば、理論も学んだろうが、彼らの残したものには理論に対する理論など一つもない。つまり俺はこの理論をどう解釈するかなど一つも云ってない。只テロを敢行し、法廷に立った時にのみ所論は云う、がそれは事をなしてからのことで、それ以前に百語、千語を並べ立てるのは理論屋、学者、今の世の批評家で、そんなことで世の立て直しが出来ぬと云っていたのは今の若者と同じで、同じでないのは同志のうちのシゴキが少しもないことである。不犯の死刑者が連中をまとめるのに苦労した話はあるが、いづれも同志を失わないようにかばい立てをしてやっている。こういう連中に理想的影響を与えたのが大杉で、而も大杉の運動(組合を中心とした相互扶助的なアナルコ・サンジカリズム)から離れ、尚且大杉が殺されるとその復讐にテロ化したのがギロチン社の連中である。明治以来膨れ上がる資本と、それに直結した軍隊、更にそれを統括した天皇という巨大な塊に向ってやった彼らの計画と実行はまことに児戯に等しい。天皇を殺そうと思っていたのが忽ちその戟先を原敬に変え、変えたままずるずるになったり、朝鮮までピストルを買いに行って朝鮮人にまんまと五万円をとられたり、資金作りに銀行の出張所を襲い、人一人殺して奪った金が七十五円だったり、大杉復讐の元凶を憲兵司令官と見て狙撃した弾が空砲だったり、間が抜けている。彼らが一生懸命やればやる程、この間抜けがついてまわるところにたまらない魅力があるのだ。コンピューターのような人間が、精密機械のように精確に事を成しとげて何の感動があろうか。女を買い酒をくらい、泣き笑い喧嘩をし無頼のような日常のなかから、せめて死ぬ時は菊の花びらを握って死に度い、という崇高な精神を燃え立たせる事が出来た若者の集団に、革命家の実際と浪漫が色濃く見えるのである。

 まだまだ続くんですが、とりあえずこの辺にしておきましょう。とにかく、熱い。あの一見、道学者ふうの風貌(これは自分で書いている――「私は一見道学者風だから素面だとバーの女の子も寄りつかない」云々)とはいかにも不釣り合いというか。でも、これもまた鈴木清順なんだね。なお、せっかくだから書いておくなら、↑で清順が「一生不犯で初恋の女を想い続けて死刑になった者」とデッサンしている人物こそは『日本暗殺秘録』で高橋長英が演じている古田大次郎。確かに若い頃の高橋長英にはそんな雰囲気があった。また「最下級の女郎に火のような恋を燃やし終身刑になった梅毒者」は和田久太郎、「母を想う歌を書き続け涙を流しながらテロを敢行した若者」は田中勇之進のこと。古田大次郎によれば、田中勇之進はテロ決行に当たってこんな歌を同志に託したそうだ――「玉の緒の絶えなむとして見開きし眼に物見えずあはれ母君」。これぞリアル「母恋いアナーキスト」というやつ……。ともあれ、こんなふうにギロチン社はわが国の映画屋さんたちのハートを鷲掴みしていたようなところがあるんだけれど、これが1980年代に入るとパタリと姿を消す。1972年当時はかくも熱くギロチン社について語っていた鈴木清順も、結局、ギロチン社をモチーフとする映画を撮ることはなかった。これは、まあ、時代との兼ね合いもあるんでしょう。60年代、70年代ならいざ知らず、80年代、90年代にギロチン社をモチーフとする映画を撮って受け容れられたかというと。だから、やむを得ざる部分もあるんだけれど……そうであるならば、最近、相次いでギロチン社をモチーフとする映画が作られていることがなんとも不穏というか。そう、2014年には山田勇男監督『シュトルム・ウント・ドランクッ』、2018年には瀬々敬久監督『菊とギロチン』とギロチン社をモチーフとする映画が相次いで作られているんだよ。この内、『菊とギロチン』はキネ旬のベストテンで2位に入るという大健闘(ちなみに1位は是枝裕和監督『万引き家族』)。さらに監督賞・脚本賞・新人女優賞・新人男優賞……と、主要部門を総なめ。また、賞には漏れたけれど、中浜哲(同作では中濱鐵)を演じた東出昌大がなかなかいいんだよ。つーか、よくやってくれたよ、東出昌大が、中浜哲を。2018年だと、まだ例の問題でバッシングを受ける前。だから、自棄のやん八で中浜哲を演じたのではなく、演じるに値する役と思って演じたんだろう、竹中労をして「最も無頼・過激」と言わしめた〝テロリスト〟の役を――。そういう骨のある俳優さんだということは、この際、ココロに留めておいていいかなと。一方の『シュトルム・ウント・ドランクッ』は世界観が特異でねえ、こういうアタマの使い方を久しくしていないというのもあって……。ただ、最後近くになって主人公・松浦エミルの役回りがわかって、へえ。要するに、一種のパラレルワールド、なんだよね? こういうのもあっていいとは思うな。ただやられっぱなしじゃ、やっぱり口惜しいもの(↓は『シュトルム・ウント・ドランクッ』に出てくる「三色の家」。こちらは史実に則って藍、赤、緑の三色でカラーリングされている。ただし、グループはアジトを転々と移しており、このアジトは話の流れから神楽坂一丁目にあったものと思われますが、だとするとまだ「三色の家」にはなっていない。ギロチン社の看板を掲げたのも神楽坂から移った戸塚町源兵衛の借家において。その後、さらに北千住牛田に移って、古田大次郎が獄中手記『死刑囚の思ひ出』に記すところによれば「藍、赤、緑の三色の紙を買つて来て、それで障子を張つた」。なお、『菊とギロチン』は、その後、さらに拠点を大阪に移して以降の話なので、そもそも「三色の家」は出てこない。でも、出したいところだよねえ、鈴木清順も「そもそも私が気に入ったのはこれで、一ぺんに彼らのロマンが分って了ったような気がした」と書いているくらいで、エピソードとしてキャッチーだもの。しかし、出さなかった。意地っ張りだなあ……。いずれにしても、ギロチン社をモチーフとする映画を紹介するに当たって一場面を切り出すとするなら、この「三色の家」にはなる)。


三色の家@シュトルム・ウント・ドランクッ

 ――と、こんな感じで、ここへ来て相次いでギロチン社をモチーフとする映画が作られている状況なんだけれど、時代の閉塞感がこんな過去の亡霊みたいなものを呼び覚ましたのは間違いないでしょう。そういう意味では、ちょうど100年かかって時代は一周した、と言えるのかも知れないなあ。しかもですね、この状況に国家権力側のある誤算(ないしは手抜かり)が関わっているとしたら――実に痛快じゃないか。というのはですね、本来ならばギロチン社というのはどれだけ時代の要請があったからといっておいそれと甦るべき種類の亡霊ではないんですよ。なぜなら、ギロチン社の事件というのは、事実上の大逆事件なのだから。これについては、多少なりともギロチン社について知っているものならばご承知かと。実際、鈴木清順も↑で引いた一文の中で「何時かはきっと或る要人を殺さなければならない使命感をぎらつかせていた。その頃は天皇を殺そうと話をし、成りもせぬ計画をしていた丈で大逆罪をでっち上げられ忽ち死刑であるから、余程すね者でないとテロリストにもアナキストにもなれはしなかった」「明治以来膨れ上がる資本と、それに直結した軍隊、更にそれを統括した天皇という巨大な塊に向ってやった彼らの計画と実行はまことに児戯に等しい。天皇を殺そうと思っていたのが忽ちその戟先を原敬に変え」――とグループの目標に「大逆」が含まれていたことを示唆している。当然、これは鈴木清順が勝手に言っているわけではなくて、ちゃんとした裏付けがある。メンバーと親交のあったプロレタリア作家の江口渙が戦後に著した回顧録で1922年頃(時期としては北千住に「三色の家」を構える少し前)、村木源次郎(大杉栄の秘書のようなことをやっていた人物。大杉虐殺後、ギロチン社のメンバーとともに大杉の復讐を果たそうとして逮捕され、予審中に病死した。大杉と伊藤野枝の長女・魔子に贈った「マコよ」という有名な詩も遺している。ちなみに『夢と祈禱師』には「物語・村木源次郎」なる一文も収録されている。鈴木清順はこれほどまでに大正時代のアナーキストたちに思いを寄せていた!)から中浜哲(同書では中浜鉄)と古田大次郎を紹介され、イギリスの皇太子に対するテロ(未遂)を打ち明けられたとして――「驚かされたのはそれだけではない。彼らふたりはそのときすでに当時の摂政の宮、いまのヒロヒト天皇暗殺の計画をもっていることまで打ちあけた。しかもそのためにテロリストの秘密結社をつくり、数名の若い決死の士まで集める目算がついている。いや、その上、この私にまでそのような秘密結社に加盟してその思想的中核になってくれというのだ。そうきり出した中浜も古田も真剣だった。思いつめているふたりの表情はそれこそが血の出るような真顔だった」(『たたかいの作家同盟記:わが文学半生記・後編』より)。ギロチン社が時の摂政宮を「運動目標」としていたことはメンバーの倉地啓司も書いている――「夕食後、奥の広間に五人集まって初めてこれからの運動目標を時の摂政宮において運動する事を話しあった」(黒色戦線社編『中浜哲詩文集』所収「ギロチン社」より)。だから、ギロチン社が時の摂政宮である裕仁親王をターゲットとするテロ計画を立てていたことは疑うべくもない。そうなると、これは歴とした大逆罪、ということなる(大逆罪では、実行は言うに及ばず、計画しただけでも同罪とされていた)。だから、ギロチン社の事件というのは、時を同じくして起きた虎ノ門事件や朴烈事件と同列に扱われるべきもの、なんですよ、本来ならばね。ところが――ここに極めて奇妙な事実があって、ギロチン社のメンバーの誰一人として大逆罪では裁かれてはいないのだ。え、ということは、司法当局がその事実を摑んでいなかった? 違う。掴んでいた。つーか、グループの中心メンバーで司法当局からは首領と目されていた中浜哲が公判でその旨を陳述しているのだ。実はメンバーの裁判は東京と大阪で分離して行われたのだけれど、中浜哲を含む大阪組の公判はすべて非公開で行われた。そして、その裁判記録も残っていない、とされていた。しかし、2007年になって事件の担当弁護士だった山崎今朝弥の旧蔵資料の中から大阪控訴院公判調書の筆写資料が発見されたのだ。これは衝撃的ですよ。しかも、その内容というのがね……。ここはその陳述の核心部分を『中濱鐵 隠された大逆罪:ギロチン社事件未公開公判陳述・獄中詩篇』(トスキナアの会)より紹介するなら――

……ソレナラドウスルカト云フ事ニ為リ、ソコデ目的ヲ現在ノ我國ノ主権者ヲ逐次暗殺シ樣ト云フ事ニシマシタ、自分ト古田トハ左樣ニ我國ノ主権者暗殺ト云フ事ヲ目的トシタノデアリマス、ソコデ天皇ハ病体デ廢疾者モ同樣デ問題トスルニ足ラヌ、先ヅ摂政ノ宮ナル皇太子ヲ遣付ケネハ為ラヌ、而カモ其結婚迄ニ遣付ケネハ為ラヌト云フ事ニシマシタ、何ント為レハ結婚セバ子供ハ直グ出来ルデシ樣カラ子供ガ出来レバ又ソレ丈ケ遣付ケルベキ目標ガ殖エル譯デアルカラデス、左樣ニ皇太子ヲ遣付ケレハ次ハ秩父宮、高松宮ト次々ニ倒サネハ為ラヌト云フ事ニシタノデアリマス、ソコデ先ヅ皇太子ヲ其結婚迄ニ暗殺シ樣ト掛ツタノデアリマス……

 もうね、ハッキリと言ってますよ、「ソコデ先ヅ皇太子ヲ其結婚迄ニ暗殺シ樣ト掛ツタノデアリマス」と。さらに中浜はこんなことも陳述している――「ソレカラ目標物ノ名前ヲ皇太子ヲ息子ト呼ブ事ニシマシタ、天皇ハオヤジ、皇后ハオフクロトシマシタ、息子ニハ常ニ皇太子ヲ第一号ノ息子ト呼ヒ次ヲ第二号第三号ト呼ブト云フ事ニシマシタ」。実にリアル。しかし、ここまで具体性のある陳述がなされながら、なぜか事件は大逆事件として裁かれることはなかった。ね、奇妙でしょ? これについて自らも事件に連座して懲役1年の実刑判決を受けた逸見吉三が1976年に上梓した『墓標なきアナキスト像』(三一書房)で彼なりの見解を示しているので紹介しておきましょう(同じようなことは秋山清著『ニヒルとテロル』にも記されておりますが、やはりグループの一員だった人物の言葉の方が重みがあるでしょう。ただし、『ニヒルとテロル』は1968年の刊行で、逸見吉三の見解は秋山清の見解の受け売り的なところがある。もっとも、秋山清は逸見吉三とも面識があったようなので、『ニヒルとテロル』に書いたのは逸見吉三の見解を代弁したもの、という可能性もなきにしもあらず? いずれにしても、両者はほぼ同じことを自著に記しているということで……)。第5章「詩人であったテロリスト」の最後でメンバーそれぞれに下された罪刑を紹介するに当たって「ギロチン団関係裁判は、東京と大阪にわかれて行なわれ、それぞれ次のような刑をうけた。その罪名は、殺人・強盗・爆発物取締規則違反、その未遂・教唆・脅喝などで、まったく大逆罪などにふれていないにもかかわらず、実質的にはまさに極刑にちかい重刑であった」とした上で、注釈として――

これについて、後年の倉地の回想談に「……公判廷で腰かけている自分の前を通るとき、挨拶するかっこうで古田が『ムスコのことは言うな』と言った。大阪でつかまった時、警視庁刑事三人に護送されたが、東京への車中『質問されぬことは何も云うな』と奇妙な注意をうけたのはそのことか、とムスコ〔摂政宮〕の意味をすぐ了解した」虎の門事件にひきつづく大逆事件の頻発はもうたまらぬ、という当局の政治的配慮があり、古田、中浜にしても、他の同志に関連を及ぼしてはという考えがあって一切口をつぐんだということが真実であろう。

 この文章が書かれた時点ではまだ大阪控訴院公判調書の筆写資料は発見されていない。だから「古田、中浜にしても、他の同志に関連を及ぼしてはという考えがあって一切口をつぐんだということが真実であろう」という記載となっていることをお断りした上で――注目は、その前段。つまり、「虎の門事件にひきつづく大逆事件の頻発はもうたまらぬ、という当局の政治的配慮があり」という部分。この見方が正しいのかどうかは何とも言えません。ただ、大逆事件というのは、それだけで政権が吹っ飛ぶような重大事だった。実際、虎ノ門事件では時の山本権兵衛内閣が総辞職している。だから、時の権力が「虎の門事件にひきつづく大逆事件の頻発はもうたまらぬ」という心境にかられるということは、客観的にはありえた。だから、そういう可能性も大いにありうるとここでは想定するに止めて――いずれにしてもギロチン社の事件は大逆事件として裁かれることはなかったわけですよ。このことが、事件から100年という時を経て、思いがけない影響を及ぼすことになる。そう、それこそはギロチン社をモチーフとする映画が相次いで制作されるというここ数年の状況。これがね、100年前の司法判断がもたらしたものであることは間違いない。もし仮にギロチン社の事件が大逆事件として裁かれていたとしたらこういう状況には絶対になっていなかった。事実、虎ノ門事件や朴烈事件をモチーフとする映画は作られていない。いくら時代が閉塞感を強めようが皇室への大逆を容認するような民情は今の日本にはない。でも、ギロチン社の事件は大逆事件ではないんだよ。それは、当時の司法の判断として、そうなんだよ。だったら、作ったっていいんじゃないの? と映画屋さんたちが思ったのかどうかは知らない。知らないけれど、多分、そういうことなんじゃないかなあ。ちなみに『シュトルム・ウント・ドランクッ』では中浜哲(演じているのは寺十吾という俳優兼演出家。なんでもtsumazuki no ishiなる劇団を主宰されているそうです)がイギリス皇太子の暗殺を企図して果たせなかったという顚末は(かなり戯画化したかたちで)描かれていますが、摂政宮の暗殺を計画していたことは台詞としても出てこない。まあ、当時の司法判断に従えば、そういうことになるわけだから。一方、『菊とギロチン』では中浜哲の台詞として「オレは決めたぞ」「天皇なんか問題じゃない。あんなのといのちのとりかえっこをしてちゃ、こっちのいのちがもったいねえ」「摂政だ、皇太子だ。そうすりゃオヤジなんてびっくり仰天で二度と起き上がれやしないぞ」(ちなみに、これとほぼ同じ台詞が江口渙が『たたかいの作家同盟記:わが文学半生記・後編』に先立って書いた『続・わが文学半生記』に出てくる。ただし、こちらでは「天皇なんか問題じゃないよ。あんな脳梅毒。あんなものといのちのとりかえっこをするんじゃ、こっちのいのちがもったいねえや」――と「あんな脳梅毒」という一言が挟まっている。大正天皇が脳梅毒だというのは、当時、大衆レベルで囁かれた噂話のようで、ここは竹中労&かわぐちかいじ作『黒旗水滸伝』より引けば――「時代はテロリストを呼ぶ。小野武夫『近代日本農業発達史論』によれば、大正八、九年ごろから、〔屡々天皇の行状として聴くを欲せざる流説〕が、巷間につたわった。すなわち、天皇は脳の病いで、宮中をフリチンで歩いているなどという痴言である」。中浜哲はそうした噂話も持ち出した上で――「うまく息子さんの方をやりさえすれば、オヤジなんか、きみ、びっくり仰天して、ううんと引っくりかえったきり、のびてしまうにきまっているさ」。これをほぼそのまま東出昌大に言わせている)。これはねえ、攻めてますよ。しかも、攻めた上で、キネ旬では2位に入ったってんだから、これはこれで痛快だよ。きっと中浜哲はあの世で快哉を叫んでいるんじゃないかな。そして、もっともっとやってくれよ、と。それについては、国がお墨付きを与えてくれているんだから――と、100年越しのアイロニーに込み上げる笑いを噛み殺しつつ……?