中浜哲が「高笑い」なら、こっちはどうだろう。まあ、せいぜいが「苦笑い」ってところかなあ……?
山田勇男監督『シュトルム・ウント・ドランクッ』であがた森魚演じる甘粕正彦は軍事法廷でとんでもないことを言っている。曰く「国家のための貢献とはもっとたくさん殺すことであります」。これ、なかなかのサプライズ案件でね。ワタシが親しんできた世界線では甘粕正彦はこんなサイコパス然とした人物としては造形されていない。むしろ、その正反対で、たとえば竹中労は『黒旗水滸伝』(皓星社)で「ソ連軍の国境越えを聞くや、さっさと内地に逃げ帰った関東軍の将帥や、満州国政府の日系幹部と比べて、すくなくともこの人には、おのれが賭けたもの、置かれた状況に対して、誠実であろうとする高潔な魂があった。彼がたとえ大杉殺しの下手人であろうと、みごとに過激な人生をつらぬき、完結したことにおいて、甘粕正彦は決して不尽ではなく、五十四年の下天の夢を生きた英雄であったと、京太郎は評価するのであります」。また笠原和夫も『昭和の劇:映画脚本家 笠原和夫』(太田出版)で「あれは本当は麻布の第三連隊かな、そこの兵隊が殺してるんですよ。その兵隊をかばって甘粕正彦が罪をかぶったんですよ。甘粕さんっていう人は非常に人望があったみたいですね」。
通説では、というか、軍事法廷の判決では、甘粕正彦は大杉栄・伊藤野枝殺害の主犯にして橘宗一殺害の従犯とされているわけだけれど、そうした通説ないしは軍事法廷の判決に抗して彼らは甘粕正彦を〝免罪〟し、あまつさえ竹中労に至っては「五十四年の下天の夢を生きた英雄であった」とまで書いているわけだよ。それが「大杉殺し・甘粕ではナイ」という信念に発したものであり、加えて甘粕が満洲映画協会(いわゆる「満映」)理事長として国内に居場所を失った映画人たちを積極的に受け容れた(『黒旗水滸伝』の記載に従うならば「木村荘十二、内田吐夢、小川正、八木保太郎、鈴木重吉、異木草二郎といった、錚々たる左翼映画の闘将が、満映に勢ぞろいをした」)、ということに対する〝恩義〟もあって、必要以上にこの人物に対して同情的になっている――と、ワタシの理解ではね。ただ、だからと言って、「彼がたとえ大杉殺しの下手人であろうと……五十四年の下天の夢を生きた英雄であった」とまで言い切りますかねえ。それはいささか擁護の度を超えている……。ただ、まあ、「思想に自由あれ。しかもまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ」(「僕は精神が好きだ」)だからなあ、と、ここで大杉栄を持ち出すのはどうなんだろう? と思いつつも、そういうことで自分を納得させていたわけですよ(一応、ワタシ、竹中労を深く敬愛しておりますので。実は、一度だけだけど会ったこともある。ワタシがケチな編プロでライターをやっていた頃で、ホントにもうこんなことで貴重な時間を割いてもらうなんて申し訳ないようなつまんない案件でコメントを頂戴することになって新宿から東京駅に向うタクシーの中で話を聞くことになった。ただ、タクシーの中だけでは取材が完了せず――ワタシが盛り上がっちゃったので――東京駅の喫茶店でもう少し話を聞くことに。そして、取材が終わったタイミングで持参した本を取り出してサインしてもらった。まあ、取材よりも、半ばこっちが目的だったようなもので……)。しかし、もうそんな忖度めいたことは、一切、必要がないということなのか、『シュトルム・ウント・ドランクッ』では甘粕正彦はサイコパス然とした人物として造形されている。思えば、2022年にNHK BSで放送された『風よあらしよ』でも音尾琢真演じる甘粕正彦は憎々しいことこの上ないヴィランぶりを発揮していた。あれを見た時には、もう血圧が上がってねえ。コイツ、絶対に許さんと……(ちなみに『シュトルム・ウント・ドランクッ』で中浜哲を演じいてた寺十吾が出ているということで白石和彌監督、香取慎吾主演の『凪待ち』を見たら音尾琢真も出ていて、おい、中浜、今がチャンスだぞ! こっちの甘粕は全然弱そうだぞ……。ま、まったくの余談です)。
でね、やっぱりダメだって。竹中労の主張にはムリがある。竹中労は「大杉殺し・甘粕ではナイ」って言うわけだけれど、確かに甘粕正彦がその手で大杉栄の首を絞めた、ということは、ほぼないと言っていいと思うよ。そう断言する根拠は1976年に明らかになった田中隆一軍医大尉による「死因鑑定書」(全文は1984年に黒色戦線社から刊行された『改造』1923年11月号「大杉栄追想」の復刻版で読むことができる。個人向けデジタル化資料送信サービス限定という条件付きながら国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧可能)。甘粕正彦が予審訊問で供述した殺害の状況(「私が大杉榮の腰かけて居る後方からその室に這入つて直ちに右手の前腕を大杉榮の咽喉部に當て左手首を右手掌に握り後ろに引きましたれば椅子から倒れましたから右膝頭を大杉榮の背骨に當て柔道の締め手により絞殺致しました」「大杉榮は如何なる譯であつたか絞殺する際少しも聲を發しませんでした」)がこの〝時の娘〟が明らかにした大杉栄の遺体の状況(「右側第四肋骨ハ乳腺上ニ於テ左側第四第五肋骨ハ其軟骨部トノ境界ニ於テ何レモ完全骨折ヲ有シ軟骨部僅ニ陥入セリ」。鑑定書では「鑑定ノ総括」としてその原因を「頗ル強大ナル外力(蹴ル・踏ミツケル等)ニ依ルモノナルコトハ明白ナル」と断定している)と著しく整合性を欠いており、とても甘粕が真実をありのままに述べているとは見なせないこと。明らかに彼はウソをついていた。甘粕の主張というのは、一言で言えば、すべては自分の胸先三寸から出たものであり、組織的な背景はない(「大杉の捜索検束は全然隊長に報告せず絞殺するのも私一個の考へで致しました」)、というものなんだけれど、彼が軍事法廷でウソをついた、ということは、事実はその逆で、実態としては、組織的な背景はあり、彼は事件を自分のレベルで食い止めるためにやってもいないことまでも自分の所業にして、それで事件の一件落着を図ったんですよ。そこは竹中労が書いている通りだと思う。しかし、それは事件の真相を闇に葬るということであって、そのことに決定的な役割を果たした彼の罪はきわめて重いと言わざるを得ない。ワタシはね、甘粕正彦がその手で大杉栄の首を絞めていないとしても、その罪を許そうなどという気にはどうしてもなれないんですよ。甘粕正彦は、紛れもなく、やつらの一味なのだから。大杉栄を殺め、伊藤野枝を殺め、まだ7歳になったばかりだった橘宗一をも殺め、あろうことか彼らの遺体を古井戸に投げ捨て煉瓦や馬糞(!)で覆い隠すなどという畜生の所業を行なった連中の一味――、そんなオトコを許そうなどという発想はこのワタシのうつしみからは生まれてこない。それよりも、軍が軍事法廷の決定として甘粕正彦を大杉栄・伊藤野枝殺害の主犯にしてかつ橘宗一殺害の従犯と認定したのならば、それに従って粛々と復讐すべきなのだとさえ。要するに、甘粕正彦の弟を襲った田中雄之進は、断固として正しい、と。あのさ、なんで田中雄之進が懲役8年で甘粕正彦は懲役10年なんだ? 田中雄之進は甘粕正彦の弟・五郎を襲いはしたが、警護の警官に阻止されて擦り傷さえ負わせることができなかった。それで懲役8年。一方の甘粕正彦は(軍事法廷の判決では)大杉栄と伊藤野枝を殺した上に憲兵隊本部の兵らが橘宗一を殺すことに「黙示」を与えた。それで、懲役10年。しかも、そのわずか10年の刑期さえ満了せず、恩赦に与って2年10か月で放免となった。おかしいだろ! この状況でワレワレにできることと言えば、このオトコの名誉を徹底的に貶めること以外にない。だから、やるべきなんだよ。そして、『シュトルム・ウント・ドランクッ』はそれをやった。『風よあらしよ』もやった。かくいうワタシも、今、この記事でやっているつもり。そして、もっともっとやるべきだ。え、「すくなくともこの人には、おのれが賭けたもの、置かれた状況に対して、誠実であろうとする高潔な魂があった」? チッ。どーでもいいんだよ、そんなことは。こちとら満映理事長の甘粕正彦ドノにはなんの恩義も感じておりませんので。
――と、これじゃあ、苦笑いしてんのは、甘粕正彦じゃなくて、竹中労かな? でも「思想に自由あれ。しかもまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ」。きっと竹中労なら苦笑いしつつもこんなやんちゃな言い草を許してくれる(はず)……。
笠原和夫への言及が疎かになっていたので、取り急ぎ要点のみ書いておくと――笠原和夫が言っているのは「麻布三連隊説」と呼ばれるもので、文献上での初見は荒畑寒村が1960年に上梓した『寒村自伝』(というタイトルの本は1947年にも刊行されていますが、今日、『寒村自伝』と云えばこちらの版を指す)と思われますが、それは次のような聞き取りによるものだった――
自由な体となってから、私は一日、多年世話になっている池田藤四郎氏を訪うて、大杉は麻布の歩兵第三連隊の営庭で将校から射殺されたのが、真相だという話を聞かされた。
『しかし、甘粕は公判廷で、自ら扼殺したことを認めているじゃありませんか。』
私がそう反問すると、池田氏は断乎としていった。
『それは君、甘粕が罪をひっ被っているのだよ。僕の甥は麻布三連隊の中尉だが、この話はその甥が現場を目撃して僕に語ったのだから、間違いはないよ。』
私は扼殺か銃殺か、屍体を見た者に聞けば判然とすると思って、三人の遺骸を引取った服部浜次君にただしてみた。しかし、服部の答えたところは、
『そんな事がわかるものか。何しろ大小三つの棺が引渡されたが、死骸はもう腐爛していて石灰で詰めてあったから、実は大杉らの死骸であるかどうかさえ、確認されやしなかったんだ。』
今となっては真相は知る由もないが、大杉らを虐殺したのが軍部である事実に変りはない。
また、ここには記載がないものの、荒畑寒村が池田藤四郎から聞いた〝大杉殺害の真相〟にはもう一段の味付けがなされていて、実はそれを根拠に寒村翁は「麻布三連隊説」に「一点の疑い」を抱きつづけていたという。今度は角田房子著『甘粕大尉』(中公文庫)より――
荒畑は池田を信用している。池田が作り話をするはずもなく、彼の甥がデタラメをいったとも思われない。したがって荒畑は池田の語る〝大杉殺害の真相〟を信じたのだが、しかし初めてこれを聞いた時から現在まで一点の疑いを残し続けている。それは中尉の目撃談の中の「殺されると知った大杉は、膝まずいて助命嘆願をした」という個所である。荒畑の知る大杉は、そんなことのできる男ではない。死地に追いつめられればいっそう虚勢を張り、傲然と銃口の前に立った――としか想像できない。
荒畑寒村という人は、いわゆる〝アナボル論争〟の中で大杉栄とは袂を分かつことになったわけですが、それでも大杉栄という人物は認めていて、彼の知る大杉は跪いて助命嘆願するような男ではない、と。とはいえ、「事件当時、大杉は一人ではなかった。伊藤野枝と幼い甥・宗一のために、誇りも見栄も捨てて助命を願った――とも考えられる」と↑の記事は続いていて、この辺は人間としてなかなかに誠実だよね。袂を分かった人間ではあるけれど、なんとか想像力を駆使してその死の真相に迫ろうとしている(あるいは、死の瞬間に寄り添おうとしている)わけだから。で、そんな寒村翁の思いは報われた。寒村翁は「扼殺か銃殺か、屍体を見た者に聞けば判然とすると思っ」たと書いているわけですが、1976年に発見された田中隆一軍医大尉による「死因鑑定書」が正にその疑問に答えてくれているわけですよ。では、「死因鑑定書」では大杉栄の死因をどう記しているかというと――「本屍ハ頚部ヲ鈍體ヲ以テ絞壓セラレ窒息急死セシモノナリ」。要するに、「扼殺(窒息死)」であると。こうなると寒村翁が池田藤四郎から聞いた「歩兵第三連隊の営庭で将校から射殺された」というのは、全くのガセ、ということになる。そもそも、大杉らの遺体は麹町区大手町一丁目一番地(現在の千代田区丸の内一の一)の東京憲兵隊本部内の古井戸から発見されている。麻布三連隊の営庭で射殺された大杉らの遺体がなぜ東京憲兵隊本部内の古井戸に? これに関しては久しく相当に奇抜な〝仮説〟が取り沙汰されていたようで、これも角田房子著『甘粕大尉』より引けば――「麹町憲兵分隊に連行された大杉らを麻布三連隊の一部将校が奪取し、射殺した。これを知った戒厳司令官はじめ責任者が善後策として、戒厳司令部と憲兵隊が一切をかぶることで軍全体への責任の波及を防ぐこととし、遺体を憲兵隊本部に運び、甘粕が罪を一身に引き受けた――というものである」。しかし、角田房子は冷たくこう言い放ってこの〝仮説〟を否定している――「当夜、憲兵司令部にいた石田乙五郎大尉をはじめ誰も〝三連隊の一部将校が乱入〟などという騒ぎを知らない」。というわけで、笠原和夫が挙げた「麻布三連隊説」はもう考慮に値するものではなくなっているわけだけれど、にもかかわらず未だに「麻布三連隊説」に固執しているというね。で、2人のインタビュアー(荒井晴彦&絓秀実)もそのことを指摘しない(なお、念のために書き添えておくなら、『昭和の劇:映画脚本家 笠原和夫』は1999年7月から2000年11月にかけて行われたインタビューを元にしている)。これは問題ですよ。「お説御尤も」で相槌を打っているだけではインタビュアーの仕事は果たせませんよ――と、実はこういうことを書くのはこれで2度目(1度目はこちら。例のワタマサの死をめぐる一件)。どーもこの本とは相性がよくないなあ……。ともあれ、もう「麻布三連隊説」は考慮に値するものではなくなっている。にもかかわらず未だに「あれは本当は麻布の第三連隊かな、そこの兵隊が殺してるんですよ。その兵隊をかばって甘粕正彦が罪をかぶったんですよ」。その理由をセンサクしてみるに、多分、これって映画屋さんならではなんだろうなあ。その点では、竹中労と同じ。彼らは甘粕正彦を「憲兵分隊長の甘粕正彦」ではなく「満映理事長の甘粕正彦」として見ている。じゃなきゃ、こうは言わんでしょう――「甘粕さんっていう人は非常に人望があったみたいですね」。で、そんなの知ったことかよ! と、拙サイトのオーナーは言うわけで……。