もうね、ずーっとキング・クリムゾンを聴いてんだ。夏はキング・クリムゾンに限る。ムカシからそう思っていたけれど、今年は特にそうだな。母を亡くして1人となった真性「21世紀のスキッツォイド・マン」がイカれ狂う夏……。
さて、少し話は戻るんだけれど、「亡霊は甦る。〜中浜哲、100年目の高笑い〜」で大正時代のアナーキスト・グルーブ「ギロチン社」ないしはそれを模したグルーブが登場する映画があるとして、こんなことをうだうだと――「神代辰巳の1974年の作品『宵待草』には「ダムダム団」なるアナーキスト・グルーブが登場して、交番を襲撃したり、財界の大立者の孫娘の誘拐を謀ったり。この「ダムダム団」にも実在したアナーキスト・グループであるギロチン社の影を見ることができる(ただし、1924年、アナーキスト詩人・萩原恭次郎らによって同人詩誌『ダムダム』が創刊されているので、名称はこちらに由来すると思われる。発行母体の名称は「ダムダム会」。ちなみに、脚本の長谷川和彦は「ゴジ」というニックネームで知られているわけだけれど、沖山秀子の小説『直射日光』には長谷川和彦をモデルにしたと思われる人物が出て来て、こちらでのニックネームは「ゴジ」ではなく「ダダ」。『ダムダム』はダダイズムの雑誌でもあったので、このあたり、妙につじつまが合っているというか……。長谷川和彦はダダイストだった⁉)」。えー、最後は全くのザレゴトであります。ともあれ、1924年に創刊された『ダムダム』という同人詩誌があって、奥付(はこちらでご覧いただけます。かの有名なまんだらけのオークションで落札価格が50,000円だったとは……これは結構なバーゲンだったと言っていいのでは? 前橋文学館だとか、限られた場所でしかお目にかかれない〝ミュージアム・ピース〟だと思うので……)には13人の同人名が列挙される中、その筆頭に記されているのが萩原恭次郎で、事実上、この人が同人代表だったと言っていい。で、この萩原恭次郎は古田大次郎らギロチン社のメンバーとは浅からぬ因縁があった。というのも、萩原恭次郎の遺された詩の中には古田大次郎に言及したものや中浜哲に捧げた(と思われる)詩もあるのだ――
市ケ谷風景
お偉い方々の眼には市ケ谷刑務所も歪んで変てこな存在として宙に聳える
俺達には帝国大学とそんなに変つてうつらない
各工場も各職場も各学校もむしろ監獄より暗くいん惨と言へないか
物凄い部厚い灰色の壁
高々とめぐつてる下を通つてゆくと異様な悪臭と親しさと敬虔な心が起きて来る
俺の握つた札は十一号で手ヤニに光つてる
控所には髪毛のバサバサした女の背でキャラメルをしやぶり乍ら肩を飴とよだれでよごしてゐる男の子供の赤い顔
断髪女 おめかけさんらしい女 男達のいろいろの眼が眺めてゐる
暗い胸を面会にワクワクさせてゐるらしく子供に語つてる女
俺は蝶や菊の花を愛してゐた古田君が此処でやられたのだナと思つてゐると
何だか古田君のお墓参りに来た気がする
(略)
これは『萩原恭次郎全詩集』に収められた1編ですが、巻末の「萩原恭次郎作品年譜」によれば、1931年の作品。とするなら、ちょうど第二詩集『断片』が刊行された年。で、この『断片』には古田大次郎とともに福田大将暗殺を目論んだ労働運動社の村木源次郎に捧げられた詩も収められているし、古田と並んでギロチン社の中心メンバーだった中浜哲に捧げられた(と思われる)詩も。それらはまさに「断片」と呼ぶしかないこんな詩なんだけれど――
断片 4
明るい空も激越の目には暗い 鉄の固まりのやうに燃えてゐる
我等の手に帰つて来た友は それは死体であつた
血肉の友よ ふかく眠れ!
わが意志よ ぎりぎりと目覚め来たれ
一切の文句はすでに絶たれたのである。(村木源次郎に)
断片 5
空に心臓の肉片がある
もうすつかり黒く星のやうにこびりついてゐる
誰も一人 空高きギロチーヌに黙々と死を迎へて行つた彼を忘れてゐる。(古き同志に)
「断片 5」の方は、名指しはされておりませんが、中浜哲の辞世「彌生空ギロチン高し霞みゆく黒蝶ぞ我れ散る花に舞ふ」を重ね合わせれば、「古き同志」とは中浜哲のことを言っているのは明らかでしょう。だからね、多分、萩原恭次郎は、ギロチン社や労働運動社のメンバーとは面識があったんだと思うんだよ。『ダムダム』の発行母体が「ダムダム会」であったことは最初にも記した通りですが、奥付には発行所としてその「ダムダム会」と併記するかたちで南天堂書房と書かれており、その南天堂書房2階のカフェは「洒落た文学者だとか、詩人だとか、画家だとか、音楽家だとか兎に角一風変つたヤヤこしい人間の多く来る所だ」――と、これは古田大次郎の獄中手記『死の懺悔』の一節。古田大次郎はこの南天堂2階のカフェを村木源次郎や和田久太郎らとの密会場所としていた。それにはそれなりの理由があって、南天堂書房の所在地は東京市本郷区駒込東片町105番地。で、そっから目と鼻の先の本郷区駒込片町15番地に労働運動社があった。従って、南天堂2階のカフェには労働運動社ゆかりのアナーキストらが屯する一方、南天堂本来の客筋である作家や詩人らも屯しており、ここに「文化の交叉点」とも称される人的交流が生まれることになる。萩原恭次郎がギロチン社や労働運動社のメンバーと面識があったというのは、だから至って自然なことなんだよね。
その上で、こういうことを指摘した人がこれまでいるのかどうか知りませんが――萩原恭次郎の第一詩集『死刑宣告』は古田・中浜に捧げられた可能性もあるのでは? 『死刑宣告』の刊行は1925年10月18日。古田大次郎に死刑判決が下ったのは1925年9月10日。死刑執行は10月15日。また中浜哲も1925年5月5日の3回公判で死刑が求刑されている(5月28日、無期懲役。その後、検事控訴により開かれた控訴審では中浜から重大な供述がなされたことは「亡霊は甦る。〜中浜哲、100年目の高笑い〜」に記した通り。かくて1926年3月6日、一審判決を覆す死刑判決が下り、4月15日、執行。彼が「大さん」と呼んで誰よりも信頼することを隠さなかった最愛の友・古田大次郎からちょうど半年遅れの執行だった……)。そんな中、『死刑宣告』は刊行されているわけだけれど、当の萩原恭次郎は『死刑宣告』初版の「例言」でこんなことを書いている――「この詩集の命題は、最初「恭次郎の脳髄」とした。またスタイルも四六倍版、全アート紙に四號組みにする筈であつたが、思ふ所あつてそれらはみな變更された」。なんでそんな変更がなされたのか? それは、刊行の直前に彼が「同志」と信じる古田大次郎に死刑判決が下され、あろうことか急ぎ足で執行まで行ってしまったという、この息を呑むような事態に対する彼なりのリアクションだったのでは? オレは、断固、彼らに寄り添うと……。
ワタシが、今、萩原恭次郎に入れ込んでいる最大の理由がこの点にあると言っていい。まあ、だから、この人に対するワタシの採点はどうしたって甘めになる。そのことを正直に打ち明けた上で、もう1コだけこの詩人をめぐって書いておこうと思うんだけれど……萩原恭次郎は、晩年、謎に満ちた詩を遺した。いや、「謎に満ちた」というのはいささか表現として微温的すぎるか。端的にいえば、その詩ゆえに萩原恭次郎には「転向詩人」というレッテルが貼り付けられることになったと、そう言っていい。で、このところ、ワタシ、その詩をめぐって、あーでもないこーでもない。何を隠そう、その詩をプリントアウトしていつも持ち歩いているような状態なんだけれど……まずは読んでもらいましょうか。それは、こんな詩である――
亜細亜に巨人あり
かつて神話の世界に住みゐたる太古の巨人は
今 亜細亜大陸の泥地に歴史の鉾を羽として飛びゆく。
巌石の扉あらばそれを開けん
大河あらばそれを渉らん
山嶽と森林の彼方民族の移動する行手に
血なき田畑はゆれ鳴動すれど
砕くべきものを砕き
建設すべきものを建設すべく
巨人はその大望を成就せん。
今ぞ秋風寒き大別山山脈は声をひそめ、長江の波白くそよげど
祖業の指さす道を今日程深く知る日また無かるべし
東洋は新しき東洋たらんともがき
世界はその思想を激しくふるはせ
歴史はその倍の頁をつくりたり
われらこの新頁の一人として新世界をたがやさん
日本列島秋深く
紅葉と菊花盛り 塩の飛沫に濡れをれども
巨人は眦を決し鉾を握り民族の歩みを凝視む
山霧深きところ東洋の源に座し
大御親神の心もて凝視めて立てるを見よや。
これを「反動的民族主義意識の濃厚な詩」とした上で「ぼくらを唖然とさせた」と書いたのが萩原恭次郎とともに『ダムダム』の同人に名を連ねていた岡本潤。両者は1923年創刊の『赤と黒』でも仲よく同人として名を連ねていたので、言うならば「同志」ということになる。その「同志」から「ぼくらを唖然とさせた」と――。確かにね、そう言いたくなるのもわからないではない。この詩が書かれた前年(1937年)には後に「泥沼」と称されることになる日中戦争(しかし、そう考えるとスゴイな。萩原恭次郎は冒頭で「亜細亜大陸の泥地に」と書いているわけだけれど、この戦争がほどなく「泥沼」と形容される様相を呈しはじめることを予知していた?)が盧溝橋の一撃を奇貨として開始されており、そういうね、今風に言うならば「力による現状変更」を目論んだ動きに詩人という立場からエールを送っていると、そういう見方ができますよね。それは、つまり「反動的民族主義意識の濃厚な詩」ということにはなるわけだけれど、その割には、というのかな。この詩には「反動的民族主義意識の濃厚な詩」と決めつけるのを躊躇わせる、いささか風変わりなところがある。そこがねえ、気になっているところで……
要するにですね、読もうと思えばこの詩をある種の英雄譚として読めないこともないと思うんだよ。だってさ、「かつて神話の世界に住みゐたる太古の巨人は/今 亜細亜大陸の泥地に歴史の鉾を羽として飛びゆく」だよ。これって、完全なる英雄叙事詩の世界観ですよ。さしずめイメージとして浮かぶのは北欧神話『スノッリのエッダ』なんだけれど、とするならば諫山創の『進撃の巨人』とも世界観としてはそんなに遠くないということになる(諫山創は『進撃の巨人』のネタ元が北欧神話であることを認めている)。ところが、世の見方は違っていて、今度は萩原恭次郎よりも少し遅れて1924年に詩壇にデビューした秋山清の意見を紹介することにしましょう。この筋金入りのアナーキスト詩人は「アナキストの転向」(『反逆の信條』所収。元々は思想の科学研究会編『共同研究 転向』のために書き下ろされたもの)でこの詩を分析して「天皇の存在を仰ぎ認める日本主義に変貌し得た」。でも、それはどうだろう。そういうリクツでこんな北欧神話を連想させるような文体が採用されていることを説明できますかねえ。そもそも、この詩に描かれた「巨人」が天皇のことだとしたら――秋山清が件の論文でいちばんのこだわりを見せたのがこの点で、最終的に彼は「萩原の自主自治の精神がなお圧殺されずに残っていたとすれば」という前提付きで「統治者としての日本天皇とこれに対立するものとしてではない日本民族を一丸とした「巨人」を描いたのであろう」と結論付けている。仮にそのような解釈が正解だとしても――世の日本主義者からは大目玉を喰らうことになるでしょう。だって、神武天皇は空なんて飛びませんよ。いや、それ以前の問題として、天皇は記紀では「巨人」としては描かれていないじゃないか。『先代旧事本紀』の異本で江戸時代に作られた偽書とされる『先代旧事本紀大成経』では神武天皇について「身の長、一丈五寸、身の太さ一囲五寸、頭に両の角を有生し、三寸、猶雪のごとく、尻には龍尾有り、長さ六咫四寸、尾の背に大鱗有り」(宮東斎臣編『鷦鷯伝 先代旧事本紀大成経』より)とまるで怪物のような記載となっておりますが、こんなのは文化が爛熟を極めた江戸期ならでは。『古事記』でも『日本書紀』でも神武天皇はそんなふうには描かれていない。記紀というのは、ギリシア神話や北欧神話に比べると意外なくらい真っ当。そんな「空飛ぶ巨人」とか出てこないんですよ。要するに↑の詩はおよそ記紀の世界観からはかけ離れている、ということになるわけだけれど……それで「天皇の存在を仰ぎ認める日本主義に変貌し得た」? むしろワタシはそれとは真逆に近いのものをこの五感で感じる。この詩を書いた時点でも萩原恭次郎はまだ「日本主義」にはなじめずにいたに違いない。じゃなきゃこんな北欧神話を連想させるような文体で「時局」をデッサンしたりはしませんよ。彼は1938年という死の間際にあっても(萩原恭次郎は1938年11月22日に亡くなっており、「亜細亜に巨人あり」は第一書房発行の月刊誌『セルパン』12月号に掲載された)依然として「日本主義」が幅を利かすこの世の異端児でありつづけていた……と、こんなことをね、キング・クリムゾンを聴きながら考えているということで……。