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キング・クリムゾンを聴きながら③

 いやー、オモシロイわ。ロバート・フィリップは「キング・クリムゾン」とは「バアル・ゼブブ(Baʿal Zebûb)」(ヘブライ語で「蝿の王」の意味で、ウィリアム・ゴールディングの有名な小説のタイトルにもなった。ただ、元々は「バアル・ゼブル(Ba‘al Zəbûl)」という語だったとかで、この場合の意味は「気高き主」。ロバート・フィリップが言っているのもこちらの意味、かな?)の同義語だと説明しているそうなんだけれど、名付け親のピート・シンフィールドはそれを否定していて――「うっかりそう言ってしまった可能性はあるが……そうじゃないんだ(Despite the possibility that I may have flippantly have stated it to be so. . . it is not.)」。では、なんで「キング・クリムゾン」と名付けたかというと――「切羽詰まって「クリムゾン・キングの宮殿」から取ったんだ(Granted that the NAME was taken from ITCOTCK in a moment of pressured panic.)」(以上、出典はこちらです)。案外、真相ってそんなものかもね。ただ、オモシロイと思うのは、この〝対立〟がキング・クリムゾンのリーダーとしてその資産価値の維持にも余念のないロバート・フィリップとそんなことには恬淡としているピート・シンフィールドの人柄の違いを表わしている――ように受けとれること。ワタシはね、キング・クリムゾンが過度に神格化されないためにもピート・シンフィールドの証言は、十分、重視されるべきだと思うなあ。もっとも、この件がこれから書こうとすることにどれだけ関係があるかといえばはなはだ不安ではあるんですが……。

 さて、「亡霊は甦る。〜中浜哲、100年目の高笑い〜」を書いて以来、ずーっと気になっていることがあって。それは中浜らが結成した秘密結社の本当の名前は「分黒党」だったという件。一般には「ギロチン社」として知られているわけだけれど、これは、まあ、看板を掲げていたというんだから、ダミーであることは明らか(秘密結社が堂々と看板を掲げてその存在を世間に知らせるはずがない)。他にも「自由労働者組合」とか「反逆社クラブ」とか「東方詩人社」とかアジトを変えるたびに新たな看板を掲げてはメンバーを集めて――あるいは、入れ替えて――いたことが中浜の大阪控訴院公判陳述によって裏付けられるのだけれど(中浜はそうすることによってメンバーをふるいにかけていた、という趣旨のことを述べている)、これらもすべてダミー。で、これらとは別に(おそらくは「東方詩人社」という看板を掲げていた頃に)秘密結社として結成された団体があって、その名前が「分黒党」だった、というのが倉地啓司の証言から裏付けられること――「僕達の団体名に付いては種々出たが、帝政ロシア当時の農民運動の団体に農民に国土を分ち与えよという意味の分国党という結社があった。またその当時、黒いベエールを分かち与えたテロリストの結社黒分党というのがあった。二つを組合せて分黒党と名づけたのは中浜一流の考え方であった」(黒色戦線社編『中浜哲詩文集』所収「ギロチン社」より)。もっとも、この倉地の証言もいささか怪しいところがあって。というのも、中浜哲とともにグループの中心メンバーだった古田大次郎は獄中手記『死刑囚の思ひ出』で「分黒党」の出典が煙山専太郎著『近世無政府主義』という本であることを明かしているのだけれど、それを読むとちゃんと「分黒党」というのが出てくるんだよ。1879年、ロシア・ナロードニキの秘密結社として名高い「土地と自由」が過激・温和の二派に分裂することになったとして――「此二派の一は旣に記せるが如く政治的兇行主義を採りて民意黨(ナロドナヤ・ヲルヤ)と號し、首都のサペルネー街に於て祕密活版所を設け、機關『民意』を發行し、其事務員として男員クェトコヴスキー、ブッフ、ツッカーマン、マルチノヴスキー及女員エンゲニーフィーグネル、イワノワ、グリアスノワなり。モロゾフ之を總裁す。一は社會革命的扇動主義による者にして分黑黨(チェルネ・ペレドユエル)と稱し、雜誌『分黑』(貴族の領土たる白土に對する農民の黑土を分配せんことを求むるの主義)を出版す」。だから、倉地啓司が言っているように「分国党」と「黒分党」を組み合わせて「分黒党」と名付けた、というのは、ちょっとね。まあ、何十年も前の記憶を探り探り書いているわけだから、多少の記憶違いはあっても。ともあれ、1923年の某日、おそらくは北千住の「三色の家」で秘密結社「分黒党」は結成された。

 で、それはいいんだよ。それはいいんだけれど……なんで「分黒党」だったんだろう? というのが、ワタシの疑問で。だってさ、「分黒党」っていうのは「土地と自由」が過激・温和の二派に分裂した際に温和派が名乗った党名なんだよ。でも、中浜らは時の摂政宮へのテロルを目標にしていたわけだから。これについては「亡霊は甦る。〜中浜哲、100年目の高笑い〜」でもさまざまな証言を引きつつ立証したんだけれど、改めて倉地啓司の証言を引くなら――「夕食後、奥の広間に五人集まって初めてこれからの運動目標を時の摂政宮において運動する事を話しあった」。だったら、彼らが先蹤とすべきは「民意党」の方ですよ。この「民意党」、今日では「人民の意志」とするのが一般的となっておりますが、1879年11月の冬宮爆破事件を皮切りにツァーリに対し執拗なテロを繰り返し、1881年3月13日、遂にアレクサンドル2世の暗殺に成功した。その間にはペトロパヴロフスク要塞のアレクセイ半月堡に収監されていたセルゲイ・ネチャーエフとの間で秘密書簡が取り交わされネチャーエフの脱獄計画が進められたものの、いよいよという時になってアレクサンドル2世暗殺の絶好のチャンスがめぐってきて、自身の脱獄を優先するかアレクサンドル2世暗殺を優先するか判断を求められたネチャーエフは「皇帝を打倒せよ! 独房の奥から、ぼくの思想は君達と共に行く。ぼくに構ってはならぬ。ぼくは待てる」――と、これ、ルネ・カナック著『ネチャーエフ』(現代思潮社)に書かれていることなんだけれど、これには痺れたもんですよ。もうね、どんだけタフなんだと。そうだなあ、船戸与一の冒険小説に、時々、こういう途轍もないやつが出てくるかなあ……。ともあれ、こんなふうに過激路線を突き進んだのが「民意党」で、中浜らが時の摂政宮へのテロルを目標にしていたことを考えるなら、名乗るべきは「民意党」だったのでは? と。そもそも「分黒党」というのは黒土を分配するという意味で、その黒土とは肥沃な黒色土を多く含むウクライナから西シベリアの南部にかけての地域を指す(らしい)。そんな言葉を日本で掲げることに何の意味があるのか? 中浜哲は詩人でもあったわけだから、言葉には格別に敏感だったはずで、なぜ日本ではほとんど意味をなさない「分黒党」なんて名前を自らのイニシアチブで結成された秘密結社の団体名に選んだんだろう? と、ずーっとそんなことを考えていたわけだけれど……

 もしかしたら「分黒党」というのもダミーだったのかなあ、と。彼が本当に名乗りたかったのは「黒パン党」だったのでは? 「黒パン党」というのは中浜が大阪刑務所に収監中だった1925年12月に「中濱鐵著作集」と銘打って出版された『「祖国と自由」獄月号 黑パン(第一輯)』に出てくるもので、やれ「黑パン黨戰言」だの「黑パン黨實記」だの。いずれも独特の文字組がなされておりちょっと萩原恭次郎の『死刑宣告』に似ている。従って紹介方法に苦労するところではあるんだけれど、ここは釜ヶ崎資料センター内「趣味のA研資料室」でPDFとして公開されているものを(特に了解は得ておりませんが)画像化して紹介すると――


黑パン黨戰言

 これ、どっから読むと思う? 右端の「其他に何も言ふことはねえ!」からじゃないんだよ。左端の「俺達は俺達だア!」からなんだよ。実は↑は読みやすいように逆時計回りに90度回転して表示しているのだけれど、本の状態だとタイトル部分が上にあって最初が「俺達は俺達だア!」になる。とはいえ、読むときは↑みたいな状態にして読むわけで、これだとどうしても右から読んじゃうよねえ。でも、それだと「これが今の社會の滋養に爲らうが成るまいがそんな事は俺達の知つちやこつちやねえ!」が……。その上で、1つ耳寄りな情報を紹介するなら、秋山清著『発禁詩集』によれば、↑で「黑パン」とされているものとは、爆裂弾のことなんだそうだ。そう言われれば、化学的成分なんてものも記されているなあ……(なお、同書では↑の詩を普通に右から読んだ状態で文字化していて、「これが今の社會の滋養に爲らうが成るまいがそんな事は俺達の知つちやこつちやねえ!」は1行表示。まあ、それだと右から読んでも読めないことはないわけですが……。多分ね、中浜の真意は、まず↑のように逆時計回りに90度回転してさらに左右を反転して欲しかったんだよ。そうすると「念の爲め、左に原料の化學的成分を明示して置く」の「左」も誤植ではなくなる。『発禁詩集』ではこれも「右」に訂正していて、せっかくの野心的試みが……)。で、中浜哲は「俺達は『黑パン』製造所の職工だア!」と書いているわけだけれど、中浜の大阪控訴院公判陳述を読むとこんなのけ反るような話が出てくる――「此ノ鵠沼ノ家テ古田ト自分ノ二人ハ秘カニ爆弾製造方法ノ研究ヲシタノテアリマス、自分等ハ古田カ今迄図書館ニ通フテ得タ智識ニヨリソレト同シ量テ同シ形体ノ火薬ノ鑵ヲ色々ト作ツテソレヲ鵠沼海岸テ其擲弾距離ヤ其投擲ノ方法等ヲ研究シタリシテ頻リニ爆弾製造等ノ研究ヲシテ居タノテアリマス」。また倉地啓司もこんなことを書いている――「高島君は(略)どこかの薬学校出身なので爆薬の研究と資金面の一部担当を引受けてもらい、その助手に新谷君をつける事にした」。その倉地は広島の水力発電所や因備線の鉄道工事人夫として働きながら廃物のダイナマイトを盗んでは大阪に運んでいたというツワモノで、古田大次郎がそれを加工して作った爆裂弾を関東大震災当時の戒厳司令官・福田雅太郎大将の自宅に郵送して爆発させたことは『死刑囚の思ひ出』にも記されている。要するに、彼らは正に「『黑パン』製造所の職工」だったわけで、彼らが組織した秘密結社の名前が「黒パン党」だったとしても少しもおかしくはないでしょう。ただ、ちょっとふざけた感じはするよねえ。時の摂政宮へのテロルを目標とする秘密結社の名称がそんなんでいいのかと。まあ、ワタシ的には、ブラックジョークが効いていて、悪くはないと思うんだけれど、ある意味、詩人と一般人の感覚の違いということになるのかな? 大方の支持を得るには至らなかったんだよ、きっと。で、中浜としては不本意ながらこの第一案は取り下げ、第二案として提案したのが「分黒党」だった……。ピート・シンフィールドじゃないけれど、第一案を却下されて、「切羽詰まって」繰り出したのが「分黒党」だったという可能性もあるかな(この辺り、結構、無理矢理こじつけております、ハイ)。もちろん、この場合でも「黒パン党」が前提としてあるならば、「分黒党」とは黒パン=爆裂弾を分配する、という意味にはなるわけだよね。要するに、一応は成立する、ということ。ただ、中浜としては、やっぱり不本意だったと思うんだよ。だって、グループ名としては相当にダサいですよ。ハッキリ言って、キング・クリムゾンというのも相当にダサいんだけれど(この名前がイケてるってのは、ただの錯覚ですからね)、「分黒党」はその比じゃない。それを証明するかのように、人々は一連の事件を「ギロチン社事件」として語ることはあっても「分黒党事件」として語ることはまずない。それほど「分黒党」は受け容れられていない。ちなみに、荒畑寒村は1967年に上梓した『ロシア革命前史』(筑摩叢書)であえてこの語(Чёрный передел)を和訳せず「チョールヌイ・ペレジェール」としている。またウィキペディア日本語版にはこの語に相当するページは存在しないんだけれど、関連するページ(たとえばこちら)では「黒い割替派」と記載されている。いずれのケースでも煙山専太郎創案の「分黒党」は採用されなかったということ。それだけイケてないんだよ、「分黒党」というのは。だから、自分のイニシアチブで結成された秘密結社の名前が「分黒党」に決まったってことについては、中浜哲が詩人であったことを考えるならば、相当に忸怩たるものがあったんじゃないかと思うんだよ。だからこそ彼はどうしても出したかったんじゃないかな、『「祖国と自由」獄月号 黑パン(第一輯)』を。そして、こう言いたかったんだよ、「俺達は『黑パン』製造所の職工だア!」と。

 ということで、とりあえずこれでこの記事は成立かな。はたしてこれが「キング・クリムゾンを聴きながら」という通しタイトルの記事として相応しいかどうかは別として……。