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だからワタシは『太平記』を読んでいる。
〜オオアレチノギクの咲く頃に①〜

 いきなりでなんですが……オレはなんで『太平記』なんか読んでいるんだろう? と。実は今、今東光の『太平記』を読んでいるんだけれど、ついこの間まではギロチン社がどーの中浜哲がこーのと書いていたオトコが『太平記』を? どーなってんだ、アンタ、アナーキストじゃなかったのかよ? と、これはワタシ自身の声でもあるんだけれど……。

 ただ、ギロチン社に入れ込むワタシも『太平記』に入れ込むワタシもどっちも「本当のワタシ」なんだよね(「本当のワタシ」なるものが存在すると仮定して)。その証拠にこれまでワタシは何度か自分のことを「南朝シンパ」と書いている。実際、そうだからそう書いたわけだけれど、一方でこのオトコはアナーキストでもあるわけで(つい最近も某密林のカスタマーレビューでこんなことを書いたばかり)、これをとてつもない自己矛盾と受け止めるワタシ自身がいるわけですよ。ただね、案外、これって、簡単に説明がつくものなのかもなあ、とも。だって、南北朝時代ってのはむちゃくちゃアナーキーだから。なんたって、王朝が2つあったわけだから。つーか、実際には3つあったわけですよ、南北両朝と北陸朝――新田義貞が後醍醐天皇の第一皇子・尊良親王(注:後醍醐天皇の皇子の出生順については諸説あるそうで、護良親王を第一皇子とする説もあるようです。ただ、ここではウィキペディアの記載に従って尊良親王を第一皇子とします)と第五皇子・恒良親王を奉ずるかたちで越前・金ヶ崎城で開いたデ・ファクトの王朝。だから、もう本当にアナーキー。そう考えるならば、アナーキストであるワタシが入れ込むのも不思議はない? もっとも、これで100%納得かと言えば、そうでもないんだけどね。「北方太平記」を歯牙にもかけなかったオトコが、今さらなんで、というふうには……。ちなみに『東光太平記』(今東光作『太平記』は元々は産経新聞に連載されたもので、連載当時も最初に書籍化された時もタイトルは『東光太平記』だった)では「北陸朝」についてどう書いているかというと……どうも話はそこまで至ることなく完結しているらしいんだよ。まだ読んでいる途中なので話がどこまで進むのかもわかっていないんですが、小説の最後でも楠木正成(本作では楠正成)は生きているようなので、湊川の戦いまでも行っていない、ということになるでしょう。『東光太平記』は産経新聞に1965年1月から1968年5月まで3年以上に渡って連載されたもので、文庫本にして全4巻という大作。それでいて南北朝の動乱の全体像を描き切れていないというのは……それだけ難しい時代だということですよ。ただね、仮に話が義貞の北国落ちまで及んでいたとしても果たして「北陸朝」の樹立を怯むことなく描けていたかどうか。もしかしたら、1991年の大河ドラマ『太平記』みたいなことになっていたのでは……?

 1991年の大河ドラマ『太平記』は大河ドラマとしては稀に見る野心作で、近年の「戦国と幕末の無限ループ」と揶揄されるような偏った題材の選び方を見るにつけても、よくぞこの難しい時代に手をつけたものだと。そんな作品であっても新田義貞による「北陸朝」の樹立は「なかったこと」にされているのだ。新田義貞が両親王を奉じて北国に落ちるというエピソードは第38話「一天両帝」で描かれてはいるのだけれど、義貞一行が金ヶ崎城に入って以降のことは巧妙にスルーされている。少なくとも、その地でデ・ファクトの王朝を樹立したというふうには描かれていない(そもそもこの回の題名が「一天両帝」だからね。山根基世アナウンサーのナレーションでも――「こうして、京都と吉野に2つの朝廷ができた。当時の人は「一天両帝南北京」と称した」)。結局ね、当時、日の本が両朝分立どころか三朝鼎立というカオス状態にあったなんて「皆さまのNHK」としてはとてもじゃないけれど描けない、ということなんだと思うんだよ。それとも、学術的な裏付けが不十分である、とか? でも、恒良親王が越前で天皇の命令文書である「綸旨」を発給していたのは紛れもない事実で、ウィキペディアではその文面も紹介している。また加賀前田家収集の古文書を集成した『加越能古文書』(金沢文化協会)には「白鹿二年」という年紀を記した古文書も収められている(同じ年、南朝では「正平」、北朝では「貞和」という元号が用いられていた)。元号を定めるのは朝廷の権限であることを考えるならば、当時、北国には吉野の南朝とも京都の北朝とも異る朝廷が存立していたということ。しかし、NHK的には、描けるのは新田義貞が両親王を奉じて越前・金ヶ崎城に入るところまで、というのがこの大河ドラマ第29作『太平記』が示した現実です。だからね、今東光としてもどこまでやれたか、あるいは、やるつもりだったのか? 正直、ワタシはこの作家の作品はほとんど読んでいないのですが、若い頃は「新感覚派」として鳴らした人で……つーか、竹中労は『黒旗水滸伝』でこの人について言及しているんだよね。辻潤といわゆる「美的浮浪者の群れ」こそは同書の真の主人公であるとしてその名前を列挙――「浅草オペラの作者・獏与平太(のちに映画監督)、山犬と綽名された作家・宮嶋資夫(のちに出家)、ぶらりひょうたん高田保、奇人武林夢想庵、「罰当りは生きている」岡本潤、ダダイスト高橋新吉、放浪記時代の林芙美子、記者上りの興行師・根岸寛一(のちに満映理事)、ドヤ街の住人・寿々喜多呂九平(のちシナリオライター)、演歌師・添田啞蟬坊、明治の刺客伊庭想太郎の遺児・伊庭孝(浅草オペラの創始者)、六区のヌシ小生夢坊、不良少年・今東光」。なんと今東光は辻潤に代表される「美的浮浪者の群れ」の一員だったというんだよ。そんな作家ならば、あるいは、という気もするんだけれど……ただ、現に『東光太平記』はその前で終わっているわけだから。

 でね、ニッポンの歴史にはこんなふうに「なかったこと」にされている出来事が沢山あるんだよ。それは概ね「菊の御紋」に関わるものなんだけれど……この際だ、この件について、一席、弁じさせていただきましょう。そもそも南北朝時代がエンターテインメントの素材とされることがほとんどない。何しろ、61年の歴史を誇る大河ドラマでこの時代が描かれたのはただの1度きりなのだから(それが1991年の『太平記』)。それはおそらく皇統が南北に分裂したなんて「あってはならないこと」だからでしょう。世の「日本主義者」からしたら、それは全く以て忌むべきもので……。で、南北朝時代でさえこんな具合なんだから、それに続く「後南朝」の争闘の歴史なんてのは完全に「なかったこと」にされちまうのもムリからぬ話で。しかし、足利幕府と南朝復興を目論む勢力(その勢力、ないしは彼らが樹立したデ・ファクトの王朝を俗に「後南朝」と呼ぶ)との間では「苛烈」という言葉ではとても足りない激しい争闘が約60年(あるいは、それ以上)に渡って繰り広げられることになる。これについてはかつても書いたことがあるのだけれど、ここは改めてそのアウトラインのみを書き出すならば――正長元年(1428年)、北畠満雅(かの南朝の忠臣として名高い北畠親房の曾孫)は南朝第4代後亀山天皇の皇孫である小倉宮を奉じて蹶起。しかし、同年12月21日、岩田川の戦いで無念の討死。伏見宮家の家譜『椿葉記』に曰く「伊勢の國司打出て土岐の興安と合戰する處に。國司打負けてやがてうたれぬ。其首みやこへのぼりて四塚に懸けらる」。しかし、これくらいではへこたれないのが後南朝で、嘉吉3年(1443年)には源尊秀なる素性不明の人物(一応、史料には「後鳥羽院後胤云々」とあるものの、信憑性は?)を首謀者とする総勢300人ばかりの武装勢力が金蔵主(もしくは「尊義王」。南朝皇胤としての系譜は定かではないものの、後亀山天皇の皇弟・護聖院宮惟成親王の孫とする説が有力視されている)を奉じて蹶起、御所に乱入して三種の神器の内、宝剣と神璽を奪い去った(禁闕の変)。宝剣は後に清水寺で発見されるものの、神璽はそのまま行方不明となり、嘉吉の乱で絶家となった旧赤松家遺臣らが赤松家再興という恩賞を目当てにその「奪回」を果たした長禄2年(1458年)まで奥吉野の後南朝の元にあった。ただし、後南朝側はこの戦いで肝心要の金蔵主を失っている。後南朝側としたら痛恨の事態だったに違いない。しかし、後南朝はしぶとい(ダイハード)。ハッキリとした時期まではわからないものの、遅くとも康正元年(1455年)までには新たな旧南朝の皇胤を奉じて蹶起。その皇胤は「自天王」という王名で知られているのだけれど、系譜的な位置付けはこれまた定かではない。しかし、中原康富の日記『康富記』享徳4年2月29日の条に「南朝玉川宮御末孫」として登場する相国寺慶雲院主・梵勝であるとする説が最有力とはなっている。とするならば、南朝第3代長慶天皇の玄孫ということになる。ただ、こうしてダイハードな抵抗を続けていた後南朝ではあるけれど、虚言(ここは『赤松記』が記すところを引くならば――「赤松牢人共身の置所なく。堪忍も績かぬ事なれば。吉野殿を賴申由にて細々吉野へ參り。何とぞ赤松牢人一味致し。都を攻落し。一度は都へ御供申さんと色々申入候へば」云々)を弄して近づいてきた旧赤松家遺臣らに夜襲(時間は子の刻とされている)を受け、おそらくは応戦する間もなかったのだろう、自天王は丹生屋帯刀左衛門と弟の四郎左衛門なるものに、自天王の弟とされる忠義王も上月左近将監満吉なるものに哀れ頸を刎ねられてしまう。後南朝側からするならば、禁闕の変で金蔵主を失ったことに輪をかけた痛恨の事態。この時、彼らは三種の神器の1つである神璽を持っており、いわゆる「忠義王文書」(忠義王の花押が記された文書。後南朝関係では数少ない後南朝側の一次史料)によれば「色河郷、即(平出)先皇山緒之地也、其(平出)龍孫鳳輦、已幸大河内之(平出)行宮也、早参錦幡、可軍功」――と、堂々と錦の御旗を掲げていたことも読みとれる。しかし、旧赤松家遺臣らはそんなのお構いなしに襲いかかったということになる。徳川慶喜には到底、理解できぬ行動……。ともあれ、このあまりといえばあまりの事態に『十津河之記』では――「爰に至南朝の皇統絕て諸人暗夜に燈火を失ひし如く茫然としてあきれ居たり」。カラダは生きていても、ココロは死んだも同然――、そんなところかなあ……。で、とりあえずの南北両朝の統一を見た「明徳の和約」が元中9年/明徳3年(1392年)のことなので、ここまででざっと62年が経過しているわけだけれど、実はこれで終わりではないのだ。その余波はかの応仁・文明の乱にも及んでいて、西軍の総大将である山名宗全は後花園法皇や後土御門天皇を取り込んで優位に立つ東軍への対抗上、小倉宮の末裔とされる人物(史料には「小倉宮御末」「小倉宮御息」と記されているものの、本当に小倉宮の末裔なのかは疑問も。一応、小倉宮は第3代の教尊で絶家したとされているので)を陣営に迎え入れることを画策、陣営内の利害調整に手こずりつつも文明3年(1471年)8月に正式に京に迎え入れられた。『大乗院寺社雑事記』文明3年閏8月9日の条によれば「京都西方に新主上取り立て申さるると云々(京都西方ニ新主上被申取立云々)」。この「西陣南帝」とも呼ばれる人物が、その後、どうなったのかは実はよくわからない。森茂暁は『闇の歴史、後南朝:後醍醐流の抵抗と終焉』(角川選書)で「「南帝」はあっというまに消えうせる」「あまりにもあっけない「南帝」擁立劇の終幕だった」としているものの、いかにも表現が漠然としすぎている。ただ、以後は各地を放浪することになったのは間違いないようで、しかもその足跡は当地にも及んでいる。壬生(小槻)晴富(室町時代のエリート官僚で、大覚寺統を正統とする『神皇正統記』を批判して持明院統を正統とする『続神皇正統記』を著した)の日記『晴富宿禰記』の文明11年(1479年)7月11日の条として「南方宮、今時越後越中次第国人等奉送之、著越前国北庄給之由」。実は、これが「西陣南帝」の消息を伝える最後の史料。これを最後に「西陣南帝」は歴史の闇に消えた、ということになる。だから、これまでが後南朝の争闘史と捉えるならば、その期間はざっと87年ということになる。もうね、尋常ならざるしぶとさですよ。こうした尋常ならざる争闘史が完全に「なかったこと」にされている。今、この記事を読んでいるアナタだって、知らないことばかりじゃないかな? さながら「アナタの知らない世界」……。

 また、戊辰戦争中、日光山輪王寺の門跡にして東叡山寛永寺の貫首でもあった輪王寺宮公現法親王が彰義隊や奥羽越列藩同盟によって「錦の御旗」として奉じられたという史実も同じように「なかったこと」にされている。あの『八重の桜』で綾瀬はるか演じる山本八重がスペンサー銃を持って「官軍」と戦う会津籠城戦――が始まる1か月半ばかり前の6月6日、輪王寺宮は彰義隊の小田井蔵太らに奉じられて会津若松城に入城した(こちらは福島県本宮市の石雲寺にある「小田井蔵太一成之碑」の写真。住職にお願いして撮ってもらいました。小さくて文面まではわからないでしょうが、「慶応四年五月彰義隊破れ輪王寺宮をお護りして当地に来たり」とあって、輪王寺宮の奥州遷座に当たって小田井蔵太が近侍していたことが裏付けられる)。そして、15、16の両日、会津若松城で、当時、会津に滞在していた元老中首座・板倉勝静、元外国事務総裁・小笠原長行ら「五公」を交えた重要な会議が開かれた。一説では、この場で輪王寺宮は「東武皇帝」に推戴されたとされる。また、元号も「大政」と改元されたという。果たしてその真相は……? ま、これについてはぜひ『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』をお読みいただくとして(なんか宣伝みたいになっておりますが、別にお代をいただくことはありませんので、ご安心を)……ともあれ、6月15、16の両日、会津若松城ではきわめて重要な会議が開かれた。東叡山寛永寺の事務方トップ(役職で云えば「執当職」)で、戦後、すべての責任を負うかたちで獄死した覚王院義観が遺した日記によれば、この際、輪王寺宮からは次のような言葉が述べられたという――「身は皇子と雖も桑門に係を藉る。政を執り軍を議するは固より其の職に非ず。然しながら列侯懇願す。則ち或いは其の情に順じ、或は仮に其の名に宜しく随う。法王の素意、二三の陪臣、国命に逆乱するを坐視するに忍びず。遂に今日の潜行に及ぶなり。故に除奸匡国の盟主、義によって必ずしも辞さざるなり」(原文は漢文体。引用したのは、それをワタシが訓み下したものです)。最後の「故に除奸匡国の盟主、義によって必ずしも辞さざるなり」がこの会議の重要性を物語っていると言わざるを得ず……。その後、輪王寺宮は18日には会津を発ってまずは米沢に入り、仙台藩領の白石を経て、7月10日、仙台青葉城に入城した。そして、仙台青葉城内の書院で仙台藩主・伊達慶邦と世子・宗敦に令旨を下賜した。恐懼した仙台藩ではこれを和訳して領民らに周知せしめたという。その文面は、1935年、旧仙台藩士・佐藤信の遺稿として出版された『戊辰紀事』(非売品。奥付には佐藤信の子で赤痢菌の発見者として知られる細菌学者の志賀潔が「編輯並発行者」として記されている)によれば、次のようなものだった――

嗟乎薩賊久しく凶惡を懐き、漸く殘暴を恣にし、以て客冬に至り 幼主を欺き奉り、廷臣を威し脅し、
先帝の遺訓に違ひ、攝關幕府を黜け、 列聖の垂範に背き、神祠拂閣を毀ち、陽に王政復古を唱へ、陰に私利邪慾を逞し、百方溝架して以て冤を故幕府及び十餘藩の忠良に負せ、遂に
鸞輿を脅し、狭て蹕を浪華に駐め、諸侯に矯令して六師を興し、百姓を虚使して恆産を奪ひ、四海鼎の如く沸、五倫將に墜とす。大逆無道千古是に比する者なし。今匡正の任を以て是を其藩に囑す。宜く大義を明にし是を遠近に諭し、克熊虎の力を盡し、速に凶逆の魁を殄し、以て上は
幼主の憂惱を解き、下は百姓の塗炭を濟ふべきなり。噫勉哉。天下雲霓を望事已に久し、四民所迎の食漿是新なり、勝算固より疑べからざる者也。
     輪王寺一品大王釣命執達如件

 こうしたことは、すべて紛れもない史実なんだけれど、『八重の桜』では一切描かれていない。もうね、気持が良いくらいにバッサリと切られていた。そして、それは『八重の桜』に限った話ではなく、幕末をモチーフとした歴代のすべての大河ドラマでもそうで。もう、本当にね、完全スルーなんですよ。単に輪王寺宮の奥州遷座がタブー視されているだけではないんですよ。輪王寺宮は、慶応4年2月、徳川家のたっての希望を容れて徳川慶喜の「謝罪恭順」の意を伝えるべく京に上ることになるのだけれど、こんなさ、とりたてて差し障りがあるとも思えないエピソードすらもこれまで大河ドラマで描かれたことはただの一度もないのだ。輪王寺宮公現法親王という存在そのものが「なかったこと」にされているからどうしてもそうなっちゃうわけだけれど、これくらいは描いてもいいんじゃないのかなあ。ちなみに船戸与一の『新・雨月 戊辰戦役朧夜話』では、これはさすがと言うべきなのかな、輪王寺宮公現法親王を盟主として戴く「北方政権」について相当しっかりと書き込まれているのだけれど、一方で――「西郷吉之助が陸軍総裁の勝安芳殿と芝の薩摩藩邸で会談を持った。駿府での山岡鉄太郎殿の周旋を受けてのものらしい」。輪王寺宮の存在を「なかったこと」にして紡がれてきた旧来型の歴史を船戸与一にしてからがまだ十分にはアップデートしきれていない実態を図らずも明かしていると言っていい。船戸与一には申し訳ないのだけれど、当時、山岡鉄太郎による周旋なんて、誰も注目していなかったと思うよ。後に勝海舟が「慶応四戊辰日記」に書いて必要以上にクローズアップされることになるんだけれど、旧幕府の役人から町人に至るまで江戸の人々が固唾を呑んで見守っていたのは輪王寺宮公現法親王による駿府での周旋ですよ(輪王寺宮は上洛の途中、折から東征大総督として東海道を進軍してきた有栖川宮熾仁親王に呼びつけられて駿府城で対面することになる)。それを裏づけるのが、当時、江戸で発行されていた『中外新聞』の3月21日付け記事で――「日光御門主昨廿日駿府より御歸輿に成たり。御對談相整ひしや否は次册に記すべし」。しかし、こうした江戸の人々が固唾を呑んで見守っていた両親王の〝トップ会談〟すら「なかったこと」にされているわけで、これは歴史の像としては相当に歪んでいると言わざるをえないですよ。でね、ワタシに言わせれば、南北朝時代を忌み嫌ってそれから目を背けようとする姿勢の先に広がっているのがこういう歪な風景であると。それに一石を投じようとしてワタシみたいなアナーキストががんばっているわけだけれど……歴史観がどーこー言う前に、単純に、面白いじゃないか、新田義貞による「北陸朝」の樹立にしろ、「後南朝」の争闘史にしろ、奥羽越列藩同盟による「北方政権」樹立(構想)にしろ。もうね、「歴史のダイナミズム」ってやつをまざまざと実感させてくれますよ。で、アナーキズムってのは、そのダイナミズムのことなんだよなあ……と、いささか唐突感は拭えないものの、『東光太平記』を読んでいるこのタイミングでちょっとこういうことも書いておこうかな、と……。