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それは皇位に上ろうとしたものに科せられた罰である。
〜オオアレチノギクの咲く頃に②〜

 これね、書こうかどうしようか迷ったんだ(なぜ迷ったかついては後述)。でも、これってオレだからこそ得ることができたネタだよなあ、と考えた時、書くことがワタシに課せられたミッションであるような気がしてきて……。

 「亡霊は甦る。〜中浜哲、100年目の高笑い〜」で紹介した逸見吉三著『墓標なきアナキスト像』(三一書房)にちょっとビックリするようなことが記されている。逸見吉三という人はいわゆる「ギロチン社事件」に連座して懲役1年の実刑判決を受けた筋金入りのアナーキストですが、そんな彼が1971年になって総会屋雑誌でありながらも左翼系オピニオン誌として、当時、強い影響力を誇っていた『現代の眼』で彼が交流を持ったアナーキストたちの銘々伝とも言うべき評伝を連載した。タイトルは「墓標のないアナキスト群像」で、これが元となって編まれたのが『墓標なきアナキスト像』ということになる。で、この連載の第1回で彼が取り上げたのは、実は日本ではほとんど無名の人物。その名は余清芳。台湾恒春県生まれの台湾人(日清戦争の賠償で台湾が日本に割譲されたのは1895年。余清芳が生まれたのはその16年前の1879年)で、日本統治時代の最大の武装蜂起とされる「西来庵事件」の指導者。そんな人物がなぜ日本人の手によって書かれたアナーキストの銘々伝にしかもいの一番で登場するのかといえば、彼が日本でアナーキズムの洗礼を受け、その実践として台湾で村の中に相互扶助の協同組織をつくるなどし、それが発展して「西来庵事件」に至った、という経緯があったから。こうした経緯を踏まえ逸見吉三は「彼はむしろ日本で知りおぼえたことを、自らの故山で実践しようとしたことにおいて、何よりも私たちの先駆者であり、真のアナキストにほかならなかった」と書いているんですが、この件についてはここまでとしておきます。ワタシもそれほどこの件に詳しいわけではないので。ともあれ、こうして余清芳は日本で学んだ直接行動派のアナーキズムの実践として「西来庵事件」を起し、敗れて捕えられ、最後は絞首刑となった。で、その刑が執行されたのは、現在は中国・台北政権(「中華民国」という国号があるものの、日本は1972年のいわゆる「日中国交正常化」に伴って国交を断絶しており、以後は「デ・ファクトの政権」という扱い。本稿でもこれに準じて「中国・台北政権」という呼び方をします)の国家一級古蹟に指定されている安平古堡だという。元々はオランダが東アジア貿易の拠点として築いたものだとかで、日本統治時代はここに日本式の宿舎を建設するなどして日本軍が駐留していた。刑場はこの城の中にあったようで、「オランダ、スペイン、中国、日本、そしていまは蒋政府と、近世五〇〇年を異民族五代に支配された台湾島民のうらみと涙は、いまなおこの刑場に啾々として訴えつづけているのである」――とは、実はこれは逸見吉三が書いたものではなく、山鹿泰治という人が書いた『たそがれ日記』からの引用。山鹿泰治という人は世間一般ではエスペランティストとして知られているようですが、大杉栄のフランス密航を手助けしたことでも知られるアナーキストで、この渡航中、大杉が携帯していた旅券は山鹿が四方八方手を尽くして調達した偽造旅券だった(向井孝著『山鹿泰治:人とその生涯』参照)。その山鹿は1939年から1946年まで台湾で暮しており(事実上の政治亡命。ただし、表向きは「神経衰弱で転地療養の必要あり」という診断書を取っての転地療養。一応、当時、台湾は日本の最南端だったので)、台湾の事情にはことのほか通じていた。この刑場の話もそんな彼だからこそ書くことができたもの、と言っていいでしょう。で、その山鹿泰治はですね、この安平古堡(山鹿自身はオランダ統治時代の名称である「ゼーランジャ城」と表記している)の刑場の件につづいて、ちょっとビックリするようなことを書いているんですよ。おそらくは逸見吉三もそんなふうに思ったんでしょう、相当、長々と引用している。で、ここは孫引きというかたちとはなるのだけれど(いろいろ調べたところ、『たそがれ日記』は玉川信明らが刊行に向けて動いたものの、結局は未刊行に終わったらしい)、その全文を紹介して読んでいただくしかないだろうと――

 ここから台中への道すじ、草深い無名の川の東岸に、いつごろからか立派な碑が立てられてあった。だが、その碑がなぜそこに立っているのか、どんな由来をもつか、その真実を知った者は当時でも一〇指に足らず、いまはもう永遠の闇のなかに葬られて、誰ひとり知る人もないだろう。一八九五年のことである。日清戦争はようやく終った。下関講話条約により日本の勝利は確定した。
 満洲遼東に遠征していた近衛師団は、戦塵をおとし、ひたすら凱旋帰国の日をいまやおそしと待つ日々であった。と、意外にも大本営より師団長北白川宮能久親王のもとへ、転進命令が、届けられたのである。
 明治天皇は、反乱を起した土匪鎮圧のため、新占領地台湾へ直ちに向うことを下命してきた。「なぜこのように私を憎み給うのか」親子とも思えぬ無情な命令に、親王はおのれが憎まれ遠ざけられる非運をなげきながら、再び軍装をととのえ、遠征の軍をおこした。
 五月三一日、台湾の東北端に上陸、三日後基隆を占領、七日台北へ無血入城した。しかしそれからの遠征軍は、はげしい抵抗と天峻のジャングルに出合って、苦難の連続であった。ようやく一〇月二二日台南入城、二九日安平占領を果たした。そして一二月には台湾全島要所の占領を一応完了した。しかしなおいたるところに台湾義勇軍ゲリラが存在し、実に一九〇二年まで戦闘はつづけられたのであった。
 もともと親王は蒲柳病弱だった。険路とマラリヤになやみつつ、ついには担架ではこばれながら、あともう一息で打狗(高雄)にせまろうとしたある日のことである。軍は早朝、清水の流れる川岸に小休止した。朝霧が、あたり一面にたちこめていた。霧の奥ではしきりに小鳥がさえずって、平和な山野の気配である。
 冷たい空気に頬をなぶられ、久方ぶりに気分爽快をおぼえた親王は、担架から降りると、せせらぎの音がする方へ歩をすすめた。よごれた顔を清流で洗おうと、手をさしのべ、身をかがめた――そのときのことである! 朝霧にかくれた向う岸から、静かに泳ぎ出してきた一人の屈強の男が、あたりの様子をうかがい、身をひそめつつそおっと近寄ってきたのだった。
 と、やにわに男は水中から、ざんぶと躍りあがった。うつぶしている親王のうしろで、きらりと空中に蛮刀を一閃した!
 ああっという間もない一瞬、親王の体は水中にくずおれたまま――あえない最後であった。
 かけよってきた側近の兵士たちにとりかこまれ、男もまたやがて、親王のそばにくず折れて、斬り死の死体をよこたえた。霧はいよいよ濃く、いまおこった椿事をつつみかくすように、一面をおおっていた。
 親王の不慮の死は、あくまでも戦病死とされた。事実を知った側近の人たちも、永遠に口をつぐんで、歴史を陰蔽した。親王を殺した男が、どこのだれで何というものか、誰にもわかっていない。しかし台湾人の口から耳へつたえられた、ひとりの英雄的な死は、ひそかに語りつがれてきた。
 小川のほとりに建てられた親王の碑は、台湾人にとってまた一人の英雄のための、墓碑であった。そして、誰からともない香華がいつも捧げられてあった。

 なんと、かつての輪王寺宮公現法親王であるところの北白川宮能久親王は近衛師団長として台湾遠征中、どこの誰とも知れない「土匪」に首を刎ねられて死んだと、そういうのだ。そういうことを、原地に居住経験のあるアナーキストがあたかも自分の眼で見ていたかのように書いているわけだけれど……ちょっと困ったなあ、というのが、最初にこれを読んだ時のワタシの反応。というのも、ワタシには全くのガセとしか思えなかったので。こういういい加減なことを書かれるとアナーキストの信頼に関わるよなあ……と、そんな感じだったと言っていいかな(ちなみに、竹中労も『黒旗水滸伝』でおそらくはこの記載を根拠として――「北白川宮は陣中病没したと発表されているが、実は夜陰に乗じて襲った山地原住民ゲリラ部隊に、文字通り寝首をかかれて、首を斬り落され斬殺されたというのが真相である」。これもまたワタシを大いに困らせることに……)。

 で、なんでワタシがこれをガセだと決めつけたかというと、「「なぜこのように私を憎み給うのか」親子とも思えぬ無情な命令に、親王はおのれが憎まれ遠ざけられる非運をなげきながら、再び軍装をととのえ、遠征の軍をおこした」という下りですよ。明治天皇と北白川宮能久親王が「親子」だったというのは全くのデタラメで、北白川宮能久親王の父は伏見宮邦家親王。で、伏見宮邦家親王とはどういう人かというと、かの北朝第3代崇光天皇の第一皇子、栄仁親王を初代とする伏見宮家の第20代の当主に当たる。で、この第20代ということをどう捉えるかなんだけれど、伏見宮家を栄仁親王の代に現皇統から枝分かれした分家と見なすならば、伏見宮邦家親王の代で既に20世代の隔たりがあるということになる。だからね、一般の感覚で言えば、遠ーい遠ーい親戚ですよ。で、父の伏見宮邦家親王でさえそうなんだから、その子である北白川宮能久親王(ちなみに幼名は満宮と言った。伏見宮邦家親王の第9王子で、満宮の下にも第10王子、第11王子、第12王子……と、全部で17人の王子がいた。現下の『メス化する自然』からは考えられない状況……)と明治天皇の関係も遠ーい遠ーい親戚と言うしかないくらいに離れている、ということになる。ただ、これはかつてはよくあったことなんだけれど、嘉永元年、満宮は仁孝天皇の猶子となる。その理由は、門跡寺院の1つである青蓮院を相続するためで、そのためには天皇の猶子となって親王宣下を蒙る必要があった。そのための養子縁組み。多分に経済的要因が絡んだ措置だったと言ってよく、坂口安吾は「織田信長」という小説でこんなことを書いている――「天皇は皇子皇女をたいがい寺に入れる。皇女の方は尼だ。関白も大納言も、そうだ。足利将軍もそうだ。子供は坊主か尼にする。門跡寺、宮門跡などと言って、その寺格を取引にして、お寺から月々年々扶持を受けるという仕組みであった。そのほかには暮らしの手だてがなかった」。なかなか辛辣な書きようですが……ともあれ、満宮は仁孝天皇の猶子となって最初は青蓮院、次いで三千院に入室(にっしつ)、最終的には日光山輪王寺を相続してワレワレがよく知っている(?)輪王寺宮公現法親王となった。で、輪王寺宮が仁孝天皇の猶子なら、明治天皇はその仁孝天皇の孫。だから、輪王寺宮と明治天皇は形の上では叔父・甥の関係ということになる。これがなかなか微妙なところで、形の上では明治天皇の叔父に当たるものの、それはあくまでも形の上であって、実際は遠ーい遠ーい親戚にすぎない。その遠ーい遠ーい親戚にすぎない輪王寺宮公現法親王を「錦の御旗」として奉じたことには一体どれほどの意味があったのか? ということは……まあ、ここで詮議するのはやめておきましょうか。ともあれ、両者の関係はそういうことであって、「「なぜこのように私を憎み給うのか」親子とも思えぬ無情な命令に、親王はおのれが憎まれ遠ざけられる非運をなげきながら、再び軍装をととのえ、遠征の軍をおこした」――というのは、なんというのか……自分が書いたわけでもないのに、思わず赤面してしまうというか。同じアナーキストとして、いたたまれない思いというか……。多分ね、山鹿泰治には北白川宮能久親王をヤマトタケルノミコトに準えようという意図があったんだと思う(「父に疎まれる悲劇の皇子」というのは『古事記』が生み出したヤマトタケルノミコトのパブリックイメージそのものと言っていい)。山鹿泰治の世代だと今以上に『古事記』や『日本書紀』の影響は強かっただろうから。そこはアナーキストも日本主義者も変わりはない。で、そういうふうに理解するならば、↑に紹介したのは丸っきりの「物語」というふうに見えてしまいますよね。実際、「朝霧にかくれた向う岸から、静かに泳ぎ出してきた一人の屈強の男が、あたりの様子をうかがい、身をひそめつつそおっと近寄ってきた」とか「やにわに男は水中から、ざんぶと躍りあがった」とか、完全に小説の文体ですよ。それでいて、書かれているのは実在の人物の死に関する「真実」だというのだから。困るんだよなあ、そんな重大なことをロバート・E・ハワードのファンタジー小説みたいなノリで書かれたんじゃ……。

 でね、この件に関しては、スルーするに如くはない、と考えたのは事実。世間にガセネタを拡散するようなことは厳に慎むべきだろうと(冒頭で「書こうかどうしようか迷った」と書いたのは、こういう理由)。ただ、『墓標なきアナキスト像』なんて、そう誰もが読むような本ではないし。ましてや、輪王寺宮公現法親王の戊辰戦争中の行動に並々ならぬ関心を示している人間なんて、世の中にそういるものではない。その1人がたまたまアナーキストで、『墓標なきアナキスト像』を読んだ、なんてのは、なかなかの奇跡ですよ。このことに、まず、ある種のオノノキを覚えざるを得ない。まあ、心境としてはだよ、これはオレに課せられたミッションなのではいのか? ということにもなりますよ。で、実際問題としてもだ、北白川宮能久親王の最期がいささかの謎に包まれているのは、紛れもない事実なんだよ。これについてはかつて書いたことがあるので、詳しくはそちらを参照していただくのがいいのだけれど、ここでもその要点のみ記すなら――北白川宮能久親王の死は公式にはマラリアに罹患したことに伴う戦病死だったとされているものの、北白川宮の孫に当る有馬頼義が1968年(昭和43年)に発表した「北白川宮生涯」の最後でこんなことを書いている――「ところで、私が北白川宮能久親王のことを書いていることが、どこからどう洩れたのか、某日、ある人から私のところへ電話がかかってきた。その人の言によると、能久親王はマラリヤで亡くなったのではなく、実はピストルで自殺されたのだという。私は驚愕した。電話の相手は、ちゃんとした人で、(著名人という意味ではないが)その人の祖父が、台湾征伐に加わって居り、事実を目撃したという。しかし、当時のことだから、ひたかくしにされて今日に至った。その人は、その父君からも堅く口どめされたという」。北白川宮能久親王の最期については、1908年(明治41年)に親王の「正史」として刊行された『能久親王事跡』(春陽堂)に詳しく記されており、特に発病から薨去までの最後の10日間についてはその病状を示す医学データも交えて詳細に記されている。しかも、書いたのは、誰あろう、台湾総督府陸軍局軍医部長として最期を看取った森林太郎こと森鷗外なのだ。これを踏まえて有馬頼義は「もし、ピストル自殺が本当のことであれば、鷗外が、全く嘘の病状を書いていたことになる。御発病から葬式までが、一日か二日ならばとも角、十日間の病状の記録が嘘であるとはどうしても思えないのである。自殺説の根拠をなすものには、証拠がない」として、最終的には「こういう異説もある、ということにとどめておくべきであると私は思い、その人に会って、くわしい話をするのをやめた」――と、これが1968年のこと。しかし、その後、有馬頼義は薬物に溺れ、1972年には自殺未遂まで起す(睡眠薬のブロバリンを80錠も飲んでガス栓を捻った)。そういう心境へと作家を追いやったものの1つに思いもかけず突きつけられることになった祖父の死の〝真相〟があったのでは? と、件の記事ではそんなことを書いたのだけれど、あろうことか、そこにもう1つ、親王の死にまつわる異説が加わったということになる。それが、どこの誰とも知れない「土匪」に首を刎ねられて死んだという他殺説。1人の人物の死をめぐってこれだけ異説が取り沙汰されるというのは、ちょっと普通じゃないですよ。北白川宮能久親王の死には、何かあるのでは? という疑念はいよいよ濃い霧のようにワタシを包みはじめた……と書けば山鹿泰治みたいになっちゃうんだけれど(苦笑)、まあ、段々とそういう心境に陥ってきたことは、間違いない。で、いささか迷いつつもこうして書くことにしたわけだけれど……実はね、これは『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』でも書いたことなんだけれど、北白川宮家の当主は3代つづけて不慮の死を遂げているのだ。能久親王の子の成久王は1923年(大正12年)、パリで自動車事故死した。また、その子の永久王は陸軍砲兵大尉として当時の蒙古聯合自治政府の首都・張家口に駐屯していた1940年(昭和15年)、飛行機事故に巻き込まれ30歳の若さで亡くなった。宮家の当主が3代つづけて不慮の死を遂げるというのはどう考えたって普通じゃない。この宮家は呪われている⁉ と、これまた『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』に書いたことなんだけれど、その場合、思い浮かぶ「理由」は1つしかないんだよなあ……。でね、この北白川宮家をめぐる不吉な物語に、今回、新たに、どこの誰とも知れない「土匪」に首を刎ねられて死んだという山鹿泰治が『たそがれ日記』に書いている異説が加わったわけだよね。当初、ワタシはこの話を単なるガセとして切り捨てたわけだけれど……

 ここは、ハッキリ言いましょう、ストーリーとしてはありなんじゃないのか? 真相がどうこうじゃなくて、ストーリーとしてはね。というのも、あの自天王が首を刎ねられて死んだとされているので。これまた一次史料では裏付けられず、ある種のストーリーであるわけだけれど……もしかしたら、これは巧まざるストーリーテラーのなせる業なのではないか? つまりだ、これこそは皇位に上ろうとしたものに科せられた罰である――というような……。



追記 うわっ、気がついちゃったよ。護良親王だってそうじゃないか……。史実では護良親王は建武2年7月23日、配流先の鎌倉・二階堂ヶ谷の東光寺で足利直義の家臣・淵辺義博に殺害されたとされている。で、『太平記』によるその描写がエグイのなんのって。淵辺義博の意図を察知した親王が刀の鋒に噛みついたってんだけれど――「淵辺したゝかなる者なりければ、刀を奪はれ進らせじと、引合ひける間、刀の鋒一寸余り折て失にけり。淵辺其刀を投捨、脇差の刀を抜て、先御心もとの辺を二刀刺す。被刺て宮少し弱らせ給ふ体に見へける処を、御髪を掴で引挙げ、則御頚を掻落す。篭の前に走出て、明き所にて御頚を奉見、噬切らせ給ひたりつる刀の鋒、未だ御口の中に留て、御眼猶生たる人の如し」。もうね、ちょっとしたホラー小説ですよ……。いずれにしても護良親王は淵辺義博に首を刎ねられた(「則御頚を掻落す」)とされているわけだけれど、『太平記』の作者がそんな場面を見ていたはずはないので創作であることは明らかですが、創作にしたってなんでこんな惨たらしい死に方をしなければならなかったのか? その答は『太平記』の中にある。巻7「新田義貞賜綸旨事」によれば、新田義貞はまだ鎌倉幕府軍の士官だった元弘3年3月、護良親王から綸旨を賜っているのだ――「今や/\と相待処に、一日有て令旨を捧て来れり。開て是を見に、令旨にはあらで、綸旨の文章に書れたり」。

 言うまでもなく綸旨とは天皇が発給する命令文書のことですが、後醍醐天皇が護良親王に譲位したという事実はなく、それでいながら綸旨を発給していたとすれば、彼はこの時、皇位を僭称していたということになる。そんな史実があったかどうかは甚だ疑問で、これも『太平記』の創作ではないかと思うのだけれど……多分、『太平記』の作者は2つの創作に因果関係を持たせているんですよ。要するに、護良親王が、最期、あんな惨たらしい死に方をすることになったのは――これこそは皇位に上ろうとしたものに科せられた罰である――と……。