一体、これって、どういう種類の情熱なんだろう? と思いつつ……やっちゃいましたよ、Googleマップに新しいスポットを登録するという作業。だって、見つかんないんだもの、ググったって。で、大阪府文化財調査研究センターの調査報告書(はこちらからダウンロード可能です)に掲載された地図を頼りに何とか場所を特定して、せっかく特定したんだから、いっそスポットとして登録しちまおうと。で、スポットとして登録したからには、クチコミも書いちゃえと。こういう私見はウィキペディアには書けませんが、Googleマップのクチコミとしてなら書けますから。もっとも、それをいいことにあることないこと書き立てる不届きものが後を絶たず、ある記事によれば、Googleが基準に違反するとして削除したり表示されないようにしたクチコミは2023年の1年間で1億7000万件以上とか。このね、書く側と削除する側がそれぞれに費やす労力たるや……。まあ、そういう問題もあるんだけれど、ウィキペディアには書けないような全くの私見であってもGoogleマップのクチコミとしてなら書けるってのは、ウィキペディアの編集に参加している身からすれば、なんとも魅力的というか。スポットとして登録したのも半分はクチコミが目的だったようなもので……。ともあれ、そんな感じで、今やGoogleマップで「楠木石切場跡」で検索するとこんなふうに表示されますよ、ということで――
でね、ワタシが「楠木石切場跡」にこだわった理由はクチコミを読んでいただければおわかりいただけるとは思うのだけれど、1つこのクチコミの前提となる事実(心理的背景)を明かしておくと、ワタシには楠木正成には何としてでも河内の土豪であってほしいという願望があるんですよ。これは前にも書いたことがあるんだけれど(こちらです)、楠木正成の何が魅力かって、「悪党」が「忠臣」に転化する歴史のダイナミズムですよ。それがね、御家人説や得宗被官説だと薄らいでしまう。ここは楠木正成の出自をめぐる議論については基本的な論点についてはご存知のものと前提して話を進めさせてもらいますが(もしそうじゃないならまずはウィキペディアの「出自」をお読み下さい。ワタシも若干、編集に参加しています)、もし『吾妻鏡』建久元年11月7日条に登場する「楠木四郎」が本当に楠木正成の先祖だとしたら、その人生の振幅がいかほどのものであったとしても、歴史のダイナミズムってほどの話でもなくなってしまいますよ。なーんだ、かの『天龍寺文書』に言うところの「悪党楠兵衛尉」(はこちらで現物を見ることができます)も元を辿れば鎌倉幕府の御家人だったのか、というね、まあ、ワタシみたいなものの立場からすれば、裏切られたような気持ちにさえ。だからね、ワタシとしては楠木正成には何としてでも河内土着の豪族であってほしいと。ただ、この主張には1つ弱点がある。それは、河内一帯には「楠木」という地名が認められないこと。で、これはクチコミにも書いたことではありますが、「一所懸命」という言葉に表されるように、およそ武士とは土地に命を懸けるもの。そのため地名=氏名というケースがほとんど。しかるに河内には「楠木」という地名は知られておらず、実際、楠木正成が居館を構えていたのも河内国石川郡赤坂郷。こうなると、楠木氏はどっか他所から河内にやってきた〝旅の人〟(当地の言葉で他所者を指す婉曲表現)で、その他所とはおそらく坂東だろう、ということになってしまう。だから、河内一帯には「楠木」という地名が認められないというのは泣き所なんですよ、われら河内の土豪派(?)としては。で、たとえばだ、近年、提示された説では最も有力とされる筧雅博「得宗政権下の遠駿豆」(『静岡県史 通史編2中世』)では――「金剛山の西麓から観心寺にかけての地に「楠木」の字はないといわれる。おそらく楠木氏は、駿河国入江荘の村を名字とする御家人であって、かなり早い時期に得宗家の被官となり、十三世紀末、得宗領観心寺の地頭代として現地に送りこまれたのであろう」。こういうね、格闘技で言えば、まず最初に相手の弱点を突いて反撃できないようにした上で、じっくりと自分の技を繰り出してくるという……。口惜しいけれど、太刀打ちできませんよ。で、今では得宗被官説で決まりみたいな感じになっているわけだけれど……そこに、小字とは言いながら、「楠木」という地名が見つかったわけですよ。それが「楠木石切場跡」。もっとも、この石切場が発掘調査の対象になったのは1997年のことで(奇しくも『静岡県史 通史編2中世』が刊行された年に当たる。何か因縁めいたものを感じざるを得ないなあ……)、発掘調査した大阪府文化財調査研究センターによって「楠木石切場跡」と名付けられたのも1998年のこと。だから、もう随分前のこと、なんですよ。それが、つい最近まで一般の注目を引くことはなかった。つーか、今でも一般の注目という意味ではほとんど引いていないと言っていいでしょう。現にGoogleマップにはこの史跡の存在を示すマーカーが付けられていなかったのだから(同じ二上山中にある別の石切場はスポット登録されていた)。まあ、そんなこともあって、今回、ワタシがしゃしゃり出ることになったわけだけれど……
しかし、石切場なのかあ、というのは、正直なところ、ある。だって、「河内の土豪」とは相当のギャップがあるもの。さらには『天龍寺文書』に言うところの「悪党楠兵衛尉」ともね。もっとも、石切場にその名を残しているということは、楠木氏って石工集団を束ねる棟梁のような存在だったのだろうか? というイマジネーションも働くわけだけれど、そうするとかの有名な「穴太衆」とのアナロジーで「楠木衆」と呼びたい誘惑に駆られたり……。で、これはこれでなかなかオモシロイなあ、と。というのも『太平記』には「楠木衆」の戦いぶりが相当具体的に描かれていたりするんだけれど、巻3「赤坂城軍事」では――「卦けれども城の中よりは、矢の一筋をも不射出更人有とも見へざりければ、寄手弥気に乗て、四方の屏に手を懸、同時に上越んとしける処を、本より屏を二重に塗て、外の屏をば切て落す様に拵たりければ、城の中より、四方の屏の鈎縄を一度に切て落したりける間、屏に取付たる寄手千余人、厭に被打たる様にて、目許はたらく処を、大木・大石を抛懸々々打ける間、寄手又今日の軍にも七百余人被討けり」。また巻7「千剣破城軍事」でも――「此城東西は谷深く切て人の上るべき様もなし。南北は金剛山につゞきて而も峯絶たり。されども高さ二町許にて、廻り一里に足ぬ小城なれば、何程の事か有べき〔と〕、寄手是を見侮て、初一両日の程は向ひ陣をも取ず、責支度をも用意せず、我先にと城の木戸口の辺までかづきつれてぞ上たりける。城中の者共少しもさはがず、静まり帰て、高櫓の上より大石を投かけ/\、楯の板を微塵に打砕て、漂ふ処を差つめ/\射ける間、四方の坂よりころび落、落重て手を負、死をいたす者、一日が中に五六千人に及べり」。前者は赤坂城の戦い、後者は千早城の戦いを描写したものですが、いずれも「楠木衆」は「大石」を以て幕府軍を攻め、大打撃を与えたと、そういう内容で……。これ、「楠木衆」が「穴太衆」のような石工集団だったから、という解釈はいささか強引すぎますかねえ。でも、山城にそれだけの大石が用意されていたこと自体、普通じゃないような。少なくとも、楠木正成の配下には二上山で二上山凝灰岩(別名「二上山白石」)の切り出しや加工などに当たっていた石工集団が含まれていたのは間違いないような。で、楠木正成は、そんな異能の集団をも手駒として使いつつ数万とも言われる幕府軍を相手にあり得ないような善戦をして、遂には足利高氏や新田義貞の反乱を誘発するに至ったんですよ。石工集団の貢献たるや絶大なり⁉ ちなみに、石工のことを英語では「ストーンメーソン(stonemason)」と言いますが、「穴太衆」の存在を思うにつけても、独特の技能で結ばれた職能集団、というイメージがして、あの「フリーメーソン」にも通ずるものが感じられるような……? まあ、そこまで言っちゃうと言いすぎかも知れませんが、しかし『太平記』などに記された戦い方はそんな連想を掻き立てるくらいには特異性に充ち満ちている。こうなると、彼らを束ねた棟梁の素性が足利高氏や新田義貞と同じ坂東の御家人だったというのは、なかなか考えにくくなってきたような? それよりも、古くから二上山に根を張っていた氏族ではないのか? という新たな妄想も湧いてくるんだけれど……この件についてはこのくらいにしておきましょうか。あまり結論を急ぎすぎるのもよくない。なお、「楠木石切場跡」がある大阪府南河内郡太子町大字山田小字楠木というのは「谷の奥、約3反ほどの広さの長い谷一帯」だそうですが(ソースはこちらです)、それもオモシロイ。そんな狭隘な土地が遠からず歴史ファンがせっせと足を運ぶ「聖地」になるのかと考えると……(と、そこまでワタシの妄想は膨らんでいる……)。
クチコミで言及した「安満法橋了願軍忠状」についても書いておきます。これは江戸時代に紀州藩が編纂した『紀伊続風土記』に収められているもので、編纂時期から後世の史料ということにはなりますが、件の文書が収められているのは第3輯「古文書之部」で、文書自体は同時代のいわゆる一次史料ということになる。ここは国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できる帝国地方行政会出版部刊行の版の当該ページを貼り付けておきますが――

注目は125ページ下段の4行目から5行目にかけて。「同十日夜於二上城令勤仕笧役相待凶徒同十一日於山田荘致合戦畢」とありますが、読み下すと「同十日夜二上城に於て笧役を勤仕し凶徒を相待ち同十一日山田荘に於て合戦を致し畢んぬ」(文中の「令」は使役の意味を持たないいわゆる「無用の令」……と思います)となります。で、ここに出てくる「二上(山)城」は楠木正成が築城したというのが通説で(ただし、南河内郡に隣接する河内長野市のHPでは「民間伝承で、史料には見られない」としており、慎重な見方を示している)、延元2年10月10日夜、この城で夜営した安満了願ら南朝方は翌11日、麓の山田荘(「楠木石切場跡」がある場所の大字が正にこの「山田」)において北朝軍と合戦に及んだ――と、この文書からはそういうことが読みとれるわけですが、そんな場所に「楠木石切場跡」はあるわけで、この地一帯が楠木氏の地盤であったのは間違いないでしょう。延いてはこの地が楠木氏の発祥の地である可能性さえ見えてくるわけですが……近い将来、「楠公さん」を主人公とする大河ドラマ(を河内長野市を始めとする関係自治体が熱望しているそうです。さて……)でも制作されればこの地が聖地巡礼ツアーのコースに組み込まれることはいよいよ以て間違いない……?
あとね、楠木正成=河内の土豪説を補強する意味でもう一個だけ書いておこう。本文でも紹介した筧雅博「得宗政権下の遠駿豆」では楠木正成=得宗被官説の切り札よろしくある落首を紹介している。それは後醍醐政権下で関白を務めた二条道平の日記『後光明照院関白記』正慶2年閏2月1日条に記されているもので、このようなものだそうです――
くすの木の ねはかまくらに成るものを 枝を切にと 何の出るらん
得宗被官説を支持する新井孝重氏はこの落首を解釈して「楠木の根(出身)は鎌倉(得宗権力)にあるのに、枝(正成)を切りになんで(そこまでして)出かけるのだろう」(『楠木正成』61p)と書いておられるのだけれど、それだと後半の解釈がちょっと弱いような。楠木氏が元々は得宗被官で鎌倉の御家人だというのなら、今回の行動は鎌倉からするならば裏切りであり、その討伐は当然のこと。従って、京の町衆が「枝を切にと 何の出るらん」と皮肉交じりの疑問を呈するということにはならないのでは?
ワタシはね、この落首の解釈のポイントは「成る」だと思う。「ねはかまくらに成るものを」の「成る」。なぜ「ねはかまくらにあるものを」ではなくて「ねはかまくらに成るものを」なのか。それは、ここで言う「根」とは楠木氏のルーツのことではなくて、今回の出来事の「原因」を指しているからだと思う。つまりですね、今回の出来事の根=原因と「成る」ものが鎌倉にある、ということであって、鎌倉の得宗政治の腐敗・堕落を指している、ということになる。だから、この落首をきわめて散文的に解釈するならば――今回の楠木正成のケースのような地方豪族の反乱という問題の本質(真の原因)は鎌倉の得宗政治の腐敗・堕落にあるのに、その根っこを裁たずに枝を切ったところで一体どうなるというのだろう……。この方が落首としての風刺が利いているような気がするのだけれど、どうだろう? で、そう解釈するならば、この落首を以て楠木正成=得宗被官説の切り札とはならない、と。まあ、並みいる碩学を相手にたかだか元ペーパーバック屋ごときが言うことではありますが……。