楠木石切場跡に味をしめて(?)またGoogleマップに新しいスポットを登録してしまった。今度は福島県会津美里町にある法幢寺(お寺の名前は法幢寺ですが、地名だと立心偏の法憧寺。なんでこうなっているのかはわかりませんが……)。明応3年(1494年)開山というから600年に垂んとする浄土宗の古刹。しかし、これまでスポット登録されていなかったということは、世のお寺ファンの興味を惹くような寺ではないのかな? ただ、本尊「銅像阿弥陀如来及び両脇侍立像」は国指定重要文化財で、本堂脇の大黒堂には、運慶作といわれる大黒天も祀られているそうなので(ソースはこちらです)、お寺ファンにアピールする要素も十分のように思えるんだけれど。あと、お寺の場合は、御本尊がどうこうということとは別に、史跡としての価値もあって、会津若松市にある天寧寺なんて、近藤勇の墓があることによって新選組ファンの聖地巡礼コースに完全に組み込まれてしまっている。しかし、クチコミの数は今日時点で130ですか。スゴイなあ。もっとも、楠木正成の首塚がある河内長野市の観心寺は918! なるほど、近藤勇と楠木正成を比較するとそんな感じなのか……。ともあれ、ワタシがこのお寺をスポット登録したのも、やはり史跡としての価値に注目するからではあるんだけれど……
ワタシが法幢寺を史跡として注目する理由。それこそは、杤木南厓の墓、ということになる。といっても、ご存知の方はほとんどいないでしょうねえ。新人物往来社版『幕末維新大人名事典』には「栃木南厓」として立項されていますが(「栃」も「杤」もいずれも国字で中国漢字の「橡」に代るものだそうですが、かつては「杤」の方が一般的だった。今、問題にしている墓でも「杤」の字が使われており、歴史に敬意を表するという意味でも表記は「杤木」で行くべきでしょう)、記されれていることはそう多くはありません。そもそも『幕末維新大人名事典』で「栃木南厓」が立項されていること自体が相当に意外で(ワタシが知る限り、杤木南厓が立項されている歴史人名事典は『幕末維新大人名事典』以外にはありません)。記事を担当されているのは伊東實氏ですが、会津美里町の前身・会津高田町の教育委員会事務局職員を経て『会津高田町誌』や『会津高田町史』の編集委員も務められた生粋の郷土史家、ということになるようです。ちなみに、手元の『会津高田町史 第三巻 資料編Ⅱ』(買いました。県立図書館には所蔵がないので。てっきり何らかの史料が載っているものと思ったんだけれど……)では編集者代表として「あとがき」も書いておられます。どうやら既にお亡くなりになっているようですが、どこまでご存知だったのだろう、杤木南厓、ないしは杤木兄弟の戊辰戦争中の活動を……? ともあれ、それなりに名の通った歴史人名事典である『幕末維新大人名事典』には立項されている杤木南厓ではありますが、一般的にはほとんど知られていないと言っていい。ウィキペディアには同町出身の自由民権運動家・佐治幸平の養父として記載がありますが、杤木南厓としては立項されていない。確かにその事跡が『幕末維新大人名事典』に記されている程度のことなら歴史に名を残すほどの人物ではない、ということにはなりそうなのですが……。
そんな杤木南厓にワタシが注目し、あろうことかそのお墓のある法幢寺をGoogleマップにスポット登録までした理由は、まあ、クチコミを読んでいただければおわかりいただけるんですが、ここはあえて『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』(GoogleドライブにアップしたPDFバージョンです。ダウンロードも可能です)の一節を紹介することとします。この4月に若干の改訂を行なった際、「補記」として書いたものです。
本稿脱稿後、新たに判明した事実がある。
1966年に当時の会津高田町(現・会津美里町)から刊行された『会津高田町誌』の第6章「教育・文化」に栃木南厓なる人物のことが記されている。何でも現在の会津美里町立高田小学校(注:1873年、高田小学校として開設。現在の場所に校舎が建てられたのは1948年だそうですが、Googleマップを見ればわかるように法幢寺の南側に隣接するように立地。この立地も何かと想像力を駆り立てる。杤木南厓は今も高田小学校の生徒たちを見守っている……)の初代校長に当たるそうだ。また「佐治幸平はこの人の薫陶をうけて大政治家となった」云々。ここに出てくる佐治幸平とは第3代(町制時代を含めれば4代)若松市長を務めた人物で、第10章「人物」では佐治幸平の人となりについて記す中で――「幸平は生まれて六才、会津藩士栃木南厓のもとで養育された。時に慶応二年である」。その栃木南厓の人となりについてはどう記されているかというと――「会津藩士で文化四(一八〇七)年に生れた。会津戊辰戦敗戦後に高田に隠棲していた」。また「二子があったが、何れも会津を出て幕末志士として働いたといわれているが、その没年等は分っていない」。実はこの「二子」こそは大学と辰次郎。それを裏付けるのが次の一文――
南厓先生姓杤木氏諱勝知舊會津
藩士也壯年有故致仕隱居高田邑
薰陶子弟禮順克彰孝悌以興戊辰
之役上書藩主極論戰略明治九年
十月廿五日以病卒享年六十先生
天性溫厚精長沼流兵學善詩文有
二子長大學次辰次郞稱藩中俊才
不知其所終門弟子懼先生之不遇
機會委身草澤名湮滅而至無稱者
也爲勒碑以傳其德不朽云爾
福島県大沼郡会津美里町字法憧寺南甲の浄土宗の古刹・法幢寺にある「杤木南厓墓」に記された碑文。「二子長大學次辰次郎」とハッキリと記されている。またこの碑文には他にも注目すべき文言がある。それは「以興戊辰之役上書藩主極論戦略」。訓み下すと――「以て戊辰之役興る。藩主に極論戦略を上書す」。ここに言う「極論戦略」がいかなるものであるかは想像に難くない。それは輪王寺宮を奉じて京都の新政権に対峙するという「戦略」だったに違いない。そう筆者が確信する理由がある。それは、この旧会津高田町――碑文に言うところの高田邑はあの南光坊天海の出生地なのだ。そう、かの「將軍家朝敵とならざる所の深祕の大事」を発案した、徳川家康の「黒衣の宰相」と謳われた、あの――。「東叡開山慈眼大師傳記」(寛永寺編『慈眼大師全集』上巻)に曰く「釋天海大僧正、勅諡慈眼大師、世姓三浦氏、爲通之末、蘆名盛氏之系族、奧域會津郡高田人也」。「將軍家朝敵とならざる所の深祕の大事」を策するにその出生地ほどふさわしい土地があるだろうか。慶応4年、杤木南厓は陸奥国會津郡高田邑より「將軍家朝敵とならざる所の深祕の大事」を上書。二人の息子はその実現をめざして歴史の荒野を駆け巡った……。
杤木兄弟の〝発見〟こそはワタシが「東武皇帝」即位説をめぐる〝あてどないペーパー・ディテクティヴ〟において達成した最大の成果だったと言っていい。兄弟の事跡については↑には書いてありませんが、ここはクチコミに書いたことをアレンジしてごく簡単に紹介すると――兄の大学は上野戦争が勃発した当夜、寛永寺にあって寺の事務方のトップ(役職名で云えば執当職)と座を共にしていた。その寛永寺の貫首にして日光山輪王寺の門跡である輪王寺宮公現法親王は、上野戦争後、奥州に逃れ、6月6日に会津若松城に入城する。その後、7月10日に仙台青葉城に入り、「嗟呼薩賊」で始まるきわめて苛烈な内容の令旨を下賜した(令旨の和訳はこちらでお読みいただけます)。そして、以後、宮は奥羽越列藩同盟の軍事総督として戊辰戦争における一方の旗頭となるわけですが、大学がこうした流れへと至る政治工作の一翼を担っていたのは間違いないでしょう。また弟の辰次郎は慶応3年当時、横浜で洋学修業中だったことがわかっており、奥羽越列藩同盟による外国公使館への働きかけを一手に担っていた可能性がある。当時のアメリカ公使が本国に送った報告書を読めば、アメリカ公使館が奥羽越列藩同盟サイドから情報を入手していたことは明らかです。そうした仕事ができる人間は限られており、当時、横浜にいた辰次郎がその有力な候補者であることは確かです。そして、この2人の父が南厓であり、その南厓の事跡を伝えるものは、知られている限りでは、↑に紹介した碑文がすべて。
それとも、他に杤木南厓について伝えるものがあるのかどうか。そして、それを伊東實氏はお読みになっていたのかどうか……。それは、もう、知りようがない、と言うしかない。ただ、他の歴史人名事典には立項されていない杤木南厓が『幕末維新大人名事典』では立項されているのは伊東實氏の提案によるもの――と想定するならば、伊東氏がこの碑文以外にも杤木南厓に関する何らかの史料を入手されていた可能性はあるのでは。それこそ、件の「極論戦略」の草稿とか……。ふと、そんな仮説に立った歴史ミステリーを思い描いてみたり……。
ところで、ワタシは会津美里町には行ったことがありません(!)。当然、法幢寺にも行ったことがない(‼)。↑に紹介した碑文は会津若松市の便利屋さん「ベンリヤSAN会津」にお願いして撮ってきてもらった写真を元に読みとったもの。下から2行目の最初の1文字がなかなか読みとれなくてねえ……。で、この際、クチコミでも紹介している写真を貼っておきましょう。右側に見えるのは「杤木南厓妻之墓」で、当時は今みたいな家族墓ではなく、個人墓が普通。だから、夫婦であってもこんなふうに別々の墓に葬られた。で、大学と辰次郎がどこに葬られているのかというと……全く手がかりとなる情報がない。これが今みたいな家族墓ならば、そこに眠っている、という想定もできるのだけれど、そういうこともできない。ただ、古河末東の「栃木兄弟」(『會津會々報』第8号)によれば、兄の大学は1872年に小塚原で処刑。弟の辰次郎も同年、横浜で病没という。一方、南厓は1877年に死んでいるわけだから、墓が建てられた時には既に2人はいなかった。そう考えると、墓の左右に建てられたきのこの山みたいな可愛らしい2つの石灯籠がやけに気にかかるというか。まるで2人の子の存在を暗示しているかのような……。よかったねえ、みんな一緒で、と、込み上げる感情を抑えつつ……。

追記 ちょっとね、今日の今日まで気がつかなかったんだけれど……『会津高田町誌』(閲覧には国立国会図書館の利用者登録とログインが必要)で紹介されている「杤木南厓墓」には墓石の上の飾り(これを「笠」と言うらしい)がないね。ということは、今ある「笠」はその写真が撮られた後に付け加えられたものということになるわけだけれど……ということは、今でもこの墓を管理されている方がいるということだよね。ワタシが調べた限りでは、杤木家は大学・辰次郎の代で絶えたはずで、古河末東の「栃木兄弟」でもこう記されている――「大學に二人の男子あり、一人は早く歿し、一人は大學刑せられし後、辰次郎の家に在りしが、辰次郎の歿後行く所を知らず、辰次郎子なし、絕て弔祭するものなし」。しかし、こうして「杤木南厓墓」が管理され補修も加えられているということは……もしや「行く所を知らず」とされた大学の次男は無事に成長し、その家系が今でも先祖の墓を守りつづけている? そうであるならば、この悲痛なる一家の物語にもわずかな希望のようなものが見えてくるのだけれど……。※もしかしたら、両脇の2つの石灯籠も「笠」を増設した際に一緒に設置されたものかも知れない。妙に形状が現代的だという気がしていたんだ。きっとそうだよ、そうに違いない……。